第二章 ひとりぼっちのお茶会②

 

 しかし、エルのやる気とは反して、クロードから任される仕事は、書類や本の荷物運びにとどまっていた。他に何か手伝えることはないかとたずねても、「ない」の一点張り。当然、クロードとの距離も縮む気配がなかった。

(今日で騎士団に入ってから五日目だけれど、なかなか心を開いてもらえないわね)

 新人騎士であるエルは、騎士団の仕事を覚える必要もある。王子としての公務を兼任しているクロードにはめんじよされることも、エルには免除されないのだ。

 そんなわけで、今朝も早くから演習場のそうをしている。きつすいのおひめ様であるエルは掃除なんてしたことがなかったが、生まれて初めてやるからこそ楽しんでいるところもある。

「おー、新入り。お前の掃除の仕方はほんと丁寧だよなぁ」

 ぞろぞろとやって来た先輩騎士たちが、きちんと整備された演習場を見て感心する。

「おはようございます、皆さん。お褒めにあずかり光栄です」

 ガタイのいい男たちにズラッと囲まれる──なんて、リトリアの王城にいた頃は想像も出来なかった光景だが、案外すんなりとけ込んでいる自分には驚いた。もちろん最初はきんちようもしたが、ごうかいながらも気さくな人たちのおかげで、良い感じにめている。

 男性に囲まれて暮らすというじようきようは、タイプは全く違うものの、兄弟たちによって自然と慣らされてきていた、というのもあるかもしれない。

「そうだエルヴィン、今日からお前も演習に参加していいぞ」

「え、いいのですか?」

「団長の弟子だったんだろ? その腕前をとくと見せてみろ」

 ポンとかたを叩く先輩に、エルは喜び全開の笑顔を見せる。周囲から「うっ相変わらずまぶしい」という呟きが聞こえたが、演習に加われることがうれしかったエルには届かない。

「まだ早いとは思ったんだが、まーあれだ、お前なかなか骨のあるやつっぽいからな」

「骨のある、ですか? 私が?」

「そりゃお前、あのクロード殿下におくせず話しかけにいけるなんて、大したもんだからよ」

 うんうん、と周りの騎士たちがうなずく。その様子にエルは首を傾げた。

「確かに気軽に話しかけるのはおそれ多いと思いますが、私は側付きですし」

「いや、畏れ多いとか以前の問題だろ!? あの絶対れいの空気をまとっているお方に、側付きとはいえよくも怯まず声かけられるよなって話だよ。常に『誰も近付くんじゃねぇオーラ』を放ってるじゃないか。……おっかなくないのか?」

「あはは、そんなことありませんよ。ちょっと無愛想かもしれないですが、話しかけたらちゃんと応えてくださいますし」

 エルが笑い飛ばすと、騎士たちは驚きの表情でエルを見つめた。

「お前、大物だな……。俺ならあの氷のような冷たい目で睨まれたら、ビビッて動けなくなるっつーのに」

どんかんきわめると、何でもこうていできるちようぜつポジティブ人間になれるって学んだぜ……」

 騎士たちがひそひそと話す後ろから、突然不満そうな声が飛んできた。

「何がポジティブだよ、くだらねぇ。お前みたいなおめでたい頭のやつを見てるとイライラするわ。箱入りおぼつちゃまが」

 そう言ってエルを睨み付けたのは、マリク・ノイマンだった。入団初日から何かとエルに突っかかってくる十九歳の若手騎士を、先輩たちが「まあまあ」となだめる。

「マリク、そうカッカすんな。エルヴィンが騎士団長のお墨付きをもらってるだけでなく、王太子殿下の側付きに任命されたからって、しつしなさんな」

「なっ……、勘違いしないでください! 俺はただ、どっからどう見てもひ弱そうなガキが騎士団にいることが、納得出来ないだけです! 大体、殿下の側付きって言ったって、どうでもいい雑用押し付けられてるだけじゃないですか!」

 わめき出すマリクの言葉に、エルはハッとさせられた。

「あ、あの、今、雑用と仰いました?」

「あ? なんだよ、間違いねーだろ」

「……もしかして、私が頼まれてきたことは、騎士や側付きの任務とは関係がなかったのでしょうか?」

いまさら気付いたのか!?」

 マリクはもちろん、先輩騎士たちも声を上げて驚いた。

「城内のことについて詳しくなるために、わざといろんな場所に向かう仕事を頼まれていると思っていたのですが」

「いやお前それ、殿下に追い払われてただけだから……」

「えぇっ、そうだったんですか!」

「何このなおさ……。こんなにじゆんすいばいようのお坊ちゃま初めて見たわ……」

 周囲の感心するような声をよそに、エルは自分のにぶさにじ入っていた。クロードと距離を縮めていきたいと思っていたのに、むしろはなされていただなんて。

「私、気付きませんでした。マリクさん、教えてくれてありがとうございます」

「な、なんでお礼を言われてるんだ俺は……っ」

「お前も段々わかってきただろう。ああいうやつだ、エルヴィンは」

 くやしそうなマリクの背中を、先輩騎士たちがなぐさめるように叩いた。

 一方、エルはしんけんに考え込んでいた。

(このままではいけないわ。ちゃんと殿下とお話ししないと)

 その思いが通じたのか、ちょうど演習場にクロードが現れた。エル以外の騎士たちが、いつせいにピシッと背筋をばして固まる。

(なんて良いタイミング!)

「クロード殿下、お疲れさまです。殿下も演習に参加されるのですか?」

 騎士たちが止める間もなく、エルはいつも通りクロードに話しかけに行く。対するクロードもいつものようにエルをひと睨みし、無視してスタスタと歩いていく。後方の先輩騎士が「こ、こわ……っ」と声をらしていたが、構わずエルは後を追う。

「殿下が手合わせするお姿を拝見するのは初めてですね。楽しみです」

「……俺は参加するなんて言ってない」

「でも、演習用のもつけんをお持ちではないですか」

 クロードは返事をしない。それならば、とエルはさらに問う。

「では他に何かご用が? 私に出来ることでしたら仰ってくださいね」

 いらいらつのったのか、クロードは振り返ってさらにキツくエルを睨み付けた。

やかましいやつだな。お前に出来ることは一つしかない。今すぐ俺の目の前から消え去れ」

 先輩たちがこおり付いている気配を背中に感じながら、エルはニコッと微笑んだ。

「やっと目を合わせてくれましたね」

「はあ?」

〝目を合わせる〟という表現は明らかに間違っている、とその場にいる誰もが思ったが、エルにとってはそうではなかった。たとえ機嫌が悪そうでも、背を向けられたままよりはずっといい。

「それで、殿下はどんなご用があってこちらに?」

 そのまま平然と会話を続けるエルに、クロードは眉間に深く皺を刻む。

「……お前、おそろしく神経が太いよな」

 ボソリと呟かれた内容は聞こえず、聞き返そうとしたが彼の長いめ息にはばまれた。

「…………コーディーが珍しく演習に参加すると言っていたから、来ただけだ」

 そこでエルは、以前先輩たちに聞いた話を思い出した。クロードは普段、演習には参加しないということを。理由は、彼の剣の腕前は相当なもので、相手を出来るのが騎士団長であるコーディーしかいないから、ということだった。

「なるほど、だから木剣をお持ちだったのですか。ですが、まだ団長は来ていませんね」

「そのようだな。なら用はない、帰る」

「ああっ、待ってください。それなら私とお手合わせをお願いします」

「え────っ!?」と騎士たちのきようがくさけびが聞こえた。クロードはというと、「またこいつ面倒なこと言い始めやがった」とでも言いたげに、顔をしかめた。

「お、おい、エルヴィンや……、お前はなんて畏れ多いことを……」

 ふるえる先輩騎士の声をさえぎり、エルはニコッと笑う。

「それで、もし私が殿下にいちげきでも当てることが出来たら、お話を聞いてほしいのです」

いやな予感しかしないから断る」

「そう仰らずに。さ、いきますよ!」

「お前はなんでそうごういんなんだ!?」

 げられる前に、とエルは木剣を手に、クロードに向かっていく。先輩たちの男らしくない悲鳴を背後に、剣を振り下ろす。

 だがクロードも動いた。彼の動きはにんできない速さで、一瞬のうちに彼の剣にエルははじかれてしまった。

(わっ……。やっぱり速いわね、殿下の剣は)

 久しぶりに誰かと剣を交えることが楽しくなり、エルは負けじとまた突っ込んでいく。

 木剣を打ち合う音が、青空の下に気持ちよくひびく。ハラハラしながら見守る騎士団の面々を前に、意外にもエルはクロードの動きに付いていき、ねばりを見せていた。

 けれど、ギリギリで彼の剣をかわすのがせいいつぱいで、こちらからはんげきするすきが全くない。その上、体力の差は歴然としている。

(でも、負けるわけにはいかないわ)

 ここでの生活を守るため、クロードに自分のことを認めてもらいたいのだ。リトリアと兄弟のことをおもい、エルの身体からだにさらに力が入る。

 大きく振り下ろされたクロードの剣は、逃げようもない角度でエルをねらってきた。だがエルはそれをなんとか見切り、クロードが体勢を立て直す前にみ込む。その時目が合ったクロードは、一瞬驚いたような顔をした。勢いよく振り上げた剣はクロードの肩にせまっていたが、ばやく反応した彼に強く打ち返され、手を離れて飛んでいってしまった。

(あぁ……! もう少しだったのに)

 空高く弾かれた剣を目で追い、悔しくなる。視線を下ろすと、クロードが珍しい動物でも観察するように、まじまじとエルを見ていた。

「お前、意外と……」

 そう言いかけた彼の肩に、タン、と軽い音を立て、木剣が落ちてきた。

「え」

 エルをはじめ、クロードも、観衆と化していた騎士たちも、しばし動かなかった。

 カランカラン、と木剣が地面に落ちて鳴らす音を聞いていると、騎士たちからおーっというかんせいき起こった。クロードはしかめっつらになり、木剣を納める。

「……俺の負けか」

「え、でも今のは……」

 一撃当てた、というにはみようだ。クロードの剣がエルの身体にれるより先に、エルの剣が彼に触れたことには間違いないのだけれど。

「当てたことには変わりない。それに……思っていたより動けるようだから、お前の話とやらを聞いてやらなくもない」

 不服そうではあるが、クロードはそう言った。エルは嬉しくなり、微笑む。

「ありがとうございます。殿下はとってもお心が広い方なのですね」

「はあ? なんでそうなる」

「私がそう思ったのですから、そうなのです」

「答えになってないだろう。わけがわからん……あーもう……」

 そんな二人のやり取りを、騎士たちがあつにとられた様子で眺めていた。

「殿下がエルヴィンに押されている……!?」「あの殿下が……!?」というコソコソした声を聞き取ると共に、クロードが急に険しい顔になった。そのまま騎士たちをするどく睨み付ける。

 そのはくりよくに負けて姿勢を正す彼らに背を向け、クロードは歩き出してしまった。

「わ、待ってください殿下! 話を聞いてくださるんじゃないんですか?」

「うるさい!」

 そのままズカズカと歩いていってしまうクロードを、エルも急いで追いかける。思い出したように振り返り、先輩たちに声をかける。

「すみません皆さん、ちょっと外します!」

「お、おお……。けんとういのってるぜ……」

「あいつやっぱすごいな、あんなに殿下と会話できるなんて……」

 騎士たちの怯えたような呟きだけが、その場には残った。


「殿下、待ってください。話を聞いてくださいってば!」

 執務室に着いたところで、彼はようやく足を止めた。

「……ほんっと、調子くるわされるやつだな、まったく……」

「え? 何か仰いましたか?」

「何でもない」と言いながら振り返ったクロードに、ようやくエルは伝える。

「えっとですね、私のお話というのは……、側付きのお仕事についてなんです」

めたくなったか? よし、今すぐ辞めろ。許可する」

「もう、なんでそうなるんですか。そうじゃなくて、もっと他にもやらせてくださいってお伝えしたかったんです」

 クロードがかいそうに鼻を鳴らす。

「……お前の結論がなぜそうなったのかを俺は知りたい」

「だって私、殿下に追い払われているだけだって気付いてしまったんです」

「そこまでわかってても辞めたくならないのか。良い度胸してるな」

「辞めませんよ。だって、まだ全然殿下のことを知れていないですから」

「知る必要なんかないだろう。お前に何のメリットがある?」

「もちろんあります。殿下のことを知れた分だけ、仲良くなれますから」

「仲良っ……、だからお前はどうしてそう恥ずかしいことを平気で言えるんだ!?」

「恥ずかしくなんてないです。殿下の側付きの役目をになう者として、少しでも殿下と親しくなりたいと思うのは間違っていないと思うのですが」

 そしてそれは、最終的には国と兄弟を守ることにつながる。エルがこの場所で、問題なく生活していけることが重要なのだから。

 真剣なエルを見たクロードは、かみをかき回して「あーもう」と苛立たしげに口を開いた。

「俺はお前と仲良くなりたいなんてこれっぽっちも思っていない。だからとにかく、俺にかんしようするな。今まわしてやってる仕事じゃ不満だというなら辞めろ」

 そう言って、部屋の中からいつものように書類の山を持ってきて、エルに押し付ける。エルが何か言おうにも、とびらはバタンと閉じられてしまった。

(うーん、あそこまで言われてしまったら、今日のところは退くしかないわね……)

 仕方ないと息を吐き、エルは今日も書類運びの仕事に取りかることにした。




「殿下、失礼しま──……」

 書類の山を運び終えて執務室に戻ったエルは、さらにもう一山分、書類が積まれているのを発見してしまった。

(まだこんなにあったのね……)

 それを置いていった部屋のあるじはいないようだ。そういえば今日は、かんりようや大臣など政治を取り仕切る国の上層部の者たちと、重要な会議が行われる予定だと聞いていた。

(とすると、まだ戻っては来ないかしら。でも、この山も早目に片付けた方がいいわよね)

 そうして、新しい書類の山をかかえて部屋を出る。もくもくと仕事に専念しながら城内を歩いていると、真っ黒でじゆうこうな扉が目に入った。エルがまだ一度も入ったことのない部屋だ。

(確か、ここがその会議室よね)

 おくを辿りながら部屋の前を通り過ぎた直後、重い音を立てて扉が開いた。次いで、中から人がぞろぞろと出てくる。

 会議が終わったようだ。身なりを見る限り、部屋から出てくるのは皆、高い地位の者たちに思える。クロードの姿は見えなかったが、出てくる人が揃いも揃って疲れ果てた顔をしているのが、エルは気になった。

(難しい会議だったのかしら。国政に関わることですものね、きっと緊張した空気の中おこなわれるんだわ)

 リトリアでもそういう場に同席したことがないエルは、やつれた二人組の男が通り過ぎるのを見て、なんとなく心配になってしまう。

(今の人たちは官僚ね。胸元の緑色のバッジは、確かそうだったはず)

 王城で役職にいている者は、その地位が一目でわかるようそれぞれ役職ごとに色の違うバッジをしているのだ。騎士団には団服があるためバッジを付ける決まりはないが、文官たちにはその決まりが定められているのだと、ここに来た初日に教わった。

「おい」

 その時聞こえた、かいろうすみにまでひびき渡るような冷たいこわに、エルは振り返った。

(クロード殿下?)

 クロードはエルの前をどおりし、やつれた様子の官僚たちにめ寄った。

「で、殿下……、まだ何か……?」

 どうようしきった様子の官僚たちに、クロードがいつもの睨みを利かせる。会議室から出てきた他の官僚や大臣たちが、一斉にクロードたちから距離を置いた。

(え? な、何?)

「お前たち、さっきの話はまだ解決していないからな。くだらない提案はさっさと取り下げておけよ」

「……お言葉ですが殿下、先程も申し上げましたように、くだらなくはありません。歴史あるが国のげんを保つために、さいを担う教会の定期的なしゆうぜんは、必要不可欠で……」

「だから、定期的とは言っても、半年に一度はひんぱんすぎると言ってるんだ。しかも、その作業にも半年かかる理由がさっぱりわからん」

「神聖な場所ですゆえ、入念な手続きと準備に時間がかかるのです。ご理解ください」

「理解なんか出来るか。一か月ですみやかに終わらせるか、その作業を五年に一度にするか、どっちかにしろ。それが出来ないならさっきの案はきやつだ。もう少し頭を使って考えろ」

 クロードが冷たく言い放ち、官僚が押し黙る。

(え、えっと……、これは一体、何が……)

 目の前の氷点下の空気に、エルも思わず凍り付く。

(いつにも増して、殿下のご機嫌がよろしくないような……?)

「いいか。そんなことに使う金のために、りずに国民からちようしゆうする税金を上げることは、絶対に許さない」

 最後にもう一度圧をかけ、クロードは官僚たちに背を向けた。

(……あ。なんとなくわかった……かも……?)

 教会の修繕費を巡って議論がり広げられていたようだ。なんだかみようにお金のかかるそれのせいで、国民の税金が上がりそうになっている。しかもそれは初めてのことではないようで、それをクロードは反対している……といったところだろうか。

(でも、ちょっと言い方が……キツいのではないかしら)

 国民のことを思っておこっていたのはわかったが、残された周囲の人間のこのたまれない空気からして、言い過ぎなのではないかとも思う。

 思ったことをハッキリ口にする人だということはわかってきたが、どうにも落ち着かなくなったエルはクロードを追いかけた。


「あの、クロード殿下」

 返事はなく、彼は振り返りもせず歩き続ける。先程のお怒りモードを引き摺っているようだ。しかし聞こえてはいるはずなので、エルは続ける。

「たまたま通りかかったので、今のやり取りを聞いてしまいました。それで、その……」

「お前には関係ないことだ」

 突き放すような声だった。もちろん、エルが口出しすべきことでないことは、わかっている。それでも黙っていられないと思ったのだ。

「仰る通りです。ですから話の内容ではなく、話し方について申し上げたいと」

「話し方だと?」

 クロードは立ち止まり、特大の睨みと共に振り返った。エルはその迫力に押されないよう、ぐその瞳を見つめ返す。

「そうです。あのような仰り方では、殿下が損をすると思いました」

「損? 俺が?」

「ええ。正論を口にしていても、あのように冷たくて一方的な話し方では、伝わるものも伝わらないと思うのです。殿下の印象も良くならなくて、すごくもったいないです」

 間違ったことは言っていなくとも、けんごしになっていたせいで、周りを怯えさせて台無しにしている気がした。賛同してくれる人も中にはいたかもしれないのに、自らその数を減らしていたのではないだろうか。

「フン、別に印象なんかどうでもいい。正論が通じないやつも放っておけばいい」

「ですが、あれでは周りの皆さんをしゆくさせてしまうだけかと……」

「あれくらいで怯んでるやつらなんか知るか。どうでもいい」

「だから、どうしてそう何でも突き放すような言い方をするのですか!」

 ほんの少しムキになってしまうと、クロードはさらに目を細めてエルを睨んだ。

「俺に意見するなんて、大層なご身分のようだな。その減らず口をどうにか出来ないなら、側付きどころか騎士団まで辞めさせるぞ」

「……っ」

 そう言われたら、エルはもうそれ以上何も言えなかった。

 黙ったエルをいちべつし、クロードはまた歩き出す。やがて回廊の角を曲がり、姿が見えなくなった。

 ここを追い出されるわけにはいかない。けれど、ああやって人と距離を置くことを躊躇ためらわないクロードのことを放っておけない気持ちも、エルの中にはあるのだった。

 どうしてあんなに頑ななのだろう。

(……難しいわね……)

 意気しようちんしながらも、まだうでに抱えた残りの書類のことを思い出し、エルはとぼとぼと反対の方向へ歩き出した。


 そうして残りの分も少なくなった頃、西のとうに続く回廊のはしで、エルはふと足を止めた。

 この仕事も五日目ともなれば、城内の構造はだいぶ頭に入ってきている。オリベールの王城はリトリアの城より広く、最初はめいのように思えたが、使用人たちと顔見知りになったことでだいぶ仕事はしやすくなっていた。けれど西の棟のおくまでは、足を踏み入れたことがないことに気付く。

(西の棟には、図書室に行くぐらいしか用がなかったのよね)

 王城の中でも執務区域にあたるのは東側で、西側には王族の私的な部屋が多く造られているらしい。クロードの私室もこちら側にあると聞いた。

 ひとのない回廊の奥を、じっと目をらして見つめる。

(騎士の身分で、用もないのにウロウロするわけにはいかないわよね……)

 それでも足を止めてしまったのは、回廊の奥から花々の良いかおりがしてきたからだ。回廊の先、高いいけがきに囲われた奥から、その香りはやってくるようだった。

 それは、先程のクロードとのやり取りでしずんでいたエルの心を、宥めるような優しい香りだった。

(もしかしてこの先に、庭園でもあるのかしら? ちょっと気になるわね……)

 さそうようなあまやかな香りに、足を踏み出しかけた時だった。強い風がき、持っていた書類が数枚、飛んでいってしまったのである。

「わっ、待って!」

 その声もむなしく、書類は生垣の向こうに落ちてしまう。どうしようと辺りを見回すと、生垣に沿うように高い木が植わっているのが目に入る。

 ちゆうちよしたのはほんの一瞬だった。

(……ごめんなさい、書類を取りに行くだけなので!)

 心の中であやまり、思い切って木を登り始める。

(昔、お兄様たちに言われて木登りの特訓をしていて良かったわ)

 幼き日のゆうかいそうどう後、エルは〝もしもの時のための護身術〟の一つとして、日常で使えそうなものから全く役に立たなそうなものまで、数々の技や知識を教え込まれてきた。王女として生きていく分には不要に思えた木登り術だが、今まさに役に立っている。

 ひょいひょいと身軽に登り切り、生垣の向こうを見下ろすと、そこにはエルが想像していた以上の景色が広がっていた。

「まぁ……、なんてらしいのかしら……!」

 視界に広がるのは、一面に広がる色とりどりの花のじゆうたんだった。数え切れないくらいの種類の花々が、ここだけ春をめ込んだみたいに見事にき詰められている。花畑の中央には、屋根のそうしよくせんさいで上品なあずまがちょこんと建っており、なんだかわいらしい。まるでおとぎばなしの一ページを切り取ったような空間だ。沈んでいた気持ちを忘れてしまうほどの美しさに、エルはついれてしまう。

 けれど少しだけ気になったのは、四方を高い生垣に囲まれているせいか、広いのにへい的な空間のように見えたことだ。

(何か特別な場所だったりするのかしら。早く退散した方がいいかもしれないわね)

 書類は生垣の内側に落ちていた。周囲をかくにんし、そおっと生垣の向こう側に下りていく。

(良かった、全部あったわ。もう少し探検してみたいけれど、早く戻りましょ──……)

「まぁ、どなた?」

「ひゃっ」

 背後から小さな声が聞こえ、エルは慌てて振り向く。

 そこには、眩しい白銀の髪に、ふわりとしたあわい緑色のドレスを着た女性がぽつんと立っていた。線が細くはかなげな印象だが、整った顔立ちもとうのようになめらかなはだも、せいこうに作られた人形のように美しい。ただよう気品から、位の高い人物だろうとエルは直感した。

「もっ、申し訳ありません! 書類がこちらに飛ばされ、勝手におじやしてしまいました」

「まあ、それは災難だったわね。探し物は全て見つかって?」

 小鳥のさえずりのようだが、不思議としっかり響く声だった。

「はい。無事に見つかりましたので、すぐに失礼しま──……」

「ねえ、もしかしてあなた、先日騎士団に入団した新入りさんではなくて?」

 吸い込まれそうなすい色の瞳に見つめられ、エルは頷く。

「ああ、やはりそうなのね。あなたのことは城内でうわさになっているみたいだから。輝くきんぱつき通ったライトブルーの瞳、天使のように美しい少年が現れたって」

 美のがみを体現しているような女性に言われるのは落ち着かなかったが、一応〝少年〟と広まっていることにエルは安堵した。何と答えたらいいか迷っていると、遠くの方から慌てたような女性の声が聞こえてきた。

「今、話し声が聞こえたような……。何かございましたか? 王妃様」

(王妃様!?)

 エルが驚いて目の前の女性を見つめると、彼女はシー、と人差し指を口元にかざした。

「いいえ、何も。ねこまよい込んだみたいなの。でももう行ってしまったわ」

 駆けて来たのは王妃付きの女官だったようだ。そうして、女官を下がらせた王妃に、エルはもう一度頭を下げた。

「あの……、申し訳ありません。王妃陛下のおんまえだったとは」

「気になさらないで。それより、良かったらいつしよにお茶をしない? 一人で退たいくつだったの」

「え、でも」

 そんなわけにはいかないと断ろうとしたが、その時エルは、王妃がどことなくさびしげな表情をしていることに気が付いた。はなやかな花々に囲まれていながら、ちっとも晴れやかではないその顔が、妙にエルの中で引っかかった。

(こんなにれいな場所でも、ひとりぼっちでお茶をするのは……確かに寂しいわよね)

 エルが迷っていると、王妃はしゅんとうなれた。

「……かしら」

「い、いえ! では、お言葉に甘えて、ご一緒させてください」

 今は一騎士である自分が王妃とお茶をする、なんてとんでもない話だと思うが、彼女の切ない表情を見ていたら、勢いでそう答えてしまった。王妃が嬉しそうに微笑んだので、エルはホッとする。

「嬉しいわ、ありがとう。わたくしはマデリーンよ。新入り騎士さんのお名前は?」

 マデリーンに手招かれ、東屋へ向かう。自分の名を名乗りながら、エルは記憶を辿った。

(マデリーン王妃は、第一王妃のお名前だったわね)

 つまり、クロードの母君ではない。彼の母君は第二王妃だからだ。

「いつも一人でお茶をしているのよ。でも今日はお客様が来てくれて嬉しいわ」

 東屋のテーブルに着き、いそいそとお茶を用意しようとする手を、エルは止める。

「あ、よろしければ私に淹れさせてください。実家では、家族によくそうしていたので」

「まあ、そうなの。ではお願いしようかしら」

 テーブルにはたくさんのユリがかざられており、良い香りに自然とエルの顔もほころぶ。丁寧に茶器をあつかうエルを、マデリーンが興味深そうに眺める。

「綺麗な手をしているわね。男性にしておくにはもったいないくらい」

 ドキリとして紅茶をこぼしそうになったが、なんとか持ちこたえる。

「せ、成長期がまだ来ないみたいで、なかなか男性らしい身体つきにならないんですよね」

「成長期……、なるほど。そういうのは、人それぞれだと言うものね。でも、あなたにはこのままでいてほしいわ。女の子みたいで可愛らしいもの」

「おっ、男としてはやっぱりそれは困る気もしますね!」

 透き通った翡翠色の瞳に、真実をかされているような気になり、声が上擦る。

「そうよね。当人からしたら、気にしてしまう問題よね」

 マデリーンはそれ以上深く追及せず、カップを口に運んだ。エルはホッと息を吐き、改めて庭園に目を向ける。

「それにしても、本当に素晴らしい庭園ですね。ここは王妃様専用の庭なのですか?」

「ええ。国王陛下がしつらえてくださったの。気持ちが落ち着くから、いつもここで過ごしているのよ」

「国王陛下ともこちらでお茶をご一緒されるのですか?」

「いいえ、誰も招いたことがないの。だからあなたは、初めてのお客様」

「えっ、初めての……! 私、本当にお邪魔して良かったのでしょうか……」

 それほど特別な私的な空間に、騎士がすわっているなんて。見つかったら大変なことになるのではないだろうか。今更ながらビクビクしていると、マデリーンがふふ、と笑った。

「心配いらないわ。わたくしが黙っていれば、誰にも知られずに済むから。それに、他の人間だったらお断りするけれど、あなたは特別。こんなに可愛らしいお客様を追い払う気にはならないもの」

 男らしく見えない外見が役に立ったらしい。エルは安堵し、緊張を解いた。

「ありがとうございます。実は、回廊を歩いていたら花の良い香りがしてきて、気になっていたんです」

「そうだったの。あなたも花が好きなの?」

「はい。なのでここは本当にてきな場所だと思います。いろんな種類の花があって……。あ、そういえば、変わった花もありますね。あのうすい水色の花なんて、初めて見ます」

「それは、祖国ソリヴィエにしかかない花よ。特別になえを取り寄せてもらったの」

(ソリヴィエ王国……ここからはだいぶ遠いほつぽうの国ね。マデリーン王妃様はソリヴィエの王女で、若くしてオリベールにとついだという話だったわ)

「綺麗でしょう? ソリヴィエはこの国に比べたら小国だけれど、自然が多くてのどかな良い国なのよ」

「王妃様は、ソリヴィエが大好きなのですね」

「ええ、生まれた国ですもの」

 エルもリトリアのことを思い、共感して頷く。対するマデリーンは、祖国のことを想って感傷的になったのか、瞳がらいだ。

 そっと庭園を見渡すと、風に揺れる花々以外は何もない。たくさんの色に満ち溢れているのに、なぜかはだざむい気持ちになる空間だった。他に人の気配がないからだろうか。

 それに地上から眺めると、四方の高い生垣のせいで閉じ込められているような感覚になる。こんな所に一人でいるのは──寂しいだろう。

「そういえば新入りさん。あなた、クロード王子の側付きの騎士なんですってね」

 今しがた見せたかげりはなかったように、マデリーンが微笑みながら問うてくる。

「はい。……と言っても、雑用しかやらせてもらえていないのですが」

 先程のクロードの態度を思い出し、また少し落ち込んだ気持ちになる。

「まだここに来て日が浅いですから、そう簡単に信用してはもらえないですよね」

「初めのうちはそんなものよ。少しずつ歩み寄っていけばいいのではないかしら」

「……でも、さっきも余計なことを言って、言い合いになって怒らせてしまったばかりで。歩み寄るには時間がかかりそうです」

「言い合った? 王子とけんでもなさったの?」

「喧嘩というか……、そうですね、私もついムキになってしまって」

 するとマデリーンは、ゆうに口元を押さえながらみをこぼした。

「それならあなた、見込みがあると思うわ。わたくしもクロード王子とそんなに言葉をわしたことはないけれど、彼は誰かと会話を成立させることを基本的になさらない方だと有名だもの。喧嘩にまで発展させるなんて、なかなか出来ることではないわ」

「そ、そういうものですか?」

「ええ。それに彼は、あまり人を側に置きたがらない方でしょう? その彼が、側に付くことを許しているだけでもすごいのではないかしら」

「……すでに何度か、その役目をクビにするぞと言われているのですが……」

「本当にクビにしたかったら、あなたに告げずに黙ってかいするわよ」

 なるほど。マデリーンの言うことは一理あった。ということは、エルは一応、ゆうを与えられているということなのだろうか。だから『見込みがある』ということなのか。

 諦めなければ、いつかは心を開いてもらえるだろうか。マデリーンのおかげで、エルは少しずつ元気が戻ってきた。

「ありがとうございます、王妃様。私、めげずに頑張ってみます」

おうえんしているわ。……きっと彼にも、色々と思うところがあるのでしょうから」

「え?」

「国を背負う王太子ですもの、近付いてくる人間には警戒してしまうと思うのよ」

 マデリーンは、また寂しげに目をせた。

「立場上、周りの雑音が嫌になることはわたくしもあるわ。そうなると、誰とも関わらないで一人でいた方が気が楽だ、と思ってしまうようになるのよね」

 こんな風に、と言ったマデリーンの表情は、今にも消えてしまいそうに儚げだった。その時、エルはようやく気が付いた。この庭園の違和感と、マデリーンから感じるせきりよう感に。

(……もしかしてここは、王妃様が自らの意思で閉じこもっている場所なのかしら)

 漠然とだがそう感じた。マデリーンは子を産んでいないと聞いている。第一王妃でありながら子をもたないという事実は、当人にとってゆうする問題だろう。〝雑音〟と評した周囲の人間の心ない声が、彼女を苦しめここに追いやってしまったのではないだろうか──そんな風に思ってしまう。

(まるでここは、美しくも寂しいとりかごね)

 物寂しく遠くを見つめるマデリーンに、エルの胸は苦しくなる。

 リトリア王国の先代王妃はエルの母一人だけ。その母は自分をふくめた十一人の子宝にめぐまれ、快活でたくましい人だ。だからマデリーンの気持ちははかることが出来ない。

「クロード王子がうらやましいわね。あなたのように、踏み込もうとしてくれる人がいて」

 彼女にはいないのだ。そんな風に接してくれる人間が。

「あのっ……、良ければ、王妃様のことも私に教えてください!」

 思わず口から飛び出てしまった言葉だった。けれど、マデリーンは目をぱちくりさせた後、やわらかく微笑んでくれた。

「……ありがとう、新入り騎士さん。いつしようけんめいで優しいあなたと、クロード王子の間にしんらいきずなが生まれることを、心から願っているわ」




 マデリーンの庭園を辞したエルは、回収した書類を目的の相手へ届けてから、騎士団のつめしよで雑務処理にあたった。なのでクロードには会えないまま、夜をむかえることになった。

(あんな風に気まずく別れたままなのはモヤモヤが残るけれど、これも大事なことよね)

 マデリーンに背中を押してもらい、やる気が戻ってきたエルは、図書室に来ていた。今ページをめくっているのは、オリベール王国史の分厚い一冊だ。

(何も知らない他国の人間にとやかく言われたら、殿下も怒って当然よね。ならせめて、オリベールのことを少しずつでも知っていかないと)

 ただの気休めかもしれないが、何も知らないよりはマシだろう。そう思って、一から学んでいこうと思っていたところだった。

(それにしても、調べてみると殿下が仰っていた通りだったわ。国民の税金は、過去に何度も上げられているのね。他国に比べ、平均的にゆうふくな国といっても、これでは殿下が怒る気持ちもわかるわ)

 クロードが腹を立てていた理由は納得出来た。だから後は、言い方の問題だ。

 しかしそれを伝えるには、今のエルではまた言い合いになってしまう。もっと自分が彼に認めてもらえるようになれば、少しは話を聞いてくれるようになるだろうか。

 そう考えつつも、もうだいぶ夜もおそくなってきたため、腕いっぱいに抱えた本と共に図書室を出る。すると、クロードが向かい側から歩いてくるのが視界に入った。

 運良く会えた、と目を輝かせたエルと目が合ったクロードは、元からのぶつちようづらをさらに不愉快そうにゆがめ、元来た道を戻ろうと背を向けてしまう。

 そんな彼に、エルは素早く駆け寄る。

「殿下、こんばんは。少しよろしいですか?」

「よろしくない。俺は用事を思い出した」

「ではその用事に取りかかるまででいいので、私の話を聞いてください」

 クロードは何か言いかけたが、開きかけた口を閉じて足を早めた。

「昼間はえらそうなことを口にしてしまい、たいへん失礼しました」

 クロードはエルの方を見ようともせず、無言で歩き続ける。

「それで反省をしまして、殿下に私のことをちゃんと認めてもらうため、気持ち新たに頑張りたいと思いました。なので、これからもお側にいさせてください」

「あれだけ言われても逃げ出さないのか」

「逃げませんよ。私はここにいたいのですから」

 そこでようやく、クロードはちらりとエルの手元に視線をした。

「……何だ、それは」

「オリベールについての本を、いくつかお借りしました。改めて振り返ってみると、私はこの国のことをまだまだ全然知らないなと思ったので、勉強しようと」

「…………フン」

 少し、物思うような間があった。いつもほどのとげとげしさを感じなかったのは気のせいだろうか。

「もちろん、殿下のことも教えていただければ嬉しいです。気が向いたら少しずつでもいいので、話してくださいね」

「誰がするか、そんな話」

 やはりまだかべは厚いようだった。

 マデリーンの言葉を思い出す。〝立場上、近付いてくる人間を警戒してしまう〟と。

(リトリアの城にいた時、私はそんな風に思ったことはなかった。でもそれは、信頼出来るお兄様たちに守られていたからなのよね)

 人を疑う必要のない世界で過ごしてきた。つくづく、自分は大切にされてきたのだと感じる。クロードにも、少しでもいいから同じような気持ちを味わってもらえないだろうか。自分はその一助となれないだろうか。

 そんな中、またちんもくが広がってしまい、エルは何か話題がないかと頭を巡らす。

「あ、あの、殿下のお母様はどのようなお方なのですか?」

「なぜ急に母が出てくる。お前には関係ないだろう」

「それはそうですが、第二王妃様はどんな方なのか気になったものですから」

「第一王妃のことだって知らないだろう」

「いえ、マデリーン王妃様とは先程……」

 と言いかけ、ハッと気付く。

(いけない、王妃様にお会いしたことは、ないしよにしていた方が良かったのかしら)

 成り行きとはいえ、庭園に入り込んでしまったのだ。黙っていた方がいいだろう。

 だが案のじよう、クロードはエルが言いかけたことに反応して、まゆひそめた。

「……先程? どういうことだ?」

 エルは仕方なく、予期せぬ事態でマデリーンとお茶をすることになったけいを話した。

「……お前、王妃の庭園にしんにゆうしたのか」

「侵入だなんて、そんな敵地に乗り込むみたいな。ですから、事故みたいなものなんです」

「他国の貴族とはいえ、いつかいの騎士がやすやすと入り込んでいい場所ではないんだぞ」

「はい。ですからすぐにおいとましようと思ったんです。でも、王妃様がお茶に誘ってくださって。お一人で寂しそうにしてらしたので、ついそのまま居座ってしまいました」

 寂しそう、とクロードは小さく繰り返した。少し間を置き、不満げな顔になる。

「だからと言って、勝手な行動はするな。……ったく、俺でさえ年に一度しか顔を合わすことがない相手だっていうのに……」

「えっ、そんなにお会いする機会がないのですか?」

「あの人はおおやけの場に出たがらないから、会うことがない。国政にも関わってこないしな。ずっとあの庭園に引きこもってるって話だ」

「そうなのですか……」

「とはいえ、マデリーン王妃はこの国で二番目の権力者だ。お前がそうをして俺の責任になるなんて、ごめんこうむる」

「……どうしましょう。また遊びに行くと約束してしまったのですが」

「……どうして短時間でそんなに親しくなれるんだよ……」

 クロードがせいだいに溜め息を吐く。どうして、と言われても。

「ったく、放っておくとどこまでも人脈を広げてくるわけのわからんやつだな」

 クロードが髪をくしゃりとかき回した時だった。風の音に交じり、女性の悲鳴が聞こえてきた。

(な、何!?)

 二人で声のした方に駆け出す。中庭を突っ切ったところで、クロードが足を止めた。

「……クレア!」

 クロードがいつになくあせった表情で見上げる先には、三階のバルコニーにあるりの外側、その根元の部分になぜかぶら下がっている少女がいた。

(クレア……って、殿下の妹君!?)

 十一歳の妹姫がいるとは聞いていたが、なぜあんな場所にいるのだろう。疑問に思いながらも、バルコニーの真下に向かって走っていくクロードを、エルも追いかける。

 近付くにつれ、状況が見えてきた。クレアがつかまる手摺りを上から覗き込むようにして、あおめながら声をかけている女性がいる。どうやら女官のようだ。ということは、そこがクレアの自室ということだろうか。

(もしかして、バルコニーの手摺りからすべり落ちてしまったの?)

 どうして手摺りの外側に落ちることになったのかわからないが、必死に石造りの手摺りに摑まる彼女の様子からして、恐らくそうだろう。女官の震える声が聞こえた。

「姫様、人を呼びに行っていますから、どうかごしんぼうを──……!」

 地に足がつかない不安定な状態で、腕がプルプル震えているのが地上から見てもわかる。ヒュウ、と風が吹くたび、クレアは目をギュッとつぶってえていた。

(大変だわ、早く助けないと……! あの手からいつ力が抜けてしまうかわからない)

 クロードも同じことを考えたのだろう。表情には動揺がけんちよに表れていた。

「クレア、大丈夫だ、落ち着け。今助けに行くから──……」

 しかし、クレアは手を伸ばせば届く距離にいるのではない。現実的にははしを持ってくるべきか──そう考えていると、じようへきに沿うように植えられた大木が目に入った。豊かな葉をたくわえた立派な枝は、クレアがいる手摺りの端にまで伸びている。

 それを見たエルは、迷わず大木に登り始めた。

「おい! 何をしている!?」

 エルの行動に気付いたクロードが声を上げるが、エルは構わず木をよじ登る。

「助けを待つより、私が行く方が早いです。任せてください」

「何言って──……、無茶だ! 降りてこい!」

「この通り小柄なので、大丈夫ですよ」

 大の男が登れば危険だが、エルの体重ならギリギリ持ち堪えてくれそうだ。モタモタしていたら逆に危ない、とするする登っていく。あっという間に手摺りのすぐ側まで辿り着いたエルは、しなる枝の上をしんちように移動し、クレアが摑まる手摺りに飛び移った。

(──よし!)

 手摺りを伝い、クレアに近付いていく。彼女はそうはくな顔で、瞳にいっぱいなみだめていた。そんな彼女の頭上の枝に、レースがたっぷり付いたリボンが巻きついていることに気付く。

 エルの視線に気付いたクレアが、弱々しい声を発した。

「そ、それ……」

(もしかして、これを取ろうとしてバルコニーから身を乗り出してしまった……?)

 エルはクレアを安心させるように頷き、リボンをそおっと枝から解く。それをポケットに収め、クレアの腕を支えるように摑んだ。

「姫様、もう大丈夫ですよ。私が手を貸しますから、お部屋に戻りましょう」

 緊張しすぎて冷え切った腕を引っ張る。手摺りから覗き込む女官の向こうから、ちょうど警備の兵士たちがやって来るのが見えた。

「今から姫様を引っ張り上げるので、そちら側から受け止めてください」

 兵士たちが頷き、手を伸ばす。エルは精一杯の力を込めて、左手で手摺りを摑み、右手でクレアを引っ張り上げる。一人で持ち上げるにはわんりよくが足りなすぎたが、兵士たちが力強く引っ張ってくれたおかげで、なんとかクレアを手摺りの内側に押し出すことが出来た。安堵の声が広がると共に、エルも詰めていた息を吐き出す。

(良かった……!)

 今度は自分の腕がプルプル震えているが、落ちる前に助けられて良かった。どっと押し寄せるろう感と共に、安心感に包まれる。

 そうして油断したのがいけなかった。

 突然強い風が吹き付け、そのはずみでうっかり足を滑らしてしまったのだ。

(きゃぁっ!?)

 手摺りも離してしまい、そのまま地上に向かって落ちていく。三階に近い高さであることに気付いたが、もう遅い。迫りくる落下のしようげきに目を瞑るしかない──そう思ったエルだが、意外にも身体への衝撃はなかった。

「………………え?」

 おそる恐る目を開けると、間近に色の瞳があり、エルを覗き込んでいた。

「……ひゃあ!?」

 飛び退こうと思ったが、無理だった。──クロードにきかかえられていたからである。

(えっ、な、何……、えぇ!?)

 どうやら、落下したエルをクロードが抱き留めてくれたらしいが、さすがに兄弟からもされたことのない体勢に、声が上擦ってしまう。

「す、すみません殿下! お、降りますから、離してくださいっ」

 しかし、クロードは黙ってエルを見つめたまま、離そうとしなかった。

「あ、あの……、殿下……?」

「……ああ、悪い」

 ようやく解放され、地面に足を付けたエルは、やっとのこと深く息を吐き出した。クロードはまだエルをじっと見ている。

「あの、助かりました。ありがとうございます……」

「礼を言うのは俺の方だ。助かった」

「い、いえそんな……」

 しかしエルは、見上げたクロードの顔を見て、言葉を失ってしまった。

 抱きかかえられた上に初めて礼を言われたことよりも、衝撃的な光景を目にしたからだ。

(お、おだやかに微笑んでらっしゃる……!?)

 妹が無事だったことへの安堵がそれほど大きかったのか、クロードはいつもは冷たい印象を与えるまゆじりを下げ、心底ホッとしたような表情をしていたのだ。

 それは、エルが初めて目にするクロードの姿だった。

「確かにあの木を登るのはお前でなければ駄目だったろう。お前がいてくれて助かった」

「そ、そんな、めつそうもない……」

 柔らかい表情のままそんなことを言われ、エルの胸がドクンと大きく鳴った。

(え? こ、これは何?)

 ドクンドクン、とどうせわしなく鳴りひびいている。喧しいほどに胸の内側を叩いている。

「お前についての見解を、今後は改めることにする。──ありがとう」

 向けられた瞳に宿るのは、いつもとは違う温かな光だった。

「……こ、こちらこそ、ありがとう……ございます……」

 嬉しいことを言われているはずなのに、声がかすれてしまう。今までになく優しい瑠璃色の瞳から、目を離せない。まるで自分のものではないように、身体が動かなくなっていた。

(こんな顔もなさるなんて……ずるいわ)

 月夜に照らされたクロードの優しい表情は、エルの胸に強く強く焼き付いたのだった。

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諸事情により、男装姫は逃亡中! 紅城蒼/ビーズログ文庫 @bslog

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