塩大福

佐島 紡

塩大福

  閑静な住宅街。僕は家に向かって、そこを歩いていた。時刻はすでに深夜零時を過ぎていた。僕はすっかり疲れ果て、ようやく仕事を終えたのに、もう明日の仕事を考えて、さらに疲れを増していた。家まではあと五分で着く。住宅街には、街灯が点々とあったが、どの光も弱く、街路を充分に照らすことはできていなかった。

  僕は教師だ。それも、小学校。友人たちからは、安定していてうらやましい、楽しそうなど、中身のないことを言われては、「そんなことないよ」と言いながらただ笑った。そのあとは、友人たちの愚痴を聞くだけだ。


  教師の収入は確かに、他の職業と比べて安定している。事実、教師になってから、生活に困ったことなど一度もなかった。しかし、それだけだ。

  友人たちと会うことは、最初のころは楽しみにしていたし、楽しかった。飲み会のお誘いのメールが来たときはわくわくした。しかし、最近は楽しくなく、息苦しくも感じている。別に、友人たちが嫌いなわけではない、しかし、一緒にいるとつらくなってしまう。愚痴る友人たちと、それを聞く僕。その状況は何よりも耐え難かった。


  家に着くと、僕はすぐに机の上に置いてあるパソコンの電源ボタンを押した。パソコンが立ち上がるまでの間に、冷蔵庫の中から缶ビールを取り出し、そのまま口に運んだ。冷えたビールがのどを通ると同時に、僕の頭の中から今日の疲れがだんだん消えていくような気がする。……気がするだけだ。

  パソコンが立ち上がると、真っ暗だった画面はデスクトップに切り替わった。そのまま、自分のブログにアクセスし、僕は、他愛のないことを五分ほど入力し、ブログを更新した。

  ブログを更新し終わると、あとはビールを飲んで、シャワーを浴びる。それだけだ。僕は残ったビールを口にしながら、自分のブログに目をやった。自分が教師になってしばらくしたのちに始めたからもう四年ほどブログを続けていることになる。ブログの内容もブログ自体もとてもシンプルなもので、正直、見ている人は一人もいないだろう。なのに、僕はブログを更新することを始めてから、一度も欠かさなかったことはない。そして、これからも決してないだろう。ブログを更新することで、僕の悩みが晴れるわけではないが、ブログを更新することだけが、唯一の僕の生きがいなのだ。止めるなんてことは考えられない。絶対に……。

  ビールを飲み終え、シャワーを浴びた後は、特にすることがない。それに今日は木曜日だった。明日もまた学校に行かなくてはならない。僕はベッドの中に入り、そのまま眠りについた。


  チャイムの音が校内に響き渡る。チャイムの音が僕をさらに憂鬱にさせる。チャイムは生徒にとっては、学校生活が始まる合図だが、教師にとっては、仕事が始まる合図だ。小学生の頃も、チャイムの音を聞い、憂鬱になってはいたが、今自分が感じている憂鬱とは比べ物にならない。チャイムが鳴ったら、いつものように、校長が、職員室の先生たちに朝の挨拶をし、「今日も一日、頑張りましょう」とありきたりなことを言ったのちに、クラスを受け持っている先生たちは自分の教室へと向かう。六年二組を受け持っている僕もその一人だ。教室へと向かう。その足取りは重い。

  教室の前まで来た。中からはうるさい声が聞こえてきた。それを聞いて、僕はため息をつく。そして、このあとのことを想像して、更にため息をついた。しかし、いつまでもここにいても始まらない。給料分の仕事はしなくてはならない。そう今日も決意し、僕は静かに教室の戸を開けた。

  教室の中に入ると、一層騒ぎ声が大きくなった。僕は、耳をふさいで、今すぐここから逃げ出したい衝動をなんとか抑え、教卓の前へ、ゆっくり、ゆっくり、確実に近づき、そこに立った。改めて教室中を見渡すと、あまりの酷さに叫び声も上げそうになり、慌てて口をふさいだ。危なかった……。昨夜並べたはずの机はぐちゃぐちゃになっており、机の上に座っている者もいれば、立っている者もいた。それはまだまだ序の口で、ひどい奴は誰かのマウントをとったり、走り回ったり、奇声を発していた。強烈な吐き気を抑えつつ、僕はできるだけ大きな声で、席に着いて静かにするように指示をした。しかし、反応はなかった。僕は震える片方の手をもう片方の手で押さえ、もう一度指示をする。あきらめてはいけない。しかし、また反応はなかった。こうなるとお手上げだ。もうこれ以上、……耐えられない。僕はしばらく無言のままその場に立っていた。そのまま、一分、二分、三分と時間が過ぎていき、ようやく騒ぐことに飽きたのか、少しずつ、少しづつ、騒ぐことをやめ、生徒は席に着いていった。ようやく、ホームルームを始めることができることに、僕は安堵のため息をすると同時に、ここまで、騒いでいた生徒たちに再び不快感を覚え、僕は静かにホームルームを進めた。宿題の提出が少ないこと、授業中の態度のこと、そして、朝の態度のことを僕は注意したが、おそらく誰も耳を傾けていないのだろう。そのまま、ホームルームを終え、僕は足早に教室を出て行った。

  教室を出て、僕は、職員室に戻った。仕事をさぼるためではない、授業の準備をするのだ。今日は五時間授業。よって、五時間分の授業の準備が必要だ。まずは、午前の分の教材を手に取る。小学校教師は、中学校や高校とは違い、ほぼ一日中自分のクラスト接さなくてはならない。今日も一日あの子たちに授業をすることを考えると、吐き気がする。しかし、やらなくてはならない。それが、仕事だ。だが、急ごうと思っていても、準備をする手は、自然と遅くなっていた。


  定時から五時間ほど経過し、僕はようやく帰路に就いた。今日もいつもと同じように、ただ家に向かって歩いている。今日もいつも通り、辛い一日だった。これから先、僕はどうなるのだろうか?正直分からない。いや、わからなくて当然だ。しかし、そういうことではない。僕はもうこれからなんて考えられない。いや、考えたくない。……矛盾している。が、しかし、それには理由があるのだ。それは様々なことだが、最も大きな理由は、子どもだ。

  最初はそうではなかった。むしろ子供は好きなほうであった。だから、教師になったのだ。しかし、教師になってから、いや、今のクラスを受け持つようになってから特に今のような症状が出てきた。……子供を見ると、急激に吐き気がする。叫びたくなる。逃げ出したくなる。そのことを誰かに相談はしていない。いや、一生することはないだろう。

  ピピピピピピ

  無機質な音が暗い街路に響いた。携帯の着信音だ。着信相手を確認するために、ポケットからスマホを取り出し、確認した。……驚いた。着信相手の名は、『オヤジ』と表示されていた。一瞬夢かと思ったが、現実だ。間違いない。しかし、オヤジが僕に電話をかけてくるなんて、ありえない。応答しようか?いや……。僕はそっと着信拒否をタップした。


  オヤジはなぜ僕に電話をかけたのだろう?家に帰った後、僕はずっとそのことばかり考えていた。オヤジが一体何の用だったのだろう?しかし、もしも大事な用だったらまたかけてくるはずだ。そう考えると、特に大した用ではなかったはずだ。そうだ。きっとそうだ。

  何度も何度も自分に言い聞かせては、最後に残るのは、後悔だった。でも、どうして?オヤジとはとっくの昔に縁を切ったのに。なぜ?


  僕の実家は和菓子屋だった。和菓子屋といっても、ただ長年続いているだけで、たいして有名でもないし、名産品を作っているわけでもない。ありきたりなものばかり売っている小さな店だ。値段が格段に安く、家はまるで近所の駄菓子屋のような存在であった。

  その家で僕は一人っ子の長男であった。つまり、ゆくゆくはうちの跡を継がなくてはならなかった。幼いころ、それは別に嫌なことではなかった。むしろ、駄菓子屋さんになりたいとさえ思っていた。僕は、オヤジの作る塩大福が大好きだった。辛い時もオヤジの塩大福を食べると、明るい気持ちになれた。自分もそんな塩大福を作りたいと思っていた。しかし、成長していくにつれ、和菓子屋を継ぐことに対して、嫌悪感を抱くようになった。毎朝早くから仕込みをし、汗水流して作った和菓子が大量に売れ残り、それを夕飯に充てたり、捨てたりしている両親の姿。周りより貧乏な家。そんな様々なことを見てきて、とうとう僕は高校生の時に店を継がないと決心した。当然、両親、特にオヤジに反対された。

「家は俺の祖父、親父から俺までずっと続いているんだ!それをお前が継がなくて誰が継ぐんだ!」

「こんな店、潰しちまえばいいだろ!どうせ、誰からも見向きもされないんだ!」

「何を言っている!そもそも、お前。家を継がなかったら、一体何をやるんだ!」

「大学に行く!」

「それからは?」

「……。」

「全く話にならない!とにかく!大学には決して行かせない!わかったな!」

  オヤジとの話は、これきりだった。高校卒業後、僕はなけなしの金を持って、家を飛び出し、東京に行った。つまり、逃げたのだ。それからは、バイトをしながら大学に通い、必死に生きてきた。そして、教師という安定した職に就くことができた。しかし、それは間違いだったのかもしれない。

  今日はもう眠ろう。長く考え、出た答えがこれだ。ほとほと自分が嫌になる。寝間着に着替えぬまま、僕は布団の中に入り、目をつぶった。


  選挙カーの音がする。だんだん小さくなっていくので遠くに向かっているのだろう。そう思いながら、僕は瞼を上げて目を覚まし、時計の針を見て驚いた。もうすぐ昼時の時間だ。その瞬間、遅刻という言葉が頭の中を何度もよぎったが、しばらくして、今日が土曜日であったことを思い出した。一週間に必ずあるはずの休日がまるで一年ぶりのように感じ、ため息が出た。

  休日といっても、何か変わったことをするわけではなく、ただ家にいるだけだ。それが自分にとって、一番最適な休日の過ごし方だった。まずは着替えないとな。そう思いながら自分の姿を見て、瞬時に昨日のことを思い出した。そして、真っ先に携帯の着信履歴に目を通したが、特に何もなかった。また、ため息が出る。休日の日にも憂鬱な気分になるなんて……。そんな気分になりながら昨夜のことを思い返し、ある事に気が付いた。

  ブログを更新することをすっかり忘れてしまっていた。それに気づき慌ててパソコンを立ち上げた。今まで一度も欠かしたことのなかったのに……。これもオヤジがいきなり電話なんてかけてくるからだ。意味のない中傷を心の中で呟き、パソコンが立ち上がるのをひたすら待った。

  どうせ誰も見ていないブログをなぜ僕は続けているのか?もしそれを聞かれても、僕は「なんとなく」としか答えることができないだろう。唯一続けていることがこんなにも薄っぺらいことだということに僕の心は暗くなる。しかし、これを続けていなくては、もう自分はこの世の中に存在しているということを確認することができなくなってしまう。やはり、続けるべきだ。そう思っているうちにパソコンは真っ暗な画面から、デスクトップ画面に切り替わっていた。

  その時、僕はあることに気が付いた。メールが来ていたのだ。どうせ迷惑メールだろう。と思ったが、一応中身を確認するために、メールをクリックした。数年ぶりにメールを開いた気がする。いつもはブログの更新にしか使っていなかった。

  メールボックスの中は、今回来たメールのほかには何もなかった。メールを開き、内容を確認して、僕は声も出なかった。

(こんばんは。突然メールしてすみません。いつもブログを読ませていただいています、××というものです。今回は、ブログを更新されていなかったので、体調を崩されたのかと思い、メールしました。

これからも、体を大切にして、ブログを更新してください!いつも楽しみにしています。では。)

  メールの内容は僕の予想とは、はるかに違うものだった。どうせ、迷惑メールだと思っていた。しかし、そうではなかった。今まで、ぽっかりと開いていた穴が、みるみるふさがってゆく。そんな気がした。とにかく、返事を返さなくては!

  すぐさま、返事を書いた。今までのタイピングの中で、一番早かった。

(メールありがとうございます。ブログを更新していなくて、申し訳ありません。それと、心配してくださり、ありがとうございます。メールを見て、元気が出ました。これからもブログを続けていきますので、楽しんでくだされば幸いです。これからもぜひ、楽しんでください。)

  返事を送信し、着替え、ブログを更新した。それからしばらく部屋でのんびり過ごしていたが、あのメールを思い返しては、心が楽になった。今までため込んでいた疲れが、みるみる浄化されてゆく。しばらくして、いてもたってもいられなくなり、僕は外に出た。


  家に帰ったときは、すでに午後九時を回っていた。家を出た後、僕はまず、近所を見て回った。いつもは、夜の風景しか見ていなかったので、昼の景色が新鮮だった。そして、近所の公園に行った。絶対に行きたくないと思っていたが、今日は行ってもいいと思い、そのまま向かった。公園には、当たり前だが、子どもがいる。……しばらくは、見ていても平気だった。しかし、途中からやはり気分が悪くなってしまった。 

  それから、公園を出て、また近所を歩いた。歩いているうちに、気分は良くなった。

  こうして、僕は今、家に帰ったのだ。家に帰り、まずスーパーで買ってきた、惣菜を食べた。朝食、昼食を抜かしていたので、いつもよりもおいしく感じた。そして、ブログを更新するために、パソコンの電源を付けた。早く。早く。パソコンが立ち上がるのが待ち遠しい。こんな自分に驚いた。

  パソコンが立ち上がり、デスクトップ画面になり、またメールが来ていることに気が付いた。すぐさま、メールを開くと、それは今朝見たメールの人と同じ人だった。

(御返事ありがとうございます!メールを見たとき、うれしくてたまりませんでした。私のメールで元気が出て、ほんとに良かったです!これからも頑張ってください!)

  どうやら、僕の返事に対する返事をしてくれたようだ。メールを見て、僕は、すぐに返事をしたい衝動を何とか抑え、ブログを更新したのち、あの人に返事をした。

(メールありがとうございます!体調はすっかり良くなったので、これからもブログを更新していきますのでよろしくお願いします!)それから少しして、

(メールありがとうございます!これからもブログ楽しみにしています!そして、ご迷惑ではなかったら、是非。あなたに私のブログを見てほしいです。URLをのせておきます。暇があったらでいいので、もし、見てくれたら、またメールください。)

  胸の高鳴りが収まらず、僕は何度もビールを飲んでは、メールを何度も何度も繰り返し読んだ。“あの人もブログをやっている!”このことがうれしかった。

  届いたメールに書いている通り、URLが記載されていた。僕はそれを丁寧にメモをし、それを入力した。

  あの人のブログはまるで、僕と同じであった。日々の想い、出来事、そんな他愛もないことが日々書き連ねられている。正直言ってシンプルなものだった。しかし、僕は不思議とブログを見ていくうちに、笑みがこぼれては、ホイールを回し、また笑った。

(メールありがとうございます!ブログ見ました!とても面白くて、ホイールを回すのが止まりませんでした!本当に面白かったです!これからも互いに応援していきましょう!)

  今の自分の思いを打ち込んだ。文体も定まっていないし、感想も大雑把に見える。送信した後、もっと上手にメールを書けばよかったと後悔した。しかし、あの人はまたメールをしてくれた。

  メールの内容は、感想のお礼と、僕の今後とも互いに応援していきましょうという言葉に対して、同感の意が込められていた。……その後、僕は、あの人にメールをし、あの人も僕にメールをした。それは日が昇り始めるまで絶えることなく続いた。


  それからの毎日は、今までとまるで違ったものになった。

  まず、変わったことは、本当の友人ができたことだ。あの日以来、あの人とは、頻繁にメールをするようになり、暇があったらメールをしている。あの人は、他の友人とは違い、僕が抱えてきた悩みを聞いて、受け入れてくれた。初め、悩みを伝えたとき、メールの返信が来るまでの間、迷惑だったんじゃないか?もうメールをしてくれないのでは?と、後ろ向きなことを考えては、あの人からの返信を待った。

  十分ほどして、あの人からの返信が来た。……あの人は、自分に悩みを言ってくれて、うれしいと言い、励ましてくれた。

  このことから、僕が今まで抱え込んできた悩みが少しずつ少しずつ消えていった。会うのが嫌だった友人たちと会っても普通に楽しめるようになり、学校のほうも、大変ではあるが、子どもを見ても気分が悪くなることがなくなり、子ども達をちゃんと見ることができるようになった。

  今まで、クラスの全員がうるさく、どうしようもない、ゴミのような奴だと思っていたが、よく見てみると、本当にうるさいのはほんの数人で、あとの子はうるさい奴らが恐ろしく、注意することができない状況であった。それを知り、僕が今までどんなに頼りない先生だったのか、そのことを考え、子ども達にとって良い教師になるためにはどうすればよいのか?毎日毎日考えて、行き詰ったときは、必ずあの人にメールをした。あの人は、保育士をやっているようで、子どものことについて僕よりも多くのことを知っていた。話を聞いていると、今まで自分だけが苦しいと思っていたが、そうではなかったということを思い知った。

  ある日、ホームルームの時にベタだが、教卓を思いっきり叩き、皆に叫んだ。クラスの現状、そして、それを嫌がっている者のことを……。これが根本的な解決につながるとは思えない。しかし、これが、僕が本当の教師になるための第一歩であることは間違いない。


  それからしばらくして、職場の飲み会に参加した。

「最近先生のクラス、とても良くなりましたね~」顔が真っ赤な年配の教師が僕に話しかけてきた。

「はい、おかげさまで」

「いや、先生は本当にすごいですよ~あのクラスをまとめるなんて、あの子たちがいずれ卒業すると思うと夜も眠れなかったけど、今の状態なら、安心だよ。」

「ありがとうございます」顔が熱くなった。

  しばらく酒をちびちび飲み、周りの先生と話をしていたが、久々の酒ということもあり、いつもより酔いが回るのが早かった。なので、二次会の誘いは断り、一人で家に帰ることにした。帰宅中の足はおぼつかず、ふらふら状態で家に入り、水を一杯飲んだ。酔いが少し収まり、いつも通りブログを更新した。その後、酔いがまた回り始め、その後の記憶がなくなった。

  ピピピピピピピピ

  アラームの音で目が覚めた。頭がズキンと痛み、額に手を当てながら、時刻を確認する。……午前七時であった。

「意外と早いな……」今日は土曜日だ。

  体を起こし、真っ先にスマホのメールを確認した。すると、あの人からメールが来ていた。

(突然のお誘いでびっくりしたよ。そうだね。そろそろお互いに顔合わせ、するべきだよね。うん、じゃあ今日の一時に○○駅集合でどう?)

  腰が抜けたかと思った。どういうことだ?!なぜ、あの人と待ち合わせすることになっているんだ?昨夜のことを思い返したが、どうしてもわからなかった。夢じゃないのか?!頬をつねってみたが痛かった。

  もしかしたら、昨夜ブログを更新した後、あの人にメールをしたのだろうか?いや、きっとそうだ。昨夜はとても酔っていた。きっとそうに違いない。

「今日、あの人と会うのか……」

  確かにあの人とは何度もメールでやり取りをしてきたが……問題……ないのか?かすかな期待と緊張を感じたが、会ってみたいという気持ちが最終的に勝った。

(了解です!今日の一時に○○駅に集合ですね!目印にピンクの帽子をかぶってきます。)と返事をした。少しして、

(うん。楽しみ!ピンクの帽子、必ずかぶってくださいね。)ときた。

  ピンクの帽子……。それは母が家を出る前に僕のために編んでくれたものだ。帽子を探し出し、それを見て、涙がこぼれた。ボロボロで、くたびれたピンクの帽子。これを今まで何回被ったのだろうか?朝日がカーテンの間から漏れ、僕の背中を照らした。


  午後十二時。ピンクの帽子を被った僕は○○駅の前に立っていた。休日の昼間の駅前は多くのカップルや家族がごった返しており、この帽子だけで、あの人は僕を見つけることができるのか少々不安になりながらも、あの人が来るのを今か今かと待っていた。僕が来たのは約束の一時間前。しかし、そんなことは気にならなかった。待っている間は、あの人は一体どんな人なのかを考えていた。

  十二時三十分。さすがにのどか乾いてきて、何か買ってこようかとその場を離れようとしたとき、

「あの……すみません。もしかして、□□さんですか?」

  背後から女性の声がした。一瞬人違いだと言いそうになってしまったが、女性は確かに僕の名前を呼んだ。

「は、はい。そうです。」僕は振り返り、答えた。

「あっ!良かった~。人違いじゃなくて。」彼女は安心した声を出し、僕の顔をじっと見た。

  彼女は、きれいな黒髪で、伸ばさずにボブに近いような髪型だった。黒髪と、白い服が対比されており、誰が見てもおしゃれと言うだろう。そして僕より二つ年上だった。彼女は僕を見て、ピンクの帽子はナイスだと言い、静かに笑った。僕も笑った。心のどこかで、僕はあの人のことを男だと思っていたので、あの人が女性であったことには初めは驚いたが、話をしたら確かにあの人だった。

  彼女と過ごしたその日は……とても素晴らしかった。彼女はいつも笑っていた。それにつられて僕も笑う。そして次の休日も、僕らは会った。彼女は笑っているだけと思っていたが、そうではなかった。彼女は喜怒哀楽がはっきりしていた。一緒に映画を観たとき、彼女は登場人物に思いっきり感情移入し、大泣きした。それを見た僕はつられて泣いてしまい、周りからしたらとても迷惑であっただろう。

  何回も何回も彼女と会っては、互いに笑いあったり、泣いたり、喧嘩をしたりしたが、最後には笑って、「また」と言い合った。彼女と会っていくうちに、僕は彼女のことで胸がいっぱいになってしまった。一人の時、目を閉じれば彼女の顔が浮かんできた。


  ある日、彼女に仕事は辛くないのか聞いてみた。場所は、近所の公園だった。すると、彼女は微笑んで、

「確かに、辛い時期もあった。……でも。」

「でも?」

「あなたのブログを見たの。あなたのブログは正直、何の変哲もないブログだった。けど、私から見たら、……私と同じ人がいる。そのことがうれしかったの。」彼女は僕に顔を向け、また笑った。目に涙を浮かべながら。

「私、感情の転移が激しいでしょ。子供たちと接している中で、こうなっちゃったの。……おかしいでしょ。」

  彼女の震えている体を僕は抱き寄せた。彼女は驚きながらも、僕に応える。勢いで彼女を抱き寄せてしまった僕は、内心どうすればよいかわからず、

「お、おかしくなんてないよ!ぼ、僕は、そんなあなたが好きです!……とっても……」と、これまた勢いで僕の思いを彼女に伝えた。今度は僕が震えた。彼女は、そんな僕の手を取り、僕と向き合い、笑った。涙を流しながら……。


  両親は今何をしているのだろう?今更だと思うが僕は気になってしょうがなかった。

  彼女に告白してから一年たった。あの日から彼女と付き合うようになった。彼女は僕のことを恩人と言ったが、それは僕も同じだった。彼女が僕にメールをしてくれたから、僕も仕事のことが辛くなくなったし、生きていることが楽しくなった。そんな彼女と付き合って一年。一瞬のように感じたが、一日一日はしっかりと覚えていて、今まで生きてきた中でこんなに楽しい一年はなかった。

  一年も付き合えば、自然と結婚の話が出てくるのは当然のことだと思う。彼女と話していて時がたつにつれて、自然と二人の将来の話が出てくるようになった。すると、子どもの話も当然出てくる。そんな時、いつも両親の顔が頭の中に浮かび上がった。オヤジ……母さん。二人は今どうしているだろう?家出をしてからもう十年ほどたっている。一年ほど前、オヤジから電話がかかってきてから何の音沙汰がない。果たして今、生きているのだろうか?こんなことも分からないなんて……。

  そんな中、彼女と婚約した。プロポーズしたのだ。場所はおしゃれなレストランではなく、彼女に思いを伝えたあの場所で……。指輪ケースを開け、指輪を見せたとき、彼女は笑いながら、「ありがとう」を繰り返した。そして僕も「ありがとう」と言い、

「結婚……してください!」と言い、彼女の指に指輪を通した。彼女の指にピッタリはまった指輪は光を放ち、僕らを照らしてくれた。

  それから、一週間がたち、お互いの両親に挨拶に行くことになった。彼女は僕が両親と疎遠になっていることを知っているが、この機会に仲直りしてほしいと僕に言った。僕もそれには同意したが、どうやって両親と連絡を取るのか。そんなことさえも思いつかず、記憶にある母のメールアドレスに、婚約している彼女がいて、実家に挨拶に行きたいと送信した。


  一週間ほどたっただろうか、彼女の両親への挨拶が終わり、一泊したのちに、帰宅した時だった。ポストの中に、不在表が入っていた。不在表に書かれている電話番号に連絡し、到着を待った。

  届いたものは、大きな段ボールであった。中には、大量の和菓子が詰められていた。和菓子の中でも日持ちが良い、煎餅や羊羹、飴が入っていた。その中に混じって、一通の封筒が入っていた。封を開けると、中には母の筆跡で書かれた手紙が入っていた。

(あなたからメールが来て驚きました。十年前だったでしょうか。あなたが家を出てから、ワタシとお父さんはあなたのことをいつも考え、心配していました。あなたが東京でうまくやっていけるのか、とても不安でした。

  お父さんは、あなたが出てってから、今まで以上に仕事に打ち込みました。あなたは、お父さんのことを恐ろしく思っているかもしれません。けれども、安心してください。お父さんは本当にいつもあなたのことを考えていました。ワタシ以上に。

  あの日、あなたに言いすぎたことをいつも後悔しています。夜な夜なすすり泣く声がいつも聞こえます。一年前、お父さんがあなたに電話をしたでしょう。あれも一言でもあなたの声を聴いて、あなたが無事に、立派に東京で頑張っていることを確認するために電話をしたのです。あなたが出なかったとき、お父さん、あなたが死んでしまったんじゃないかといつも言っていましたが、それをまた確認するために、電話をすることが怖いと言って、電話に近づこうともしませんでした。

  先日あなたからメールが来た時、ワタシは興奮して、急いでお父さんに知らせました。お父さんは涙を流しながら、「良かった、良かった」と言っていました。もっとたくさんのことを書きたいのですが、積もった話は、またあなたが帰ってきたときにしましょう。あなたとあなたの彼女さんと会えることを二人で楽しみにしています。あなたが昔大好きだった塩大福を作って待っています。

  最後に、手紙と一緒に煎餅などを詰めました。本当は、塩大福を入れたかったんだけど、日持ちのことがあるので。では、日にちが決まったらまた連絡してください。)

  涙が流れ、手紙が濡れ、にじんでしまったが、何度も何度も母からの手紙を読んだ。オヤジ……。母さん……。手紙を読み終えてしばらくして、僕はスマホを手に取った。


「もしかして……迷った?」彼女は無邪気な顔をして僕に言った。

「そんなことないよ。ただ、少し変わったから……」

「やっぱり迷ってるんじゃない。」呆れた顔だ。

「家を見れば分かるよ。」

  それからしばらく、実家を探して、変わり果てた故郷を彼女と二人で歩いた。少しして、どこからかおいしそうなあんこのにおいがした。

「もしかして、あそこじゃない?」彼女が一軒の家を指さした。その先にあるのは、十年前から全く変わらない、我が家があった。

「……泣いてるの?」僕の顔を見た彼女が尋ねた。

「い、いや!」涙を拭いながら答え、彼女の顔を見た。……彼女は、泣いていた。

「……なんで、泣いてるの?」

「つられちゃった」彼女はそう言って笑った。僕も笑った。

  近づくにつれて、甘い匂いが僕らを包み込む。僕らを見て、オヤジと母さん、どんな顔をするのかな?子供のような考えをしながら、僕は彼女と懐かしい我が家へと向かった。

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塩大福 佐島 紡 @tumugu

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