寂光

大葉奈 京庫

第1話

 春は花

 夏ほととぎす

 秋は月

 冬雪さえて冷しかりけり


 これはこの国で知った道元禅師の和歌である。四季を主題としているが、私が生まれ育った祖国の四季とは随分と趣を異にしており、それゆえこの国を理解するのに、私はこの和歌を毎年春夏秋冬の到来と共に鑑賞し、またこの歌に成り切るようにして全身で歌う。

 此処で春に咲く花々は、大陸での記憶に残っているどの花よりも色鮮やかではない。海に囲まれた島国のせいか、薄い膜を張ったようにやや色褪せて見えるのだ。また夏のほととぎすの鳴き声もどこか曇っている。そして夜空に浮かぶ秋の月も薄墨を少し塗ったように光が弱い。さらには冬の雪の白さも量が少なく、そのせいか地を覆い尽くすような広大無辺さ、幼年期を過ごした故郷の地平線に迄広がるあの雪原とは無縁である。

 道元禅師は二百年以上前の鎌倉時代に宋へ渡り、帰国後に曹洞宗を開かれた。同じ禅宗であっても、私は臨済宗の東福寺派に属し備前の宝福寺に身を置いているが、半世紀以上もの歳月をこの地で過ごしたことで、物事の最初から其処にいたようにして、すっかりこの国の住人になってしまったかのようだ。

 時は今、春から夏に移ろう時期に入り、道元禅師が詠まれた和歌には描かれなかった景色の中で私は暫し佇む。乳白色の曇り空を背にした山々の深い緑が柔らかく目に優しい。昨夜の静かな雨は降ったり止んだりしながら、今朝もまだしとしととこの寺を濡らしているが、このような小雨に私の心はなぜか癒される。それは心の琴線に触れた瞬間、頬を伝うあの涙のようでもある。私の半生は過酷なものであったかもしれないが、様々な縁には恵まれていた。家族は貧しくとも皆が神の教えを守り、そこには信じるに足る絆と礎が確かに存在した。しかし人生とは予期せぬ形で何かが起きる。


 私たち家族は草原に天幕を張って暮らす僻遠の遊牧民で、かつては大陸と三つの大洋を支配する元という巨大帝国の一員でもあった。その日は真夏の太陽が照り輝き、丘の上からは怪物の咆哮のような強風が容赦なく草原を吹き荒らしていたが、風の音が少し弱まった刹那、私は幼いながらも聡明な耳で最大級の不運を察知した。やがて何かが迫ってくるのが自明の理となり、眩しく光る鎧兜を身に着けた屈強な騎兵の群団が風を切る馬の嘶きと共に土埃をあげて突然現れた。それはあっという間の出来事であったが、幼少の記憶の中では鮮明に焼き付いている情景だ。まず父と叔父たち、それに兄たちが抵抗する間もなく連れ去られていった。残された老人たちに兵の長は帝国の首都から大動員令がかけられたのだと説いた。要は剣を使える男たちは戦争に駆り出されたのである。


 そして数日をおいて女子供が連れ去られる時がやって来た。私たちは騎兵が護衛する大きな車輪をつけた馬車に乗せられ草原から都市へと移動することになった。この一団を指揮していたのは数名の奴隷商人であった。彼らは終始柔和な笑みを浮かべていたが、捕縛された者は誰一人としてこれから不幸に見舞われるであろうことを疑わなかった。これは神が与えたもうた試練なのか。私と弟と妹を抱きしめる母や叔母たちの丸い腕の温もりに涙で目が曇った。この時、脳裏を瞬間的にある光景が過っていた。それは飼っていた子羊の運命を父から知らされた時のことだ。この子羊は皆の血や肉となる為に、明日潰されるのだと。  

 私たちにとって家畜は共に生きていく大切な財産であった。神は人に仕えるものとして家畜を含めた動物を創造されたと云う。だから大切にしなくてはならない。夜は狼に襲われないよう羊たちも柵の中に入れるのだが、私が大人たちの作業を手伝うそのような時に、あの子羊から特別な親愛を込めた瞳で見つめられていたような気がする。そして家畜たちは皆、私たち人間を前向きにひたむきに信じ、私たちが神を信仰するように、私たち人間の中に神性さえをも見出していた。そのような良心の塊のような慈しむべき小さな生命が明日無慈悲にも絶たれてしまう。

 大人たちは屠畜に際し、殺される動物の前で刃は研がない。また別の動物の前では決して殺さなかった。しかしあの子羊は私にとって特別だった。このような悲劇が訪れる可能性があることを、大人たちから常々教えられてはいても、弟や妹より心を通わせたことさえあったのだから。内気で小心な私が詰まらないことで傷ついた折に、子羊の優しい眼差しや側に寄ってきて掌を舐めたり、身体を擦り付けたりする人懐っこい仕草にどれほど癒されたことか。恐らくあの子羊は自分の運命を承知していたであろう。なぜなら動物は天候の変化を人より早く予知するだけでなく、人の心の動きをも予知しているように思われたからだ。つまり何もかもお見通しの上で人の所業を許してくれている。それこそ神に使わされた神聖な僕として。

 私はあの子羊の勇気を、犠牲となる運命を受け入れる気高さを、馬車に閉じ込められたあの時に思い起こさずにはいられなかった。


 草原とはまるで異空間の喧騒と腐臭に混濁した都市に着いた私たちは、女と子供は引き離され一日をかけて奴隷市場で売買された。その後、多くの時が流れたが家族が再会することは二度となかった。草原に残された祖父母、徴兵された父や兄たち、そして母や叔母たち、弟と妹。皆、何処へ行ってしまったのか全くわからない。ただ、何処かで誰かが生を終えていたとしても、私の心の中では誰一人としてまだ生きている。


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