△3二飛鹿《ひろく》(あるいは、王位とかゆうタイトル獲った将棋の強いおじさんおめでとう号)


 空中に設えられた、籐か何かで編まれたやけに背もたれの高い椅子に、しなだれかかるようにして脚を組みつつ座るミロカに、どうしちゃったの、と声を掛けることは出来そうになかった。……どうかしちゃってるのは火を見るよりも明らかだったし……。


「あ……でも、急いだ方がいいよ……一限から『竜将』の予選始まっちゃうし」


 内心の動揺を悟られないように、極めて普通のことを口走ってしまった私だったけど、はっきりと悪手だったことに口に出してから気付いちゃったわけで。


「ふ……くくく、『予選』とな……これまた面白いことを言うのうナヤは……わらわは『鳳将ほうしょう』なり……下々の者たちが興じる『予選』なるものとは最早無縁の存在であろう……? ふっ、くっくっく……」


 この棋青舎にも御多分にもれず「校内タイトル」というものは存在するのだけれど、すなわち、「竜将りゅうしょう」「鳳将ほうしょう」「獅将ししょう」「鷹将ようしょう」「虎将こしょう」「鷲将じゅうしょう」「亀将きしょう」「麟将りんしょう」の8つ。小中高一貫でそれは争われるんだけれど、先月、何かに覚醒したかのようなミロカは、予選のいちばん下から勝ちっぱなしの勢いでトーナメントを勝ち上がると、あっさりそのうちのひとつを獲得していたわけで。そしてそれ以降からこの調子と。うううぅぅん、めんどくさぁぁぁい……


 朝四時から積もり始めていた疲労感が堰を超えて、私の両肩に覆いかぶさってきたかのように感じたけど、何とかそれは流して教室へ、ミロカの尋常ではない高笑いを背中に感じながら、とぼとぼ急ぐ。


 まあ新年度からどん底だったみたいなミロカが、うまい方向に進んでいるのだからいいとは思うけれど……最近は例の「レンジャー」の方の活動も彼女はおざなりにしているので、その負担が私に来ているということもあって、それが理由か分からないけど「公式」では三連敗を喫していて……それも粘った末に手が無くなるといういちばん精神に来る負け方が続いたりで……何か、私の方が逆に釜の底へとじりじりと滑り落ちているような気分……いけない、顔の表情筋から力が抜けて来てる……


「……そんなわけで、本日よりこのクラスに転入となる、沖島おきしま 未有ミユくんだ。席は窓際いちばん後ろで……委員長、いろいろ案内とか頼むぞ」


 ふ、と自分が呼ばれたことを認識した途端、教室のざわめきが耳に飛び込んできた。いつの間にかホームルームが始まってたみたい。と言うか「委員長」って肩書は正式なものでは無いんだけれど。担任までもそう呼ぶようになってるもう公式の渾名みたいなものだよね……とか、詮無いことを思ってた私だけれど、遅れて「転校生」という言葉が頭に浮かんできた。


 ええ? 二学期始まって何日か経ったこのタイミングで? と不思議に思わなくもなかったけど、この学校は棋力の上がり下がりによって露骨にクラスを変えさせてくる校風(?)だ。かくいうミロカも正規の「順位戦」では昇級できなかったけど、その後の「鳳将」タイトル獲得によって特例でこの「A組」に編入してきた。……あの突拍子もないメンタルと共に。


 そのミロカは私の二つ前の席で先ほどまでの籐椅子にふんぞり返っている。背もたれが高すぎて前が見にくい……とかいう苦情は一切受け付けない構えのようだ。棋力至上のこの学校では、強者が圧倒的にえこひいきされるのが常だから。ううぅぅん、でも学び舎としての最低限の節度は守って欲しいなぁぁ……


 真顔が常態化し始めた私に、眼前の視界半分くらいを覆う籐椅子の陰から、黒板を背にしたかなり背の高いコ、「沖島」さんが、微笑みかけてきてくれる。


 170くらいありそう。すらっとしていて、髪は肩までの真っ黒ストレート。細いレンズとフレームの眼鏡が、落ち着いた表情によくはまっている……うーん、たたずまいからして結構将棋も強そう。何より、私の親友と違ってまともに話が出来そうでなによりかも。


 そんな、殺伐とし始めてきた日常に、ちょっとのほっこりを感じた私だったけど、これがまた釜底一直線のぐどぐど局面へのとば口だったとは……うん、まあ何となくの予測は立っていたのだけれど。


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