記憶の虫が嫌な思い出を食べてくれればいいのに

前河涼介

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 ハロー、お久しぶり。お元気ですか?

 夜の虫が鳴き始める季節になりましたね。


 こちらは就職してから今月でちょうど半年になります。もうそろそろ一通りのことは自分一人で処理できるようになってきたと思うのだけど、でもまだ訊かなければわからないこともたくさんあるし、「それはやっちゃだめだよ」って言われることも、時々。出しゃばって余計なことをしたなって思うこともあります。

 もう一人前だ、なんて思っちゃだめだね。過信は禁物。


 職場の人たちはみんな優しいですよ。理不尽な怒られ方をしたことってないの。それは私にとってとても幸運なことだったと思います。

 その代わり、迷惑かけちゃったなっていう時は、きちんと自分で自分を責めなきゃいけないの。嫌いな相手だったら、なにくそ! 私は悪くない! なんて開き直れるのにね。精神的な重圧があるのです。


 仕事や、仕事絡みの付き合いの中には、嬉しいことも、嫌なことも、たぶん同じくらい起きています。

 でも、どういうわけだか、思い出す回数が多いのは「嫌なこと」の方なのですね。嬉しいことってその場限りで忘れてしまうか、自分から思い出そうと思った時にしか思い出さないものなのだけど、嫌なことって、その日帰る間も、寝る前も、次の日の昼くらいまでは覚えていて、頭を離れなくて、その後だってことある度に思い出してしまうの。その度にこめかみがズーンと痛くなってしまうのね。

 人間は次の機会に同じ失敗をしないように、その「嫌なこと」を強く記憶しておくんだって。嬉しい記憶より嫌な記憶が多いように感じるのは、人間=ホモ・サピエンスの正しい機能なんだって。それは仕方のないこと、どうしようもないこと、という意味なのだけど、それでも私が嫌なことを思い出すのが嫌だってことにも変わりはないのです。


 「嫌なこと」だけ上手く忘れてしまうことができたらいいのにね。その部分だけ記憶を取り出して、どこか別の場所にしまっておくか、川に流してしまうの。

 私だっていろんな方法を試してみました。好きなことに没頭してみたり、うんと長く眠ってみたり、お酒を飲んでみたり。でも駄目ね。結局戻ってきてしまうの。

「ただいま。いや、違うんだ、ちょっとばかし出かけていただけなんだよ」なんて言うみたいに。

 酒を飲めば何もかも忘れられると言う人もいるけど、私はどうも駄目でした。きちんと酔っ払うのだけど、自制心を失うのは表面だけで、それを冷静に眺めている奥なる私は消えてくれないのです。なんだか悲しくなるだけで何も忘れられないの。


 ねえ、何かいい方法を知らない?

 私がひとつ思うのは……、これはなんとなくイメージしたものに過ぎないんだけどね、そういうふうだったらいいなあって思うことがあって。

 それはね、嫌な思い出を食べてくれる記憶の虫がいたらいいのに、ってことなの。

 私の頭の中にカツオブシムシみたいなちっちゃな虫くんたちがいて、彼らは記憶をつかさどる海馬の近くに住んでいて、普段はとても古くなってもう使い道のない思い出だけを食べて慎ましく生活しているの。彼らは特殊な目を持っていて、古い記憶と新しい記憶、長い記憶と短い記憶、いい記憶と悪い記憶、色々な記憶の種類を見分けることができる。

 宿主の人間=私が使っていない記憶、思い出していない記憶もきちんと認識していて、そういう記憶も処理して、新しいことをたくさん覚えられるように頭の容量を空けておいてくれるの。

 そして何より大事なことは、「嫌なこと」の記憶を選んで食べちゃうということです。私が悩んだりこめかみが痛くなったりしてることに気づくと、彼らはごそごそと探し回って、その原因になっている「嫌なこと」の記憶を見つけ出し、そして一斉にかかってすぐに平らげてしまうの。

 そうすると私は「嫌なこと」の記憶も、そのせいで苦しんでいたことだってすっかり忘れて、それ以降とても気持ちよく生きていくことができる、と。


 ……そう、イメージ。そんなふうだったらいいなって幻想。

 私はできるだけ早くあなたに会いたいです。あなたが居れば、私だってそれこそ酔い上戸のように何もかも忘れてしまえるのに。

 あなたの声や吐息がたくさんの小さなカツオブシムシに変身して、耳の穴から私の脳の中に潜り込んで、「嫌なこと」を全部むしゃむしゃと齧り散らしてきれいさっぱり処理してしまうところを想像しています。

 その時はきっと私もあなたの「嫌なこと」を全部食べてあげるからね。


 また近いうちにメールします。だって、次に会える日より、次に話したくなる日の方がきっと早くやってくるでしょう?

 もちろん、あなたからのメールも待っています。

 メールしてね?


 では、いつか虫の声が止む季節まで。

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記憶の虫が嫌な思い出を食べてくれればいいのに 前河涼介 @R-Maekawa

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