第15話

 ALTの仕事は、私に言語を扱う楽しさを教えてくれた。生徒たちが英語に奮闘する姿と、五十嵐の「日本人らしい英国人」という言葉に触発され、私はそれまで以上に日本語の勉強をした。

 正月には、瀬川に頼み込んで書き初めに挑戦した。筆で薄い紙に文字を書くという行為は、私を厳かな気持ちにさせてくれた。筆を持つと、自然と背筋が伸び、へその下あたりがじんわりと温かくなった。弓道場で感じる緊張感を、半紙を前にしたその時の私は感じていた。書道も立派な「道」なのだと、瀬川の母親は教えてくれた。


 高校での任期が終わるころ、瀬川の知人から大学の英語講師の仕事を紹介された。新宿区にあるその大学では、高度なビジネス英語や討論の授業を充実させるため、専門的な知識を持った人材を探していた。私はなんとか試験を突破し、二〇一〇年の四月から大学の教壇に立った。討論のテーマや授業の組み立ては高校の授業とは比べ物にならないくらい難しかった。その分やりがいもあった。国際経済や通貨危機など、様々なテーマを通じて一枚岩ではないこの世界のあり方を学生たちに問うた。学生たちにはこうも言った。日本人であることを恥ずかしいと思わないこと、日本人的な考え方を軽視しないこと。欧米化する価値観に翻弄されず、日本人としての礼節や他人を思いやる気持ちを忘れてはいけないと、私はことあるごとに学生たちに語りかけた。


 大学での仕事にも慣れたころ、私は同僚の紹介で一人の日本人男性と知り合った。彼は私のことをとても大切にしてくれた。私は彼と結婚する道を選んだ。結婚後も、私は変わらず大学で働き、日本人として、英国人として、時を過ごしていた。




「あ、先生」その声に、私は遥か記憶の旅から現在に引き戻された。顔を上げると、五十嵐が立っていた。「久しぶりですね」

 私はなんと答えていいか分からず、五十嵐の姿を見つめた。五十嵐は、いつも私の想像を遥かに越える。まさか、隅田川の河川敷で再会することになろうとは思いもよらなかった。


「五十嵐くん。本当に久しぶりです」私はどうにか言葉を絞り出した。表情が硬くなっているのが自分でも分かる。

 五年ぶりに会った五十嵐はあまり変わっていなかった。背が少しだけ伸びた気もするが、重たそうなまぶたはあのころとまるで同じだった。「そちらは、彼女さんですか?」五十嵐の隣に立つ女性に目を向けた。日本人女性にしては背が高く、緩やかにウェーブのかかった黒髪が健康的な印象を与えていた。胸の高さ程の髪が、時折吹く風に揺れていた。


 彼女は飯塚と名乗った。「大学院で植物生理学の研究をしているんです」そう言う飯塚は誇らしげだった。自分の信じた道を進む強い心を、私は感じた。

「五十嵐くんは、今大学生ですか?」

「そうですよ。っていうか、先生と同じですよ、大学」


「そうなんですか? それは偶然ですね」私は、五十嵐の言葉にまた心臓が大きく跳ねるのを感じた。そういえば、五十嵐は成績が良かったのだ。私の勤める大学は確かに入学するのは難しいが、五十嵐なら入学試験もやすやすと突破できたに違いない。五十嵐の進路のことは何も知らなかった。瀬川とは今でも食事をすることがあるが、五十嵐のその後を聞いても、知らぬ存ぜぬの一点張りだった。もしかしたら、瀬川は知っていてあえて言わなかったのではないだろうかと、私は勘ぐった。


「先生、大学で英語討論の授業担当しているんですよね? 今まで他の授業とかぶってて履修できなかったんだけど、後期は大丈夫そうだから、授業とってもいいですか」

「もちろん。でも、難しいわよ」私は自分の気持ちをごまかすように、ウインクをした。

「了解です。先生はこれからどこに?」

「このあたりを散歩して、家に帰るところです」

「そうなんだ。俺たちはこれから桜を見に行くんです」五十嵐は楽しそうだった。五十嵐の右隣に立つ飯塚は、そんな五十嵐を愛おしそうな目で見ていた。お似合いのカップルだと思った。


「幸せそうですね」私は言った。

「そうですか」五十嵐が照れ笑いを浮かべる。

「顔に書いてあります」以前瀬川が言った台詞だった。今日という日に使うことになるとは思っていなかったが。「じゃあ、楽しんでくださいね」

「はい、先生。また大学で」五十嵐は笑顔のまま手を振り、私の横を通り過ぎていった。


 五十嵐と飯塚が手を繋いで歩いていく後ろ姿を見て、不意に思った。瀬川があの時に言ったことは正しかった、と。

 五十嵐は着実に自分の道を進んでいるのだ。不真面目に見えることもあるだろうが、自然、時間、空間に寄り添う五十嵐は、大学生になっても変わらずに自分の道を歩んでいた。そして、五十嵐は大学でそれを支える人を得たのだ。心配することはないと、私は思い直した。

 心に感じるざわめきの正体に、私は気づいていた。しかし、それは夫には秘密だ。


 遠ざかる二人の姿を視界の隅に捉えながら、向こう岸の東京スカイツリーを見上げた。その姿が少し滲んでいた。天に向かって伸びる巨大な木は、五十嵐の描いた大木と同じようにあの二人のこれからを静かに見守ってくれるだろう。

 私は再び歩き始めた。振り返ることはない。前を向いて、歩いていく。

 東京で迎える六度目の春は、そんな風にして過ぎていった。

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後の祭り 長谷川ルイ @ruihasegawa

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