ピアノのノッコさん(オリジナル版)

片田真太

ある女性ジャズシンガーソングライターのお話

      ピアノのノッコさん

                     内田 啓太





「皆様。ただいまJA702便は成田空港に到着いたしました。機体が完全に停止し、座席ベルト着用サインが消えるまでお席にお座りになってお待ちください。ただ今の現地時刻は、×月×日、午後1時36分でございます。」

機内アナウンスが流れながらも機体はゆっくりと動いていた。

「日本は10日ぶりか」

機内の窓から成田空港を眺めた。10日振りなのにやけに日本が懐かしく感じた。機体は徐々に動きがゆっくりとなりやがて止まった。

「皆様、本日はJANA航空をご利用くださいまして、誠にありがとうございました。お出口は前方と中央の2箇所でございます。皆様にまたお会いできる日を、客室乗務員一同心よりお待ち申し上げております。」

「よし出ようかな」

ステュワーデスは「ありがとうございました」とにこやかにお客様にお礼を述べながらお辞儀をしている。

飛行機から降りると、手続きゲートを抜け空港バスに女性は乗ろうとした。

「東京は暑いなー」

季節は春だったがすでに東京は暑かった。女性はさっそうとサングラスを取った。ウェスターンっぽい奇抜な七分丈のシャツにひざの位置に穴の空いたジーンズの恰好をしている。頭には派手なバンダナのようなものを巻いている。シャツの胸元ポケットにはIpodが入っていた。

彼女の名前は山本紀子と言う。あだ名はノッコ。自称シンガーソングライターをしている。アーティスト名も同じくNOKKOといった。Jazzを主に作曲していたが、ポップスの自作、プロデュースや映像音楽の作曲も手がけている。といっても歌はプロの割に上手い方ではなかったのでピアノソロだけでCDをリリースすることが多かった。久しぶりにニューヨークでライブがあったので、ライブが終わり10日振りに日本に帰ってきたのだった。アメリカはジャズが盛んなのでレコード会社の絡みでニューヨークではノッコは多少有名になっていたが、国内では一時期売れてはいたものの、現在はそれほど売れてはいなかった。


空港バスに乗ろうとするとノッコの携帯に電話がかかってきた。

「はい、何どうしたの?」

「あ、ノッコ久しぶり」

「久しぶりリナ」

「今頃成田着いている頃かなーと思って」

「よく覚えてたはね。一度メールしただけなのに」

「何よそれ。せっかく久しぶりのニューヨークライブ成功を祝っておごってあげようかと思ったのに」

「嘘、ありがとう。あーでも私時差ボケだから、今日は勘弁して・・・」

と言ってノッコはくすっと笑った。

「だーめ。私来月イベントがあってその準備で忙しいから今日しか無理」

「分かったわよ。何時にどこ?」

「6時に渋谷あたりで。駅ついたらメールしてね」

「分かった、アパートに一端帰ってからそれから行く」

「よろしくね」

リナと呼ばれる女性はそういうと携帯の通話を切った。


ノッコは一端自分のアパートに帰った。広いと言うほどではないが都心の外れにあるシックな作りの洒落たアパートだった。リビングにはグランドピアノとオーディオコンポとソファーとマットレスが置いてあり、壁には可愛い壁掛け時計がかけてあった。部屋で少し休んだ後ノッコは渋谷へ向かった。


 渋谷は相変わらず人が多かった。東京の中でも一二を争うほどに。ニューヨークのマンハッタンも人は多かったが、それでも渋谷に比べれば可愛いくらいだった。渋谷に向かう電車の途中でリナから「柏木屋」に先にいるからとメールがあったので、ノッコは直接店へ向かうことにした。

柏木屋に到着するとカウンター席にリナは一人でいた。

「久しぶり」

「久しぶり」

リナは先にビールを飲んでいたのでノッコも店員さんに

「ハイボールください」といってリナの隣の席に座った。

リナはノッコの音大時代からの友人である。本名は片瀬里奈と言うが音大の仲間からはリナと呼ばれている。リナは1学年下だったが年の差など気にせず同級生のように付き合っていた。彼女も音楽の仕事をしているが、オペラ歌手だった。アーティスト名はKatalina(カタリーナ)と名乗っていた。

「ニューヨークどうだった?」

「うんすごい活気だった。やっぱりJazzの本場の国は違うねー。なんか観客にブラボーとか叫ばれたはー」

「へー感激だね」

「あとこれお土産、ニューヨークのシャツ、はい。」と言ってノッコはリナに渡した。

「ありがとう。観光ついでにお土産も買ったの?」

「うん、時間が空いたときに現代美術館とセントラルパークとか見てきた。いい景色だった。」

「いいなー私も行きたい。さすがニューヨークだね。」

リナは感激したようだったが、続けて

「でもあなた居酒屋とか好きだよね。しかもハイボールだし。ニューヨークでライブしている人には見えない」といって笑った。

ノッコは

「うるさいなーそうだけど、でも私はバーも好きだから」と言い返したが、

「つまり酒が好きだってことか」とリナは呆れて言った。

「何よこの店リナが選んだんじゃないの」と少しむくれて言った。

「私はノッコとしかこういう店来ません。大酒飲みじゃないしー。お祝いだからノッコが喜ぶと思ってあえて居酒屋にしたの」

「あー私こんなんだから男寄ってこないのかな」とノッコはしょげてそう言った。

「そう、やっと気が付いたのね」とリナは半分おかしくて笑うように言った。

ノッコは30代後半だった。割と美人な方だっだが、言動が少々さばさばしすぎているのと、いつも奇抜なファッションをしているのと、大酒飲みだということで男が近づきがたい存在だった。そのおかげで恋愛経験があまりなく独身のまま婚期も逃してしまっていた。

「でもリナだって婚期逃してるじゃない」

「失礼ねー。でも私は少なくとも恋人くらいならいつもいますよ。それにあなたと違ってちゃんと料理もできますし」

「グサッ」

とノッコは心の中で自分に言った。

つまみや刺身や串やサラダなどを注文して二人は食べ始めた。

「あ、そういえば社長から聞いた?イベントのこと?」とリナが聞いてきた。

「イベント?そういえば携帯でそんなこと言ってたね。何なのそれ?」

「本当に聞いてないの?社長ものんきだなー。あと1か月しかないのに」

「何のイベントなの?」

「チャリティーイベント。うちのレコード会社が大々的に主催してイベントコンサートの売り上げをアフリカの難民支援だかの団体に寄付するんだって。だからあなたも会社から出るようにそのうち要請されると思うよ。」

「へーチャリティーか、うちがそんなのやるの珍しいね」

ノッコはチャリティーという言葉に興味を持った。というのも学生時代にふとした成り行きで児童館の子供と遊ぶボランティアをやっていたことがあるためだった。

「まあ、でも一種の宣伝じゃない?レコード会社の売り上げがどんどん落ちてきてるから会社のイメージアップにも必死なんでしょう」とリナは言った。

「ふーん」とノッコはつまみの枝豆を食べながらうなずいた。

「とにかく社長か秘書からそのうちあなたに連絡あると思うよ。」

 

2、3日後にレコード会社の社長からノッコの携帯に電話があった。

「白川ですが」

社長の名前は白川学と言った。ノッコやリナが所属するORBIC RECORDの社長だ。ノッコが30歳になる前、まだ売れてなかった頃にノッコをスカウトしてくれたのがこの社長だ。当時白川はまだ40手前くらいで敏腕営業マンをしていた。ORBIC RECORDは大手ではなかったが小さな会社とも言えずそこそこの会社だった。レコードが売れず音楽不況と言われるこの時代に健全と生き残っている会社の経営をしているので、白川は間違いなくやり手の経営者だった。そんな敏腕社長が直接アーティストに連絡することなど実際はまずないのだが、ノッコとリナは白川が営業マン時代に自らスカウトした経緯もありいまだに直接連絡を取り合うことが多かった。

「ノッコ君、リナ君から聞いてるかもしれないけど、来月のイベントの件で電話したんだ」

「はい、その話はリナから聞いております」ノッコは答えた。

「それなら話は早い。詳細はPCメールアドレス宛てに送るから見ておいてくださいね。では」といって白川は電話を切ってしまった。

ノッコはPCメールに来た詳細を確認してイベントに備えて猛練習をした。




 約1か月後にチャリティーイベントは開催された。季節はすでに夏になりかけていて、日差しは暑く照っていた。公園の野外フェスのような会場をORBIC RECORDが貸切ってステージを使用しているようだった。出演アーティストはORBIC RECORDのアーティストが大半で、あとはこのイベントの後援会社などの関係アーティストもいくらか出演しているようだった。満席というほどではなかったがそれなりに客はたくさんいるようだった。

リナは出演が最初の方だったので、自分の出演を終えて楽屋でメイクもし終えて関係者席で客として観覧していた。リナはノッコの出番を待っているようだった。するとそこに白川が現れた。白川はリナの隣の空いた席に座った。

「こんにちは、リナ君」

「あ、お疲れ様でーす、社長」

「君の歌聞いたよ・・・素晴らしかった」

白川はさりげなくそう言った。

「ありがとうございます。どうしてここにいらっしゃるんですか?」

「いや、このイベントは僕が企画立案したものを企画制作部が実施したものなんだ。だから後援会社とかイベント会社関連の人たちに挨拶周りでちょっと立ち寄っただけ」

「このイベントってチャリティーなんですよね?面白い企画ですよね。」

「ああ・・・」白川は複雑そうな表情でそう言った。

「でもね、このイベント見せかけだけなんだ。」

「見せかけ?」

「ああ、昨今音楽業界は大変な不況だ。売り上げも毎年低迷している。僕は敏腕経営者なんて社内では言われてるけど、実は情けないことに経営も悪化しててね。だから会社のイメージアップで体面上チャリティーイベントを仕掛けることにした」

宣伝のため・・・。大体そんなところだろう、とリナは思っていたので別段驚かなかった。

「そうなんですか・・・でもこのイベントの寄付金はアフリカのボランティア団体に寄付されるとか。」

「ああ・・・それも嘘というか・・・ほとんどは見せかけなんだ。寄付するっていっても本当は一部だけ。実質、収益の大半はわが社とイベント会社関連のものになる予定。」

その話にはリナもさすがに驚いた。

「チャリティーなんて言ったら聞こえはいいが、今の我ORBIC RECORDにはそんなことやっている余裕はないんだ。残念だけど・・・」

「そうだったんですか。」

「こんなこと社外にばれたらまずいからくれぐれも社内の人間以外には内密にね。本当は話してはいけないことなんだが、君になら話してもいいと思って」

「もちろん言いませんよ!」

「さて、そろそろ行くか」といって白川は席を立とうとする。

「ノッコの出番もうすぐですよ、ついでに見て行かれないんですかー?」とリナはそう言うと、

「あ、いや本社に戻って仕事が残ってるんだ。では、また」

そう言って白川は去っていった。相変わらず多忙なようだった。

しばらく待つとノッコの出番が来た。ノッコはジャズとポップスを歌ってるようだった。普段のライブやコンサートではピアノソロばかり弾いていたが、チャリティーイベントということもあって自由に自分で選曲しているようだった。


ノッコは自分の出番を終えて楽屋にいた。すると楽屋にリナが入ってきた。

「お疲れー」

「あ、お疲れー」ノッコは振り向いてそう言った。

「何か楽しそうだね」

「うん、なんかチャリティーだなんて聞いたら楽しくなって。私たちのライブでアフリカの人たちが救われるんでしょ?私さ、学生時代ボランティアとかやってたから何か・・懐かしいなーって昔を思い出しちゃって。過酷なショービジネスの世界に入ってから自分の売り上げだとか人気のことばっかり考えてたからかなー。なんか人のために音楽をやるってこと忘れてた。」

「あ、そのことなんだけどね・・・さっき社長から聞いちゃって。実はこのイベントほとんど寄付されないらしいよ。」

「え、何で?」ノッコはびっくりしてリナにそう聞いた。

「音楽業界が大不況なのはあなたも知ってるでしょ?会社の経営も悪化していて苦しいから、このイベントは会社のイメージアップのための一種の経営戦略らしいよ。」

「えーそんなのって・・・詐欺じゃない?ひどいは」

ノッコはがっかりしてそう言った。

「それはそうだけど・・・でもしょうがないじゃない。社長だって経営が悪化していて苦しいんだから。それにうちの会社の経営悪化したら、私たちの宣伝費だってお金かけてもらえなくなるよ。」リナは社長の味方をするようにそう言った。

「まあ、そうなのかな・・・」

「そういうこと」

「ふーん」とノッコは内心では納得できなかったがあいまいに納得したようにうなずいた。

「そんなことよりさ、これから打ち上げ行くでしょ?エミとマユも来るって。」

エミとマユと言うのはノッコたちのレコード会社所属アーティストの後輩たちだった。

「あ、行くいく行きまーす」

「じゃあ上で待ってるね、早く着替えるんだよ。」

「OK」

リナは楽屋から出て行った。

ノッコはチャリティーの話を聞いてショービジネスの複雑さと大変さを改めて知った。そして同時に何とも説明できない虚しさのようなものも感じた。そしてそんな業界にいる自分を考えると複雑な気持ちになった。




 チャリティーイベント以来ノッコは無気力になった。自宅で作曲やレコーディングをしているときも、会社で打ち合わせをしているときも、その他取材関係の仕事をしているときも何かがうわの空だった。この感情は、自分でもうまく説明できなかったけど何かがっぽかり心に穴をあけてしまったようだった。

そしてある日突然社長に連絡をして、アフリカのボランティア団体の名前を聞き出そうした。

「どうしても知りたいんです。」

「別にかまわないけど何か気になることでも?」

「いえ、ただ何となく」

「何となくじゃ困るけど、ノッコ君になら別に教えるのは構わないよ。」

と白川はいってアフリカのボランティア団体の名前と連絡先を教えてくれた。それだけでなく、アフリカのボランティア団体の寄付金を送る支援元の日本のNPOの連絡先も教えてくれた。

「教えるのは構わないけど、どこで情報が漏れるか分からないから団体名のことなどは社外にはくれぐれも内密に。特にチャリティーイベントの利害関係者には。NPO団体の人たちにもあまり根ほりはほり聞かないように」

ノッコはお礼を言って電話を切った。


 ノッコは自由業なので平日も空いている時間はあった。そこで、白川に教えてもらった日本のNPO団体に事情を説明してアポイントを取ってから訪れることにした。ノッコは思い立ったらすぐに行動に移してしまう性格で行動せずにはいられなかった。白川の話だとチャリティーイベントの収益の寄付金は日本のNPO法人ピースフルオアシスという団体に一端集められていた。そのピースフルオアシスというのは日本で色々な企業の寄付金や政府からの補助金を集めて、世界の貧困問題などに関連するNGO団体を金銭や物資面でただ同然で融資する団体らしい。今回のチャリティーイベントの支援金はアフリカのノーモアブラッドという貧困救済関連のNGO組織に送られるはずだったが、ピースフルオアシスがイベントから集めた寄付金からそのNGO団体に支援金として送る手順になっていたようだった。

「どうぞお座りください。」

NPO法人ピースフルオアシスの代表の佐藤という男がお茶を持ってきてくれた。

「お話は他のものから伺っております、ORBIC RECORDの方ですよね?」

「はい、社長から連絡先を聞いてこちらへ伺ってます。突然申し訳ございません」

「何かお聞きしたいことでもございますか?」

「はい、先日そちらへ収益を寄付させていただくチャリティーイベントに出演させていただいたのですが・・・」

「はい、こちらとしては大変お世話になっております。寄付金を御社からいただきまして大変助かっております」

「その件なんですが、本当はもっと支援させていただくはずだったんです」

ノッコはそう言いかけてさらに説明しようとしたが佐藤に遮られた。

「はい、存じてますよ。白川さんから事情は聞いてます。経営悪化で支援するのが苦しいので支援金を減額させてほしいと承りました」

「そうだったのですか・・・」

当然のことだがすでに社長から事情は全部聞いているようだった。

「こちらとしては少しでも寄付金いただけるのならありがたいことですから。NPO法人というのは収益にならない事業もたくさんやっておりまして、企業からの寄付金や政府からの補助金なしには立ち回らないのが現状です・・・昨今はどこの企業も不況ですからそんな中で寄付金をいただけるだけでも感謝してます。」

佐藤さんは謙虚な人だった。とりあえずORBIC RECORDはノッコの予想に反して感謝されているようだった。

ノッコはなぜここに来たのかよく分からなくなった。もともとあまり考えずに何となく興味をそそられて訪れたのだった。

「お聞きしたいことは他にもございますか?」

ノッコは思いついたように突然聞いた。

「あの・・・その支援先のアフリカのNGO?という団体って見学できるのでしょうか・・・?」

「ええ、関係者でしたら現地に連絡すれば見学することは可能です。支援者も関係者とみなすことは可能です。ですけど、あんなところに本当に行かれるんですか?」

と佐藤は驚いた。

「あんなところ?」

「ええ、その支援先のアフリカの地域は最貧困地域です。紛争がいまだに絶えず、食べ物はろくにないですし、地雷の撤去もすんでいません。ですから寄付金の支援関係者の方でそんなところ好んで行きたいといった人は今まで誰もいませんよ。私たちですら仕事で必要なときしか視察しませんから」

「そうなんですか・・・」

豊かな日本で育ったノッコには想像できないような世界だと思った。でも自分の会社が関係している、ということでノッコはただひたすら興味を持った。

「あの、行ってみたいです」ノッコは目を輝かせてそう言った。

佐藤は驚いたがノッコの迫力に押された。

「では、現地に連絡してそう伝えておきます。現地のものに空港に迎えにこさせるように言います。」

そう言って、現地の集合の日時と場所などを教えてもらった。



ノッコは突然1週間お休みをもらって、といっても会社員じゃないので有給を取るわけではなく許可をもらうだけだが、アフリカ行のチケットを取って現地に直行した。

そのノーモアブラッドというNGOはアフリカのザムナビアという貧困村にあった。現地のNGO団体の人が空港まで迎えに来てくれて車でNGO本部まで送ってくれた。

貧困村の一角に古びたコンクリートビルのような中にNGOの本部があった。本部に向かう途中に貧困村の中心地を通って行ったが、そこには道にぐったり倒れて野たれ死んだような人たちがたくさんいた。

「日本からわざわざおいでなさってありがとうございます。」

NGOノーモアブラッドの代表のネムルさんという方が英語でノッコに挨拶した。ノッコはニューヨークに時々仕事で行くし、海外旅行も好きだったので英語は得意で簡単な英会話ならお手の物だった。

「Thank you for taking your time.(お時間とっていただいてありがとうございます)」

ノッコは英語でそう答えた。

「事情は佐藤さんからお聞きしてます。さあこちらへどうぞ」

ネムルさんに奥室に案内されソファーに座った。

「佐藤さんから日本企業の支援者の方だと聞いております。こちらを視察されたいとのことですが、どこを見学されたいですか?」

「はい、こちらではどのような活動をされているのか状況を知りたいと思いまして。ノーモアブラッドさんの主な活動はどういうものなんですか?」

「えー簡単には佐藤さんから聞かれてると思いますが、詳しくお話しします。私たちはアフリカの貧困対策支援をしている団体です。空港からこちらに車で来られる間に見て分かったと思いますが、ここら一帯はアフリカの中でも最貧困地域です。紛争や反政府ゲリラなどが絶えず、親を失う子供、親を失ったことによって貧困生活を余儀なくされる子供たちが大勢います。そういった子供たちに教育支援をするために義務教育を受けさせる教育費補助支援をしてます。また、たとえ親がいても仕事があまりなく生活はひさんなものです。そういった家庭にも雇用支援や食料支援をしています。具体的には工場を作ったり家内工業を立ち上げて彼らに雇用の確保をします。そうして得た収入で食料や子供の養育費を確保させ彼らを自立させることを目的としてます。また、最も重要なプロジェクトは地雷の撤去です。地雷は現在では使われなくなりましたが、今現在でも地雷を完全には撤去できなく地中には危険な地雷が埋まったままです。その地雷を不意に踏んでしまい尊い命が毎日失われています。」

ノッコには多少難しい英語だったが、親を失った子供の教育支援、貧しい家庭の雇用支援や食糧支援、地雷撤去の話をしているのは分かった。ノーモアブラッドというのはこれ以上貧困の血を流さないように、という願いを込めたネーミングなんだろう、とノッコは思った。

ノッコは

「概要は分かりましたが、説明が難しいのでもう少し簡単な英語で話してください。」とネムルさんに伝えた。

「これは申し訳ありません。英語で挨拶されたので英語はお得意だと思いまして」

「そんなことありません、片言です。」と言ってノッコは照れるように微笑んだ。

「以上私たちの活動についてです。資料なども見られますか?」

といって棚から色々な資料や写真をネムルさんは持ってきてくれた。

「これが私たち組織の活動概要で、こちらが私たちを支援してくれる世界中の団体リストで、これが昨年度の財政状況です。」

色々な資料を見たがどれも難しそうだった。

「あと、これは写真です。工場の写真や地雷撤去の現場の写真です。」

色々な写真をノッコは見せてもらった。写真の最後には地雷によって足を失った子供の写真があった。ノッコはそれを見て衝撃を受けた。足を失っているのにカメラに向かって微笑んでいる子供を見た。

「ありがとうございます」

ノッコはそういって資料や写真をネムルさんに返した。

「工場や地雷撤去の現場を見られますか?工場はここから遠いので2時間以上はかかりますがどうされますか?」

2時間もかかるのか。ちょっと迷ったが、そんなに長距離運転してもらうのは申し訳ないので地雷撤去の現場だけでいい、と答えた。

「では担当のものに車を出させます」


ノッコは車まで案内され、ザンガさんという運転手に現地まで車で案内してもらった。

「ここらへん一体も昔は地雷がたくさんあって大変でした。ですから、昔は遠回りをしていました。今は撤去済みで安心なのでこちらのルートを通っています」

ザンガさんはそう言いながら運転していた。ノッコは景色を眺めながら話を聞いていた。

20分ほど車で走ると現地に到着した。

「向こうの方で地雷の撤去作業をしています」

ザンガさんはそう言って向こうの何百メートルか先の方を指した。

ノッコは言われた通りそっちの方を向いたら確かに大勢の人たちが何か作業をしているようだった。一人のものが立って作業指図をし、他の何人かがが図面などを見たり、また、他のものは何か探知機のようなものを操縦しているようだった。

「地雷撤去は私たちだけではできないので多くの専門機関の方にあのように作業に参加していいただいてます。私たちだけでは技術力がありませんので、航空写真のようなものを先進国の軍事機関から送っていただいて、その資料を基に地雷の場所はあらかじめ特定します。その資料をもとに彼らが地雷探知機を操縦して探知したら遠くからダイナマイトで地雷を粉砕します。それでも、何人かの作業員が事故で地雷を踏んで死亡しています。地雷撤去は命がけです。」

ザンガさんの英語もかなり複雑だったが、言おうとしていることはノッコにも分かった。地雷撤去は命がけ・・・

ノッコはしばらくその作業風景を眺めていた。そこで起きている風景は日本の日常とはまるで違い、同じ地球で起きている出来事とは到底思えなかった。

しばらくすると、ノッコの袖を子供がつかんできた。

「ねえ、ねえ」

子供は上目使いでノッコに話しかけてきた。

「ん、どうしたの?」

辺り近辺を眺めると家屋などがところどころ散見された。近くに村でもあるのだろう。村の子供か・・・

村の子供はノッコにこう言った。

「Give me money(お金ちょうだい)」

ノッコは言葉を失った。お金ってお金?なんで私に?

しばらく考えたが、貧困の村の子供はお金がないから金持ちそうな人にお金をたかってるのだと思った。ノッコは日本に住んでいるときは自分が金持ちだと思ったことは一度もなかったが、アフリカの貧困層からすればノッコは十分過ぎるくらい金持ちなのだろう。

村の子供はさらにノッコの袖をひっぱって

「お腹が好いた、食べ物ちょうだい」

ノッコはなんて返事したらいいか分からなくなり困惑してしまった。

「気にしないでください」

ザンガさんはノッコにそう言った。

気にしないでって言われても・・・とノッコは思ってしまった。

話には聞いていたが、アフリカの貧困地域はこんなにも悲惨な状況なのだと改めて実感した。多少の寄付金くらいではこの現状はいつまでたっても改善されないのでは、と思った。ノッコは今まで音楽はたくさんの悩める人たちを救う助けをすると信じて音楽の仕事をしてきた。しかし、このアフリカの惨状を見て音楽だけではこんな貧困は救えない、と思った。彼らには音楽を聴く余裕も金もないのだ。音楽とはショービジネスの世界の中だけで繁栄して、余暇を楽しむ余裕のあるものだけを救う。しかもその音楽のショービジネスは大不況の中で喘ぎ過酷な生き残りをかけて寄付金を集める余裕すらない。

そんなことを考えていたら、村の子供はノッコの胸ポケットに入っているIpodを見て

「ねえ何それ?」

と珍しがって見た。

「これ?Ipodよ。」

「食べれるのそれ?」

思わず笑いそうになってしまったが、ノッコは真面目に

「これはね音楽を聴く機械」と子供に教えた。

「音楽ってあの音楽?」

「そうよー」

そういってIpodのイヤフォンを子供の耳に当てて曲を聴かせてあげた。アフリカの子供が何の音楽を聴くかなんて分からなかったが、世界的に有名な曲をかけた。MoonRiverだ。

ノッコは売れてはいなかったが映像音楽も多少作曲するので映像音楽の勉強もたくさしていて、あらゆる映像音楽の世界的名曲をIpodに入れていた。

子供は最初不思議そうに曲を聴いていたがやがて、

「Good」

と言ってにこっと微笑んだ。

世界的な名曲はやはりどこでも人を感動させるのだろう、と思った。

子供は微笑みながらばーいと言って走って行ってしまった。

ノッコは、やはり音楽は人に力を与えるものだと確信した。

「どうされますか?もう帰りますか?」

ザンガさんがそういうと、それ以上時間を取らせるのも申し訳ないので

「そうですね。帰ります。ありがとうございます」

そう言ってまた再び本部に帰った。

その後NGO団体の人たちにぼろい古ぼけたコテージのようなところに案内されてそこで用意してあたった軽い軽食のような夕飯を食べてノッコは寝た。



 次の日ノッコは空港までまた車で案内された。来るときに迎えに来てくれた人の名前は聞き忘れたが、帰りの送り迎えはザンガさんだった。空港の搭乗ゲートで別れを告げた。

「いろいろとお世話になりました。ありがとうございました」

「いえ、こちらもいろいろとお世話になっておりますから」とザンガさんはそう言った。

ノッコは搭乗ゲートへ向かおうとするとザンガさんが話しかけてきた。

「あなたはこれから何かいいことをするつもりですね」

ノッコは不思議そうに

「いいこと?」と聞き返した。

「あなたがなぜわざわざこちらに来られたかわかりませんが、何かお役に立てたなら光栄です」と言った。

ノッコはザンガさんの英語の意味は分かったが言わんとしていることの意味は分からなかった。

「あなたに神のお導きがありますように」

そう言って別れた。


神のお導き・・・

ノッコは作曲家という職業柄、奇跡とか音楽の神様だとか、そんなようなことは信じていたが、突然神のお導きがどうとかと言われてもよく意味が分からなかった。アフリカの人たちは信心深いのだろうか・・・

成田空港に着くまで飛行機の中でノッコはずっとそのことを考えていた。



ノッコは自宅のアパートの寝室で横になりながら考え事をしていた。アフリカから帰ってからノッコの中で何かが変わったことに自分でも気が付いていた。音楽のショービジネスだけでは多くの救われるべき人たちが救われない。でも、アフリカの子供が笑ったように音楽は人々に感動と元気を与えることも確かだった。だから、もっと音楽で救われるべき人を救いたいと思った。でもどうすればいいのか分からなかった。その時ザンガさんの言葉を思い出した。「あなたこれから何かいいことをするつもりですね。何かお役に立てれば光栄です」その時ふとひらめいた。そうだ、私もNPO団体を作ってショービジネスではできないことをやろう、と思いついた。


 「どこ行ってたの?いきなりアフリカへ旅立ちます、とかメールが来てそれから音沙汰なしだからびっくりするじゃない」

「ごめん、ごめん」

二人は恵比寿の洒落たバーで飲んでいた。ノッコはきついマティーニを、リナは洒落たチャイナブルーを飲んでいた。

「実は私たちのチャリティーイベントで支援されるはずだったアフリカの現地のNGOを見学しに行ってた」

「何でまたそんなところに?」リナは驚いて口を大きくポカーンとあけた。

「何でって、何となく興味を持って」

「・・・・・何となく・・で?」

「うん、最初は思いつきで・・・何となく行きたくなっただけなんだ。でもね・・・向こうに行っていろいろなこと学べたは」

「いろいろな・・・こと?」

リナはただオウム返しのようにきょとんと聞き返した。

「アフリカってまだまだ貧しい地域がたくさんあるんだなって。豊かな日本に住んでいるとそんなことついつい忘れがちになっちゃうけど。そこで地雷撤去している人たち見てきた。紛争が原因で地雷が放置されたままになっちゃってて・・・その撤去作業というのが本当に命がけなの。何人も死んだって。村の様子も見て、貧しい村人たちの現状も見てきた」

「ふーん」リナは不思議そうにその話を聞いていた。

「それでね、思ったんだ。こんなに貧しい地域があるのに寄付金すら送ってあげられないショービジネスのシビアさと虚しさ。音楽って人に感動を与えられる素晴らしいものだけど、ショービジネスだけでは貧しい人たちすら救えないだって。貧困地域では音楽なんて贅沢なもの聞ける人たちなんていない。貧困地域では音楽のショービジネスなんて無力に等しい。私、音楽のショービジネスの世界にずっといるけど、今までそんな風に音楽のこと考えたことなんて一度もなかった」

リナは「うん」と言って頷いたが、

「でも、それは仕方がないことじゃない。貧困地域を助けてあげたいのは分かるけど、ビジネスだけじゃどうにもならないよ。ビジネスってのは利益を出すことが第一なんだから。余裕がなければ寄付金出せないのだって当たり前。あなた一人がどうこう言っても解決できる問題じゃないでしょ」リナは反論するようにそう言った。

「私もそう思ってた。でも現地の人たちは私にヒントを与えてくれた。ビジネスで解決できないならあの人たちみたいなNPO団体を作ればいいんだって」

「NPO?」リナは目を丸くした。

「ビジネスだけではできないことをやろう、と思って。私ね、アフリカの子供に音楽を聴かせたらにこって笑うの見たの。音楽のショービジネスはCDを買ったりコンサートに行ける人たちにしか感動を与えられないし、貧困国の人は音楽なんて聞けない。でも、そんな人たちも音楽が救いになってるんだって。音楽に無限の可能性を確信した。だからね、私はショービジネス以外で音楽を通して人を救う仕事がしたいって思った。ショービジネスの音楽だけじゃ救われない人たちを救いたいと思った」

「貧困国を救うこと?」

リナはまだノッコが何をやりたいのかいまいち呑み込めなかった。

「ううん、そんな大げさなことじゃなくて。でも何かをやろうと思っても、彼らみたいな専門知識もないからNPOとかNGOとかグローバルなでかいことはできないけど、日本のためになら自分も何かできるかと思って」

「例えば?」リナはまだノッコの意図が分からずにいた。

「貧困国は貧困国で大変だけど、日本のような先進国でも問題はたくさんあると思う。日本は確かに経済的に豊かだけど、現代社会は過酷な競争社会の中で潰されて精神的に病んでいる人たちがたくさんいる。きっとみんな救われたいのに救いを差し伸べてくれるひとたちがいないんだと思う」

「それで?そういう問題をどうしたいわけ?」

やっと本題に入ったとばかりノッコは答えた。

「音楽でそういう精神的に病んだ人たちを救いたい」

「音楽で救う?」リナは驚いた。

「そう、無限の力がある音楽でそういう病んだ人たちを回復させて元気を与えたいと思って。そういうNPOを作りたいの」

「あのね、具体的に言ってくれなきゃ意味が分からない。病んだ人たちっていってもどういう人を指すのか、それに音楽で一体何をしたいのか全然分からないんだけど」

確かにリナの言うとおりノッコは具体的に何をしたいのか自分でもよく分かっていなかった。

「そりゃそうだけどさ・・・でも、とにかく何でもいいから救いたいのよ!」少し興奮気味にノッコは叫んだ。

「あなた、救いたい救いたいっていうけど、さ。仮に何か思いついたとしてもそんなこと本当に可能なの?」

「アフリカでは信じられないような貧困救済支援が行われていた。自らの命を張ってまで地雷を撤去するような人たちがいた。人は人を救いたいと思えば何でもできるのかなって。無限の音楽の力があればそれも可能だと思う」

リナはノッコのやりたいことが全く分からない、というわけではなかったが、

「それは分かったけど。でもそんな非現実的なこと簡単にできると思う?あなたそういう専門的なこと何も知らないじゃない。それに自分の仕事は?生活は?そんなことしている余裕なんかある?CDだって最近売れ行き落ちてるじゃない。私はCDの売り上げ落ちてもオペラの仕事が定期的にあるから何とか稼げるけど、あなたは自分のCDが売れなくなったら仕事なくなるんだよ?オペラの役も、それだって役の奪い合いの競争がものすごいんだから。それに社長はそのこと知ったら何て言うかな?あなたと私を拾って一生懸命営業や宣伝してくれて育ててくれた社長に対して感謝の気持ちは?売り上げを伸ばすことが今私たちが社長にできる恩返しなんじゃないの?そんな脇道それたことやっている場合なの?それにあなたショービジネスを少し甘く見すぎてる」

リナの言ってることも最もだった。

「そりゃリナと社長には感謝してるけど・・・」

ノッコがまだ売れない苦労時代に、先にリナは当時の白川にスカウトされてデビューした。リナはすぐに売れたが、なかなか売れないノッコのことを心配して、白川にノッコのことを話した。白川はノッコに興味を持ってノッコのライブハウスを見学しに行き、白川はノッコの演奏の素晴らしさに思わず聞き入り、ノッコのこともその場でスカウトすることになったのだった。リナと白川のおかげで今の自分があるといっても過言でなかった。

ノッコはしばらく黙った後、

「でももう・・・とにかくやるって決めたから!リナなら分かってくれると思ってたのにさ!」

ノッコは少し怒鳴り気味にそう言った。

リナはノッコのその態度に少し腹を立て、

「分かるも分からないもないよ。何よ、人がせっかく心配してあげてるのに!」

怒り気味にリナはその場を立ち去ってしまった。

しばらくカウンターの方を眺めた後、ノッコは軽くため息をついた。

そしてタバコを加えて吸い始めた。ノッコはタバコを吸うが、ヘビースモーカーではなく普段はほとんど吸わなかった。いらいらするときだけ吸っていた。しばらく一人取り残されたバーで煙をふかした。煙はバーの天井の方までのぼって行ったが、天井まで行き着くとやがて左右に分かれてそのまま縮小しながら散って行った。それを見ているとタバコの煙は、はかない命のようにも思えた。



リナと喧嘩して以来少し自信をなくしたノッコだったが、自分の信念を曲げることは全く考えていなかった。だが、自分がどういう人たちを救いたいのか、なかなか思いつかなかった。自分の頭だけで考えてもなかなかアイディアが思いつかなかったので、何となくネットで色々と調べてみた。すると、ノッコは日本の抱える社会問題としてひきこもりや自殺などが悲惨な状況だというのを知った。あと、色々なNPOが日本にもあるのだということを知った。若者の悩み相談のNPO、ひきこもりの雇用、就職支援、ホームレス支援など実に様々な形態のNPOがあった。ノッコは実のところNPOのこともチャリティーイベントがきっかけで知ったばかりで、その実態もほとんど何も知らなかった。NPOとNGOの違いすら分かっていなかった。でも、様々なNPO団体のホームページを見てあることをひらめいた。そうだ、自分もこういうホームページを立ち上げよう。そうすれば誰かが見てくれるかもしれない、と思った。

ノッコはホームページ制作の経験はあまりなかったが、自分の音楽関連のブログをずっとやっていたのでその知識を活かして、また他のNPO団体のホームページを参考にしつつ、何日かかけてホームページを立ち上げた。あまりド派手なホームページにするのはよくないと思ったので、薄い青いカラーをたくさん使用してみた。まず、団体の概要と説明をホームページの最初に書いた。それには何を書こうか迷ったが、ネットで調べて一番多くヒットした社会問題である「ひきこもり」「自殺」をキーワードにしようとした。でも、ホームページに自殺なんて書くのはどうか、と思ったのでひきこもり対策、を目標にすることにした。ホームページの冒頭に次のようなことを書いてみた。


「現代の日本社会は過酷な競争社会により多くの悩みを抱え、孤独の中に生きている人たちがたくさんいると思います。その中でも深刻な社会問題がひきこもりだと思います。自分の人生に希望を持てずに生きるのは辛いことです。私はそういった社会を「音楽」で明るい未来に変えたいと考えます。音楽は人に感動を与えると同時に生きる希望や勇気を与えると信じています。具体的にはまだ活動内容は決めていませんが、自宅で作曲やピアノ演奏、音楽鑑賞などを通じて悩みの問題の解決を図りたいと思っています。」


ノッコは我ながらよくできた冒頭文だと思って自己満足に浸った。ホームページにはノッコのPCのアドレスだけ記載して「お問い合わせ等がございましたらこちらにご連絡ください」と記載した。住所や電話番号などは悪用されると思ったので書かないことにした。連絡が来た場合に連絡先を伝えることにした。活動場所はどこか他に借りる必要もないと思ったので自宅のアパートにすることにした。ホームページはひきこもり、音楽などでヒットするように検索エンジンに登録した。ホームページのタイトルは「音楽の力」とつけた。



1か月たってもなかなか連絡は来なかった。メールアドレスを時折開いてみたが、仕事以外のメールは一切入っていなかった。ノッコは普段通りに仕事はしていたが、自分の活動に興味を持ってくれる人がいないかやきもきしていた。なかなか連絡が来ないのでホームページを変えてみようかと思った。しかしそんな中ある日メールが1件ノッコに入っていた。


「ホームページを見て連絡させていただきました。私××区××町在住の須藤綾子と申します。連絡先がメールアドレスしか記載されておりませんでしたのでメールにて失礼いたします。実は、息子が学校のいじめが原因でひきこもりになっています。そちらのホームページを見て是非ご相談できないかと思いましてご連絡差し上げました。」


初めてのメールアドレスにノッコは興奮した。そして、自分の思いが通じて理解してくれる人が現れたのが何よりも嬉しかった。さっそく返事を須藤さんへ書くことにした。


「須藤様

ご連絡ありがとうございます。ホームページをご覧になったとのことですが、是非一度こちらへお越しください。住所と地図を下記リンクに貼り付け致します。日時については候補を二、三上げていただければ幸いです。」


その後、日時についての候補のメールが来たので、ノッコは自分の仕事が空いている日時を選んで返信した。また、息子も連れていった方がいいかと相談があったので、息子さんが拒否されなければ是非一緒にお越しください、との返事をした。


一週間後の月曜日の午後3時頃ノッコは時間が空いていたので約束通り須藤さんと会うことにした。アパートの外の方で車が止まる音がした。その後しばらくしたらインターフォーンがなったのでノッコは「はーい」と言ってドアを開けた。

「あの、失礼致します、ご連絡させていただきました須藤です。」

「はじめまして、私山本と申します。お越しいただいてありがとうございます」

須藤さんのお母さんの横に息子さんが立っていた。中学生か高校生くらいのようだった。

ノッコはバンダナのようなものを巻いていてパンチのある恰好だったのでお母さんは少し驚いたようだった。

「あの、遅らせばながらこちら息子の徹と言います。」とお母さんは言った。

「あ、はい。こんにちは、徹君」

とノッコは明るく挨拶したが、徹は全く返事をしなかった。

それを見てお母さんの綾子さんは、

「すみません」とノッコに恥ずかしそうに頭を下げた。

ノッコは二人をソファに案内してお茶を出した。お茶を出すと綾子さんが

「ありがとうございます」といってまた頭を下げた。

しばらく沈黙が続いてしまったのでノッコが

「あの、今日はありがとうございます。メールで簡単には伺ったのですが・・・あの」

「あ、すみません。メールで具体的に書かなかったもので。」

「いえいえ、とんでもないです」

といってノッコは手を横に振った。

「メールでお話しさせていただきました通り、徹はどうやら・・・その・・・いじめを受けているようで、それが苦に学校に行かなくなりました。はじめは徹に学校に行くようにしかっていたのですが、なかなか言うことを聞かないもので」

ノッコは黙って話を聞き続けた。

「それで何とかしないといけないので学校側に問い合わせをしたのですが・・・・ですが学校側にはなかなか事情を説明していただけません。心理カウンセラーにも何度か伺っても今のところ解決には至らないような状態です。」

「そうですが」とノッコはうなずいた。

「それから私近所の知人に教えてもらって・・・NPO?というのですか?そういう団体が色々な社会問題に取り組んでいるということを伺ったものですから・・・よく分からないなりにいろいろ調べたのですが・・・いじめやひきこもりというキーワードで検索してみました。どうやらひきこもりの転職支援や若者の悩み相談のようなNPOはたくさんあるようなのですが、息子はまだ転職する年齢でもありませんし、若者の悩み相談も進路相談とかそのような悩みを相談するところみたいなんです。あと、いじめ問題に取り組んでいるNPOはあまりないようなんです。いじめの被害者の会のようなところはあるのですが、そこは子供がいじめを受けているという親が参加して悩みを相談しあったり、学校や教育委員会側にいじめ問題を提起するような機関みたいです。私たち保護者はそういうところに相談しに行ってもいいのですが、徹がそのようなところに行っても問題が解決するとは思いませんし。学校側はなかなか対応してくれないので、そのようなNPOから息子の学校に問題提起してもらうように要請することもできるのですが、それには時間がかかりますし、そのようなことしてる間にも時間がどんどんたってしまいます。もちろんそういうNPOから学校側には問題を今後提起するつもりなのですが、今は何よりも徹が学校に早く行くことが先決なんです。ですからひきこもりの状態を早期に解決したい、と思いましてこちらに伺いました」

ノッコは中々深刻な悩みだと思いながら聞いていた。ノッコは学生時代にいじめられたことなんかなかったが、現代の学校のいじめ問題の深刻さを知ったような気がした。

「そうですか、私もいじめの問題は深刻だと思います。ひきこもりになったのも徹君の複雑な悩みとか深い傷とか色々あると思います。きっと悩みを吐き出せるようなことが必要なんだと思います。それにしても学校側の対応はひどいですよね。徹君が学校に行かなくなってもまだ何も事情を調べようとしないんですか?」

ノッコは半分怒ったようにそう言った。

「徹の学校は公立校ですし進学校でもありませんから、生徒が学校に来なくなってもそこまで対応してくれないのです。それにもう高校1年ですし・・・義務教育じゃありませんし。始めの方は何度か先生がうちの方へお見えになりましたが、今は全然来られません。」

ノッコはいじめ問題に対する徹君の学校側の対応に怒りがこみ上げた。

綾子さんはふと思い出したようにノッコに話しかけた。

「それで、こちらの法人なんですが・・・NPO法人なのでしょうか?あ・・・いえ・・・差支えなかったらでいいのですが、ホームページにそのような記載が一切なかったものですから。ただひきこもり、と検索したら出てきたもので・・・」綾子さんは不安そうにそう聞いてきた。

ノッコはホームページに何も書いていなかったことを思い出した。そもそもよく分からずにNPOを立ち上げてしまっていたのでどう説明したらいいのか分からなかったが

「あ、はいNPO法人です!」ととりあえずそう言ってしまった。

「そうですか」と綾子は安心したようだった。

「ホームページに何も記載されていなかったようなので・・・あの具体的にはどのようなことをなさっているんですか?何でも音楽でひきこもりを立ち直らせる・・・とか」

「あ、はいまだ立ち上げたばかりなので具体的には・・・わかりませんが、こちらで楽しく音楽を弾いたり作曲を学んだり、音楽鑑賞したりそれについて楽しく語り合ったりしようと思ってます」

「それで・・・具体的には・・・よくなるのですか?」NPOを立ち上げたばかり、という話を聞いて綾子さんは少し不安になったようで詳しく聞きいておきたいようだった。

「はい、私自身音楽によって救われた経験もあります。音楽は勇気と元気を与える力があると確信してます。ですから絶対によくなるはずです」

「そうですか・・・徹はピアノが弾けますので大丈夫だとは思いますが・・・音楽療法というのですよね・・・それは何か専門的な資格があったと思うのですが・・・確か音楽療法士とか聞いたことがあります。そういう専門的な資格をお持ちなのですか?」

音楽療法士と言われてもノッコにはよく分からなかった。

「いえ・・・そのような資格は持っていません。ですが私はシンガーソングライターをやっておりますので、音楽については多少の自信はあります。私NOKKOというものです、ご存じではないとは思いますが・・・」ノッコはそう言った。

「そうですか・・・申し訳ございませんが存じ上げません・・・すみません。ですが作曲の専門家でしたら大丈夫ですよね・・・」と綾子さんはいいつつもノッコが音楽療法の専門家ではないと聞いて少し不安そうだった。

「それで、ご料金の方は?ホームページに何も記載されていないようだったのですが・・・」

「え、料金ですか?」ノッコはそんなこと何も考えていなかったので戸惑ってしまった。

「料金は・・・一応まだ決めておりません。立ち上げたばかりですし当面無料にしようかと思っています」

「無料?」と聞いて綾子さんは面食らったように驚いたようだった。

「何かだめ・・・ですか?」

「いえ、わたくしもNPOのことはあまりよく存じあげませんが、NPOというのは・・・何かの寄付事業だとか・・・混み入った事情がない限りいくらか報酬を受け取る場合が多いようですよ」

「そうなんですか・・・」ノッコはよく分からなかったのでそのまま黙ってしまった。

「それでは・・・一回これくらいでいかがですか?」といってノッコに5000円を渡そうとした。

「いえいえ、いいですよそんな」

と何度も断ったので綾子も引き下がった。しかし、無料と聞いて逆に不安になったようだった。

「あの、今日はどうすればいいでしょうか・・・徹は・・・」

ずっと黙ったままだった徹の方を見てノッコは

「そうですね・・・じゃあ1、2時間ほど徹君にこちらにいていただいていいですか?」

ノッコは今度アルバムの新作を出すので夜自宅でその予備レコーディング作業などをする予定だったが、夕方まではいいだろうと思ってそう答えた。

「そうですか・・・じゃあ私は近くで夕飯の買い物などをしてきますので1時間ほどでこちらに戻ってきます」

そう言って玄関の方へ行った。

「あの・・・よかったらご一緒にどうぞ」ノッコはお母さんを誘った。

「ありがとうございます。ですが、徹が見てほしくないっていうものですから・・・じゃあ、徹をどうぞ宜しくお願い致します」そう言ってアパートを出て行った。


ノッコはソファにうつむいて座ったままの徹の方を見た。ずっとだんまりだったので、励ますように話しかけた。

「徹君よね?はじめまして、山本紀子です。あだ名はノッコです」

元気よくそう話しかけたが徹は相変わらず黙ったままだった。

ノッコはちょっと困ってしまったが、めげずに

「いじめって大変よね・・・お母様も心配してらっしゃるし・・・早く元気にならなくちゃね」

徹はまだうつむいたままだった。

「徹君・・・ピアノ弾けるんでしょ?お母さんがさっきそうおっしゃってたから・・・よかったら弾いてみない?元気になるよ?」

徹はしばらく黙ってたが、ずっと閉じたままだった口を初めて開いた。

「少し・・・だけ」

ノッコは徹が初めて話してくれたので嬉しかった。

「じゃあこっち来て座ってみて」

ノッコはそう言いながらピアノの座席の方へ徹を案内した。

徹は椅子の方へ歩いていった。大人しいが素直な子のようだった。

徹はグランドピアノの前の椅子に座りノッコは隣に椅子を持ってきて座った。

「徹君どんな曲弾くの?ピアノ弾けるって」

「昔ヤマハとかでクラシック習ってました。でももう忘れた」

「そっか」

ノッコは普段はクラシックをあまり弾かなかったが、音大時代に課題で嫌と言うほど弾いたので、プロピアニストほどではないがそれなりに弾けた。

「そっか、どういう曲弾く?ベートーベン、モーツアルト、ショパン?」

「昔、エリーゼのためにとか発表会で弾いた」

「そっか、エリーゼのためにね、ちょっと待ってて」

ノッコは本棚から「エリーゼのために」の楽譜を持ってきた。本棚にはクラシック以外にもたくさんの楽譜がぎゅうづめに詰まっていた。

ノッコはピアノの楽譜立てに「エリーゼのために」の楽譜を開いた。

「ちょっと弾いてみない?思い出して弾いてみると楽しいかもよ」

徹は戸惑った様子だったが、少ししたらピアノに手を置いた。楽譜を見ながら冒頭を弾き始めた。最初はわりとすらすらと弾けているようだった。

「すごいじゃない、徹君」

だが、展開した後になると途端に間違え始めた。

「ここからはよく覚えてない」と徹はぼそっとつぶやくように言った。

「へーでも久しぶりに弾いたのに忘れてないですごいよ」ノッコは本当に感心してそう言った。

「そうかな、でももっとすごい子なんてたくさんいたよ」

徹は謙遜したようにそう言った。

「まあ、そうだけど・・・でも久しぶりに弾いて思い出せるってすごいよ。クラシック向いてるんじゃない?」

「クラシックは別にそんな好きじゃありません。昔しょうがなく習ってただけだから」

小学生くらいでピアノを辞める子はたくさんいるが、大半はクラシックが好きになれないかとかそのような話はノッコもよく聞く。徹がクラシックは好きじゃないというのはよく分かった。ノッコもクラシックがとりわけ好きというわけではなかったが、偉大なる作曲家たちが否定されたみたいで悲しくなった。

「じゃあさ・・・どんな曲弾きたい?クラシックじゃなくてなんでもいいよ」

徹は少し黙っていたがやがて答えた。

「最近の曲。シド・・・とか」

「シド?」

シドというのは確かロックバンドだった。ノッコはロックも時々聞いたがさすがに最近のロックまではよく分からなかった。

「ごめん、それ楽譜ないや・・・」

徹は黙ってしまった。

「ポップスは?ポップスだったら楽譜あるんだ。さすがに最近のはないけど・・・」

「LUNA SEAとか・・・」

徹はロックが好きなようだった。

「LUNA SEAもどちらかというとロックだなー」LUNA SEAの楽譜もなかった。

「徹君ロック好きなんだね。世代が違うのに昔のも知ってるんだ」

ロックの楽譜はあまりなかったが、かろうじてB’zの楽譜はあった。

「B’zの楽譜ならあったよ。」

といって楽譜を本棚から持ってきた。ノッコは洋楽ロックは好きだったので洋楽ロックっぽいB’zは好きだったのでピアノソロの楽譜を持っていた。

徹の前で楽譜を開いて上げたが

「あまりB’zは聴かない。ハードなロックじゃなくてビジュアルバンドが好き」

と徹に言われてしまった。中々趣味がはっきりとしているようだった。

「そっか・・・」ノッコはJAZZアーティストの割と色んなジャンルの曲を聴く方だったがビジュアルバンドはあまり詳しくなかった。趣味が合わないので困った。

そもそもポップスはあまり楽譜がないことに気が付いた。ノッコは楽譜がなくても一度その曲を聴くとコピーできてしまうので、クラシックやジャズ以外の楽譜はそもそもあまり買わなかった。

ノッコは楽譜がないのでコピーしようとした。ビジュアルバンドは普段はあまり聴かないが、有名な曲は大体知っていたので思い出しながらピアノで弾いてみることにした。

「ちょっとLUNA SEA弾いてみるね。ちょっと横にずれてくれる?徹君」

そういって徹に横に移動してもらった。

ピアノに手を置きLUNA SEAの「TRUE BLUE」を弾いてみた。

うる覚えだったが割とコード進行がシンプルな曲だったので何とか弾けた。徹は目を丸くしていた。

「すごい・・・何ですぐ弾けるの?」

「今コピーしたの」

「すごいですね」徹は感激したようだった。LUNA SEAのピアノ演奏にも興味を持ったらしく

「僕もLUNA SEA弾いてみたいです」と言った。

徹がそう言うとノッコは嬉しくなったので、優しいシンプルなアレンジに変えて徹に教えようとした。

だが、楽譜がないとなかなか弾くのが難しいようで覚えられないようだった。

ノッコは工夫して色々教えようとしたが、徹は断念してしまった。

「難しい」徹はため息をついた。

ノッコは曲のコピーができたので即興演奏などはお手のものだったが、コピーができない人は楽譜がないとなかなか即興演奏をするのは難しい、ということに気がついた。

「もう一回トライしてみない?」

ノッコは優しくそう言ったが、

「もういいよ、疲れるし。やっぱりピアノはあまり向いてないんです」

徹はそう言って席を立ちあがりソファーに座ってしまった。

ノッコはもう一度ピアノを勧めようとしたが、徹があまり乗り気じゃないようなのでやめることにした。

少し沈黙が続いた。ノッコは困ってしまったので

「ねえ、ロックが好きならロックとかかけてみる?」と切り出してみた。

「え?今ですか?」

「うん、そうよ」

「何でですか?」

「音楽聴けば元気になるでしょ?」

そう言ってCDの棚をござござと探し始めた。「確かこの辺に・・・あった!」

ノッコが取り出したCDはメタリカだった。

「ビジュアルバンドのCDはあまりないけど、メタリカならあるよ。」

とノッコは言ってメタリカのCDをかけた。「Master of puppets」だった。

ものすごい迫力のギターが鳴り響いた。

「本場のロックってすごいよね。というかヘビメタっていうのか」ノッコがそう言うと

「確かにすごい・・・」と徹は賛同したようだった。

曲が終わると、ノッコは

「もっと聴く?」と徹に聞いたが、

「いや、いいです」と徹は言った。

「やっぱりハードなのは好きじゃない?」

「やっぱりビジュアルバンドの方がかっこいいです」と徹は答えた。

「そっか」といってオーディオコンポからCDを取り出した。

「何で徹君はビジュアルバンドが好きなの?世代的にも少し違うと思うけど」

「何でかな?年の離れた年上の兄貴がいて教えてもらった。そしたらかっこよかったから。クラスのやつらは今流行っているアイドルの曲ばかり聴くけど僕はそういうの興味ない」

と徹は答えた。

「そうなんだー。でも流行に流されないってかっこいいよ。自分があるってことだし。自分が好きな音楽をたくさん聴くといいよ。元気がでるから。それが一番いいし」

「そうかな・・・」と言ってその後徹はまた黙り始めてしまった。

何か疲れたようであまり話したくないようだったのでしばらくそっとしておくことにした。しばらくすると母親の綾子さんが迎えに来た。ちょうど1時間くらい立ったようだった。

またソファーに案内した。

「どうもありがとうございました」と綾子さんはお礼をしてきたので

「いえいえ、とんでもないです」とノッコは気楽にそう答えた。

「どうでしたか徹は?」

「あ、そうですねー」と返答に困ってしまったので徹の方を向いた。徹はまたうつむいたままだった。それを綾子さんは不安そうに見た。

「あの、次回はどうすればいいですか?」

「そうですね。またご都合のいい日の候補日をメールで送っていただいてもいいですし、今ここで決められてもいいですよ」とノッコは答えた。

「そうですか、ではまた来週の同じ時間に伺ってもいいですか?」

ノッコは自分の来週の予定を頭の中で確認してから

「いいですよ」と返答した。

「あの、何か申込書みたいな書類を書いたりしなくていいのでしょうか?」と綾子さんは聞いてきたが、ノッコはそんなものは用意してなかったので

「いえ大丈夫です。必要ありません」と言ったら、綾子さんは不思議そうに「そうですか・・・」と言った。

「それではありがとうございました」といって綾子さんと徹は帰っていった。


その晩、自宅でレコーディングをしながらノッコは考えた。

徹君は今日楽しかったのだろうか?中々心を開いてくれないのでどのように考えているのかがよく分からなかった。いじめを受けて心を閉ざすようになってしまったのだろうか・・・大人しいが扱いが難しい子だ・・・。しかし、LUNA SEAが好きならLUNA SEAのピアノソロの楽譜を買ってあげようかと思った。大した出費ではないのでそれくらいいいかな、と思った。

来週までに楽譜屋で買ってこよう。



次の週になるとまた徹はお母さんに連れられてやってきた。お母さんは近くの喫茶店にいる、と言ってまた出て行った。

「元気だった?徹君」

徹は返事をしなかった。

しばらく沈黙が続いてしまった。

「あ、そうだ徹君LUNA SEAが好きだっていうから・・・じゃーん・・・楽譜買ってきちゃった」

といってノッコはLUNASEAのピアノソロの楽譜を徹に見せた。徹は少しだけ興味をそそられたようだったが、

「わざわざ買ったんですか?」と少し皮肉っぽく言った。

「あ・・・うん。これなら徹君楽しく弾けるんじゃないかと思って」

徹は先週と違って自分からすすんでグランドピアノの前に座ったので、ノッコは明るく

「じゃあこれ楽譜開くね。何の曲弾きたい?」と徹に聞いた。

「・・・Rosier」

「Rosierね・・・えーと・・・36ページか・・・」

と言って36ページを開いて楽譜立てに楽譜を立てた。

徹は暫く楽譜を眺めていたがやがて弾き始めた。最初は弾き間違えていたがやがてゆっくりと弾けるようになっていった。

「そうそう、うまい」ノッコは徹が間違ったところを色々とアドバイスしながら教えていった。徹は30分もしないうちにゆっくりと弾けるようになった。楽譜があれば徹はすんなりと弾けるようだった。でもそれはそうだ、とノッコは思った。クラシックがある程度弾けていたのならポップスは簡単に弾けるはずだったのだ。

「徹君すごいじゃない、簡単に弾けるようになっちゃった」

「別に大したことないよ」と徹はさらりと無感動な表情でそう言った。

「他の曲も弾いてみる?」ノッコは勧めてみた。

「いえ、いいです」といって徹は立ち上がってソファにまた腰かけてしまった。ノッコはどう対処したらいいか分からなくなり困ってしまった。LUNA SEAが好きだというからせっかく楽譜を買ってきたのに・・・

「じゃあLUNA SEAの曲でも聴こうか。でもCDもってないや・・・徹君今Ipodに持ってたりしない?」徹がIpodを持っているか分からなかったが、今どきの子なら大抵持っているだとうと思って聞いてみた。

「持ってます。LUNA SEAも入ってます」と徹は言ってIpodを鞄から取り出してノッコに手渡した。

「じゃあコンポに繋げて聴こうか」といって手渡されたIpodをノッコはコンポに繋げてLUNA SEAの曲を選曲してスピーカーから流した。何の曲がいいか、と聞いたら何でもいい、と徹は返事をしたので、ノッコはよく分からなかったが「END OF SORROW」を流してみた。音楽が流れた。イントロからサビが流れ始めた。しばらくしたらギターのソロイントロが流れた。

「すごいよね・・・このドラムとギター」

徹は「うん」と答えた。

「徹君はなんでLUNA SEAがそんなに好きなの?なんか音楽的にかっこいいとかかな?」

「かっこいいから。バンドの雰囲気が」と徹はそっけなく答えた。

「そっか」音楽的というか本当にビジュアルのかっこよさが好きなんだな、と思った。

「すごいよねこのギターの迫力」とノッコはそう言いったが徹はまただんまりしてしまった。

しばらく二人は黙って曲を聴いていた。

ノッコはいじめのことはあまり触れない方がいいのかと思ったが、徹がなかなか心を開いてくれないのでいじめのことを聞いてみることにした。

「でもさ・・・あの・・・いじめってひどい話だよね。学校側の対応もひどい話だよね」

徹は黙っていた。

「でも、気にすることないよ。徹君の何が気に入らないのか分からないけどさ・・・いじめる方が絶対悪いと思うし」

徹は相変わらず黙ったままだった。

「お母様も心配してしてるし。学校側にも訴えてくださるって。こうして心配して私のところにも連れてきてくれてるんだし。だから早く元気にならなくちゃね」

黙っていた徹が急に話し出した。

「そんなこと言っても・・・僕の母親は僕の話なんかあまり聞いてくれないよ。ただ僕に早く学校行ってほしいから色々やってるだけだよ」

徹の思わぬ発言にノッコはびっくりひた。

「そんなこと・・・ないよ。こうして徹君のこと心配しれてるんだし」

「じゃあ何でいじめた側の家に行って抗議してくれないの?母さんも学校も。僕がいじめられているのは事実なのに、誰も和樹のやつの家に行って事情を話そうとしない」

和樹というのはどうやらいじめている子の名前のようだった。ノッコはなんて話していいか分からなくなっってしまった。学校のいじめ問題については込み入ったことはよく分からなかったが、おそらく学校側はいじめの問題を隠ぺいしたのだろう、と思った。よくニュースでやっているいじめ問題では、学校側がいじめ問題を隠ぺいしたい理由は学校の名誉問題もあるらしい。また、大した証拠もないのに学校側はいじめをしている側を責めるわけにもいかなという複雑な事情もあるようだった。

「そんなことないと思うよ。お母さんだって真面目に学校側に訴えようとしてらっしゃるみたいだし。徹君のことちゃんと考えてるよ」

「そんなことしている暇があったら先にいじめている側を処罰してほしい。そっちの方が先だよ」

「それは・・・」色々と事情が複雑だから中々そう簡単にもいかない、ということをノッコは徹に説明しようとしたが、かえって傷つけてしまうかと思って言わないことにした。

「もう誰も当てにならないよ。誰も信用できない」

徹は大人に心を閉ざしてしまっているようだった。なんて声をかけてあげていいのか分からなくなってしまった。

「でも、少なくとも徹君のことお母さんは心配しているのは本当でしょ?だから私のところに連れてきてるんだし」

「そうかもしれないけど、本当は学校に早く行ってほしいんだよ。行ってもらわないと困るから」

徹の言っていることも当たっている面もあるけど、お母さんの心配しているのも事実なのだとノッコは思っていたので、徹に再度そう説明しようとした。しかし、徹は

「ここにだって僕本当は来たくもなかった。カウンセラーだとかよく分からないとこにも連れいかれたし。そんなことよりも早く和樹を処罰してほしい。そうじゃないと僕安心して学校に行かれない」

来たくなかった、という言葉にノッコはショックを受けた。音楽が好きだから、早く治りたいから徹君は自分のところに来たのだと思っていたからだ。お母さんが心配して色々やっているのに感謝が全くない徹君にも少しノッコはむっときたが、傷つけるわけにもいかなかったので何も言わずに抑えた。

「私は・・・」私は徹君を助けたい・・・と言おうとしたが自分が無力だと知ったノッコは何も言えなくなってしまった。

そうこうやり取りをしている間にお母さんの綾子さんが帰ってきた。

綾子さんは「本日もありがとうございました」とお礼を述べた後に、「来週もまた同じ時間でお願いできすか?」と聞いてきた。

ノッコは来週の月曜日は会社に行く予定があったので、火曜日の3時にしてもらうことにした。

「それでは火曜日にお願い致します」そういって綾子さんは徹を連れて帰っていった。



 来週の火曜日に徹君はまた来るのだと思っていたが、月曜日に会社から帰宅後の夜にPCのメールを開いたら綾子さんからメッセージがあった。

「山本様

お世話になっております。明日徹とそちらへ伺おうと思っていたのですが、徹が今日突然明日は行きたくないと言い出しました。何度も行くように叱ったのですが、言うことを聞かないようです。今度はいつ行くのか、と徹に聞き出したものの「もう行かない」とだだをこねる始末です。本当に申し訳ございませんが、しばらく伺うことはできないようです。徹がまた行きたいと言いましたらその際は宜しくお願い申し上げます」


ノッコは少しショックを受けたが、「全然かまいません。徹君が来たくなったらまた是非お越しください」と簡単に返事をした。


3週間あまりノッコは仕事に没頭していたが、なかなか連絡が来なかったので徹君のことが心配になった。そしてノッコは綾子さんに簡単に「徹君のその後の状況はいかがですか?」とメールした。すると次の日にメールが来た。

「山本様

お世話になっております。わざわざご連絡ありがとうございます。あれから徹を色々と説得したのですが「もう行かない」と言うことを聞かないようです。申し訳ございませんが、そちらへは今後は伺えなくなりました。短い間でしたが本当にありがとうございました。ご料金は無料とのことですが、そちらへご郵送させていただければと思います。わずかばかりですがお受け取りいただくようお願い致します。」


ノッコは料金は必要ありません、と返事しようとしたがやめた。その代わりいてもたっていられなくなったので徹の実家を訪ねることにした。メールのやり取りのなかで住所は綾子さんから聞いていたので、その住所を手掛かりにLUNA SEAの楽譜を持って徹の実家を訪れた。

徹の実家はノッコの住む町からそれほど遠くなく、3駅ほど隣で駅から歩いて15分くらいのこじんまりとした住宅街にあった。

「ピンポーン」とノッコはインターフォンを鳴らした。

「はい」と言って綾子さんはドアを開けた。ノッコがドアの前にいたのに驚いた様子だった。

「あら、わざわざお見えになってどうなさったんですか?」

「いえ・・・ちょっと徹君に会えないかと思いまして・・・」

「・・・そうですか・・・」と不信そうにノッコを見た。

「あの・・・もう一度徹君とお話しさせていただけないでしょうか?」

「あの・・・その・・・お気持ちは嬉しいのですが・・・徹はもう誰とも会いたくないと言い出しまして。学校の友達が何人か見えたのに一向に会おうとしないんです」

徹君のひきこもりは深刻なままだったようだ。

「あの・・・少しだけでもいいから会わせてもらえないでしょうか?」

綾子さんは戸惑っているようだったが、

「では・・・徹に聞いてきます、少々お待ちいただけますでしょうか?」

そう言って数分間ノッコはドアの前で待っていた。しばらくすると綾子さんが戻ってきた。

「あの・・・事情を言ったのですが・・・やはり・・・徹は会いたくないと言っております」

ノッコはめげずに

「では私が直接部屋に行って徹君に話かけてもいいですか?」と言ったが、

「いえ、申し訳ございませんが同じだと思います。友達ですら会いたくないと否定するくらいですから・・・」

ノッコはしつこく「お願いします!」と言ったら

「あの・・・どうしてそんなに心配してくださるんですか?メールでもう結構だと申し上げたはずですが・・・。徹はピアノが弾けるので音楽なら何かきっかけになるようだと思ったのですが・・・だめみたいですので・・・ですからこれ以上お伺いしてもあまり意味はない、と判断しましたので。申し訳ございませんが、お引き取りお願いします。」

ノッコは

「そんなことないと思います。もう一度お越しいただければ・・・」と再度お願いしようとした。

綾子さんはしつこいノッコに少し動揺したらしく、

「あの・・・もともとですね・・・事情を以前話させていただきましたように・・・他に手段がないと思って、わらにもすがる思いでそちらに伺ったのです。ですが、当の徹がピアノに興味はない、と言ってるものですから・・・これ以上お世話になるのもどうかと思います。学校側には早期に対応してもらうように要請するつもりですし、今後は精神科にも徹を連れていこうかと思っています。ですので、申し訳ございませんが、お引き取りお願い致します」

何度説明しても無駄のようだった。

「あ、あとそれから・・・」

思い出したように玄関の棚の上に置いてあった封筒を綾子さんは持ってきた。

「これ、少ないですが2回分のご料金です。受け取ってください」

「そんな、いりません」とノッコは言おうとしたが、綾子さんはノッコの手に封筒を無理やり押し込めた。

「では、失礼します。わざわざお越しいただいてありがとうございました」

そう言って綾子さんはドアを閉めようとした。

ノッコは

「あの・・・これ・・・楽譜なんですが・・・徹君にお渡しください」といってノッコは鞄からLUNA SEAのピアノソロの楽譜を取り出して綾子さんに渡そうとした。

最初綾子さんは不信そうだったが、

「分かりました。ありがとうございます。徹に渡しておきます」

楽譜を受け取ると綾子さんは頭を下げながらドアを閉めしまった。

ドアの前で取り残されたノッコは複雑な心境になった。




徹君の一件以来ノッコは何とも言えないような寂しい気持ちになった。徹君には音楽で心を開いてもらうつもりだったのに、心を開いてはもらえなかった。自分が思っているよりも音楽の力は無力なのだろうか、と自信を喪失しそうになった。何か気持ちがむかむかしてきた。誰かに相談したくなったので、ノッコは実家を訪ねることにした。

ノッコの実家はノッコの住む町から40、50分ほどの郊外にあった。お父さんが郊外に喫茶レストラン「プレーユ」という店を経営してた。洒落た喫茶レストランだった。駅から近いというほどではなかったが遠くもなかった。駅前の商店街と住宅街のちょうど中間くらいの位置にあった。

「おお、紀子しぶりじゃないか」

ノッコのお父さんはノッコにそう言った。

「久しぶりお父さん」

そう言ってノッコは店のカウンターに座った。お父さんはカウンターの向こうでカルボナーラを調理していた。ノッコは席に座ってしばらく悩めしそうな顔つきでお父さんが料理を作っている姿を眺めていた。

ノッコのお父さんは山本勝則といい、還暦をとっくに過ぎていた。白髪が多くひげもまた白っぽくはやしていた。背は大きかったが年のせいか最近痩せて縮んで見てた。ノッコは実は本当のお父さんとお母さんがいなかった。ノッコが高校生の時に勝則から聞いた話では、何でもノッコは小さいときに病院の外に捨てられていたそうだった。何で捨てられたのかは分からなかった。それを病院が発見して行政施設にしばらく預けられていたが、そこで養子の募集をかけたら勝則と妻の礼子が養子に是非欲しいということで引き取ることになったそうだ。つまり育ての親だった。勝則と礼子夫妻は子供が事情により死産して二度と子供を授かれなったが、でもどうしても子供が欲しいということで養子をとることにしたそうだ。ノッコの育ての親勝則と礼子は昔からこの喫茶レストランを一緒に経営していたが、礼子はノッコが高校生のときに癌で亡くなってしまった。それから勝則は一人で店を切り盛りして男手ひとつでノッコのことを育ててくれた。

ノッコがぼーっとしていると、

「どうした、なんかさえない顔して」と勝則が言った。

「別にーなんでもない、今日休日だから昼ごはん食べにきただけ。私もパスタ食べたくなった。ペペロンチーノがいいお父さん」

「了解。何でもないってことないだろ。お前滅多に来ないくせにいつも何かあるとここに来るんだから」

図星だったので余計にバツが悪くなった。ノッコはむすっとした顔をした。

「何だ、やっぱり、なんかあったか」

「何でもない」

勝則はやれやれ、という顔つきでカルボナーラを客の方へ持って行った。

「お待たせ致しました。カルボナーラでございます」と言ってお客さんの机に置いた。

カウンター席に戻ってきた勝則は

「リナちゃんから聞いたよ。何か新しいこと始めたんだって?」

「え、リナここ来たの?」

「ああ、ついこの前ね。昼飯食べに来てくれて。それで、紀子のこと全部聞いた」

父はすでに全部知っていた。

勝則はペペロンチーノを作り始めた。

「何か言ってた?リナ」

「何かNPO法人って言うんだって?父さんよく分からないけど、それで音楽関連の仕事を始めたって。詳しくは分からないが。リナちゃん何やら心配してたぞ、大丈夫かなって」

「うん」

ノッコはスマートフォンから自分のNPO法人のホームページを開いて父に見せた。

「これはホームページ。ここにやってることの概要とか書いてある」

ノッコは団体の概要と説明のページを開いていた。勝則はフライパンにマッシュルームとタマネギと唐辛子をオリーブオイルで炒めながらスマートフォンを覗いて読んだ。読み終えると、

「ふーん、なるほどね」

勝則は納得したようだった。

「リナちゃんから大体聞いていたがそういうことか。でもどういう人たちを救いたいんだって?」

「ホームページに書いてあるでしょ。ひきこもりの人たちとか人生に困ってる人たち」

「そうか・・・」勝則はそう言った後しばらく黙ったまま料理を作った。

5分くらいするとペペロンチーノが出来上がったので

「はい、お待たせ」

「ありがとう」と言ってノッコはペペロンチーノを食べ始めた。いつもながらおいしかった。ノッコが小さい頃から同じの昔なじみの味だった。

「どう思う?」とノッコはさりげなく聞いてみた。

「ああ、別にいいんじゃないか?いいことそうだし。ただな・・・」勝則は少しうつむいた。

「ただ・・・?」

「リナちゃんから聞いたが、今音楽業界は大不況で大変だそうじゃないか」

「だから?」ノッコは食べながら聞いた。

「いや、だからそういうようなことしてる時間があるのかって。音楽業に専念した方がいいんじゃないか?」

ノッコはため息をついた。

「リナになんか影響されたんでしょー?何言われたのか知らないけど別にほっといてよ。私は私でやりたいことをやってるだけなんだから」

「そうはいっても、心配なんだよ。いいことするのはいいことだが、自分の生活のことも考えないと。紀子がちゃんと結婚してたら何にも言わないんだが・・・」

ノッコは父の心配にがっかりした。

「あー、お父さんだけは分かってくれると思ったのに、リナと同じこと言うんだね」

「リナちゃんだってお前のことを心配して言ってるんだよ。それにお父さんもういい年だし、そろそろこの店閉じて引退するつもりなんだ。だから老後はもうお前の面倒も見れないし。だからお前には安心して暮らせるようになってほしんだ」

ノッコはパスタのフォークを皿にぶっきらぼうに置いた。

「もういい、帰る!」

「おい、帰るって」

ノッコはカウンターのテーブルに1000円札を置いて、食べかけのパスタを残して店を出てしまった。子供のときと違って社会人になって一人暮らしを始めてからはノッコは店の食事代は払うことにしていた。

「おい、紀子」勝則は心配そうにノッコが店を出ていくのを見た。





 次の週、ノッコはリリースするアルバムの打ち合わせで会社に来ていた。打ち合わせ中少しだけ上の空だった。するとそこに着信メールがあった。リナからだった。

「久しぶり、喧嘩以来だね。さっきノッコが会社にいるの見かけたよ。会社にいるんだったら久しぶりにこの後近くで飲みにいかない?私もちょうど打ち合わせで来てるんだ。六本木のバーステラで6時に待ってます」

ノッコは打ち合わせが4時半に終わったので会社の喫煙所で少しだけ時間をつぶした後にバーステラへ向かった。


「この前は突然帰ってしまってごめん。あれからどう?結局何か始めたの?」

リナはノッコに聞いた。ノッコはいつもながらマティーニを、リナは可愛い色したカシスオレンジを飲んでいた。

「あーあれか・・・ホームページ立ち上げてちょっとだけこういうこと始めてみたんだ」

といってノッコはスマートフォンからホームページを立ち上げてリナに見せた。

「ふーん」

リナは興味深そうにホームページを見ながらそう言った。

「で・・・どうなの進展は?」

ノッコはいじめが原因でひきこもりになった徹の事を話した。ひきこもりになったので徹が心を開かなくなったこと。音楽を通して心を開いてもらおうとしたがうまくいかなかったこと。徹が来なくなった後に自宅を訪問したが、お母さんに徹に会うのを断られもう来なくていいと言われたこと・・・などなど

「やっぱり、難しいのかなーこういうのって。なんか自信なくなってきた」

ノッコはため息をつきながらそう言った。

「やっぱりね、そんなことだろうと思ったよ」

「ひどいなー頑張ってるのに・・・」ノッコはむすっとなってそう言った。

「嘘よ・・・冗談冗談」リナは笑いながら言った。

「私ね、音楽で人は救えると思ってたんだけど、一向に心を開いてくれない。音楽で人を救うのって無理なのかな?」

「うーん・・・よく分からないけど・・・音楽で救われる人もいれば救われない人もいるんじゃない?そんなの人それぞれだよ。ノッコは音楽の力を過信しすぎ。ホームページには音楽の力って書いてあるけどさ。でもそこがノッコらしいけど」リナは冷静に説明するようにノッコに言った。

「やっぱりそうなのかなー。でもホームページを見てから来てくれてるんだから、音楽に多少は興味を持ってくれてるんだろうって私は思ってたんだけど・・・」

「そりゃ最初はそうでしょう。その徹君って子のお母さんもそう思ってノッコのところに連れてきたんでしょ。でも、やってみたらやっぱり合わなかったってこともあるんじゃない?それはそれで仕方がないことでしょう」

「そうか・・・」ノッコは少し落胆した。ノッコがしょげているので

「もう・・・そんなんでこの先大丈夫なの?」

ノッコは「分からないけど頑張る」と疲れたように答えた。

リナは突然鞄から書類を取り出した。

「はい」とノッコに手渡した。よく見ると、NPOについて調べた印刷物だった。NPO法人の設立の仕方、メリットデメリットなどが書いてあった。

「リナ、これ・・・」ノッコは驚きながらリナの方を向いた。

「あなたのことだから何も知らないと思って」

リナはノッコのためにNPOについてネットで色々と調べてくれたようだった。

「それ見れば多少は参考になるでしょ?あとこれも渡しとく」

といってノッコは別の資料をノッコに渡した。

「これは?」とノッコは聞いた。

「何か来週NPO法人の設立セミナーみたいなのがあるみたいだよ。色々なことアドバイスしてもらえるみたい。私難しいことよく分からないけど、何か行政書士みたいな人が代表で設立のアドバイスや手続きの代行をしてくれてるみたいだね。せっかくだから行ってみたら?」

ノッコはリナの親切が嬉しくなった。

「ありがとうリナ。色々と調べてくれたんだね。でもこういうのってやっぱり手続きとかが必要なんだね」

「そうだよ、あなた何にも知らないで始めようとしてたんだね」やれやれ、という顔でリナは言った。

「まあそうかもしれない・・・」と吹き出しそうになりながらノッコは言うと

リナは「もう」、と言いながら笑った。

次の週にノッコはリナに教えてもらったNPO設立セミナーに参加することにした。セミナーは昼ごろから吉祥寺の市民会館を借りて行われるとのことだった。主催者のホームページを見た限りだと、代表の人は学生時代からずっとボランティアをしていて、NPO法人を設立したい人たちを手助けしたい、とのことでこのセミナーをたびたび主催しているようだった。

会場に着くと入口で名札とパンフレットのようなものを手渡され、それから席に方へ案内されたので、ノッコは真ん中あたりの席に座った。参加者は結構たくさんいた。「こんなにNPOに関心のある人がたくさんいるんだ」とノッコは思った。しばらくすると代表の人が現れて挨拶を始めた。「はじめまして、私セントラル行政書士法人代表の越谷と申します。本日はお集まりいただきありがとうごいます」といっておじぎをした。その後越谷は、プロジェクターからスクリーンに映像を映して色々な説明を始めた。行政書士法人の概要、当セミナーの目的、NPO法人について、設立の仕方、設立のメリット、デメリット、NPO法人設立のケーススタディーなど、全部で1時間30分ほどの説明だった。講演は終わった。

「以上で説明を終わらせていただきます。本日はお忙しい中お越しいただいて誠にありがとうございました」といい越谷は頭を下げた。

壁際に立っていた女性がマイクを取って話し始めた。

「皆様、お疲れ様でした。この後質疑応答は個別のブースで行わせていただければと存じます。会場の後ろのブースに各担当者を配備致しますので、何かご質問ご相談等がございましたらご気軽にお申しつけください」

そう女性は述べるとおじぎをした。その後参加者の人たちはぞろぞろとブースの方へ質問相談しに行ったようだった。ノッコは質問なんて考えてこなかったので迷ったが、自分が始めたい仕事の話をしてみようかと思ってブースの方へ行った。しかし、結構並んでいて混雑しているようだった。ノッコは並んで待っていると横から

「山本様ですか?もしよろしければこちらの方で承りますよ」と係りのものに別のブースへ案内された。ノッコが入口で渡されて首からぶらさげていた名札カードを見て山本だと分かったのだ、と思った。

「本日はありがとうございました。私谷口と申します」といってノッコは名刺を渡された。

「あ、どうもありがとうございます」とノッコはお礼をして名刺を受け取った。名刺を見るとセントラル行政法人 谷口と書いてあった。事務所の社員の方なのだろうか、とノッコは思った。

谷口はにこにこ笑いながら「ご用件を承ります。」と言った。ノッコが何を話したらいいのか分からなかったので

「あの、セミナーの説明は大体分かったのですが・・・自分が始めたい仕事をどのように始めたらいいのか分からなくなりまして」

「左様ですか。山本様はどのような団体の設立をご予定でしょうか?趣旨や目的などありましたらお聞かせください」

ノッコは音楽で人を救うNPOと言おうとしたがそんな浮世離れしたことをどうやって説明したらいいのか分からなかったので、またスマートフォンから谷口に自分のホームページを見せた。

谷口は「なるほど」と言いながらホームページを見ていた。見終わると、

「なるほど、分かりました。とてもユニークでいい発想だと思います。似たような団体は聞きますが、このような趣旨と全く同じものは聞いたことありません。素晴らしいと思います」と谷口いった。

ノッコは褒められたようで照れくさくなった。

「このような趣旨の団体を設立するのは問題なく手続きを行えると思いますが、今現在どのような収支で事業を始められるご予定ですか?政府からの補助金や企業からの寄付金などの資金源を集めたり会員を募る方法などたくさんございますが。また、収益事業を行うという方法もなくはありません。その場合は税金はかかりますが、普通の法人よりは減額されます」

ノッコは難しい説明は何となくでしか分からなかったが、

「あの・・・私自宅で困っている人たちと一緒にピアノ弾いたり音楽聴いたり楽しんでするだけで・・・お金は一切かからないと思うので資金源などはあまりいらないのですが・・・」

谷口は

「そうですか・・・ですがNPO法人を存続させるにはやはり収益を得ないといけませんから収益はどうされますでしょうか?」

「私、当面全部料金は無料にしようかと思っています。ですから収益事業というのにもならないと思うんです」

谷口は察したように

「そうですが、山本様は何か主なお仕事をされてるんですね」

「え?」ノッコは驚いた。

「いえ・・・他のお客様にもたくさんいらっしゃいますので。主な仕事をされていて副業でNPO法人を設立される方がおります。そういう場合収益事業を行わなくても存続可能ですから、会社をやりながらNPOの代表を務めてらっしゃる方も大勢いらっしゃいます」

「あ・・・はい・・・一応シンガーソングライターをやっております」

谷口は

「それはすごいですね。なるほど、それで音楽を使用したNPO法人を設立されたいのですね」谷口は趣旨を理解してくれたようだった。

「アーティストの方は色々とクリエイティビティーがございますから、お客様にも大勢いらっしゃいますよ。チャリティーや低金利融資系のNPO法人などを設立されたい方などたくさんご相談承っています」

ノッコは「そうなんですか」と言った。

「ですが・・・費用もかからず収益事業も行わないし寄付金等もご必要でない、ということでしたらわざわざNPO法人にする必要もないかと思われます。NPOを設立するメリットは法人化して信用を得ることです。収益事業を行うのも法人化しないと契約がなかなか法的にできませんし、信用がなければ寄付金、援助金なども得られませんから。そのようなことが全くないのでしたら任意団体のままでわざわざ法人化しなくてもいいかもしれませんね」

「ですが・・・先ほど副業で収益事業をしないNPO法人を設立する方たちがいるって。彼らはなぜNPO法人を設立するのですか?」

「彼らは収益事業は行いませんが、スタッフの人件費や社会貢献事業を行う際に費用がたくさんかかりますので補助金や寄付金を得やすくするためにNPO法人化します。山本様の場合はそのような出費もかからない、とのことですから必要性は低いかと思います。山本様の場合はアイディアや状況が非常に特殊なケースだと思っていただければと思います」

「そうですか・・・」

ノッコは一体何のためにセミナーに来たのかがよく分からなくなった。

「ですが・・・社会的な認知度を高めたいのでしたらお勧めです。NPO法人化すれば行政のホームページに法人名が紹介されますし、信用度が高まりますから事業は行いやすくなるかと思います。また、今は必要なくとも今後事業拡大で何か費用がかかるようになったりする場合もございますし、別の収益事業などのことももし始めたいのでしたら法人化した方がいい場合もあります。ただ、NPO法人化すれば毎年財務や事業報告などを行政に行う必要があります。また役員や社員なども規定人数集める必要があります。そのようなデメリットも考えてもなお法人化したいのでしたら設立には是非ご協力させてください」

ノッコは難しい話をひとつひとつ整理した。細かいことはよく分からなかったが、信用度が高まる、という話に納得した。徹君のお母さんにNPO法人でない、ということで信用してもらえなかったのを思い出した。また、NPO法人として設立すれば認知度が高まってもっと多くの人が来てくれるかもしれない、と思った。ノッコは少し迷ったが、

「あの、お願いします。設立します」と元気よく言った。

谷口は

「ありがとうございます。それでは・・・」

と言って設立手続きのマニュアルを開いて、今後のことについて説明し始めた。手数料を払えば設立登記や定款作成などを代行してやってくれること、行政への情報開示の仕方、役員や社員を集めること、など色々と教えてもらった。全部話を聞き終わると、ノッコは

「ありがとうございました」と言った。

「今後のことは改めて電話かメールにて連絡差し上げます。何か質問等ございましたら山本様も私の名刺の連絡先の方へご連絡ください」と谷口は言った。

ノッコはセミナーの会場を出た。市民会館を出るとふいに住宅街の方へぶらぶらと歩きたくなったので遠回りをして吉祥寺駅に向かうことにした。ノッコは時々住宅街を散歩するのが好きだった。ぶらぶらと住宅街を歩いていると庭のある家が多く柵から花が咲いているのが見えてとてもきれいだった。すると、ある家の窓からわずかながらもクリスタルキングの「大都会」が流れているのが聴こえてきた。よく聴くと英語バージョンだった。誰かがカバーしているのだろうか。ノッコは思わず聞き入ってしまった。目を閉じて聞いていると昔を思い出した。ノッコが小さい頃に父親がドライブ中によくカーステレオからクリスタルキングの大都会をテープで流していたのを思い出した。「懐かしいな」とノッコは思った。英語のカバーは誰が歌っているのか分からなかったが、素晴らしくうまかった。本家とはまた違う味を出していてノッコは感動した。名曲は英語で聴いても素晴らしい、と思った。



 セミナーの日以降ノッコはNPO法人設立の準備を着々と進めた。谷口さんとメールのやり取りを頻繁にして設立を進めて行った。ホームページについても少し工夫した方がいい、とアドバイスをもらった。活動目的をひきこもり、というのだけではなくもっと具体的にした方がいい、と言われたので、ひきこもりを救うというのではなく、精神的に悩む人々や人生に希望を持てない人、やうつ病関連の人など対象者の項目を増やした。また、代表者のプロフィールがないとあやしまれる、とのアドバイスをもらったので記載することにした。「シンガーソングライターをされているのならそれを積極的にアピールするといいかと思います」と言われたためでもあった。設立手続きは全て行政法人の谷口さんにやってもらったが、「NPO法人として設立するならば形だけでも役員や社員を集めてください。実際の従業員でなくても問題ありません。補助金や寄付金を獲得するならば正式に報告通りに従業員が常駐していないと問題が起きますが、山本様の場合はそのようなことはないので人数だけ集めれば大丈夫です」と谷口さんに、言われた。ノッコはレコード会社や業界の人たちのつてを頼ってそのような事情を話して説得して回った。ノッコの後輩のエミとマユからは賛同を得られた。その他にも声をかけ、ある程度人数は集まったが規定人数には足りなかった。その話をリナにしたら、リナが代わりに人数を集めてくれる、と言った。

1か月ほど立つと「人数が集まった」とリナからメールが来たので、リナにお礼をするために二人は喫茶店で会うことにした。


「リナ、わざわざありがとう」

「いえいえ。お役に立てて」

「どういう人が集まってくれたの?」

「うーん、違う会社の作曲家の人。吉沢健二さんって人。前オペラ関係の仕事でご一緒したことがあってその縁で。チャリティー精神があって自分のコンサートとかの収益のいくらかいつも途上国へ寄付してるんだって。その人が他の人にも声かけてくださって」

ノッコはそんな話は初めて聞いたので

「え、嘘?超有名な人じゃない?リナそんなすごい知り合いいたんだ」ノッコもその人のことは知っていた。

「うん、まあね」とリナは言った。

「でもアーティストってやっぱりそういうことやってる人いるんだよねー感心感心」とノッコは本当に感心してそう言った。

「でもそんな人たちは大物のアーティストばっかりだよ。お金も地位もあって余裕があるからチャリティーをするんでしょう。私たちみたいな一流じゃないアーティストはそんなことしている余裕は本当はないはずなんだけどね」

「あのねー何それリナ、皮肉?」とノッコは笑って言った。

「そう、皮肉」とリナも笑って答えた。またリナは、

「でもね、あんたさその人にお礼言いなよ。連絡先教えるから」と言い、

「ふはーい。分かりました」とノッコは返事をした。




 全ての準備が整いノッコはNPO法人を正式に法人登録することにした。ホームページを谷口さんのアドバイスの通り改装した。NPO法人の名前を正式に決めてください、谷口さんに言われたので、ノッコははじめは「NPO法人音楽の力」にしようとした。だが、ノッコはもっとインパクトのある名前にしたかったので「NPO法人ピアノのノッコ」という団体名にした。こんな変てこりんな団体名をつけるのはノッコだけだった。

正式に登録したかいもあったのかしばらくもたたない秋の季節頃に都の職員と呼ばれる人からノッコへ連絡があった。

「はじめまして、突然のお電話失礼いたします。私東京都庁の長谷川と申します。NPO法人ピアノのノッコ様でいらっしゃいますか?」

「はい、そうですが」ノッコは電話を取ってそう返事した。

「都のNPO法人管理情報とそちらのホームページを拝見させていただきまして、是非そちらへお願いしたいことがございまして」

都の職員が一体何の用なんだろう、とノッコは疑問に思ったが、

「はい、どのようなご用件でしょうか?」

「実は、××高校の生徒の岡田勝也君って子がおりましてね。万引きの窃盗罪でたびたび問題を起こしてたので、処罰として都の不良更生所でしばらく預かっていたんですよ。ですが、更生所でも態度の改善が見られなく、職員が注意したのがきっかけで暴行事件などが起きましてね。それで不良更生所も人材不足ですし、問題を起こすものは手に負えないとのことで、追放処分になったんです。行政内では他に受け入れ先がなく、問題児を預かるNPO法人の受け入れ先を求めていたのですがどこも人手不足というか・・・手一杯でして。そんななかでそちらのNPO法人のことを知りまして。もしよろしければ、そちらで是非その少年のお世話をお願いできませんでしょうか?」

ノッコは突然の依頼に戸惑ってしまった。NPO法人を設立した目的は人生で悩む人たちを音楽で救う、というつもりだったので不良を預かるつもりなどノッコはなかった。それに暴行事件など問題を起こす子供を自分が扱いきれるか心配だった。

「あの・・・ホームページご覧になったのならお分かりだと思いますが、うちは不良の面倒をみる場所じゃありません」

都の職員は電話越しに少しため息をついたようだった。

「ええ・・・でも考えてみてください。不良だって何か人生に問題を抱えているんじゃありませんか?そのように定義したらそちらの団体の目的にご一致するかと思いますが」

「そんなこと突然言われましても・・・」

「とにかく・・・どこも人材不足なんですよ。頼める団体様が他に見当たらないのです。是非そちらでお願い致します」と長谷川は言った。そこまで頼まれたらノッコは断りずらくなってしまった。

「その子の面倒を見るっていつまでですか?」ノッコは長谷川に聞いた。

「ええ、そこ子の態度の改善が見られるまでです。毎日そちらへその子を泊めていただいて色々と態度改善などがはかれるようご指導をお願い致します。法的には保護観察処分の状態ですから、勝也君には毎週生活記録をこちらに報告させますからその文章で反省が見られたら、保護観察処分を解こうかと思っております」

「ちょっと待ってください、毎日うちに泊めるんですか?私は不良更生所をやっているつもりはないのですけど・・・」ノッコは困ってそう聞いた。

長谷川はねばり強く交渉してきた。

「そんなことおっしゃらずに。当面彼の面倒を見る際に必要な生活費は都の方からお出し致しますから。ご必要でしたら補助金やお礼金もお出し致します」

そう言われると断りづらくなってしまった。

「とにかく来週勝也君をそちらへお連れ致しますので、どうぞ宜しくお願い致します。ご都合のいい日程を教えていただければと思います」

強引に話を進められてしまったのでノッコは仕方なく

「いつでもいいですが・・・じゃあ火曜日にお願いします。時間はいつでもかまいません」

「ありがとうございます、それでは火曜日の昼過ぎ頃にお伺い致します」

そう言って長谷川は電話を切ってしまった。

ノッコは困ってしまった。



 次の火曜日の昼過ぎ頃に都の職員の長谷川が勝也を連れてきた。ノッコは外で食事をして部屋で少し休憩を取っているところだった。インターフォンが鳴ったのでドアを開けてソファまで案内した。3人ともソファに座った。

長谷川がおもむろに挨拶し出した。

「遅れて申し訳ございません。電話でご紹介させていただきましたとおり、私東京都庁の長谷川と申します。彼が岡田勝也君です。今日はお時間とっていただいてありがとうございます」長谷川は丁重にそういいながらノッコに名刺を渡した。

「はい」ノッコは一言だけそう言った。長谷川が鞄から何か取り出したようだった。

「あの・・・お電話で話させていただきましたように勝也君は諸事情で更生所に以前いましたが、そこでも問題を起こしましたのでこちらへ伺うことになりました。お電話で話し切れなかったものですから勝也君のプロフィールを持ってまいりました。どうぞご覧ください」

と言って長谷川は勝也のプロフィールをノッコに渡した。プロフィール情報には、勝也の氏名、生年月日などあらゆる個人情報と、学校情報、学歴情報、家族情報、趣味・特技、窃盗事件についてなど、その他様々な情報が書かれていた。勝也君はどうやら地元の公立の高校2年生のようだった。

「あと、これもお渡ししておきます」といって長谷川は他にも何か取り出した。

「これは更生所にいたときの生活状況や勝也君の生活日誌をまとめたものです。何かのご参考にお願い致します」

「ありがとうございます」といってノッコは少しだけ目を通した。生活状況の欄は、問題ありのようなことがたくさん書かれていて、勝也の日記もぶっきらぼうな字で更生所での生活についての感想がそっけなく書かれていた。更生所の生活は楽しくもなく、つまらなくもないというような感じの内容だった。ノッコが一通り目を通し終えて資料を閉じると長谷川がみはからったように話し出した。

「何度も申し上げますように、勝也君の態度改善が見られるまでこちらへお預かりお願い致します。勝也君にも言ってありますが、毎週金曜日に一週間分の生活記録を書いてメールで送るようにしてあげてください。彼も知っていますが、送り先はそちらの名刺の私のアドレスの方へお願い致します。ちなみに私に送っていただく前に山本様がそれの内容の確認もお願いしますね。勝也君がちゃんと嘘書いてないかどうかチェックしてください。それと・・・これは当面1か月分の生活費援助金とお礼金です。」といって長谷川はノッコに封筒を渡した。

「勝也君の生活費に見たててください。お泊めいただく際の家賃報酬も含まれています。お聞きする時間がなかったもので、こちらあたりの物件の家賃情報のベースに割り出しまして1か月あたりの賃金を算出致しました。生活費援助金の資料はこちらになりますので問題点がなければ契約のサインをお願い致します。問題があるようでしたら後日改めてお見積りさせていただきます」といって長谷川は資料と契約書をノッコに渡した。

生活費援助金の資料をノッコはさっと見たが、ひとりあたりの1か月の生活費とほぼ同じくらいだと思ったので、特にいいや、と思ってサインをした。

「ありがとうございます。契約書を見ていただけると分かりますが、その金額を毎月封筒にてそちら宅にご郵送させていただければと思います。口座振り込みの方がよろしければこちらの方にもサインをお願い致します」と長谷川は言ったが、ノッコは

「いえ、ご郵送で問題ありません」と答えた。

ノッコは本当はお金をもらうつもりはなかったのだが、生活の面倒を見るとなると多少もらっても罰は当たらないと思いためらいなくサインをした。

「ありがとうございます。その他にももしご必要でしたら補助金やさらに追加のお礼金などをそちらへお支払致しますのでその際はその名刺のメールアドレスもしくは電話にてご連絡ください」

「ありがとうございます」

長谷川は続けて

「更生所では外出は一切禁止でしたので、こちらでも勝也君は原則外出禁止にしてください。反省させるためでもありますので。もしどうしても外出したい、とのことでしたら私に連絡ください」

そう言って説明を全部し終わると

「何か・・・最後にご質問はありますでしょうか?」

ノッコは聞きたいこともたくさんあった。何しろなんでこの勝也君が窃盗をするようになったのかがよく分からなかった。また暴力事件を起こすような危険な子だったのでそのことにも触れたい、と思った。しかし、何となく都の職員がいる前で勝也君のことをストレートに聞くのもためらわれたのでノッコは質問を控えた。

「いえ、特にありません」

「そうですが・・・それでは何かとご迷惑おかけいたしますが、どうぞ宜しくお願い致します」と長谷川は頭を下げた。

「勝也君、早く立ち直ってくださいね。お父様も心配してらっしゃるから」長谷川は勝也にそう言うと立ち上がって「それでは失礼いたしますね」と言った。

ノッコは長谷川を玄関まで送った。

「何かございましたらいつでもご連絡ください」

と言って長谷川は去って行った。

長谷川が去った後ノッコは勝也の方を見た。ふてくされたような照れくさいような複雑な表情をしているようだった。何て話しかければいいのかよく分からなかったが、

「私山本紀子です。ノッコって言います。知ってるか分からないけどシンガーソングライターもやってます。っていっても歌下手だからほとんど歌は歌ってないんだけどね」

ノッコは自分で自分を笑うように照れくさそうに一人で話した。勝也は沈黙したままだった。ノッコは続けて

「あのさ、長谷川さんから事情は聞いているから分かっていると思うけどね、ここは人生で悩んでる人たちや希望を持てない人たちと一緒に音楽をやるところなの。そういう人を私は音楽の力で元気になってもらおうと思って。それで・・・長谷川さんも勝也君のこと心配してここに連れ来たんだと思う」

勝也は全く興味がなさそうだった。

「でもさ、どんな事情があったにしろ窃盗はよくないよ。そのせいで不良更生所の生活は大変だったでしょ?・・・でも不良更生所ってどんなところなんだろうね・・・ねえ向こうの生活とかはどうだったの?」

「別に、楽しくもなんともない。集団寮みたいなところで規則正しく生活しろって毎日うるさく言われてただけ」勝也は不機嫌そうにそう言った。

「そっか・・・でもあなたがよくなるのならいいじゃない」

ノッコはそう言ったが勝也は相変わらず不機嫌そうだった。ノッコはどう対処したらいいのか困ってしまったので

「そうだ、勝也君音楽やらない?一緒にピアノ弾いたり音楽聴こうよ」と言った。

勝也はしばらく黙っていたがやがて

「何のために?」と聞いた。

「元気になるためよ。そのために長谷川さんもあなたをここに連れてきたのよ」

「何をするんだよ」勝也はまた聞いてきた。

「一緒に何か好きな音楽をピアノで弾いたり、好きな音楽を聴いたり、何でもよ。興味があるなら作曲とかも教える。自分で自分の曲作るのって楽しいのよ。自由に自分だけの曲が作れるんだから」

勝也はしばらくノッコのことを見ていたが

「へ!くだらねー」と言った。

その言葉にノッコはショックを受けたので

「くだらないって・・・やってみなければ分からないじゃない」ノッコも勝也の態度に少しムッときたのでそう言い返してしまった。だがノッコは気を取り直して

「勝也君もよかったらやってみない?ピアノあそこにあるからさ」と言ってピアノの方を指差した。

勝也はノッコの言っていることなど聞く耳を持たないようにすっとソファから立ち上がった。

「どこ行くの?」ノッコが聞くと

「別に・・・ここ寝室とかあるんだろ?借りるよ」と言った。

「まだ昼よ?もう寝るの?」

「うるせーな」勝也は寝室を探しているようだった。リビングを出ると玄関があり、玄関を挟んで向こう側に奥に寝室はあったが、そこはノッコの寝室だった。寝室の途中に小さな物置部屋があったが荷物が散乱していてとても寝れるような部屋ではなかった。

その部屋を見ると勝也は「汚ねーなこの部屋」と言った。

汚くて悪かったわね、とノッコは思ったが

「その部屋ね、引っ越して以来荷物ずっと置きっぱなしなの。ごめんね、今片づけるから」とノッコは物置部屋に入ろうとしたが、

「いいよ、段ボール端にやっとけばいいから、汚いのは更生所で慣れてるから」

と勝也は部屋をおおざっぱに片すと床でごろんと寝てしまった。

「寝袋持ってくるね」とノッコは寝室のたんすから寝袋を持ってきて

「これ寝袋、よかったら使って」と言ったが、

勝也は黙ったままだったので、物置部屋の入口付近に寝袋を置いた。

ノッコは、はー、とため息をついたが仕方がないと思ってリビングに戻った。

その後夕方過ぎまでノッコはリビングで仕事をした。近々ラジオ番組にゲストで呼ばれていたのでラジオ局の人とそれについてのメールのやり取りをしたり、番組中に話す内容の原稿作りをした。

夕方過ぎくらいになると勝也は起きてきたようだった。何やら玄関の方で物音がした。

「どこ行くのよ?」

「別に・・・どこだっていいだろ」

「どこでもよくないわよ。私一応あなたの監視頼まれてるんだから。外出するんだったら長谷川さんの許可がいるの」

「お前もそういうやつかよ。うるさいんだよ、ほっとけ」と言ってアパートを出て行ってしまった。

「ちょっと待ってよ」とノッコは言ったがすでに時は遅かった。

ノッコは困ってしまったが、どうしようもなかった。しばらくリビングのソファーで勝也のことを考えていたが、お腹がすいたのでノッコは冷凍のチャーハンと餃子を炒めて一人で食べた。冷蔵庫にあった冷えた缶ビールも2本飲んだ。

ノッコが夕飯を食べ終えてソファで少し休んでいると勝也は帰ってきた。

「どこ行ってたの?」

「夕飯食べてきただけだよ。どこだっていいだろうが」

ノッコのアパートは都心からやや外れた郊外にあったが、駅前の方へ行けばコンビニやファーストフードや自営業の定食屋やその他チェーン系の店は割とたくさんあった。

「お金はあったの?私長谷川さんからあなたの生活費もらってるから渡さないと」

と言ったが

「ガキじゃねーんだから小遣いくらいの金は持ってるよ」と言ってまた物置部屋へ入ってしまった。



「不良少年を預かっている?」リナは驚いてノッコに聞いた。

「そう・・・不良」ノッコはため息をついて答えた。

二人はともに休日だったので都心のイタリアン系のレストランでランチを食べていた。

「はー・・・ひきこもりの次は不良少年か・・・あなたも大変だねー」

「そう大変なのよ。何言っても言うこと聞かないし。本当参っちゃうは」

ノッコはリナに同情してほしくてそう言った。

「でもさー一緒に暮らしてるんでしょ?その勝也君って子と。そんな不良の危険な子と一緒に暮らしててよく平気だよね、ノッコは。すごいよ」リナは感心しているようだった。

「私だってさー最初は嫌だったよ。なんか無理やり頼まれた感じだったから。でも引き受けた以上は何とかしてやろうと思ってたの。でも、何も言うこと聞かないし、もうお手上げ。もうそんな生活がかれこれ一週間だよ。うちは不良更生所じゃないっつーのに。何で私のところに依頼するのかな」

ノッコは不満を吐き出してそう言った。

「それってさー都の方じゃもう手に負えないからってたらいまわしにされて、責任押し付けられてるだけじゃない?」

「え、そうなのリナ?」ノッコは驚いてそう聞いた。

「分からないよーそんなこと。私たち一アーティストにしか過ぎないんだから。行政やら学校やらのやり取りなんて知りようがないじゃない」

「そうだよね・・・でもさ都庁の人も頑張っていろいろ受け入れ先の機関を探したみたいだよ。でもどこも人手不足だから受け入れ先がないんだってさ」

リナはため息をついた

「あんたさ、そんなの更生所でも問題起こすような不良少年預かるのなんて大変だから躊躇したに決まってるじゃん。ある程度の不良なら預かるんだろうけど・・・でもそれも限度ってもんがあるでしょ」

リナはいつものように冷静な批判家のような口調でそう言った。

「えーそうなの?そりゃ弱ったな」

「そうだと思うよ。でも、あなたがその子の面倒本当に見たいならやるしかないんじゃない?あなた次第だよ。でも、都だってあなたに押し付けてるんだから嫌だって言えば解放してもらえるんじゃない?」

「それがね、もうサインしちゃったから・・・生活援助金っていうのだけでなくお礼金までもらっちゃったから。後でよく読んだら、「生活態度の改善が見られるまで責任を負います」、みたいな事項が書いてあった」

「えーそれはもうだめだよ。何でよく契約書読まないでサインしちゃったのよ」

「だってーどうしてもって言うから」

「もう、あなたちょっと常識がなさすぎ」リナは少し呆れながらもノッコを心配そうに見た。


ここ1週間の彼の一日中の行動を見る限りだと、ほとんど物置部屋にいて昼飯や夕飯を食べる時に時々ぶらりと外出をしているようだった。ノッコは仕事で時々外出することもあったが、帰っても彼は部屋にいるようだった。ある日物置部屋を少しだけ覗いてみたが、勝也君はスマートフォンで何やらメールをしたりゲームをしたりしているようだった。床を見ると、コンビニで買った雑誌やら漫画やらが散乱していた。中にはパチンコの情報誌みたいなのがあるようだった。まだ18歳未満なのにパチンコをやるのはよくなかったが、注意してもまた反発するだけだと思ったのでノッコは何も言わないことにした。

リナには心配されたが、ノッコはもうやるしかないと腹をくくったので物置部屋に行ってもう一度勝也君に話しかけることにした。

「ねえ最近何してるの?」

勝也は黙ったままだった。

「一日中部屋にいたら辛気臭くなっちゃうでしょ?そこ窓もないし」

「別に・・・更生所も似たようなもんだったから」

「そんなこと言わずにさ・・・こっちのリビング来なよ・・・広いし明るいし」

「いいよ・・・別に」

「そんなこと言わずに・・・私あなたを預かっている以上色々とやらなきゃいけないこととかあるし。そこにいたんじゃ何もできないでしょ?」

「説教することか?」と勝也はかみつくように言ってきた。

「そうじゃないってば・・・楽しくもう一度音楽やってみようよ」

勝也は機嫌が悪くなり、

「悪いけど興味ない。ほっとけ」

「そんなこと言わないでよ。ほら行こうよ」

「ほとけっつーのが分からないのか」

と言ってノッコを追い出してドアをバタンと閉めてしまった。


 さらに1週間くらい過ぎたが勝也は相変わらず同じような生活をしていたので、ノッコはまた思い切って話しかけた。勝也君がちゃんと生活記録を長谷川さんに書いているのか心配になった。長谷川さんが何も言ってこないということはちゃんと送っているのだろうとは思ったが。物置部屋のドアをノックして聞いてみた。

「あのさーちゃんと長谷川さんに生活記録送ってる?」

勝也はしばらく黙ってたが

「うるせーなちゃんと送ってるよ」

「そう、それならいいんだけど・・・」

とノッコがリビングに戻ろうとすると

「ちゃんといいこと書いてあるから気にするな」意外なことを言った。

「何それどういう意味?」

勝也は笑ったように

「ちゃんと反省しているようなこと書いてあるから。そういうこと書かなきゃあんたも困るんだろ?早く俺に出てってほしいから」

ノッコはそんなこと言われるとは思っていなかったので

「そんなことないよ・・・別に。ただ気になったから聞いただけ」と言った。

「いや・・・いいなここは。更生所と違って嘘書けるから。外出してても何も言われないし、反省してますって書きまくれば長谷川もそのうち俺を解放するだろうから。そうすればあんたも助かるだろ」

ノッコは

「別にー出てってほしいなんて思ってないね。ただ嘘書くのはよくないねー」

勝也はノッコの発言に驚いたようだった。

「出てってほしいと思ってない?」

そう言った後勝也はまた黙り込んでしまったので、ノッコはリビングに戻った。


 また何日か過ぎた昼過ぎの頃だった。勝也は何をしているのか知らなかったがノッコは外食して帰って来てリビングにいた。今日は今度ライブでやる曲を練習しようと思ってピアノを弾くことにした。自分のポップスの曲を弾き語りで弾いてみた。

「Ding Dong」という曲だった。

「Ding dong 特別じゃなく Ding Dong あなたは誰だっていいDing Dongまだ見ぬ明日へ自分を信じて」

そんな感じの歌詞のややアップテンポの明るい歌を歌った。何度かその曲を弾いていると、

リビングに入る入口のところになんと勝也が立っていた。

ノッコは驚いて

「どうしたの勝也君」

勝也は黙ったまま突っ立っていた。

ノッコは驚いたが部屋から出てきてくれたことがやや嬉しかったので

「もしかして、私の歌・・・聴きに来た?」と明るく聞いてみた。

勝也は

「別に・・・うるさいから気になってきただけだ」とふてくされるように言った。

「あー別に何でもいいよ。とにかく聴きにきてくれたのね」

「ちっ」と舌打ちをするように勝也はソファに座った。

「ねえ、こっちきてピアノ弾いてみない?」

「何度も言わせるなよ。やらねーよ」

ノッコはしょうがないなーという感じでため息をついたが

「じゃあさ、何か好きな曲ある?弾いてあげるから」

勝也は

「そんなもんねーよ」と言ったが

「そんなことないでしょ。全く音楽聴かないなんて人滅多にいないし。何でもいいから一番好きな曲いってみなよ、ほら早く」

勝也はいやいやそうにため息をついて

「・・・尾崎豊・・・」とぼそっと言った。

「ずいぶん渋いの好きなんだね。尾崎豊ね・・・OK・・・じゃあ弾くね」

そういってノッコは「Oh my little girl」を弾いた。昔学生の頃よく聴いてたのですらすらと弾けた。

5分くらいで弾き終わると

「どう・・・だった?」とノッコはさりげなく聞いてみた。

勝也は無表情のままだったが

「いいんじゃないの・・・」と言った。

初めて何か感情らしきものを勝也が発言したのでノッコは嬉しくなった。

「あのね・・・もっと感動的なコメント言えないかな、一応プロが弾いてるんだから」

勝也は黙ったままだった。

「冗談よ」とノッコは言った。

しばらく二人は沈黙していたが、ノッコは

「何か音楽かけようか?好きな曲ある?尾崎豊はないけどなーさすがに」

「別になんでもいいよ。あんたが好きなのかければいいだろ」

「何でもって・・・じゃあ・・・お言葉に甘えて好きなのかけるね」

そう言ってノッコはCDケースからあるCDを取り出した。

ガーシュウィンの「ラプソディーインブルー」だった。

コンポからラプソディーインブルーを流した。

ゆるやかなテンポの有名なフレーズのイントロが始まった。しばらく音楽を聴いていた。

勝也も何も言わずにただ聴いていた。特に興味ないという態度で。

「いいでしょ?私ね、クラシックはそこまで聴かないんだけど、このジャズっぽいリズムカルな曲調が好きなの。ジャズとクラシックを組み合わせてしまったガーシュウィンは本当にすごいと思う」

勝也は相変わらず何もコメントを言おうとはしなかったのでノッコは続けて一人で話した。

「私がなぜこの曲が好きかっていうとね。ジャズが好きっていうのもあるんだけど、特に思い出があるんだ。私ね、小さいころから音楽が好きで、父親がドライブしているときにカーステレオとかラジオから流れてくる曲を絶えずお父さんに「この曲何?」って聞いてた。そしたらお父さんも「ノッコは本当に音楽が好きだね」だなんて言って」

ノッコは照れ笑いするように思い出を語りだした。

「そしたら、ある日ね、ラジオからこの曲が流れてて・・・私はよく覚えてないんだけどその時何度もこの曲もう一度聞きたいってだだこねたらしいの。小学生ながらにもこの曲に何かを感じたんだと思う。そしたらね・・その年の誕生日プレゼントにお父さんがこのCD買ってくれた。ガーシュウィンのラプソディーインブルーを。それからね、-店でよくこの曲流してくれた。あ・・・店って言うのは私の実家の喫茶レストランね。父さん冗談交じりによく言ってた。「紀子のせいでガーシュウィン好きのお客さんばかりになっちゃうな」って。笑いながら」

ノッコは楽しそうに思い出を語っていると、勝也はいきなりソファから立ち上がってコンポの方へ向かっていった。

「ちょっとどうしたの勝也君・・・」

コンポの前に立つと

「くだらねー話してんじゃねーよ」と突然怒り出したようにコンポからCDを無理やり取り出した。

「ちょっと何?」ノッコは勝也の行動の意味が分からなかった。

するとガーシュウィンのCDを両手で力を入れて思いきり真っ二つに割ってしまった。

「バチッ」と音がした。少しだけCDの破片が床に飛び散った。

「楽しそうに思い出語ってるんじゃねーよ」と勝也は怒鳴って真っ二つに割れたCDを床にたたきつけた。CDはころころと床を転がってやがて寂しそうにコトンと倒れた。

「ちょっと、何すんのよ?」

ノッコは何が起きたのか意味が分からなかった。自分が何か変なことを言ったのだろうか?しかし、それと同時に同じくらい強い怒りが込み上げてきた。気が付いた時には勝也をおもいきり平手打ちをしていた。

「パシン」と強烈な音がした。

ノッコは一瞬自分が取った行動が衝動的なことだと知ってふと我に返った。

「ご、ごめん」

ノッコはもう一度謝ろうとしたが勝也は

「だから・・・だから、どいつもこいつも信用できねーんだよ」

と言ってアパートを出て行ってしまった。ドアがバッタンとゆっくり閉じる音がした。

ノッコはしばらく呆然とリビングに立ち尽くしていた。しかし、しばらくすると割れた破片のCDを集めた。何やら悲しくなってきたので涙が少しだけこぼれてしまった。ノッコは普段はほとんど泣かないのに、なぜか急激に悲しみに襲われた。ノッコはCDを割られたことがショックだったが、玄関口の方を見て勝也のことも心配になった。しばらくすると、ノッコはキッチンの換気扇を回してタバコを一服した。吹かしたタバコの煙はしばらくたつと悲しそうに換気扇に吸い込まれて消えて行った。


 

3日たっても勝也は戻ってこなかった。ノッコは平手打ちをしたことを後悔した。しかし、自分の思い出を壊されたので怒りが抑えきれなかったのも事実だった。しかし、3日も戻ってこないとなるとさすがに心配になってきたので思い切って長谷川に電話をすることにした。

「あの・・・山本ですが・・・実は・・・勝也君が家を出てしまって帰ってこないんです」

と率直に話を切り出した。

長谷川は「はー」と電話越しに軽くため息をついたようだった。

「そうですか・・・ご連絡ありがとうございます。どこに向かったかはご存じではありませんよね?」

「はい、突然だったものですから・・・」

「困りましたね・・・どこか当てがあれば探せるのですが・・・」

長谷川はしばらく電話越しに考え事をしているようだった。

「あの・・・ご実家に帰られてるなんてことはないでしょうか?」とノッコは聞いてみた。

「いえ・・・それはないと思います。一応勝也君は法的には保護観察処分の状態ですから実家には帰れなくなってるんです。帰れば違法ですから」

「そうですか・・・」とノッコは残念そうに言った。

「あの・・・ですがね・・・万が一ってこともありますから一応調べます」

「私も電話した方がいいでしょうか?」とノッコは聞いてみた。

「いえ・・・結構です。こちらからご実家へは確認の電話をしてみます。山本様は他に心あたりありましたらあたってみてください」

「そうですか・・・学校へは顔を出しているってことはないでしょうか?」

「それも・・・ないとは思いますが・・・学校にも私が電話してみます」と長谷川は言った。

「ご迷惑おかけしますね。こちらもね・・・あの子には本当に手を焼いてるんですよ。一向に言うことを聞かないから。手を煩わせてしまってすみませんね」長谷川は謝ってきた。

「いえ、そんなことありません」

「それでは、宜しくお願い致します」といって長谷川は電話を切った。


 3日後に長谷川から連絡があったが、実家にも学校にも勝也君は顔を出していない、とのことだった。念のために更生所へも連絡したが戻ってはいなかった、とのことだった。長谷川は彼の学校関係の友人宅などを手掛かりに引き続き彼の行方を調べます、とのことだった。


 次の日ノッコはラジオ番組に出演した。JazzWaveというジャズ専門のラジオ番組だった。

ジャズの音楽が流れると同時にDJの人が話し出した。

「ようこそFMJazzWaveです。いつもありがとうございます。私当番組DJのDJ三上です。今週のゲストはジャズシンガーソングライターのNokkoさんでーす。どうぞ最後までおつきあいのほどお願いします。」

ラジオのDJというとついハイテンションな人を連想するが、ジャズ専門の静かな番組なのでDJの人は普通のテンションだった。

「宜しくお願いします」とノッコは言った。

JazzWaveはノッコが正式にデビューしてからCDのリリースなどをするたびに出演させてもらっていてお世話になっていた。毎回ジャズ関連のアーティストや作曲家や評論家やプロディーサーなどをゲストに迎えてトークをしている番組だった。今度ノッコはCDをリリースするのでその宣伝に来ていた。

「いつもながらご活躍応援させていただいております」

「ありがとうございます」

「私デビュー以来ずっとNokkoさんの曲全部買っているんですよ。ジャズ好きにはたまらない、というかCDの発売日いつも楽しみにしてます」

「そうですか・・・ありがとうございます。でも最近地味な曲が多くないですかね・・・」

「そんなことありません。あ・・・でもそうかデビュー時に比べたらそうかもしれませんね。何かそういったご心境に変化とかあるんですか?地味な曲が作りたいとか。アーティストの方ってフィーリングで曲を作られるっていうじゃありませんか」

「いえー別にそんな。ただ会社の方針でそういう曲調が多くなってるだけですよ」

「そうなんですか、結構そういうのってあるんですねー・・・へー・・・」

DJ三上はあいずちを打ちながらそう言った。

「あ・・・この番組をお聞きくださってる方はNokkoさんをもちろんご存じだと思いますが念の為プロフィールをご紹介させてくださいませ」そういってDJ三上はノッコのプロフールを読み上げた。ノッコが事前に用意した資料の一つである。

「えーNokkoさんは××音大ご出身でそこでピアノ科を卒業されてますが、ご自身でジャズ、ポップス、映像音楽などの作曲理論のご勉強されて、卒業後は東京を中心にジャンルを問わず色々な曲で地道なライブ活動をされておりました。そこで200×年にORBIC RECORD社の現社長の白川氏に声をかけられメジャーデビューを果たされました。その後はジャズを主にご自身で作曲されたものを毎年リリースされており、200×年には何と一度東京ジャズフェスティバルにもご参加されております。また、日本だけでなくニューヨークでもライブ活動をしていて大変注目されております。繊細かつキャッチーなメロディーと爽快なテンポでジャズファンの方を魅了しております。」

DJ三上はノッコのプロフィールを読み上げた。自分が用意したプロフィールの資料に繊細かつキャッチーなメロディーなんて書かれていなかったが、DJ三上が付け足したようだった。

「ありがとうございます」とノッコは言った。

「えーNokkoさん。最近はどうですか、ライブとかの状況は。実に気になるところなのですが」

「ライブはまだ告知されてないのですが近々ホールでやろうかと思ってます。まだ公表できませんが」

「そうですか、楽しみにしております。CDも来週発売なんですよね?」

「はい、おかげさまで「it’s me」というアルバムの発売が決まりました」

「おめでとうございます。私も絶対買いますね。で・・・今回のアルバムのコンセプトのようなものは何ですか?」

「そうですねー・・・「it’s me」というのはこれは自分っていう世界観をテーマにしてますね。人って自分をなかなかさらけ出せないでつい殻にこもってしまうことってあるとおもうんです。だからそんな中で「これは私よ」みたいに自己主張させてよっていう感じの曲をたくさん作りました。そういったわけで今回のアルバムは詞の世界を大切にしているので歌が入っている曲がメインです」

「そうですか。相変わらず深いですねー。「it’s me」というのはアルバムのタイトルですが、この中にも「it`s me」って曲があるのですよね?」

「そうです。でも他の曲もテーマは似てるんです。今回のアルバムはそういうテーマで行こうということになりましたので」

「そうですか・・・他の曲のタイトルは全部ここではさすがに全部聞けないですよね?」

「そうですねー10曲もありますから」ノッコは少し笑い気味にそう言った。

「そうですよねー、すみませんね。無理いっちゃって。このアルバムのリリース情報は番組の最後にお知らせ致します!」とDJ三上は元気よく言った。

「ところで、Nokkoさん。この番組私担当させていただいてしみじみ思うんですが、ジャズファンが昔より少なくて寂しんですが・・・どう思われますか?」

「そうですね・・・私ニューヨークでもたまーにライブやらせていただいてるんですが、向こうはファンの活気が違いますね。日本はジャズ愛好家が少なくなってきてて少し寂しいようにも思えます」

「そうですよねー私もそう思います。何でですかね?私はジャズ大好きなんですが」

「そうですね・・・やっぱり時代の流れもあると思います。でも現代でもジャズが好きな方は大好きですしジャズが今後廃れてくってことはないと思いますね。私はいつもジャズのスウィング感から元気をもらってますから、少しでも多くの人が元気をもらってくれると嬉しいですね」

「そうですかー・・・私も元気もらってますよ」とDJ三上は明るく言った。

「Nokkoさんのアルバムの中から発売前に特別許可をもらいまして「it’s me」だけ当番組で流したいと思います。それでは「it’s me」お聴きください!」

といってDJ三上は曲を流した。

曲が流れ終わると

「素晴らしい曲ですねー。私も今初めて聞きましたが胸にぐっとくるというか思わず感動しました」

DJ三上は相変わらず褒め上手で大げさだった。

「ありがとうございます」ノッコは大げさにほめられて少し照れくさくなってしまった。

その後質問コーナーがあり、CDのリリース情報が流れ番組が終了することになった。

「えー私もCDの発売楽しみにしております。皆さんも是非買ってくださいね。それではNokkoさん今日はありがとうございました。またいつでもお越しくださいね」

「はい、こちらこそありがとうございます」

「えーそれではみなさんごきげんよう。来週のゲストはジャズ評論家の森本俊之さんです。

来週もこうご期待!それではまた来週!」

DJ三上が話終わるとジャズの音楽が流れ番組は終了した。

ノッコはスタジオの関係者の方たちにお礼とあいさつをして、スタジオを出た。



 仕事を終えて駅前で軽くラーメンを食べてから自分のアパートに向かうとすでに夜遅くなっていた。空には半月が明るく不気味に浮かんでいた。駅からアパートまでの途中でコンビニに寄って缶ビール1ケース買って帰った。アパートまで帰り着くと入口に誰か立ってるようだった。最初暗くて見えづらかったが、よく見るとそれは勝也だった。

「勝也君、どうしたの?」

勝也は罰が悪そうに突っ立っていた。

「別に・・・しょうがないから帰ってきてやっただけだ」

「どこ行ってたの、長谷川さんに言っていろいろあなたのこと探してもらってたんだよ。学校にも実家にも帰ってないって」

「そんなとこ帰れるわけないだろ」

「じゃあ学校の友達の家とか?」

「俺を更生所に入れた学校の仲間連中なんかと会えるかよ。学校以外の仲間の家に居ただけ」

「もしかして、不良仲間とか・・・?」ノッコがそう聞くと

「不良だったらいけないのかよ?」勝也はそう言ってタバコに火をつけて吹かし始めた。

「未成年なのに・・・タバコ吸うんだ」

「悪いのか?お前も注意すんのかよ?」勝也は少し切れ気味にそう言った。

「別に・・・吸いたきゃ吸えば?」

ノッコの意外な発言に勝也は目を丸くした。

「え・・・?」

「よっこらしょっと」そう言ってアパートの入口のコンクリートの段差にノッコは腰かけた。そして同じようにタバコを取り出して吹かし始めた。何回か吹かすと

「私もね・・・少しだけ不良だったしね。高校のとき隠れてタバコ吸ってたから」

ノッコの意外な過去を驚きながら勝也はただ茫然と聞いていた。

「私さ、不良の受け入れなんか最初やるつもりなかったんだけど・・・でも不良の気持ちはわからないでもないよ。まあさすがに窃盗だとか暴行事件とかはやらなかったけど」

ノッコは笑いながらそう言った。

「私ね・・・両親・・・本当の親じゃないんだ。育ての親で血が繋がってないの。小さいときはそんなこと何も知らないまま育った。それをね・・・ある日高校生の時に知ってしまってショックを受けた。本当にショックだった。それ以来・・・人生が真っ青になって・・・学校も一時さぼり気味になったし・・・学校や親には内緒で隠れてタバコとか吸うようになった」

ノッコが自分の過去を話しているのを勝也はただだんまりと聞いていた。

「何があったのか知らなけどさ・・・思春期のときって一番大変だからね。そういうときってあれやっちゃダメこれやっちゃダメって言っても子供は言うこと聞かないもんなんだし。私もそうだったし。あなたそういうとこ私に少し似てるから分かる」

勝也はしばらく黙って聞いていたが、やがて

「あんた変わってるな。更生所のやつらは俺がタバコすったり勝手に外出するとどなる一方で。何度注意しても俺が止めなかったもんだから部屋に呼び出されて説教された。それでむかついたから思いきりぶんなぐったら追い出された。あんたも更生所と同じような連中かと思った」

「よく分からないね。そうやって更生させることも必要かもしれないけど、私はタバコ吸いたきゃ吸えばいいって思う。酒も好きなときに好きなだけ飲むし。私は不良を更生させるとかどうでもいい。ただ困ってる人を音楽で救いたいからこの仕事始めただけだし」

そう言ってノッコはタバコの火を消してまた「よっこいしょ」と立ち上がって階段を上って2階の自分の部屋まで行こうとした。階段から「何してんの、そんなとこ突っ立ってないで入れば」と言った。

「ビールもたくさん買ってきたから部屋で飲もうか」と言って缶ビールの入ったコンビニのビニール袋を勝也に見せた。

「ビール飲ませるのかよ?」と勝也は驚いて言った。

ノッコは笑いながら部屋に入って行った。

勝也はしばらく30分くらい考え事をしていたがやがてアパートに入って行った。

ノッコはシャワーを浴び終わってから寝室で着替えをしているようだった。

勝也はソファで一人黙ったまま座っていた。

ノッコが着替え終わってリビングに入ってくると

「あー何してるの?シャワー浴びてくれば?なんか髪の毛不潔だよ?友達の家であまり入ってなかったんでしょ?」

勝也は何も言わなかったのでノッコはグラスに氷を入れて勝也にビールを出した。

ソファに座るとノッコはグラス一杯のビールを一気に飲み干した。

「うまーい、何か生きてるって感じ」

勝也はビールを飲もうとしなかったので

「さすがにビールは飲んだことないか・・・」

「別に・・・何度か飲んだことあるよ」

「じゃあ気にせず飲めば。飲みたいときは飲めばスカッとするよ」

「あんた・・・本当に変わってるな」と言ってノッコと同じように一気にグラス一杯分を飲みほした。

「おお、いくねー」とノッコは親父くさいセリフを言った。

ノッコはしばらく黙ってたが、勝也の本心が知りたくなったので聞いてみることにした。

「勝也君さ・・・あなた前に言ったよね。誰も信用できない、って。なんでそうなっちゃったの?」

思い切って聞いてみたが勝也は黙ったままだった。

「言いたくないならいいけど・・・」

勝也は残りのビールをグラスについで一気に飲み干してから

「ごめん」と言って物置部屋へ入って行ってしまった。

ノッコは軽くため息をついた。


 次の日ノッコはリビングのノートPCを開いて会社とCDリリースの最終確認のメールのやり取りをしていた。すると勝也がリビングに入ってきた。

「どうしたの、勝也君?」

勝也はまた物置部屋に引き返そうとしてしまったので、

「ちょっと待ってよ。何か話があるんじゃないの?」

ノッコが呼び止めようとすると勝也はまたノッコの方を向いて

「あの・・・・実はさ・・・」と話し始めた。




 1週間後くらいにノッコのアパートに勝也のお父さんの岡田哲也と弁護士と名乗る人がノッコのアパートを訪れてきた。勝也も同席して欲しいとのことだったので4人でソファに座った。

「あの申し遅れまして、私上村弁護士事務所の上村と申します」と言ってノッコに名刺を差し出した。

「あの、どういったご用件でしょうか?」ノッコは聞いてみた。

弁護士の上村は単刀直入に話してきた。

「あの・・・遠まわしに言っても分かりづらいかと思いますので・・・単刀直入にお話しさせていただければと思います。勝也君のお父様は勝也君をご自宅にお引き取りになりたいとおっしゃられています。どうか勝也君の受け渡しお願いできませんでしょうか?」

「それは、どういうことですか?私は東京都の依頼でこの件を引き受けているのですが・・・

契約書にだってサインしてますし」

弁護士の上村は事情を話し始めた。

「分かりました、事情をお話し致します。勝也君は窃盗罪を同じ店で繰り返してて常習犯だったので店側は学校側に早急な処分を求めておりました。学校側は退学処分にしようとしたのですが、お父様が反対されましたところ、店側はそれでは納得しないようだったので、学校側は不良更生所に勝也君を入所させる処分を決定致しました。勝也君を一端入所させたものの、態度の改善が見られなく問題も起こしたとのことで彼は追放処分にされたのですが、店側はそれでは納得がいかない、とのことなので色々と受け入れ先を探したのです。ですが、なかなか受け入れ先が見つからなかったのでやむ負えなくあなたのNPO法人で受け入れてもらうことになったのです。ですが、お父様はご子息をあまりに長い間拘束するのは人権侵害だとおっしゃられていますので、東京都を訴えさせていただいております。すでに東京都は裁判沙汰を避けたいとのことで息子さんの免責処分については了承を得ています。店側からも同じく裁判沙汰は避けたいとのことで引き渡しの了承を得ています。後は、あなたが了承するかどうか、だけです。東京都から依頼を受けていらっしゃるとのことで、そちらは権利を移転されたと考えるのが妥当かもしれませんが、東京都はすでに勝也君の拘束の権利放棄していらしゃいますので契約書の権利移転の効力もほとんどないかと思われます」

ノッコは事情の大体は理解した。するとお父さんの哲也が話し出した。

「大体大げさなんですよ。何度も窃盗したって言ったって未成年がたかだか少額の商品を盗んだだけですよ。それも全部弁償しましたし、罰金・慰謝料なども全て払いました。それなのに退学処分だのありえません。不良更生所もすぐに戻れると話しを聞いていたのに、勝也の態度の改善が見られないからってだけで、1か月以上も未成年を拘束するなんて考えられません」哲也さんは怒ってそう言った。

ノッコは二人の話を聞いた後にやがて話し出した。

「事情はよく分かりました。ですが・・・勝也君は引き渡すわけにはいけません」

勝也君の父親と弁護士の上村はしばらく顔を見合わせ、上村が話し出した。

「何かご事情があるのですか?都はもう権利放棄してますから、あなたには彼を拘束する義務もありません。」弁護士の上村は少し強い口調で言った。

「そうですね、でもお渡しできません」

「都からはもう了承を得ていますし、あなたが断っても裁判ではほとんど勝ち目はないですよ?何をそんなにこだわられるのですか?」

「事情は全て勝也君から聞きました。お父さん、あなた勝也君がなぜ非行に走ったかご存じじゃないんですか?」ノッコは父親の哲也に向かってそう言った。

哲也は

「一体何のことでしょうか?」と言った。

ノッコは思い切って言った。

「しらばくれないでくれますか?あなたが・・・あなたが、勝也君を虐待してたんでしょうが」

一瞬弁護士の上村は何のことだか分かららない、といった感じで

「え・・・どういう・・・こと・・・でしょうか?」

ノッコは続けて話し始めた。

「勝也君はずっとお父さんに虐待されていたんです。お父さんは仕事をリストラされて、奥様は家を出ていってしまいました。その憂さ晴らしで勝也君をずっと虐待していました。殴ったり蹴るだけでなく、お酒やたばこや夕飯の弁当を全部買いに行かせたり。それだけじゃありません。勝也君がアルバイトで稼いだ金をパチンコや競馬のお金に時々使ってましたよね?早く引き戻したいのは勝也君のためじゃなくて、家で勝也君をこき使いたいからですよね?」

弁護士の上村は

「え・・・・そう・・・なんですか?本当ですか岡田さん?」

と言ってお父さんの方を向いた。

「全部でっちあげだ。嘘に決まっている」とお父さんは怒り気味に言った。

「嘘ついても無駄ですよ。先日長谷川さんに連絡してすでに全部事情を話しましたから。今後は行政の方が改めて虐待の実態について調査してくださるそうです」

哲也は黙り込んでしまった。

「そうなんですか?岡田さん?」と上村は哲也に聞いた。

「帰る、気分が悪い」と言ってアパートを出ようとした。

「ちょっと待ってくださいよ。岡田さん。本当にそうなんですか?事情を話してください」

と上村は言いながら哲也を追いかけた。

二人はアパートを出て行ってしまった。

ソファにはノッコと勝也が取り残された。

勝也はうつむいたまま一言もしゃべらないままだった。

「出てっちゃったね」

「ああ」と一言だけ勝也は言った。

その後

「ありがと・・・」とつぶやくように言った。


その後ノッコに長谷川さんから連絡があり、改めて専門の行政機関が勝也の家庭を立ち入り調査することが決定した。そして、しばらくすると虐待の実態が改めて明らかになったそうだった。調査結果が分かるまではノッコが勝也を預かっていたが、虐待の事実が判明すると、勝也はしばらく都の虐待防止対策センターに預かられそこから学校に通うことになった。実家を出ていた勝也のお母さんもその事実を知ると正式に離婚届を出して勝也の親権を取る裁判を開始した。虐待の事実は明らかなので、ほぼ確実に母親が親権を取ることになっていた。

勝也はノッコのアパートを出る時に

「ありがとうございました」とお辞儀をして出て行った。

「元気でね」とノッコは言いながらアパートの外まで見送ったが、勝也は振り返らずにそのまま駅の方へ向かって行った。道は枯葉が舞っていた。

季節は秋が過ぎようとしていて冬に突入しようとしていた。



 勝也の1件以来、ノッコの虐待の実態暴露の功績については都からも表彰され、NPO法人として都のNPO法人紹介サイトにもノッコのことが記事として取り上げられネットに載った。それ以来ノッコのNPO法人はNPO関連の業界の間では有名になって、それらに関心のある人たちの間でもネット上で噂が広まった。それらの噂を聞いて、いじめで悩む人やひきこもりの人たちが何人かノッコを訪れてきて、彼らをいくらか立ち直らせることにも成功した。

リナもそのことを知ってノッコの携帯に電話をかけてきた。

「ネットで記事読んだよ。ノッコすごいじゃない」

「まあねー」とノッコは思わず得意げにそう答えた。

「まあ、何にしろこれでようやく軌道にのるじゃない」

「ありがとうリナ」

「私は応援してるから」

「うん」

「でも、よくあんな不良の子が色々話してくれたよね」

「まあね・・・私も最初は参っちゃって。でもね、私ね自分から色々と思ってることとかぶつけてみたの。そしたらね・・・何か心を開いてくれた。最初徹君の面倒見てたときは何か大人の視点で子供に話しかけようとしちゃってた。それに音楽ってことにこだわりすぎてたんだよね。音楽で絶対救うって。でも、リナに言われてね・・・音楽だけで人は心を開かないこともあるのかなって。私自身が音楽を通してその人に語りかければいいんだってね」

リナはノッコの説明が漠然としていたが何となくで意味は分かった。

「何かいろいろと学べたんだね。すごいじゃない。私にも何となくであなたの言っている意味は分かるよ」リナはそういった。

「でもね・・・社長にはNPOのこと絶対にばれないようにした方がいいよ」

「え、何でよ?別にいいじゃない」

「あのね・・・社長はいまだにあなたのこと売り込もうと必死に動いてんのよ。そんなこと知れたら何言われるか分かんないよ。とにかくばれないようにしな」

「ばれないようにって・・・どうしろって言うのよ」

「とにかく必死に隠し通すのよ。何か言われてもしらばくれるのが一番」

リナの予想は当たって白川からノッコに電話があり、呼び出された。昼過ぎに会社近くの喫茶店「ゼクシオールカフェ」で待ち合わせをすることにした。

「いきなり、呼び出してすまないね、ノッコ君」

「いえ、そんな」

ノッコはアイスティーを白川はカフェラテを頼んでいた。

白川は少しだけカフェラテを飲むと

「ネットで知ったよ。何かNPO・・・みたいなのを始めたんだって?」

白川の情報網の広さにノッコは驚いたが、リナに言われた通りしらばくれようとした。

「知りません。何かの間違いかと思います・・・」と言った。

白川は少しだけ笑いながら

「嘘ついてもダメですよ。ちゃんと調べてあるから。いやね・・・世論調査というと大げさだけど・・・君のネット上での評判をマーケティング目的でリサーチするので、色々と検索してたんだ。そしたらね・・・君のNPO法人がヒットして出てきた。NPO法人ピアノのノッコって・・・君しかいないよね?サイトの代表者のプロフィール見てもどう考えても君だし」

ノッコは嘘がつけなくなったので何も言えなくなってしまった。

「いや、それは色々ありまして・・・」

「都からも表彰されてるんだって?始めたばかりなのにすごいじゃないか。すごいことだが・・・でもね・・・今は大変な時期だから・・・正直そういうのはあまりよくないんじゃないかと思う」

「よくない?いえ・・・でも私よかれと思ってそのNPOを始めたんです。それに・・・仕事には支障がでないようにやっているつもりですし」

ノッコは必死に反論しようとしたが白川はため息をついた。そして鞄から何か資料を取り出してテーブルの上に置いてノッコに見せた。

「これは?」ノッコは聞いた。何やらグラフのデータだった。

「君のここ数年の売り上げ全データをまとめたものだ。見てもらえば分かると思うけど・・・毎年どんどん減っている。アメリカでの売り上げはしばらく安定していたが、それも落ち目になってきている」

ノッコはその資料を見て少しショックを受けた。自分でも知っていたが、改めてグラフで見るとその売り上げ低迷の状況が一目瞭然に分かった。

「この状況が続けばうちとしてもかなり厳しくなる。うちの利益もそうだが、君自身も困るだろ?今はまだ大丈夫だが・・・今後売り上げがさらに急激に落ち込むようなことが仮にもしあったとしたら・・・君の契約更新の話も怪しくなってくる。もちろん今すぐにそんなことは起きないだろうけど・・・。私は君をスカウトしたものとしてそんな状況できるだけ阻止するように動くけどね。でも社長としての権限だって無限ではないからね・・・会社の方針全てを僕が決められないことだって出てくる可能性もある」

ノッコは何も言えなくなってしまった。

「ボランティアをするのも社会にとっては大変いいことだ。私もそれは分かっている。でもね・・・うちとしては音楽の仕事を精一杯やってそれに専念してほしい。ここ最近ライブの数も減ってきているから、今年から来年にかけてめいいっぱいやってほしい」

ノッコは困った顔をして黙ってしまったので、白川は

「ごめん・・・もう仕事だから会社に戻らないと。今日はわざわざこっちに来てもらってすまなかった・・・とにかくよろしく頼みます。では」そう言って喫茶店を出て行った。


白川から色々と言われてノッコは複雑な心境になってどうしたらいいのか分からなくなってしまった。社長命令だから服従するのは当然のことのように思えたが、すでにNPOは軌道に載ってしまった以上やめてしまうのもためらわれた。何よりも始めしまった仕事を放り出すのが嫌だった。社長に言われた通り仕事は今以上に頑張ってやるつもりだった。だが、社長には申し訳ないけどノッコはNPOを続けることにした。




 金沢貴子がノッコのアパートに来たのはそれから何週間か立った後だった。ネットの噂とホームページを見て貴子はノッコにメールをしてきたようだった。「ホームページを見て連絡しました。人生に悩んでいるので今度会いたいです。」と書いてあった。ノッコは「アパートに直接お越しください」と返事をして、地図を添付して住所もメールで伝えた。

 次の週の金曜日の夕方に貴子はノッコのアパートに来た。

「こんにちは、はじめまして」

「こんにちは」と貴子は玄関口でそういった。

「どうぞ・・・入って」

ノッコがそう言うと貴子は遠慮深そうにリビングに入った。

「どうぞー、ソファにかけて。今お茶出すから・・・ちょっと待っててね」

そう言ってノッコはキッチンでお茶を入れていた。

しばらく貴子は黙っていたが

「あの・・・すみません金曜日の夕方なのに」と遠慮がちに言ってきた。

「あーいいのよ・・・金曜日の夕方以降は仕事しないって決めてるし」

ノッコは金曜日は仕事を大体夕方までに終わらせて夜は大体ビールを飲んでいた。

「あの・・・私・・・部活とかがあって・・・金曜日の放課後が一番よかったので」

「そっか、貴子ちゃん・・・あ、ごめん貴子ちゃんでいいよね?貴子ちゃんまだ高校生だもんね」メールの自己紹介を軽く見た限りでは貴子は公立高校に通う高校1年生のようだった。可愛い雰囲気の子だったが、見た目も話し方も至って真面目で大人しい感じの子だった。

ノッコは寝ほりはほり聞くのはどうかと思ったが、さりげなくいろいろと聞くことにした。

「貴子ちゃんは・・・何で私のホームページ見てくれたの?」

貴子はうつむいていたが

「私・・・実はノッコさんのファンなんです」と言った。

ノッコはその発言に少し驚いた。ホームページで多少ノッコの噂は広まりつつあったが、それでもシンガーソングライターとしてのNokkoを知ってアパートを訪れてくれる人は今まであまりいなかった。ノッコは途端に嬉しくなった。

「そうなんだ!・・・でも最近の子でジャズなんか聞くの珍しいよね。あ・・・いや・・・なんか私のこと知ってるなんてちょっと嬉しいな・・・なんて」

貴子は

「はい、私、特にジャズが特別好きってわけじゃないんですけど・・・女性のシンガーソングライターとかにものすごく憧れてて・・・あの・・・私学校では合唱部とブラスバンドやってて音楽が大好きなんです。ノッコさんのCDも買ってます」

貴子は音楽系の部活を掛け持ちするくらいの音楽好きな女の子のようだった。

「そんなだ・・・・へー・・・ブラスバンドと合唱かー。すごいね。貴子ちゃん音楽が好きなんだね。CDも買ってくれてるなんて嬉しいです。でもブラスバンドか・・・私なんか音大入る前はそういう部活何にもやってなかったよ・・・。すごいよね。じゃあ貴子ちゃん音楽の基本とかは完璧なんだね。もしかしてさ・・・将来は音楽系に進みたいとか?」

貴子は少しだけ・・・だんまりした後に

「進めたら・・・いいんですけどね・・・」とつぶやいた。

ノッコはよく分からなかったが

「まあ、とにかくちょっと弾いてみようよ。こっちにピアノあるからさ。せっかくきたんだし、ね?」と誘ってみた。

「はい」といって貴子はピアノの方へ行った。

ノッコは

「何か教えながら弾こうか・・・あ、でも貴子ちゃん音楽得意なら自分で弾けるか。何か好きな曲とか・・・弾いてみたら?」

貴子はしばらく黙っていたが

「何か弾いていいですか?」と言ったので

「もちろん」とノッコは言った。

貴子はピアノの前に座りしばらく鍵盤に手を置いていたが、少ししたら弾き始めた。

貴子はピアノを弾き始めた。

ノッコはしばらくそのピアノを聴いていたが、すぐに貴子の上手さが分かった。

貴子が弾いている曲はJUJUの「明日がくるなら」だった。貴子は哀愁ただよう悲しい曲をいとも簡単に弾いていた。ノッコもこの曲は知っていたが貴子の上手さに感動して聴いていた。テクニックとかではなくて貴子の感情のこもった弾き方にただ感動した。

やがて貴子は弾き終わった。

「すごいじゃない・・・これ、全部自分でアレンジしたの?」

「はい、全部ってわけじゃないですけど・・・You tubeとかのピアノ演奏の動画とか聴いてそれを参考にして・・・」

ノッコは感心した。

「すごいね・・・これだけ自由自在にアレンジできるってすごいよ。なんかCD聴いてるみたいだった」

ノッコは本心からそう言った。貴子は少し照れくさそうに

「ありがとうございます」と言った。

「何かほかにも弾けるの?聴いてみたい」とノッコは言った。

貴子はノッコに言われたの他にも色々と弾いた。

「すごーい。何か感情がこもってるよ。ポップスってさ・・・テクニックも大事なんだけど感情がこもってるかが大事なんだよね。貴子ちゃんにはそれがある」

貴子は恥ずかしそうにピアノの前でうつむいていた。

「これだけ弾けたら楽しいでしょ?私も感動しちゃったよ」

ノッコがそう言うと

「あの・・・私・・・門限あるから、帰ります」と貴子は言った。

時計は夜の7時を過ぎていた。

「ああ・・・門限か・・・そうだよね、貴子ちゃんまだ高校生だもんね」

「あの・・・ありがとうございました・・・楽しかったです・・・また来週も同じ時間に来ていいですか?」と貴子は聞いてきた。

「もちろん」とノッコが言うと

「では、失礼します」と貴子はいながらアパートを出て行った。

ノッコは貴子の悩みのことを少し聞きたかったが聞けずじまいだった。




 その後、しばらく毎週金曜日の放課後に貴子はノッコの家に来た。貴子は音楽が好きだということもあり、ノッコの教える通りにメロディー作りやコード進行もすぐに覚えて自分で作曲までもできるようになってしまった。才能とセンスのあるように感じた。それ以来貴子は楽しそうになり、毎週ノッコに楽しみに会いに来た。ノッコもそんな風に楽しそうにピアノを弾く貴子を見るのが楽しかった。

「何時までいていいんですか?」と貴子が聞いてきた。

「金曜日の夕方以降は仕事ないから何時まででもでもいいわよ。でも、貴子ちゃん、門限あるんだよね?」

「はい、やっぱりそろそろ帰らなきゃ」

貴子の話を聞くと家の門限は8時までとのことだった。だからいつも7時を過ぎるとノッコのアパートを貴子はそそくさと去って行くのだった。

「ありがとうございました。とても楽しかったです。また来週もお願いします」

そう言って貴子は帰っていった。


そんな風な金曜日が何回か過ぎた頃に、ノッコはメールに書いてあった貴子の悩みについて聞きたくなってきた。そのうち自分から話し出すだろう、とノッコは思っていたが貴子は何も話してこないままにそのまま時が過ぎて行った。


ある日の金曜日の放課後いつものように貴子はノッコのアパートに来たので、ノッコはピアノでポップスやジャズの弾き方や作曲を貴子に教えていた。そんな中で貴子が突然、

「ノッコさんはポップスでどんな曲が好きなんですか?」と聞いてきた。

「え、ポップス?」

「はい、ノッコさんのジャズのことはよく知っているんですけど、影響受けたポップスの曲とかってどういうのなんですか?」

貴子は熱心そうにそう聞いてきた。

ノッコはしばらく考えていたが

「そうねー・・・私がジャズを始めたきっかけはガーシュウィンなんだけど、ポップスはよく分からないわ。でも・・・今思い出すと・・・カーペンターズのGoodbye to loveが昔好きだったなー」

と言った。

「そうなんですか?私もそれ好きです。ノッコさんは何で好きなんですか?」と貴子は聞いた。

「うーん・・・何ていうかな・・・愛にさよなら・・・なんて・・・なんてはかないだろう・・・みたいな。人ってさ・・・みんなどこかしろ愛を求めているじゃない?なのに自分から愛にさよならを告げてしまうのが、孤独というか何ともいえずはかないっていうか・・・・。そういうのが何か悲しみがわくって言うか。なんかカレンの声がそれにものすごい合っていて悲しみが漂うっていうか・・・」

貴子は黙って聞いていた。

「あとね・・・最後のコード進行・・・ギターソロが出てくるところのコード進行が素晴らしい!CからG/Cに行くあたりとかもう悲しくって仕方がなくなる」

そう言いながら、ノッコは思い出したようにGood bye to loveを弾き語りで弾き始めた。弾き終わると、貴子は

「すごーい」と言いながら拍手をした。

貴子は続けて聞いてきた。

「ねえノッコさんは、なんで音楽の仕事を始めたんですか?」

ノッコは自分でも何て説明したらいいか分からなかったが、話し始めた。

「私ね、音楽って・・・奇跡だと思ってるの。一見メロディーのフレーズでしかないものが・・・こんなに人に感動与えられるものって・・・もう奇跡としか思えない。奇跡の神様が美しいメロディーを私たちに与えてくれる気がするの。私は作曲してるけど、ただ奇跡の神様がくださったメロディーを自分なりに表現しているだけかもしれない。でも、私は・・・ただそれを表現するだけじゃなくて、そのメロディーで何らの形で人に感動を与えたいって思った。私自身が音楽で救われたように自分も他の人を音楽で救いたいって思ったの。奇跡の神様が私に才能を与えてくださったのなら私もそれを活かして人を救わなきゃって思った。そうじゃないと奇跡の神様に申し訳ない気がした」

貴子はしばらく何も言はなかったが

「すごーい、やっぱり音楽っていいですよね。私も・・・ノッコさんみたいに・・・将来音楽の仕事がしてみたいな」と言った。

「音楽の仕事?」

「はい」

「へー、作曲とか何か?」

貴子は少しだけ黙っていたが、

「ノッコさんみたいに、そんな作曲はできません。でも・・・実は・・・私・・・歌手になりたいんです」と言った。

「いいじゃない!・・・応援するよ。」ノッコは貴子がそう言ってくれて嬉しくなった。

「でも・・・私の親は・・・反対してます。うちの親は・・・厳しいから・・・音楽に全く理解がないから。小さいときピアノ習ってたのだってお母さんが教育のためって私に何となくやらせてただけだから・・・」

と貴子は下を向いて残念そうに言った。

「そんなの、私だって最初は親に反対されたよ!でもね・・・熱心にやってたらそのうち理解されたの。だから貴子ちゃんも熱心にやってたら絶対理解されるって。大丈夫、私が保障するから」ノッコは励ますようにそう言った。

貴子は嬉しそうにノッコを見て「私も弾き語りやっていい?」と言った。

貴子はNokkoの曲の「It’s me」を弾き語りで弾いた。発売してそんなに日は立ってないのに貴子がその曲を知っていたのがノッコは嬉しかった。

「It’s me はかなき自分 It’s me 隠れた自分 It’s me 誰にも明かさない自分 そんな過去忘れて思いきり語り合おうよ それこそIt’s me」

一瞬緊迫して聴いていたが、弾き語りが終わると、貴子の歌のあまりのうまさにノッコは感動してしまった。歌はプロ並みにうまかった。

「すごい・・・・・うまい!すごいよ、貴子ちゃん。私なんてさ・・・歌プロなのにあまり上手くないから、レコード会社の社長から「ノッコはあまり歌の入ってるCD出させないよ」、なんて言われるのよ」と言ってノッコは笑った。

「うちの社長そういうことずけずけ言うんだから」

貴子は嬉しくなって「歌手に・・・なれますか?」と聞いてきた。

ノッコは迷わずに

「なれる!頑張れば絶対になれるよ」と言った。

貴子は嬉しそうに微笑んだ。しかし、門限の時間になると

「あ、もう門限だ」と残念そうに言った。

「あ、そうだよね」ノッコもそううなずいた。

「あのさ、今日・・・帰りたくない」と貴子は急に言い出した。

「え?どうしたの?・・・・何か・・・あった?」とノッコは聞いた。

貴子はしばらく気まずそうにうつむいていたが、

「あ・・・ううん、なんでもない」と言ってそそくさと玄関の方へ行った。

「え、そう?」

不思議そうにノッコは玄関まで貴子を見送ると貴子はお礼をしてアパートを出て行った。




 その週末にリナは休日だったのでノッコのお父さんの喫茶レストラン「プレーユ」を訪れていた。ノッコとリナは音大時代からの知り合いなので、その時からリナはこの喫茶レストランでノッコと一緒に昼食などを食べていてその頃からお父さんとは親しかった。

「ああ、リナちゃんか」ノッコのお父さんの勝則はリナがレストランに入ってくるのを見てそう話しかけた。

「はい、また昼食食べにきちゃいました・・・」とリナは言ってカウンター席に座った。

「何がいい?リナちゃん」と勝則は聞いた。

「はい・・・オムレツがいいです。チーズ抜きで」リナはチーズが入っているオムレツはあまり好きではなかった。

「OK、ちょっと待っててね?」そう言いながら勝則はオムレツを作り始めた。

「そう言えば・・・ノッコから例の話何か聞きました、お父さん?」リナは聞いた。

勝則はオムレツの野菜を炒めながら

「ああ、紀子この前店に来てね。色々聞いたよ。リナちゃんの言ってた通り新しいこと始めたみたいだね」

「どう思いました?」

「どうって・・・そうだな・・・ちょっとだけ反対しちゃったよ。リナちゃんが心配してたように、私もやっぱり紀子が音楽業の仕事をおざなりにするのは心配だからね。そしたらね・・・紀子のやつ怒って帰ってっちゃったよ」

それを聞いてリナは

「怒っちゃった?・・・もう、ノッコったらいい年してホントしょうがないな。お父さんだって心配してるのに、ねえ?」

「ああ、確かにね」そう言いながら勝則はオムレツの野菜をフライパンでうまく玉子でくるんだ。

「はい、どうぞ」と勝則は言ってオムレツをリナに出した。

「ありがとうございまーす。あーおいしそう!」と言ってリナはオムレツを食べ始めた。

「でもね・・・」勝則は何か話し始めた。リナは勝則をじーっと見た。

「最初は心配したけどね・・・そんなことやってる場合なのかって・・・でも、紀子がそんなにやりたいならね・・・もう何も言わないことにしたよ。それにもう親がどうこういうような年齢じゃないしね。好きにしたらいいんじゃないかな」

リナはオムレツのフォークとナイフを皿に置いて

「そうですか・・・私も最初は反対したんです。ノッコCDの売り上げだって落ち込んでるし、そんなボランティアみたいなことしてる場合なのかって。そう言って一度喧嘩になったんです。でも・・・ノッコ真剣みたいだから・・・本当にやりたいって心から思ってるみたいだから・・・応援することにしたんです。最初は大丈夫なかーって見てたんですけど、東京都からも功績が評価されて表彰までされたみたいですよ」

勝則は店の窓から遠くを眺めるようにいった。

「そうなのか、それはすごいな・・・。何でそんなこと急に始めたんだろうって思ってたんだけどね・・・今思えば何となく分かる気がするよ」

「分かる?」リナはオムレツを食べながらそう聞いた。

「リナちゃんも知っているように・・・あの子は本当の親を知らない。なぜ本当のご両親に捨てられたのかも分からないんだ。だから紀子には昔から知らず知らずに寂しい思いをさせてたのかもしれない。でも、紀子はいつも元気そうに振舞うし寂しいとかそんなこと決して口には出さないし、私にも「本当の親に会いたい」ってたったの一度しか言ったことがないんだ。でも、きっと心の中には・・・深い傷があるに違いないんだ」

勝則は寂しそうにそう言った。

「そうですよね・・・」リナはノッコからその話を学生時代に聞いたことあるが、改めてお父さんから話を聞いてノッコの苦労が分かった気がした。

「でもね・・・そんな悲しい経験をしているからこそ紀子は誰よりも悲しみが分かるのかもしれないね。だから・・・困ってる人をほっとけないのかもしれない・・・」

リナはオムレツを食べ終わったのでフォークとナイフを皿に揃えて置いた。

「私も・・・ノッコの発想はユニークですごいと思います。最初は非現実的でありえない話な気がしたんですが・・・でもそんな思い描いたイメージを本当に実現してしまうってすごい創造力だと思います。アーティストとしてすごいと思いますね。私はそんなこと思いつきもしなかった」

「ありがとう、リナちゃん。でもね・・・全く心配がないわけじゃないんだ。仕事の方は大丈夫なのかなって・・・。紀子が結婚してくれてたら何も心配ないんだけどね。この考え方古いかな?」

「いえ・・・当然の心配だと思いますよ。私が同じようなことしてたらきっと私の両親も心配すると思うし。それに、私の両親も私の結婚のこととかよく心配します」

「そうなの?」

「私たち女性アーティストって結婚するのが本当に難しいんです。音楽業界って何だかんだいって男社会な気がするんです。だから、女アーティストっていうだけで敬遠されるんですよね・・・なんか個性が強すぎるとか女らしくないから、とかって周りから言われて。だから私恋人作るのだっていつも苦労するんですよね」

「そうかい、でもリナちゃんはもてそうだけどね。紀子なんか恋人らしい恋人ができたことがないよ。困ったもんだ」勝則は少し笑っていった。

「私は全然もてませんよ。婚期だって逃しちゃったし。ノッコは女性アーティストの中でもとりわけ不器用なんですよ。個性が強すぎちゃって、いつも真っ直ぐで純粋で。女らしさのアピールとか全然できないし。だから男の人と付き合ったりするの向いてないんですよ」

「そっか・・・リナちゃんは長いつきあいだけあって紀子のことよく分かってるね」

「いえ、そんな。私の想像ですけど。でも・・・不器用だからこそ真っ直ぐでピュアですよね」

「そう言ってくれると嬉しいよ」

「でも・・・だから逆に心配なんですよね。真っ直ぐすぎちゃって、まっすぐ突っ込みすぎちゃって何かで失敗しないか心配なんですよね」

「そうか・・・そう言われてみると心配だな。紀子のこと・・・見守ってやってね、リナちゃん」勝則がリナにそうお願いすると

「はい。特に何ができるってわけじゃないですけど・・・」

リナはそう言った後に

「コーヒーください」と食後の一杯を頼んだ。

「了解」勝則はそういってコーヒーを作り出した。





 次の金曜日にまた貴子はノッコのアパートにやってきた。いつものように二人で楽しくピアノを弾いていて、一通り弾き終わると

「ねえ、ノッコさん。ノッコさんは何でジャズが好きなんですか?」

貴子は急にそう聞いてきた。ノッコは何て答えていいか少しの間戸惑っていたが、

「そうだなー。きっかけは、小さい頃にお父さんにガーシュウィンのCDを買ってもらったことかな。それ以来ジャズが好きになった。でも・・・一番Jazzが好きだけど、別にJazzだけが好きなわけじゃないよ。Jazzの作曲が一番自分にしっくりきたってだけで・・・他のジャンルの曲もなんでも好きよ。作曲家の間ではクラシックが一番敷居が高いとかハイレベルだとか言われるけどね・・・私は、音楽にジャンルは関係ないと思う。音楽はジャンルなんか関係なくどれも素晴らしいものだと思うから。でも、しいて言うならね・・・Jazzは心をうきうきさせてくれるかな。Jazzがスウィングするように私の心も・・・スウィングさせてくれる」

とノッコはとても楽しそうに語った。それを見て貴子は

「ノッコさんは、本当に音楽が好きなんだね。私・・・そういうの・・・憧れる・・・」

と言った。

「そう?」ノッコはそう言った。

「その、ファッションも憧れる。何か個性があって。私、公立校で厳しいから・・・好きなファッション着れないし」ノッコは冬なのに相変わらずウェスターンのシャツとジーンズを着ていた。

「そっか、そりゃ大変だね。でも週末とかには何でも好きなの着られるんでしょ?」

「そうですけど・・・そんな派手な恰好したら親にいろいろ言われますし」

「そっか」そんなの気にしなければいいじゃない・・・と言おうとしたが貴子の家庭の事情をよく知らなかったので、ノッコはやめた。

貴子は少し黙ってしまったがやがて話した。

「ねえ、ノッコさんは・・・なんで私がここに来てるのか・・・聞かないの?」

「何で・・・?」それはノッコも貴子に聞こうとして聞けなかったことだった。

「私、ずっと黙ったままなのに・・・聞かないの?」

「うーん・・・誰にでも言いたくないことってあるでしょ?私にもそういうのってあるし。貴子ちゃんが言いたくなったらで言いんじゃない?」

それを聞くと貴子は嬉しそうな顔になり、

「今日・・・もう少しここに居てもいいですか?」と言った。

「いいけど、ご両親が心配するんじゃない?貴子ちゃん・・・門限とかあるんでしょ?それにご両親ここに毎週貴子ちゃんが来てるのご存じないっていうから・・・多分心配すると思う」時刻はすでに夜7時になっていた。

貴子はこの前も「帰りたくない」というようなことを言っていたのを思い出した。

貴子はまた大人しくなってしまったのでノッコは

「そうだ!・・・明後日の日曜日とか・・・貴子ちゃん空いてたりする?」

「はい・・・」貴子は何だろう、という顔をした。

「もしよかったら・・・原宿にでも行かない?竹下通りで待ち合わせ」

「はい・・・別に空いてますけど。でも、何するんですか?」貴子は不思議そうに聞いた。

「それはねー・・・ついてからのお楽しみ」ノッコは笑いながら言った。

ノッコはまたグランドピアノの上に置いてある小物入れの中から家の鍵のスペアを取り出して

「あとね・・・アパートの鍵渡しとく。金曜日じゃなくても放課後いつでも来ていいよ。私平日は半分仕事だから、金曜日以外の夜はいないこととかあるかもしれないから。ここに来てピアノ弾いててもいいし、CD聞いててもいいし、そこにティーバッグもあるからソファとかでお茶も飲んでていいわよ」

貴子は嬉しそうに

「いいんですか?」

「いいよ、女同士だから危険なこととかも何にもないし」

「はい、ありがとうございます!あ・・・でも私・・・金曜日以外は大体放課後部活があるから・・・」

そう言えば初めてアパートに来た時にそんなこと言ってたっけ、とノッコは思い出した。

「そっか・・・じゃあ無理だね」

「あ・・・でも・・・時々部活休んでこっちに来ます」

「いいの?何か部活熱心にやってるんじゃないの?」

「いいんです。あの・・・私、もう行かないと。鍵ありがとうございます。お邪魔しました」

そう言って貴子はアパートを出て行った。




 日曜日の昼の13時頃に約束通りノッコは貴子と竹下通り口で待ち合わせをした。日曜日なので原宿は人でごったがえしていた。季節はもう冬だったのでセーターなどを着ているひとが多かった。あの後、携帯メールで時間を二人で決めたのだった。ノッコは時間の2分くらい前につくと貴子はすでに待っていたようだった。

「ごめん、貴子ちゃん、待った?」

「いえ、今来たばっかりです。あの・・・これからどこ行くんですか?」

「着いてからのお楽しみ・・・」とノッコは笑いながら言い、貴子を案内した。貴子はどきどきしながらついていった。

竹下通りの人混みを切り分けながら二人は歩いて行った。

しばらくすると店の前にたどり着いた。

「じゃーん、ここよ」

ノッコが指差した店は洋服屋のようだった。中に入ってみると、不思議な個性的ファッションの店のようだった。ウェスターン、ミリタリーや豹柄ジャケットなど奇抜なファッションばかりを集めている店だった。中にはチャイナドレスや変わったワンピースや奥の方には変なコスプレみたいなのまでも置いてあった。

貴子は普段は地味な安物の服屋しかいかなかったので、ド派手な店に驚いて立ち尽くしてしまった。

「私よくここの店にくんのよ。変わった服たくさん売ってるから。っていってもウェスターンのシャツばっかり買うんだけどね。貴子ちゃんも好きなだけみて」

貴子はそう言われると、こくんと頷いて店の中を周り始めた。

色々な服を手に取って鏡の前で広げて眺めたりしてるみたいだった。

「よかったら、試着してみたら?」ノッコがそう勧めると

貴子は何やら着てきたみたいだった。

「これ、どうですか?」と言って着てきたのはウェスターンのシャツに穴の空いたジーンズだった。

「貴子ちゃん、それ・・・」ノッコは驚いた。

「私・・・ノッコさんのファッション憧れるから」

「私の真似してもしょうがないよ・・・もっと自分の好きなの選ばないとさ」

「でも、これがいいんです」

ノッコはちょっとだけため息をついた。貴子が好きなファッションを見つけてくれると思ってこの店を紹介したのに。

「じゃあ・・・ウェスターンのシャツだけ買って、他にも買います」と言ってまた服を選び試着してきた。

貴子は派手目のレインボー模様のワンピースを着てきた。

「どう・・・ですか?」貴子はノッコの方を見て聞いてきた。

「いいじゃない・・・すごく似合ってるよ」

貴子は制服姿のときとは全然違って輝いて見えた。貴子は嬉しそうになり

「じゃあ、これにします!」

と行ってレジの方へ行った。

「8650円になります」レジ係りの人がそう言うと貴子は、

「あ・・・」と言った。5000円しか持ってきてなかったようだった。

「どうしたの?貴子ちゃんお金足りない?」

「はい、ウェスターンのシャツ諦めます」と言うと、ノッコは

「いいわよ、私が出すから」と言って足りない分をレジに支払った。

「あの・・・いいんですか?」

「いいの、いいの、私が無理やり誘ったんだから」

「・・・・・ありがとうございます」貴子はお礼を言った。

二人は店を出た。

竹下通りに出ると貴子は袋から服を眺めて少しだけ微笑んだ。

ノッコは

「よかったら週末とか着てみなよ」

「でも・・・うちの親多分びっくりしちゃうかも」

「いいじゃない・・・別に・・・何着ようと貴子ちゃんの自由でしょ?」

「そうですけど・・・」

「将来アーティストになりたいなら、もっと個性を出さなくちゃ」ノッコがそう言うと

貴子は嬉しそうにこくんとうなずいた。

「何か昼ごはんでも食べよっか?何がいい?」

「あ・・・でももうお金ないから」と貴子は遠慮したが

「大丈夫、大丈夫、おごってあげるから。何食べよっか?」

「何でもいいです。ノッコさんのおすすめが・・・いいかな」と貴子が言ったので

「そう?じゃああそこ行こっかな」

ノッコは竹下通りの在日トルコ人がやっているケバブの屋台に貴子を連れて行った。

「シシケバブ二つください」

「はい、ありがとうございます」

シシケバブをノッコは受け取ると

「はい、貴子ちゃん」と言って貴子に渡した。

「ありがとうございます」

近くに小さな椅子があったので二人はそこに腰かけてシシケバブをほおばった。

「私時々こういうの食べたくなるのよねー。こういうの好きじゃなかった?」

「初めて食べたけど・・・おいしいです」

「そう、よかったよかった」そう言いながらノッコはケバブをばくばく食べていた。

貴子はノッコが豪快に食べるのを少し眺めていた。ノッコはその視線に気がつくと、

「どうしたの?」と貴子に聞いた。

「いえ・・・女二人で屋台で食べるなんて・・・何かノッコさんて変わってるなーって・・・」

「そうかなー?」ノッコはそう言って少し笑った。

貴子もつられて少し笑ってしまった。

ケバブを食べ終えるとノッコは

「何かスパイシーだったから、甘いもの食べたくない?」と言ったので

貴子は

「じゃあ・・・近くのスイーツの店行きませんか?ケーキとかフルーツとか食べられます。前に友達と一度行ったことあるんです」

「そう?じゃあそこ行こっか」と今度は貴子がノッコを案内した。

スイーツ「Corona」という店で竹下通りの外れにあった。

「へー可愛い店だね」とノッコが言った。二人は注文することにした。貴子はショートケーキを、ノッコはチョコレートパフェを頼んだ。写真で見る限りどでかそうなチョコレートパフェを頼んでいた。来ると、ショートケーキは普通のサイズだったが、チョコレートパフェはやはりどでかいサイズだった。

「ノッコさん、それすごいですね・・・」

「いいの、いいの、まだお腹好いてたし。それに、私チョコ大好きなのよ」といってあっという間に食べてしまった。

その食べっぷりに貴子は驚いてしまった。

食べ終わると、

「貴子ちゃんどうする?もっと色んな店行く?それとももう用ないなら帰る?」とノッコは聞いた。

貴子は

「あの・・・今日は夜まで一緒にいていいですか?友達の家にいるって言ってあるから門限まで大丈夫です」

ノッコは今日は何もするつもりがなかったので

「OKいいよ」と行って二人は店を出た。

「じゃあ、色々とぶらぶらしよっか」ノッコがそう言うと

二人で雑貨屋や、小物屋、靴屋などをぶらぶら歩いて夜になった。

「夕飯どうしよっか?」とノッコが聞くとまた貴子は

「どこでもいいです」と答えた。

「じゃあ・・・居酒屋でも行こうか?」

「え・・・居酒屋ですか?そんなとこ入ったことありません。大丈夫なんですか?」

「大丈夫、大丈夫!お酒飲まなければ未成年も入れるから」


貴子は不安そうだったが、竹下通りをまっすぐいって抜けたところの明治通り沿いの居酒屋「平民(へいたみ)」に貴子を半ば無理やり連れて行った。

二人はカウンター席に座った。店員は貴子のことをあやしげに見たが何も言わなかった。

貴子は居酒屋なんて初めてだったので少し緊張しているようだった。

「ノッコさんって・・・食べたり飲んだり好きなんだね」

「そうよー、好きなもの食べて、好きなもの飲める・・・これって幸せなことじゃない?」

そう言ってノッコは笑った。

食べ物とハイボールが来た。ノッコはハイボールをごくっと一気にたくさん飲んだ。二人でしばらくチジミやサラダなど色々と注文したものや前菜やおつまみを食べた。

「貴子ちゃんはさ・・・彼氏とかいないのー?」

「いない・・・」

「へーもてそうなのにね。男子たちはどこに目をつけてるんやら」

「でも・・・好きな人とかは・・・います」

「好きな人?」ノッコは聞き返した。

「でも・・・その人・・・教師なんです」

貴子は珍しく自分のことを積極的に話し出したが、貴子の話にノッコは少し驚いた。

「きょ・・・教師!?それって・・・もしかして学校の先生だったりとか?」

「はい。担任の人です」貴子は少し顔を赤らめてそう言った。

ノッコは今度は生ビールを頼んでまたいっきにたくさん飲んだ。

「えー、それってやばくないの?今どきの学校ってよく分からないけどさ・・・そういうの厳しいところもあるから」

「ノッコさん・・・意外と真面目なんだね。でも・・・大丈夫です。私の、勝手な片想いだから。ホームルームの後とかにいろいろ悩みを聞いてもらったりしてるだけですし」

「そっか、いい先生なんだね」

「はい、でも・・・向こうは私のことなんか何とも思ってないと思います」

ノッコはしばらく飲み食いした後に、さらにいろいろ注文した。貴子も少しだけ食べた。

「ノッコさんは・・・?彼氏・・・とかは?」

貴子の不意打ちのような質問にノッコは驚きながら

「え?私・・・?ちょっとやめてよ・・・そんなのいるわけないじゃない。こんなさ・・・一人で居酒屋来てハイボール飲む女だよ?」ノッコは大きな声で笑いながらそう言った。すでに少し酔いが回ってきていた。

「でも好きだからやめらんないのよね」と付け足した。

「今まで付き合ったことは?」

「ああ・・・付き合った人ね・・・」

ノッコは返答に困ってしまったので、飲み物を飲んでまたビビンバやブリの照り焼きなどを頼んで二人でしばらくの間料理を食べた。

「うーん、付き合ったことあるような、ないような」

「あるようなないような・・・?」貴子は不思議そうにノッコを見た。

「うん、音大の学生時代に友達の紹介で一度だけ付き合ったんだけどね」

「その人も音大の人?」

「ううん・・・普通の大学の人だった。でもね・・・1か月で振られた」ノッコはジンジャーハイボールを飲みながらそう言った。

「えー?振られたんですか?何でですか?」貴子は驚きながらそう言った。

「そう・・・・何かね・・・相手の人さ、音大に通う上品なお嬢様と付き合いたかったらしくてね。音大ってそういうイメージがあるのかなー?でもね、今思えば、私デートのとき飲み食いあまり遠慮せずにしちゃったりして。さすがにウェスターンのシャツはその時着てなかったけど、ジーンズとTシャツでデート行っちゃったりして」

「え、嘘すごい」

「それで・・・何かひかれちゃったみたいでね。「君はユニークで素敵だけと僕とは合わないみたいです」なんて言われて見事に振られた」ノッコはジンジャーハイボールを飲み干してまた笑いながらそう言った。

「他には付き合ったことないんですか?」

「そうねー、20代のときに知り合いに合コンみたいなのに誘われてそこで知り合った人に誘われて何度かデートしたけどね、同じく・・・また振られました」ノッコはうなづきながら話した。

「そんな中でもう30になっちゃったときにね・・・お父さんが心配して結婚前提で付き合ったらどうかって知り合いの息子さんを私に紹介しようとしたの。それで、何度かお見合いみたいなデートしたな。でもね、なんかしっくりこなかったから・・・お断りしちゃった」

「えー何でですか?もったいない。とりあえず付き合えばよかったじゃないですか?」

「何かさー結婚前提っていうのが・・・息苦しくて。その時私まだ結婚する気とかなかったし。向こうは堅実な会社員の人だったし、真剣に結婚のこと考えてくれてたみたいなんだけど。そうこうしている間に婚期逃しちゃって今に至ります」

そう話した後にノッコはサワーを頼んでまたぐびぐび飲んだ。

貴子が

「何か・・・ノッコさんって面白い」と言って少し笑った。

「貴子ちゃん、笑うことないでしょ?」少し酔いながらノッコは言った。

「あ、ごめんなさい」と言って貴子は料理を食べた。

「あの・・・ノッコさんってライブとかやるんですか?」と貴子が聞いてきた。

「あ・・・うん、近いうちにやるよ。よかったら来る?来るんだったらチケット取ってあげるから」

「え・・・チケット取れるんですか?」貴子は驚いて聞いた。

「私出演者よ・・・会社に言えばチケットくらい取ってもらえるから。まだ間に合うと思うから」

「そうなんですか・・・ありがとうございます。じゃあお願いします!」と貴子は嬉しそうに言った。

「それより、貴子ちゃんもなんかさ、飲みなよ・・・」ノッコはかなり酔いが回ってきたらしく貴子にお酒を無理やり勧め出した。

「ちょっとノッコさん。私未成年だから無理」と貴子はびっくりして拒否し出した。

「一口くらいいいでしょ」と水が入っていた空いたグラスに瓶ビールを無理やり注ごうとした。

「ちょっとノッコさん酔ってるんじゃないの?」と言って貴子はグラスをはじにどけた。

「えー飲みたくない?」と言ってノッコは諦めた。

しばらく飲み食いし終わると貴子が

「そろそろ行きませんか?」と言ったので

「そう?」とノッコは言い、二人は居酒屋を出ることにした。


二人は居酒屋を出ると時計はすでに7時を過ぎていた。

「あ・・・そっか貴子ちゃんもうすぐ門限だからか・・・じゃあ・・・帰るかー」とノッコはご機嫌そうにそう言った。

「あの・・・今日はもう少し帰りたくないです」と貴子が言った。

「えー、ダメだよ。いくら休日でもあまり遅くなるとご両親心配するから」とノッコは言ったが、貴子はどうしても帰りたくない、とだだをこねた。

「じゃあしゃあないか。じゃあ・・・映画でも久しぶりに見るか。それ見たら帰るんだよ。ご両親にはちゃんと電話しなさい」ノッコがそう言い聞かせると貴子は携帯で自宅に電話した。話を聞くと友達の家に居るからもう少し遅くなります、と嘘をついているようだった。スマートフォンで調べると、新宿の名画座で「マジソン郡の橋」をやってるとのことだったので二人は新宿まで出ることにした。

新宿まで出て名画座で二人で「マジソン郡の橋」のリバイバルを見た。ノッコは感動屋さんなので映画館でマジソン郡の橋を見てうーうー泣いていた。また、居酒屋であれだけ飲んだのに映画館でも缶ビールを飲んでいた。

貴子は無表情でその映画を見ていた。


映画館で映画を見終わり外に出るとすでに時間は10時を過ぎていた。

「わー遅くなっちゃった。でも映画よかったー。あの映画音大時代に見に行って以来かなー。私結婚とか浮気とか縁がないからよくわかんないけど、ああいう情熱的なのだったら浮気もありかなー・・・なんて。ひっく」ノッコはもうかなり酔っ払い状態だった。

「それにメリルストリープの縁起が迫真よね。なんか本当に中年の熱愛・・・みたいな。クリントイーストウッドってあの映画の監督もやってるの知ってる?すごいよね。音楽もいいよねー」ノッコはご機嫌そうにしゃべりまくった。

貴子は黙ったままだったので、

「あれ、あれ・・・あんまああいう映画好きじゃなかった?」

「あ・・・いや別に」貴子は複雑な表情だった。

「まあ、高校生くらいじゃ中年の浮気なんかつまらなかったか」といってノッコは笑った。

二人は駅の改札口まで来ると

「じゃあ・・・帰りますかー」とノッコが背伸びをしながら言うと

「ねえ・・・やっぱりまだ帰りたくない」と貴子が言いだした。

「え、もうだめだよ、さすがに遅いから」

「あんな家・・・帰りたくないの」

「え・・・?」

「あ・・・いやなんでもない・・・今日はありがとう。じゃあねノッコさん」

そう言ってさっさと改札を抜けて走り出して行ってしまった。

ノッコはそう言い残して行った貴子が心配になった。だが、酔いすぎて自分がちゃんと帰れるかも心配になった。


次の金曜日の放課後に貴子はアパートにやって来なかった。ノッコは心配になったので貴子から教えてもらっていた携帯のアドレスにメールをしてみた。しかし、返事がなかった。次の週もやはり来なかった。今度は携帯に電話してみたが、貴子は出なかった。

どうしたんだろ・・・とノッコは思った。2週間後にライブがあるので貴子にチケットを取ってあげようかと思っていたのに、連絡が取れないまま期限が近くなり、もう取れないかな、と思っていた。

しばらく貴子は来ないままノッコは普段通り仕事をして、2週間後にライブに出た。貴子は来なかった。




 ライブに出た次の週の木曜日にノッコは雑誌の取材の仕事を終えてアパートに帰宅した。時刻は夕方頃だった。ノッコはそそくさとアパートのカギを開けて入ろうとした。すると玄関口に貴子の靴のようなものがあった。最初は貴子がいるとは思わなかったが、何か人の気配がしたので貴子がいると確信した。久しぶりだったのでノッコは嬉しくなり

「貴子ちゃん、来てたんならメールしてくれればいいのに」

といってノッコはリビングに駆けて行った。

しかし、リビングには誰もいなかった。トイレかなと思ってトイレも見たが誰もいなかった。寝室と物置部屋も念の為見てみたが誰もいなかった。

「あれー貴子ちゃん?いるんでしょ?どこ?」

ノッコは叫んだが返事がなかった。すると、風呂場から水が「ポタッポタッ」と垂れるような音がした。ノッコは何だろう、と不思議に思って風呂場を覗いてみた。すると、そこには貴子が風呂桶にもたれかかっていた。よく見るとカッターナイフのようなものを右手に持っていた。左手からは血が「ポタッポタッ」と不気味に風呂桶の中に流れていた。

「貴子ちゃん!」

ノッコは言葉では言い合わらせないくらいの衝撃を受けた。

左手の手首からは生々しい血が垂れていた。風呂桶の栓の周りに少しだけ水が溜まっていたので血と水が混ざり合って栓の中へ少しづつ流れていった。

「貴子ちゃん、どうしたの?しっかり!貴子ちゃん!」

ノッコは訳もわからずそう叫んでいた。しかし、貴子は気を失っているらしく屍のように返事をしなかった。

「貴子ちゃん!」ノッコは叫び続けたが返事はなかった。



「ピーポーピーポー」

救急車のサイレンが鳴り響いてノッコは貴子を連れて近くの総合病院へ大急ぎで向かった。

「何とか一命を取りとめました」

病院の医者はノッコにそう言った。

「よかったー」ノッコは心底安心して言った。

「手首を切ったところが脈から比較的遠い場所だったのと、発見が早かったのが幸いでした。出血多量死にならなくてすみました」

「そうですか、ありがとうございます」ノッコはお礼を言った。ノッコは気になったので医者に聞いてみた。

「あの、あとどれくらいで治りますか?」

「そうですね、今病室で輸血した後に点滴をしていますから、あと30分くらいで完治すると思います」と医者は答えた。

「ありがとうございます」ノッコはまたお礼を言った。

医者は

「あの、見たところ保護者の方じゃありませんよね?」と医者が聞いてきたので

「あ、はい、知り合いなんです」とノッコが答えると

「じゃあ・・・保護者の方にも連絡しましょうか?ご心配でしょうし」

ノッコは貴子の両親と面識がなかった。貴子があまり話したがらなかったからだ。ノッコは

「いえ、私の方から連絡してみますので大丈夫です」と言うと

「そうですか、でも助かってよかったです。お大事に」と医者はほっとしながらそう言った。

「あの・・・貴子ちゃん今どこにいますか?」

「402号室にいます。4階の奥の部屋です。まだ安静中のはずです」

「ありがとうございます」ノッコはそうお礼を言って診察室を出た。


402号室の中にノッコは入ると貴子はベッドに横たわっていた。

点滴をして寝ているようだった。

部屋のすみに丸椅子があったのでノッコは貴子のベッドの横に椅子を置いて座った。

ノッコはしばらく貴子を見つめていた。すると、

「ノッコ・・・さん?」

貴子は目を開いてノッコに話しかけた。

ノッコは安心して

「貴子ちゃん」と言った。

貴子はしばらく黙っていたが

「あの・・・ごめんさない・・・」とつぶやくように言った。

ノッコは

「もう・・・心配かけさせて」と言った。

「ごめん・・・な・・・さい」貴子はまた謝った。

しばらく二人は病室で黙っていた。やがて貴子は話し始めた。

「ノッコさん・・・怒ってる?」

「別に怒ってないよ・・・心配はしたけどね」

貴子はそれを聞いたすこしほっとしたようだった。

しばらく黙っていたがまた貴子が話し出した。

「ノッコさん・・・この前ね原宿行ったときにあまりに夜遅くに帰ったら・・・お父さんが怒っちゃって。部活のある日以外は学校から真っ直ぐ帰ってきなさいって。土日もしばらくどこもいっちゃだめだって。部活さぼってノッコさんのところ行こうと思ってたんだけど・・・もうすぐ合唱コンクールとかあって・・・先輩が部活休んじゃだめだって。それでしばらく行けなくて」

貴子から事情を聞いてノッコは貴子がしばらく来なかった理由が分かった。

「そっか・・・」

「ノッコさん・・・私ね・・・両親が離婚しそうなんだ・・・」

「え?」ノッコは思わずそう言った。

「ずっと黙っててごめんなさい」

「そう・・・なんだ」ノッコは何て言ったらいいのか分からずにそう言った。

「うちのお父さんね・・・会社の役員になるぐらい仕事がものすごくできるの。いつも忙しくて・・・でもね・・・役員になる前まではもう少し時間あって早く帰ってきたんだよ。でも、出世してからは忙しくて毎日夜中前に帰って来て。お母さんはそれでも気にしないでいたんだけどね・・・でもね・・・ある日突然お父さんがお母さんをひっぱたいたり家庭内暴力を振るようになって・・・お母さんは毎日耐えてたんだけど・・・お父さんは一向に止めなかった。でもね・・・ある日お母さんの財布からホストクラブみたいな名刺が出てきて・・・お母さんホスト通いしてたみたいで・・・それを知ってお父さんますます怒って毎日お母さんを怒鳴り散らしたり・・・それで・・・お母さんもついに我慢の限界がきて浮気を始めた・・・」

貴子は悲しそうに家庭の事情をノッコに話した。ノッコはその家庭内暴力が起きた理由は分からなかったが貴子ちゃんのお父さんは仕事でイライラしていて行き場がなくなって八つ当たりしてりのかな、と思った。

「何とか・・・ならないのかな?貴子ちゃんが二人の間に割って入ったりとか・・・」

ノッコは心の底から心配してそう聞いてみた。

「もうだめかも・・・それにお父さん会社でものすごく汚いことしてるみたいだし・・・」

「汚いこと?」

「私にはよく分からないけどお母さんがお父さんが会社で法律すれすれのことやってるって言ってた」

ノッコは何て言ったらいいか、、分からなかった。

「もうだめなのかな・・・うち」

「うん・・・」ノッコは黙ってしまった。

「私ね・・・学校の先生好きになったの言ったでしょ?私ね・・・勇気を出して告白してみたんだ。でもね、「君はまだ高校生だからこういうことはよくないって」あっさり振られちゃった。でもね、その先生わたしの話親身になって聞いてくれてたんだよ。親にも話せなかった音楽の進路の相談とか聞いてくれたし・・・でも・・・やっぱり学校の先生って立場があるから・・・生徒と恋愛なんか・・・難しいよね」

ノッコは貴子の気持ちまではよく分からなかったが、きっと自分を理解してくれる純粋な愛のようなものをただひたすら他人に求めていたのかもしれない、と思った。

「そしたらね・・・なんか私悲しくなってきて。誰も私のこと見てくれない・・・愛してくれないって思って・・・」

ノッコは何も言えずただうつむいていた。

そんなときナースが部屋に入ってきて

「点滴終わりますね。お疲れ様でした」と言って貴子の点滴を外した。

「ありがとうございます。」

ノッコは貴子に代わってお礼を言った。

「それではお疲れ様でした、下の受付の方へお越しくださいね」と言ってナースは出て行った。

「貴子ちゃん、大丈夫?」とノッコは聞くと、

「はい、大丈夫です。帰ります」と貴子は言った。

ノッコは心配だったので

「じゃあ、家まで送るね」と言った。

ノッコは受付で診察料を払って病院を出た。


時刻はすでに9時近くになっていた。電車で貴子の家のある目黒の方へ向かった。目黒駅から住宅街の方へ二人で歩いて行った。貴子はだんまりしていた。

ノッコは「マジソン郡の橋」なんかを貴子に見せるんじゃなかったと後悔した。

「あの・・・あんな映画見せちゃってごめんね」

とノッコは言ったが、

「いえ・・・」と貴子は一言だけつぶやいた。

しばらく閑静な住宅街の夜道を歩いていくと貴子の実家の一軒家があった。

貴子は「ありがとうございました、ここでいいです」と言ったがノッコは家の中まで見送ることにした。

貴子はさよなら、と言おうとしたがノッコは勝手にドアフォンを鳴らしてしまった。

「ちょっとノッコさん?」貴子は慌てたが

貴子のお母さんの早苗が出てきた。

「あら、どちら様でしょうか?」

早苗はノッコの姿に驚いて聞いた。しかし、その後ろに貴子の姿が見えたので

「貴子!ちょっとどこ行ってたのよ、遅いから心配したのよ。携帯に電話してもメールしても返事しないから」

貴子はうつむいたままだった。

「どうした、何の騒ぎだ?」貴子の父の義孝が二階の寝室らしきところから階段を降りて玄関まで出てきた。

「あら、あなた帰っての?早いじゃない。ただいまくらい言ってよね」早苗は不機嫌そうにそう言った。

「悪いか、出張だったから早く戻ったんだ。疲れたから寝室にいただけだ」義孝も同じく不機嫌そうにそう言った。

「あの・・・」とノッコは話を切り出そうとすると、

「すみません、失礼ですけどどちら様なんですか?貴子をこんな遅くまでどこに連れまわしてたんでしょうか?」早苗はかみつくようにノッコにそう聞いた。

「あの・・・私山本紀子と言います。訳あって貴子ちゃんを預かってました。毎週金曜日に家に来てピアノを弾いたり・・・作曲したり」ノッコはどう説明したらいいのかよく分からなかったのであいまいな説明になってしまった。

「どうして・・・そんなことするんですか?何なんですかあなた一体?」早苗はよく分からなくてそう聞いてきた。

ノッコはもう少し詳しく説明しようとしたが、

「ノッコさんはね、シンガーソングライターなの。音楽で悩んでいる人を救うNPOをやってるの。それで、私ノッコさんの家に押しかけてたの」貴子が間に入ってそう説明してくれた。

「音楽で悩む・・・NPO?」早苗は何やら何のことだという風にノッコを見た。

「人生で悩んでいる人をね・・・音楽の力で救おうとしてるの」貴子は付け足した。

「よく分かりませんが・・・うちの貴子が何かあったんですか?」早苗は聞いた。

「悩みってなんだ、よく意味がわからん」義孝もそう言った。

ノッコは思い切って言ってみた。

「貴子ちゃんの悩みのことは聞きました。もうご存知じゃないんですか?」

「何をですか・・・?何の事だかさっぱり」早苗がそう言うと

「今日・・・貴子ちゃんは・・・手首を切りました。幸い病院で一命は取りとめましたが、危ないとこだったんです。これって悩んでるどころじゃありません。人生に絶望してるんです」

貴子はリストカットのことまでノッコがまさか話すと思ってなかったので

「ちょっとノッコさん」と言った。

「貴子が・・・?そんなわけありません。何かの間違いじゃないでしょうか?」

早苗は少しだけ怒ったようにそう言い放った。

「そうだ、何を馬鹿げたことを」義孝も怒っていた。

「あなたがたご両親は離婚寸前なんですよね?家庭内暴力のことも浮気のことも聞きました。貴子ちゃんは・・・それでずっと傷ついていたんです。もう誰も自分を愛してくれないって・・・誰も自分を見てくれないって」

早苗は

「ちょっと、あなた貴子から何聞いたのか知りませんが・・・勝手にプライベートの話聞いてどういうおつもりですか?」と言い、

「そうだ」と義孝も同意した。

「まだお分かりにならないんですか?あなたがたご両親の不仲がどれだけ彼女を傷つけてるか」

「ですから、これはうちの問題です。あなたに何が分かるんですか?それに・・・」

早苗が何かを話そうとしたが、ノッコは遮って

「私・・・本当の両親がいないんです!義理の父と母に育てられました・・・。義理の父と母は本当の娘のように私のこと可愛がってくれました。でも・・・それでも・・・私高校生のときにそのこと知って・・・本当にショックだったんです。それ以来人生が真っ暗闇に包まれたみたいで・・・。ですから・・・親が離婚するって子供にとってどれだけショックを与えるか分かります。あなたたちは、本当の貴子ちゃんの肉親なんですから・・・それが分からないはずないです!どうか・・・だから・・・貴子ちゃんの話をもっと聞いてあげてください」

貴子はその話を初めて聞いたのでノッコの方を見て

「ノッコさん・・・」と言った。

ノッコが必死にそう話していると早苗が

「そう言われても・・・・」と言って貴子の方を見た。

貴子は階段を走りながら急いで上って自分の部屋に入って鍵を閉めてしまった。

早苗は慌てて貴子を追いかけて部屋をノックしながら

「貴子?貴子・・・?ちょっと開けなさい。ちょっと!」と叫んだ。

玄関口にはノッコと父義孝がつったっていた。

「どうか・・・貴子ちゃんのこと考えてあげてください。ちゃんと三人で真剣に話し合ってください!」ノッコは頭を下げた。

父義孝が気まずそうに下を向いた。

ノッコは鞄からテープを取り出した。

「あの・・・これ貴子ちゃんの弾き語りの歌を録音したものです。貴子ちゃん将来は歌手になりたいんです。でも・・・両親には反対されてるって・・・。どうか聞いてあげてください」と言ってノッコは義孝にテープを渡した。

義孝は渡されたテープをただずっと見ていた。

「宜しくお願いします!」ノッコはおじぎをして家を出て行った。

「あ、ちょっと」と義孝は言ったが

ノッコはもう去ってしまっていた。

義孝は複雑そうな表情でテープをただ見ていた。

その日以来貴子はしばらくまたノッコのところに来なくなった。一度だけメールしてみたが、返事はなかった。ノッコは心配だったが、仕事も忙しかったのでしばらくの間仕事に没頭していた。そんなある日曜の午後に貴子が突然アパートやってきた。日曜日も外出できるようになったようだった。

「こんにちは、ノッコさん」

貴子は比較的明るい感じだった。

「久しぶり・・・貴子ちゃん・・・元気だった?」

二人はソファに座って紅茶を飲んだ。

「あの・・・」と貴子は話し出した。

「携帯の返事しなくて、すみませんでした」とぼそっと言った。

「いいのよ、別に」ノッコはそう言った。

「あの後色々あって」

「色々?」

「あ、いや別に悪い意味じゃなくて・・・あれ以来お父さんが怒鳴ったりお母さんをひっぱたいたりしなくなって。お母さんも浮気を止めたみたいで。相変わらず用があるとき以外はお互いにあまり口は聞かないけど・・・」

「そっか、よかった・・・ね」ノッコは少しだけ嬉しかった。

「私ね・・・ノッコさんの過去の話聞いて分かったの・・・。私なんかよりずっと辛い過去があるのに乗り越えてるんだって。だから私も頑張らなきゃって。今のところは離婚騒ぎもしてないみたいだから、安心だけど。でも・・・また離婚だなんだって話になるかもしれない。でも、私例えそうなっても強く生きてくって決めた」

「そっか・・・」ノッコはうなずいた。

「私ね・・・やっぱり音楽の道に進むことに決めました。音大か専門学校に行くことにしました。親にはまだ話せてないけど、絶対に理解してもらいます」

「そっか・・・分からないことあったらいつでも教えるよ。入学するこつとか」

「いえ・・・人に頼ってばかりじゃだめですから」

「別に気にしなくていいのに・・・」

「でも・・・時々遊びに来てもいいですか?」と貴子は聞くと

「もちろん」とノッコは言った。

貴子は嬉しそうに「はい」と笑った。

そんな時テーブルに開いていたノートPCのメールアドレスに新着メールが入っていることにノッコは気がついた。貴子が来ていたのでメールは読むのはやめようと思ったが、件名に「川澄と申します。息子のことについてご相談願います」と書いてあったので少しだけ読みたくなった。

「どうしたの、ノッコさん」と貴子は聞いた。

「あ・・・いや・・・何か私のホームページ見てくれた人からメールが入ってたみたいで」

「誰かまた悩んでる人が来るの?」

「うん・・・そうみたい。また、大変そうだ」

貴子はしばらく何か考えていたが

「大丈夫だよ。ノッコさん私のことも救ってくれたし。誰が来てもノッコさんなら救えるよ」と励ますように言った。

「ありがと、貴子ちゃん」ノッコは微笑んで言った。

「あ・・・」と貴子が窓の外を見ると雪が降っていた。

「雪かー最近振らないのに久しぶりに見たなー」

「きれい」貴子はそう言いながら窓をずっと眺めていた。



 約束の通り次の週の水曜日の午後に川澄さんのお母さんがノッコのアパートにやってきた。

「はじめまして、川澄恵子と申します。突然お邪魔してすみません」

「いえ、とんでもないです」ノッコはお茶をテーブルに出しながらそう言ってソファに腰かけた。恵子さんはお礼を言った。

「メールで簡単に書きましたように、うちの息子の守が不登校になってしまいました」

ノッコはただ聞いていた。

「何度守に聞いても理由は分からないものですから・・・困りましてね。心理カウンセラーや精神科など洗いざらい回ったのです。そしたら・・・どうやら精神疾患を患わってるらしくて」

精神病を患わっている人が相談に来るのは初めてのことだった。確かにノッコはホームページに精神的な悩みを抱えている人も対象としている、ようなことは書いていたが実際ノッコはうつ病のことなどよく分かっていなかった。

「それで・・・精神科の方でお薬を処方していただいてましてね・・・それで何とか病状は落ち着いているんです。ですから病気は治ったのだから学校に行きなさいと言っているのですが・・・学校にはいまだに行かないというか・・・一向に守は言うことを聞かないもので困ってしまいましてね・・・。もう不登校になって1か月になりますし。そこでそちらのホームページを見ましてね、うつ病の人を助けてくださるって。何か手がかりになるんじゃないかと思いましてね。あとですね・・・申し遅れましたが私あなたのこと存じてます。Nokkoさんでいらっしゃいますよね?」

ノッコは驚いて

「そうですか?ありがとうございます」と嬉しそうに言った。

「まあ、私もっぱらクラシックばかり聞くのですが、自分で言うのもなんですがジャズもある程度詳しいもので・・・それで是非お願いしたいと思いましてね。ファンというわけではないのですが・・・すみません」

恵子さんは少しずばっとした感じでそう言った。

「いえ、別にとんでもないです」

「それでね・・・さっそくですが山本さん・・・いつ頃から守はこちらに伺えますか?」

「そうですね・・・今ここで日程を決められてもいいですし、後でメールで候補日を連絡くださってもいいです」

「そうですか、じゃあさっそく来週にでも・・・いつ頃がいいかしら?」恵子さんはノッコに予定を聞いてきた。

来週は月曜日が比較的時間があったので

「じゃあ月曜日の午後4時頃ではどうですか?」とノッコは答えた。

「そうですか、時間は何時間ほどでしょうか?」

「特に決めていません。1、2時間を予定してます」

「そうですか、それでは来週月曜日に守をそちらに一人で行かせますので」

不登校の子が一人で来られるのか、とノッコは思ったが

「守ももう高校2年ですからね、こちらのお話しをしたら一人で行くって言うものですから。それに不登校って行っても外には出られますしひきこもりではありませんから」

「そうですか、ではお待ちしてます」

「じゃあ、お邪魔しました。」とお茶を少しだけ飲んで恵子さんは玄関の方まで行った。ノッコも玄関までついていった。

「あ、あとそれから山本さん・・・こんなこと言うのもなんなんですが・・・守はうちの主人の病院の大事な後取りなんです。将来は医学部を目指しています。こんなところでつまづいていてはだめなんですよ。いち早く学校にも塾にも行ってもらわないと困るんです。ですから・・・できればご都合が悪くなければ、週1日以上そちらにお邪魔するのはだめでしょうか?何卒宜しくお願いしますね」

「あ・・・はい、できるだけ都合合わせるようにします」ノッコは明るくそう言った。

「それでは月曜日の午後4時に守が伺いますので宜しくお願い致します」とお辞儀をして恵子さんはアパートを出て行った。




 

月曜日の午後4時頃になると川澄守はノッコのアパートに一人でやってきた。

「こんにちは、守君・・・だよね?はじめまして、私山本紀子です。あだ名はノッコっていいます」ノッコが元気よく挨拶すると

「川澄守です・・・はじめまして」とお辞儀をした。

背はすらっとしていて知的だが線の細いというか繊細な感じな子だった。

「こっちがリビングで、そこにソファあるから腰かけて、今お茶出すから」

「はい、ありがとうございます」と言って守はソファに腰かけた。

「はい、どうぞ」とノッコがお茶を出すと守はお礼を言った。

ノッコは守が黙っていたのでしばらく少しだけお茶を飲んでいた。

「お母さんから、ここの話はある程度聞いてるよね?一緒に色々音楽をやったり楽しんだりするところなの」

「はい、母さんからは全部聞いてます。それで僕も興味を持ったので」

守君のお母さんの恵子さんからメールで教えてもらったのだが、守は小さい頃から中学生までピアノを習っていたのでかなり上手い、とのことだった。小学生のときに「ジュニア作曲コンクール」というのに出たこともあるとのことだった。

守は「失礼します」と言いながら少しだけお茶を飲むと

「守君かなりピアノうまいんだってね。作曲もできるって。お母さん言ってたよ」

「いえ、別にそんな」守は少しだけ照れたようにそう言った。

「えーじゃあさっそく守君のピアノ聞きたいな。よかったらオリジナルとかも弾いてみてよ」とノッコは明るく誘ってみた。

ノッコがピアノの席をずらして「どうぞ」と言ったので守はピアノの方へ歩いてきてやがて席に座った。

守はピアノの前でぼーとっしていたので

「じゃあ、さっそく何かオリジナル弾いてみてよ」とノッコは誘ってみると

「いいんですか?」と守が言った。

「もちろん」

ノッコがそう言ってからしばらくすると守は曲を弾き始めた。

聞いた感じだとイ短調の悲しい感じの曲だった。まるで秋の季節を歌うかのような。

守が弾き終わると

「すごいね、これ自分で作曲したの?何て曲なの?」とノッコは興味津々に聞いた。

「はい、「イチョウの木枯らし」って曲です。昔作りました」

「へー昔ってもしかしてその小学生の作曲コンクールっていうやつ?」

「はい」守はそう一言答えた。

「へー、すごいね。なんか本当に秋の木枯らって感じがした。でも・・・小学生でこんなクラシックっぽい大人な曲作るなんてすごいね。私小学生の時こんな曲作れなかったよ」

とノッコは言うと

「そんなことないです。ピアノ教室の子たちは結構みんな作ってましたし。それに大人になったら全然作れなくなっちゃいました。やっぱり子供のときって思わぬ想像力があるんでしょうかね」

守が悲しいことを言ったのでノッコは

「そんなことないよ。そう思い込んでるだけだよ。多分小さいときみたいながむしゃらさみたいなのが、なくなっちゃったのかもしれないけど・・・その無邪気さを思い出せばまた作れるんじゃないかな?」

守は半信半疑そうに

「そうかな?」と言った。

ノッコは守に作曲を教えたくなったので、まず簡単な作曲法とコード理論を教えることにした。

「ここが、こうで・・・・」と熱心にノッコが教えていると守はすぐにそれらを吸収していった。呑み込みも早いらしくコード進行の基本パターンもあっという間に理解してしまった。

「すごいじゃない、呑み込み早いよ守君」とノッコが褒めると

「知らなかった。昔は何となくで弾いてたけどコード進行ってちゃんとしたパターンになってるんですね」

守は嬉しそうに語った。

「そうよー。これだけ基本押さえればもう自由に作曲できるようになるよ」

「はい」守は笑顔でそう言った。

守はふっと腕時計を見ると

「もう、17時半か、そろそろ帰ります」と守は言って立ち上がった。

「別にあともう少しいいのよ」とノッコは言ったが、

「いえ、いいんですお邪魔でしょうから。それに・・・ちょっと疲れました」と守は言ってソファの上の鞄を取った。

「そう?別にお邪魔じゃないけど」

守が玄関で靴を履いていると

「守君、次はいつ来る?お母さんができれば週1回以上は来させたいって」

「そうですね・・・僕はいつでもいいんですけど・・・ノッコさんが迷惑じゃなければ二回でもいいです」

「そう・・・じゃあ・・・私が時間ある時は週二回にしよっか。金曜日の夜は空いてるから金曜日の夜と・・・あとは私の空いてる日をその都度教えるね。だから次は今週の金曜日の夕方5時からにしよっか」

「分かりました。じゃあお邪魔しました」と守は元気そうに出て行った。

守が出て行った後に気がついたが、守が「ノッコさん」と言ってくれたことが少し嬉しかった。




 それから守は週に1,2回ノッコのアパートに来て楽しく音楽の時間を過ごした。守はどんどん作曲ができるようになって楽しそうに自分の曲を弾いていた。そんな中で、守のお母さんの恵子さんからメールがあり「守が毎日じゃないですけど、学校に時々行くようになりました、ありがとうございます」と書いてあり、それを知ってノッコも自分のことのように嬉しくなった。



 そんなある日の平日の夕方いつものように守は来て楽しくピアノを弾いていた。ノッコも一生懸命かつ楽しく教えていた。1時間くらい楽しく弾いていると守は急に弾くのをやめた。

「どうしたの?守君」

守は何も言わないでいたが突然、

「ノッコさんは何でこんなことしてるの?やっぱり・・・人のため・・・とか?」

と聞いてきた。ノッコははじめ何だろう?と思ったが、

「何で・・・って言われても・・・音楽で人を救いたいって思ったからだよ。自分も音楽で救われたこととかあるし、多くの人たちが音楽で救われればいいって思ってるし」

守はしばらくすると、

「ふーん。でも・・・それって困ってる人を救いたいから?」

「そうよ。世の中みんな悩んでる人が多いし」

「でも・・・ノッコさんはそういう人たちは可愛そうだと思ってるんでしょ?だから・・・同情して」

急に守が変なことを言い出したのでノッコは困惑しながら

「別に・・・可愛そうだなんて思ってないよ・・・ただそういう人たちが救われればいいと思ってるだけ。守君だってよくなってきてるじゃない」

「そんなの詭弁だよ。本当はかわいそうだって思ってるくせに。可愛そうな人を救って・・

・・いいことして自分がいい気分になりたいだけなんじゃないの?」

「ちょっと・・・守君今日は変だよ?なにかあった?それに・・・そんなこと守君に言われたくない・・・」

「帰ります」と守は言ってそそくさとソファの鞄を手に取った。乱暴に鞄をひったくったので、中から教科書のようなものがどさどさと落ちてきて床に転がった。「高校数学数Ⅱ」や他にも「医学部受験用数学」などの参考書とかが落ちたようだった。ノッコはそれらを

拾ってめくって見た。

「へー、すごいね、なんか難しそう。私なんか数学大嫌いで、高校入ってすぐギブアップしたから・・・もう√とかの記号見るだけで・・・なんか蕁麻疹起きるって感じでさ。なんかマイナスとマイナスかけるとなんでプラスになるの?みたいな。へー守君って頭いいんだねー、こんなのやって・・・・」と言いかけると

「そんなもん誰だってできるんだよ!医学部受験するやつらなら教科書や参考書レベルのものなんて誰だって簡単にできる!何も・・・何も、知らないくせに」と怒ったようにノッコから教科書と参考書をふんだくって鞄に無理やり入れ込んだ。

「ちょっと何よ。別に私は・・・すごいなって言っただけで・・・」とノッコが言いかけると

その時守に何かが急変した。守の息が急に何かあらくなり

「はー、はー」と呼吸困難になってしまったように息切れしていた。

「ちょっと守・・・君?どうしたの?」

「はー、はー、はー」守の息はさらに激しくなり、やがて床に倒れけいれんのようなものを起こし始めた。

「ちょっと守君?大丈夫?守君!」

ノッコは守の肩をゆすって話しかけたが守は息切れしたままだった。

「守君!守君!」




 「また、発作がでましたね」

精神科の先生はそう言った。ノッコが恵子さんに守君の異変について電話したため、恵子さんが救急車を手配して、係りつけの精神病院まで手配してもらったのだった。

「発作?」何のことだろう、とノッコは思った。

「最近、こちらにお見えにならないから、薬を飲んでなかったからかもしれませんね・・・」

精神科の先生はそう言った。

「はい・・・ここのところ学校にも行っていたし病気も安定しているものだと思っておりましたので・・・」恵子さんは先生にそう言った。

「そういうのは油断は禁物です。病状が安定しててもまた再発することは十分に起こり得ることです」

「はい、申し訳ありません」恵子さんは頭を下げた。

「でも、薬を飲んで今は病室で回復しているようです。今後はまた通院していただいてしばらく様子を見ましょう」と先生は言った。

「ありがとうございます」そう言って頭を下げて恵子さんは診察室を出て行った。

しばらく診察室にノッコは残った。

「あの・・・何か?」先生はそう聞くと

「あの、守君の病気って何ですか?急に呼吸困難なようになったのですが・・・」

先生は少しため息をついて

「・・・パニック・・・障害です」

「パニック障害?」ノッコは聞いたことのない病名に驚いた。

「ええ・・・不安感を主な原因とする精神疾患の一つでしてね・・・急に戦闘的になったり、呼吸や心拍数を増やしてしまい、ひどいときは意識を失うこともあります」

ノッコはそんな病気初めて聞いた。恵子さんから守君が精神病だというのは聞いていたがまさかパニック障害だとは思わなかった。

「あの、何か原因があるんですか?どうすればよくなるんですか?」とノッコは聞いた。

「そうですね・・・薬をちゃんと定期的に飲むことは当たり前ですが・・・この病気は日常生活の不安やストレスから来るものですからできるだけそういうことから逃れやすい環境に本人を置いてあげることですね」

「不安や、ストレス・・・ですか?」ノッコはそう聞いた。

「そうですね・・・それらを取り除いてあげることが・・・重要だと思います」

ノッコは先生にお礼を言って診察室を出た。

診察室を出ると入口に恵子さんと遅れてきた旦那さんが立っていた。

ノッコと恵子さんはお互いに頭を下げた。

「今日は、すみませんでしたね、大変なことになってしまって」恵子さんがそう言うと、

「いえ、別にそんな・・・」とノッコは言った。

「あの、パニック障害って・・・いうのですか?」続けてノッコは聞いてみた。

「ええ・・・先生から今お聞きしたのか分かりませんが、ストレスが原因でパニックになる病気です。ごめんなさいね・・・山本さん専門家でいらっしゃらないからそのように伝えてもかえって混乱させてしまうかと思いましたので。ですから・・・精神疾患とだけ伝えたんです。でもこんなことなら言っておけばよかったですね」

「そうなんですか・・・」

「あの・・・守君・・・もう大丈夫なんですか」とノッコが聞くと

「ええ、今から病室に行くところです」恵子さんがそういうと旦那さんはノッコに頭を下げて、横にあった階段を上っていった。恵子さんも階段を上ろうとすると、

ノッコは

「あの・・・私も行っていいですか?」と聞いた。

恵子さんはため息をついた。

「いえ、もうお時間とらせるのも悪いですからお帰りになられて結構ですよ。お仕事もおありだと思いますし」

「いえ、少しくらい大丈夫ですから」とノッコは無理やりついて行こうとすると

「あの・・・大変申し訳ないのですが・・・今後は守をそちらにはいかせないことにしたんです。私は、あなたのこと存じてたので何かを期待して山本さんにお願いしたのですが・・・やはり音楽だけじゃだめみたいですね・・・それにこれは専門的な病気ですから、音楽だけでは治らないのが分かりました。それに・・・専門家でないあなたの手を煩わせてしまうのは何かと問題ですし」

「そんなことありませんよ。私、分からないなりに精いっぱい頑張りますから!」

「そうはいっても、分からないじゃ困るんです。一刻も早く守には学校に行ってもらわないと困りますので余計な時間とってる余裕もないんです。それに主人に山本さんのことこれで知られてしまいましたから・・・今まで黙って私の独断でやってたんですけど・・・主人はこういう音楽だとか非科学的なこととか信じない性質ですから。あと、これ今までお世話になったお礼です」と言って恵子さんはノッコに封筒を渡した。中を見ると万札がいくつも入っていた。

「あの・・・こんなにいただけません」ノッコはそう言ったが、

「いいのよ・・・それくらい大したことないから。それに、お金を全く受け取らないなんてかえって信用されないわよ。受け取ってもらった方がこちらも助かるんです」そう言って恵子さんは頭を下げて階段を上っていってしまった。

「あの・・・」とノッコは言ったが聞いてもらえなかった。



 その日以来守は全くアパートに来なくなった。恵子さんにメールをしようとしたが、あれだけ強く断られたのでメールができなくなってしまった。ノッコは誰かに相談したくなったのでまたリナと休日に会うことにした。

銀座辺りの居酒屋で夕飯を一緒に食べることにした。

「え、パニック障害?」リナは目を丸くして聞いた。

「そう、その守君って子がパニック障害っていうの・・・らしくて・・・急にアパートで呼吸困難になって倒れだして」

「そりゃ大変だったね。でも・・・それ、どういう病気なの?」

「なんかね、精神科の先生はね・・・ストレスや不安で起きる病気だって・・・言ってた」

「へーストレスねー」とリナは言うと、何か思い出したように

「あ、そうだ、守君だっけ、その子さ・・・医者の家庭なんだっけ?」

「そう・・・後取りなんだって」

「それさ・・・もしかして・・・プレッシャーとかがすごいんじゃない・・・?」

リナがそう切り出すと

「えー、でも守君はそんな話全然しないよ」ノッコはそう言った。

「そんなの聞いてみなきゃ分からないじゃない。ノッコや私とかが考えてる以上にね・・・男の子の後取りのプレッシャーってすごいと思うよ。それが医者なんてなると相当だよ、きっと」

「そうなのかなー、でもさー守君ものすごく難しい数学とかやってるみたいだし頭いいからそんなの簡単だろうし大丈夫なんじゃないの?」

「あなたよく知らないからでしょ。私もそんなのよく分からないけどさ・・・中には落ちこぼれとかそういうのだっているんじゃない?」

「落ちこぼれ・・・?」

「そう」

ノッコは守が急に怒り出した時のことを思いだした。

「そんなもん誰だってできるんだよ!医学部受験するやつらなら教科書や参考書レベルのものなんて誰だって簡単にできる!何も・・・何も、知らないくせに」

何も知らないくせに・・・確かにそう言われた。リナのアドバイスのようにもしかしたら、守は何かに挫折しているのかもしれない、と思った。



 しばらく守から全く連絡が来ないままノッコは仕事に没頭していた。守のことは心配だったが、仕事がその心配の煩わしさも忘れさせてくれたのも事実だった。季節はまた春になろうとしていた。そんなある日、手紙が来た。勝也からだった。

「ノッコさん

お久しぶりです。あのときはお世話になりました。あれ以来うちの両親は離婚が決まり、俺は母親の実家の方へ行くことになり、そこから新しい学校に行くことになりました。最初はノッコさんのこと俺のことを早く追い出したいだけで口うるさい人だと思ってました。でも、他の大人と違って俺の話を聞いてくれて本当によかったです。親父のことだけど、散々虐待されて憎しみや恨みもたくさんあった。でも、離婚が決まって一人ぼっちになった親父のことを思うと今では哀れだなって思います。だから、今は親父のことは恨んでないよ。もっとノッコさんとは色々話しをしたかったけど・・・遠くに引っ越しちゃったから当分会いには行けません。もし会いにいけるようなことがあったら、その時は・・・ピアノ教えてください。あと・・・CDを壊してしまってごめんなさい」

その手紙を読んでノッコは嬉しかったがなぜか少しだけ涙がこぼれてしまった。最初は心を開いてくれなかった勝也がこんなに明るくなってくれた。それが嬉しかった。それと同時に自分のやってることに少し自信がもて勇気が湧いた。自分が勝也を励ました代わりに今度は勝也から自分が勇気をもらった。

ノッコは今度の休日に守の自宅に行ってみよう、と思った。


守の自宅は世田谷の高級住宅街にあった。医者の家系がどれだけ金持ちかはノッコには分からなかったが、金持ちばかりの住宅が集まってそうだった。

インターフォンを鳴らすと恵子さんが出てきた。

「あら、山本さんいらしたんですか?」

「はい、あの・・・どうしても守君と話したいんですが」

「もうそちらにはお世話にならないと言ったじゃありませんか」

ノッコは引き下がらずに

「あの、少しだけでいいんです。話させてください」

「いえ、お気持ちは嬉しいのですが、もう守は誰とも会いたくないって言っていますから。すみませんが、お引き取りください」

ノッコは

「守君ちゃんと学校行ってますか?精神科にも行ってますか?」と聞くと

恵子さんは下を向いて何も言わなかった。

「あの・・・あの後よく考えたんです。もしかしたら、守君将来医者になるのがものすごいプレッシャーになってるんじゃないかって・・・」ノッコがそう言うと、恵子さんは少しだけ目つきが変わった。

「あのね、山本さん、どういうおつもりか知りませんが、守がそんなわけないじゃありませんか。中学までずっと成績はトップだったんですよ。高校に入って少し成績が下がりましたが、ちょっと挫折したくらいでそんなわけないじゃないですか」

「でも、本当は息苦しいのかもしれません。守君とちゃんとそのこと本音で話しましたか?」

恵子さんは次第に不機嫌そうになってきた。

「あのね、山本さん。私はあなたに守の進路相談してくれなんて一度も頼んでいませんよ。ただあの子を元気づけて学校に通わせてくれればよかったんです。これはうちの問題なんですよ」

「でも・・・守君がどうしたいかは守君が自分で決めることなんじゃないでしょうか?」

ノッコは負けずと反論してそう言った。

「あなたに何が分かるんですか。うちは代々医者の家系で主人の母から守を医者にするように強く言われてるんです。その主人の母だって主人を医者にするために必死に小さい頃から頑張って教育してきました。私も、医者の家庭に入った以上は、その期待に答えるのが義務なんです。このうちを守るのも医者の家庭の母の務めなんですよ。それに医者の家庭で生まれた守が家を継いで医者になるのは、守にとっても病院にとっても一番いいことなんです。よその人にわかるもんじゃありません」

ノッコは

「とにかく会わせてください」といって無理やり玄関に入ってしまった。

「ちょっと、山本さん?」驚いて恵子さんはノッコを追った。

ノッコは守がどこにいるのかよく分からなかったのでとりあえず二階へ行って部屋中探した。どの部屋も空きっぱなしで誰もいないようだったが、一部屋だけ鍵がかかっていたので中に守がいると思って、

「守君?そこにいるの?開けてくれる?」とドアをどんどん叩いた。

「ちょっと山本さん、勝手にうちに入らないでください」恵子さんは声を少し荒げて言った。

ノッコは恵子さんの言うことは聞かずに

「守君?」と言いながらノッコはドアを叩き続けた。

「そこには守はいません!」と恵子さんは言ったがそのとき

ガチャっと鍵を開けて守が出てきた。

「守、ちょっと待ってね、山本さんにはすぐ帰ってもらうから」

と恵子さんは言ったが、

「何で?別にいいよ」と守は言ったので恵子さんは

「そう?」と残念そうに引き下がった。

「入ってよ、ノッコさん」と守はいったのでノッコは守の部屋に入ることにした。

恵子さんは不信そうにノッコを見て階段を下りて行った。

守はノッコを部屋に入れるとバタンとドアを閉じた。

守はベットのはじに腰かけた。ノッコは「ここ座るね」といって守の勉強机の椅子に座った。

しばらく黙っていたが、

「学校も、病院も行ってないの?」ノッコは守に聞いた。

「うん」と守は言った。

「どうして?」とまたノッコは聞いた。

「何か・・・何もかも嫌になっちゃって・・・」

「そっか・・・」

守は黙ったままになってしまった。

ノッコはしばらくすると話し始めた。

「私もね・・・実は・・・昔、引きこもりだったんだ」

守は驚いでノッコの方を見た。

「私音大出たあとね・・・地道にライブ活動とかやってたんだけどなかなか売れなくてね。20代は地獄だった。それでも・・・音楽が好きだったから・・・諦められなかったから続けてた。でもね、頑張っても頑張っても・・・なかなか売れなかった。それどころかライブに来てくれるお客さんもどんどん減ってね。そろそろ潮時だって・・・思った。何か堅実な仕事につこうかとも思った。でもね・・・諦めきれなくて、そのうち自分がどう生きたらいいか分からなくなって・・・人生に意味が見いだせなくなった。それで、1年くらいかな・・・引きこもってた。ライブ活動も全くやらなかったし、バイトもしなかったし。家に一日中いることなんてざらだったね。でもね・・・そんな私をみてお父さんが「もう一度頑張ってみたら」って応援してくれた。知り合いのリナっていうんだけどね。リナも応援してくれた。それでもう一度頑張ろうって思ったの。そしたらね、30歳になる前くらいに光が見えてきたの・・・」

守はその話を聞いて

「そう・・・なんだ」とただそう言った。

「だからね・・・守君ももし、人生に意味が見いだせなかったり苦痛を感じてるんだったらね。何か自分で見つけたらいいんじゃないかって思うの。やりたいこととか・・・やりがいとか・・・諦めないでそれに向かったら、そしたら・・・」ノッコがそう言うと

「やりたいことって何だよ。そんなもん簡単に見つかるわけないじゃん。うちは医者の家系なんだよ?医者以外の道なんて今まで考えたことなんかないよ」

「でもそれはご両親が決めたことでしょ?何やりたいかは、守君が決めればいいことじゃない」ノッコはそう言った。

「そんなことたとえあっても親には言えないよ・・・」守はそう言った。

「でも、それじゃ・・・」ノッコは何も言えなくなってしまった。

ノッコはコンビニで買ってきたコーヒーゼリーを守に渡した。

「これは?」守は不思議そうにコーヒーゼリーを見た。

「コーヒーゼリーよ。私これ好きなの」

コーヒーゼリーをノッコも食べながら話し始めた。

「コーヒーゼリーってね、暗ーいダークなコーヒーゼリーを白―いまろやかなミルクが包んでいるでしょ?これね、まさに暗いダメな自分を温かい誰かが見守ってくれてるっていう感じがするんだ。引きこもりだったときに家の近くのコンビニでコーヒーゼリーを手に取ったら何かそういうのを感じてね、私、だからそれ以来落ち込んだときとかよくコーヒーゼリー食べる。守君もね、だから絶対誰かが見守ってくれる人がいるはずだからさ・・・今はやりたいことが見つからなくてもそのうち見つかるし・・・守君まだ若いんだからさ・・・私なんて20代で引きこもってたんだよ?10代で少し引きこもったなんて引きこもりのうちに入らないよ。いくらでも立て直しできる」

守はノッコの話を聞き終わるとやがてコーヒーゼリーを食べ始め、

「おいしい・・・」とつぶやいた。

「守君さ、今から公園いこっか」とノッコは元気よく言った。

「公園?何でそんなとこ?」

「いいから、いいから」

とノッコは無理やり守の手を引っ張って部屋から連れだした。

玄関口でなにやら音がしたので恵子さんが出てきた。

「ちょっと、どうしたんですか?山本さん?」

「ちょっと守君連れてきます」とノッコは言って守を連れてドアを開けて出て行ってしまった。

「ちょっとどこ行くんですか?」恵子さんは叫んだがもうドアはしまっていた。


ノッコは守をある公園に連れてった。東京湾の全景を一望できる綺麗で大きな公園で少し丘を登ったところにあった。時刻は夕方前になっていた。

しばらく二人は公園をぶらぶらと歩いた。公園は家族連れや犬の散歩をしている人などがいたが、それ以外の人はあまり見当たらなかった。

「公園、きれいでしょ?」

ノッコはそう言いながら公園の奥の方へ言った。公園の入り口の方には砂遊び場や滑り台などがあり子供が大人しく遊んでいた。奥の方へ行くとベンチが並んでいて、そこから東京湾の全景が眺められるようになっていた。

「よっこいしょ」とノッコはベンチに座った。守も隣のベンチに腰かけた。

しばらく二人で東京湾の海を眺めていた。船がいくらか行き来していてかもめらしき鳥が空を飛んでいた。

「ここね・・・私落ち込んだときよくくるんだ。ひきこもりのときもここだけはよく来てたな。景色がきれいでね・・・嫌なこと忘れられる」

守も景色を見て

「うん」と言った。

「私ね・・・何で音楽の仕事始めたいって思ったかっていうとね・・・音楽に救われたことがあるんだ」ノッコは東京湾の景色を眺めながら話し始めた。

「救われた?」

「そう、私ね・・・本当の両親がいなくてね。義理の両親に育てられたの。高校までそのこと知らなくて・・・でもある日突然親にそのことを教えてもらって・・・ものすごくショックだった。そんな時にね・・・育ての母親が癌でなくなちゃってね。それがさらにショックで。やっと義理の母親だってことを知ったばかりだったのにその矢先に死んじゃったから。それから・・・学校も一時さぼりぎみになったし、タバコも陰で隠れて吸ってた。そんな日が何か月か続いてね。でも、ある日放課後にね・・・音楽教室で何か音がしたの。ジャズを弾いてる音がして。学校の音楽教室でジャズが鳴ってるなんて珍しかったからそこで、私音楽教室の前で立ってずっとその曲聴いてた。なんかものすごく聴き心地がよくてずっと目をつむったまま聴いてた。そしたらね、その弾いてた人がドアを開けて「中に入って聞いてごらん」って。その時は知らなくて後で知ったんだけど、そのピアノ弾いてた人は、音楽の先生でね。伊藤一樹さんていって。私のクラスの音楽の担当じゃなかったから顔をちょっと知ってただけだったんだけど・・・昔仕事でちょっとしたジャズの作曲をしてた人らしくて。教室に入って、しばらくその人のジャズの曲を私興味深そうに聞いてたら「君も弾いてみるかい?」って言ってくれて。私が伊藤先生の真似をしてね、ジャズっぽい曲を弾いてみたらね、その先生が「すごい!ものすごい上手い」って拍手してくれて。それから、放課後よく伊藤先生にジャズの弾き方とか作曲の仕方を教わるようになってね。

それから学校に行くのが楽しみになって・・・学校をさぼることもなくなったし、成人するまでタバコもやめた。それで・・・ある日その伊藤先生が「音大に行ってみたら?」って勧めてくれて。それまで私クラシックピアノをずっと習ってたけど本格的に音大に行こうとまでは思ってなかった。でも、伊藤先生に勧められて自信がついたので、それ以来本気で音大目指すことにしたんだ。その先生との出会いがなかったら音大には行かなかったし今の仕事もしてなかったかもしれないな」

ノッコは一人でずっとしゃべっていたが、話が終わると守は

「いい出会いだったんだね・・・」と言った。

「そう・・・出会い・・・それだと思う。何かに出会って、救われて、そして自分の方向性が見えてくる。きっと人ってそれぞれそういう出会いがあるんだと思う。だから守君もきっとそういう経験があれば何かが見えてくるんじゃないかな・・・」

守はしばらくうつむいてた。何か考え事をしているようだった。

しばらくすると時間は夕方になり、東京湾の水平線の向こうには夕日が見えてきた。赤く染まった夕日は海を温かく包むように少しずつ沈んでいるようだった。

「見て、守君きれいでしょ?私これ見たくてここ来たんだ」

夕日は水平線の中へ溶け込んでいた。海の向こう側は辺り一面壮大な茜色に染まり、言葉では表しようがないほどはかなく、夕日は綺麗に海を丸く包んでいた。

守はしばらくその壮観な景色を眺めていた。

「すごーい」ノッコは感動してそう言った。

守は

「きれいだ・・・」と言った。

「そうでしょ・・・?」ノッコはそう言って嬉しそうに守を見ると、守は涙を流しているように見えた。夕日の反射でよく顔が見えなかったが、わずかばかりほほに涙がつたっているように見えた。

しばらく二人でその景色を眺めていた。

「僕・・・月曜日からまた学校行きます」

「え?」

「本当は僕息苦しいんです。親は医者になれって簡単に言うけど・・・。中学までは何とか成績は良かったんですが、高校に入ってからつまづいてしまって・・・。親はちょっとくらいの挫折乗り越えろって言うんですけど、何も分かってない。無理なんですよやっぱり僕には・・・医者になるなんて・・・。勉強のことは僕自身が一番よく分かってますから・・・。でも・・・逃げてばかりじゃ、このままじゃ何もならないし。だから学校に行きながら・・・僕も何かを見つけたいと思います。医者以外の何か道を。僕にも見つかりますか?」

守が初めて明るくそう聞いてきた。

「もちろん、絶対に見つかると思う!」ノッコは守をそう励ました。

守は明るく微笑んだ。

夕日が水平線に完全に沈むまで二人はただその景気を眺めていた。




 公園で夕日を見て以来守は学校に再び行くようになった。恵子さんからのメールにそのことが書かれていた。

「山本様 お世話になっております。何か色々と相談に乗っていただいたようで、おかげさまで守はまた学校に行くようになりました。ですが、今後は守のことはこちらで何とか致しますのでこれ以上守と会わないでやってください。もう高校3年にもなりますので

そろそろ受験にも本腰を入れて貰わないといけませんので。色々とありがとうございました。」

ノッコはそれを見て安心したが、守君は一体どうしようとしているのかが分からなかった。やはり医者を目指すのだろうか?こればっかりはノッコが決めることではなかったので何とも言えなかった。公園で夕日を見た日に守から携帯のアドレスを聞いたのでメールをちょっとだけしてみたが、守から返事は来なかった。しかし、そんなある日守がノッコのアパートに一人でひょっこりやって来た。

「守君、どうしたの急に」

「突然ごめんなさい、親に内緒で来ちゃいました。今時間大丈夫ですか?」

ノッコはピアノの練習をしていたが

「別にいいよ・・・ちょっと休憩しようと思ってたから」と言って守をソファに座らせた。

「最近どう?」

「学校にはちゃんと行ってます。塾にもまた通い始めました。病気もよくなってきたかな・・・」

「塾に?じゃあやっぱり医者を目指すことにしたんだ・・・」とノッコはそう聞くと

「いえ・・・ちゃんと勉強してないと親が不安がるから一応勉強してるだけかな。でも、自分のやりたいこととか今見つけようとしてるところ。まだ・・・親には言えないんだけど・・・見つかったら絶対言うつもりなんです」

「そっか・・・」ノッコは嬉しそうにそう言った。

守もうなずいた。

「あのさ・・・守君・・・元気になったら気分転換にどっか行こうか?今度の休日とか・・・遊園地とか・・・どう?」

守はちょっとびっくりして

「え、遊園地ですか?どうしてそんなところに?」と聞いた

「気分転換に楽しいことするといいのよ?私も久しぶりに行きたい気分だし・・・」

「ちょっと・・・僕はもう高校生ですよ?」守は恥ずかしそうにそう言うと

「そんなこと言ったら私なんかもうおばさんですよ?年齢は気にしない気にしない・・・よし決定!日曜日の午前10時に水道橋駅で集合ね。着いたらメールするからね」

ノッコはそう言うと守はしぶしぶ「わかった」と言った。




 金曜日の夜にリナから携帯に電話がかかってきた。金曜日の夜はノッコがぐうたらしているのをリナは知っていたのでかけてきた。

「もしもし、ノッコ?」

「はーい、何リナ?」

「あのさー来月ジャズフェスティバルにノッコ出るでしょ?」

ノッコは白川の計らいで久しぶりにジャズフェスティバルに出ることが決まっていた。

「うん、出るよ?それで?」

「それで?じゃないよ、ビッグイベントだからお祝いしてあげようと思ったのに。エミとマユも来るからさ。うちで6時から軽くワイン飲んだり立食のホームパーティーしようと思うんだよね。あなた主賓なんだから当然来てよね。無理なら来週とかにまた延ばしてもらわないといけないから」

「ちょっとーいきなり言われても困るよ。主賓の予定は早めに聞いてよ」

「そんなこといったってさ・・・ここんとこあなた週末ライブとか全然ないし、休日はどうせデートも何もないんでしょ?」

「私も予定あるわよ・・・日曜はちょっと・・・遊園地に行くから」

リナは驚いて

「え、遊園地、まさか男と?え、デート?」

「ちょっとうるさいな。デートじゃないよ。守君と・・・ちょっとね」

「守君って・・・例の医者の子?」

「そうよ」ノッコがそう言うとリナは電話越しに少し笑った。

「何よ・・・何がおかしいのよ」

「ちょっとさ・・・守君ってまだ高校生でしょ?年の離れたおばさんと高校生って、ちょっと何それ」リナはまだ笑っていた。

「いいじゃない。守君やっと自分の道を今決めようと頑張ろうとしてるのよ。だから元気づけようと思って」

「へー自分の道って何?医者はやめるってこと?」

「そうなの・・・まだ分からないけど今それを必死に探そうとしてるの」

「へーそうなんだ・・・」

「あ・・・そうだ、リナも一緒に来てくれる?遊園地に」

「え?ちょ・・・ちょっと何で私まで行かなきゃいけないのよ」リナは慌ててそう言った。

「リナ、守君のことよく分かってたじゃない・・・リナに教えてもらったんだよ、守君が挫折して人生に悩んでるんじゃないかってこと」

「あ・・・あれはちょっとそう思ってアドバイスしただけじゃん」

「とにかく来てよね。来てくれないならパーティーも行かないから」

「ちょっと、何なのよノッコ。それはないでしょ」

リナは少し電話越しにため息をついて

「はー、分かったわよ。行きます。その代わりパーティーには絶対来るんだよ。あなたのためにやるんだから」言った。

「ありがとーリナ。あ・・・あとついでにさ・・・遊園地のあとホームパーティーにも守君連れてっていい?」

「え・・・ちょ・・・ちょっと・・・それはさすがに関係者ばっかりだから部外者いるのはまずいんじゃない?」

「えーだってエミとかマユだけでしょ?来るのって?守君今何か自分の道探そうとしてるんなら、色々な人に会って刺激もらった方がいいかと思って」

「まあ・・・そりゃそうかもしれないけどさ・・・でも・・・社長も来るよ?あと社長が呼んだジャズフェスティバルの関係者の人も来るって。守君のことどう説明するのよ?会せたら言い訳できないじゃない。NPOのことばれちゃうよ」社長も来るという言葉には驚いたがノッコは

「そうなんだ。でも別にいいよ、もうばれてるからさ。一度社長には呼び出されて注意されたから」

リナはため息をついた。

「ばれてるって・・・あんたねー・・・そんなんじゃ社長に会えないじゃない。今回あなたが久しぶりにジャズフェスティバルに出れるのだって社長が散々頭下げてくれたからなんだよ?社長は必死だよ?だから今回是非ノッコと話がしたいからって来ることになってるんだから・・・それなのにパーティーで守君を見たらどう思うことやら・・・」

「そうだけど・・・仕方ないじゃない・・・とにかく守君はパーティーに連れてきますから」といってノッコは電話を切った。

プープーと電話の切れる音がした。

「もう!決めたら絶対に譲らないんだから・・・」電話を切られたリナは怒って携帯をべベッドに放り投げた。




 日曜日の午後10時に水道橋駅で待ち合わせてノッコとリナと守は東京ミッドウェーランドに行った。

「ノッコさー、何でコーヒーカップなのよ・・・普通さーコーヒーカップっていったらカップル同士でしょ?」

三人でコーヒーカップに乗っていた。確かにコーヒーカップに乗っているのは周りにカップルしかいないようだった。コーヒーカップでの30代の女二人と高校生の男一人の組み合わせは少し異様だった。

「いいじゃないリナ、コーヒーカップってなんかみんなで話しやすいじゃない」

ノッコが嬉しそうにそう言うとリナはため息をついた。

「守君も楽しいでしょ?」ノッコがそう言うと守は

「はい」と楽しそうに言った。

リナは

「いいのよ、こんなおばさんにわざわざ気を使って合わせなくても」と言った。

「おばさんで悪かったわねー。あなたもおばさんじゃない」とノッコが言うと二人は言い争いになった。

それを見て守は笑っていた。

「今度あれ乗ろうよ」ノッコははしゃいで二人を誘ってジェットコースターに乗った。

「もう、私速いの苦手なのに」リナは言いながら付いて行った。

「キャー」と大はしゃぎしながらみんなジェットコースターに乗っていた。

リナと守は隣同士に座ってノッコは後ろに一人座っていた。

リナもノッコも絶叫していた。守も少しだけ楽しそうに叫んだ。

「次はあれ行こう」とノッコは絶叫マシーンを指差した。

「あなたが一番楽しそうなんだけど・・・私もうさっきのジェットコースターで少し酔ったから無理」とリナは言ったが

「年寄臭いこといわないの」とノッコは無理やりリナは引っ張って行った。

絶叫マシーンでもノッコとリナは絶叫した。守も楽しそうだった。

一通り色々な乗り物に乗ると三人は遊園地の休憩用の椅子に座った。

ノッコがたこ焼きやクレープや飲み物を買ってきた。

「はい、どーぞ」といってテーブルに置いた。

「ありがとうー」とリナはいっておいしそうにたこ焼きを食べ始めた。

「ありがとうございます」守もお礼を言った。

しばらく食べたり飲んだりしていたが守はあまり食べなかった。

「それにしてもカップルばっかりだねー。やっぱり休日だからかな」

「休日じゃなくても遊園地はカップルがそもそも多いのー」リナはたこ焼きを食べながらそう言った。

「それは失礼しましたー」とノッコは言った。

「遠慮しないで食べなよ、守君」リナが守にそう話しかけると

「はい」と言って守もたこ焼きを食べ始めた。

一通り食べ終わるとノッコが

「ごめん、わたしトイレ行ってくる。ちょっと待ってて」と言って走ってトイレを探してかけていった。

「ちょっとーいちおう男の子の前なんだからトイレとか言わないでよね。せめてお手洗いとかいってほしいは」とリナは言うと守は少し笑った。

笑ってる守にリナは話しかけた。

「守君だっけ・・・さっき朝ちょっとしか挨拶できなかったけど・・・ノッコの音大時代からの友人の片瀬里奈です。みんなは私のことリナって言います」

「はい、はじめまして僕は川澄守っていいます。ノッコさんに色々とお世話になってまして・・・」と守は真面目そうに堅苦しく言うと

「知ってるよーノッコから全部聞いてるから。ノッコは・・・どうですか?」とリナは聞いた。

「どう・・・ってどういうことですか?」

「うーん、ノッコの性格とか、守君と合うとか合わないとか・・・守君の悩みの解決につながってるかなーとか」

守はしばらく黙っていたが

「はい・・・ノッコさんすごく優しいです。僕に色々教えてくれるし・・・ちょっと・・・変わってるけど」と言うと

「そっかー・・・一応慕われてるんだね・・・よかった・・・よかった」

守はまた黙ってしまうと

「ノッコのこと・・・宜しくね・・・ちょっと不器用で非常識でがさつなところあるけど・・・ハートはあるから・・・」

とリナはノッコのことをそう言った。

「いえ・・・僕の方がお世話になってる・・・・」と守がそう言いかけると

「ごめーん、待ったー?」とノッコが押し入ってきた。

「別にトイレの人なんか待ってないわよ」リナが言った。

「何々、二人で何話してたのー?」ノッコが興味深々に聞くとリナは

「別にーあなたが何でノッコっ呼ばれてるのかって話してたの」と言った。

「何よそれ」

「実際どうなの?そういえば音大のときからもうすでにあだ名はノッコだったよね?」

「何でもいいじゃない・・・山本紀子ってあまりに平凡じゃない?だから中学のときにノッコってあだ名自分で考えて友達にそう呼ばせたの」

「えー、そうだったんだ・・・じゃあ中学のときからなんだ」リナは驚いてそう言った。

「そういうあなたはどうなの?リナは?」

「私は別にそのまんまじゃない。本名も里奈だし」

「でも、カタリーナってアーティスト名は?」

「それも、リナをかっこよくしただけ。なんかいかにもアーティスト歌手って感じでしょ?」

「そうねーなんか外人気取ってる感じだけど」ノッコがそう言うと

「何よあなたもNokkoなんてジャズアーティストの割に変な名前」

と言って二人は言いあっているのをみて守は少し笑った。

「何よ、守君まで笑うことないじゃない」ノッコは守につっこんだ。

笑いがさめると

「今日守君さ、この後私たちのホームパーティーに行きましょう。携帯で内容送ったでしょ?」ノッコがそう聞くと

守は「あ、はい」と言った後黙ってしまった。

「何か用事あった?「了解しました」って返事しかなかったから大丈夫かと思ったんだけど」

「あ、はい。用事はないです。でも・・・僕が行ってもいいんですか?」

「大丈夫よ、誰も気にしないから。内輪の軽い立食パーティーするだけだから。行きましょ?」ノッコがそう言うと守はこくん、とうなずいた。

「ねえ、ノッコどうする?6時までまだ結構時間あるよ?どっかで時間つぶす?」

「そうねー」

ノッコは迷ったが三人で景品屋で射撃をしたり、その後に遊園地内でお土産屋を回って時間をつぶしてからリナの家へ向かった。食事の準備があるので少しだけ早めに着くようにした。



 リナのアパートは南青山の住宅街にあった。そんなに大きなアパートではなかったがリナらしくクラシックな感じでリビングにはシャンデリアやアンティークなデコレーションで部屋が飾ってあった。玄関を入ると左側の奥にトイレ付のユニットバスのシャワールームがあり、さらに奥には小さなクローゼットの部屋と寝室があった。玄関の正面に入るとリビングがあってはじのほうにはパーティー用のガラスのテーブルがあってそれを囲うように白いソファが置いてあった。ソファの横には40インチくらいのテレビが置いてあった。リナは料理とパーティ好きで何かお祝いがあったらそのたびに手料理を作って色々な人を呼んでいた。だからノッコとは関係のないオペラ関係の関係者なども頻繁に家に呼んで、そのソファを囲んで立食パーティーをしてた。リビングには奥の方には他にもオーブンやレンジや食器などが一通り綺麗にそろったキッチンがあった。キッチンにはカウンターがあってその横には丸い立ち飲み用のテーブルが置いてあった。キッチンの向こう側には四角い黒色の小さめのテーブルと同じく黒いイスがあって、その奥にはCDの収納棚や本棚などがあり壁に可愛い鳩時計がかかっていた。リビングの窓からはベランダにつながっていてリナの部屋は3階だったので南青山の景色が眺められた。ノッコは時々リナのアパートには来ていたがいつもながら整理整頓されていた綺麗だった。

「ちょっとソファでくつろいででくれる?」リナがそう言うとノッコと守はソファに座った。リナはキッチンで食事の用意をしているようだった。昨日の間に作ってあった、ローストチキンとサーモンなどの魚介のカルパッチョとオニオンスープだった。その他にもサラダや買ってきたスイーツなども少しだけ置いてあった。リナは料理が得意で見た目も中身も全部おいしそうだった。カウンターには赤ワインと白ワインとシャンパンのボトルとワイングラスが置いてあった。

「へーおいしそうじゃない」ノッコはこんなの自分は作れないという感じでキッチンテーブルに置いてあった料理を覗いた。

「ソファーで待っててっていってるでしょ?ローストチキンだけオーブンで焼くから。じきにエミとマユが来るから。社長はちょっと遅れるって。先食べてていいって連絡があった」

「はーい」といってノッコはソファに座った。

ノッコはソファの横の本棚にあったクラシック系の雑誌を少しの間だけ読んでいた。守は少し緊張しているようでソファで黙っていた。

リナが

「やっぱりちょっとカウンターの上にある料理と食器類だけテーブルに運んでくれる?」

と言ったのでノッコは手伝うことにした。守も少しだけ手伝った。

6時頃になるとピーンポーンとインタフォーンが鳴って、エミとマユがアパートに来た。

「こんばんは、リナ先輩」

「お久しぶりですノッコ先輩」

エミとマユはノッコたちのレコード会社の後輩で、エミはポップスの弾き語りの歌手をしていて、マユはシャンソンを歌っていた。二人とも20代くらいだった。

「ちょっとソファーでノッコと待っててよ、ローストチキン今焼いてるから」リナがそう言うと

「はーい、分かりました」

「わーおいしそう、リナ先輩いつもすごいですよね」エミが感動してそう言った。

マユが守に気がついて

「こんにちは、ノッコ先輩の知り合いですか?」

「あ、はい、川澄守といいます」守は恥ずかしそうにそう言った。業界の人たちがたくさんいるので少し緊張しているようだった。いつも自分の周りにいる普段会う人たちとちょっと雰囲気が違うので守はちょっとどきどきした。

「あのさ・・・あなたたちに前お願いしたでしょ?例のNPO法人のやつで・・・それで守君は私のところに来てるの」

「あーあれですかー。私ノッコ先輩に言われて署名したんですけど・・・よく分からないからホームページ見たんですよ。何か音楽で色々と悩んでる人のヘルプみたいなのやってるんですよね?」マユがそう聞いた。

「そうなの・・・そういうこと」ノッコがそう言うと、

「ノッコ先輩ってやることとか発想がすごいですよねー」エミもそう述べた。

そんなこんなの話をしているとローストチキンができたのでみんなでワインをあけて食事を食べることにした。守だけはジンジャーエールを飲んだ。

しばらくすると、白川社長もやってきたのでリナはドアを開けた。隣には例のジャズフェスティバルの関係者もいた。

「こんばんは、お邪魔します」白川がそう言うと

「いらっしゃいませ、どうぞ社長。もう先にいただいてますから。ソファにさあ座って」

「こちら、前話したJZ Labelの御山さんだ」と白川が言ったので

「あ、どうも、こんにちは。いつもお世話になっております」リナが御山に挨拶をすると

「こちらこそお世話になっております。JZ Labelの御山です。今日はお邪魔しますね」と御山もお辞儀をした。

「あ、これブルゴーニュ産のワインだ。家にあっておいしそうだから持ってきたよ。みんなに出してあげて」と白川はリナにワインを渡した。おいしそうに熟成した高価なワインそうだった。

「ありがとうございまーす。さあ、どうぞどうぞ」

そう言われて白川と御山もソファーに座った。

「こんばんは社長」

「こんばんは」エミとマユは挨拶した。

ノッコも社長にお辞儀をした。

白川は守に気がついたが挨拶はしなかった。

しばらくみんなで色々な談話をしながら食事を食べたりワインを飲んだりしていた。

だんだんみんな酔いが少し回ってきたらしく滑舌が増してきて、社長とマユは丸い立ち飲みテーブルで一緒に立ちながら、皿に盛ったチキンなどを軽く食べたり赤ワインを飲んでいた。その横には御山も立っていた。

リナがマライアキャリーやセリーヌディオンなどの洋楽コレクションをかけたので歌がリビング中になり響いていた。

「ちょっとー社長聞いてくださいよ。私コンサートでこの恰好で出ると評判悪いらしくってー」マユが笑いながら社長に話しかけていた。

リナはカウンターで白川社長にもらったワインボトルのコルクを開けようとしていた。その横ではエミがスイーツを皿に盛る手伝いなどをしながらリナに話しかけていた。「私今度発売するCDで初めてCM出させてもらえるんですよー」何やら二人も守にはよく分からない業界の話をしているようだった。

全員守の知らない別世界の会話をしているように聞こえた。ノッコはしばらく一人で食事をばくばく食べていたが、守が一人でソファにぽつんといたので話しかけた。

「あ、守君ごめんね・・・みんなの紹介してなかったよね・・・あそこにいるのが、レコード会社の白川社長で・・・あそこにいるのが・・・」と色々とノッコは守に説明した。

「あ、うん」とうなずきながら守はその話を聞いていた。

すると白川が

「ちょっとノッコ君、君もこっちに来て一緒に飲もう。御山さんのこと紹介するから」とノッコに話しかけてきた。

「あ、はーい。今行きます。ごめんね、守君」ノッコは機嫌よさそうに白川たちの方に行った。ノッコも少し酔っているようだった。

守はソファでしばらく一人で食事を食べていると、リナとエミがスイーツと開けたワインボトルを持ってきた。

「守君、楽しい?」リナが守にそう聞いた。

「はい、楽しいです。色んな知らない世界が知れて」と守はそう言った。

「よかったー、あ・・・よかったらこのスイーツ食べて」とリナは守にスイーツを勧めた。

「守君って今高校生とかですか?」エミがそう聞くと

「あ、はい××高校の3年にこの前なりました」と守が言うと

「えーすごいじゃない、有名な高校だよね?私でも知ってる」エミは驚いてそう言った。

「いえ、別に」守は下を向いて恥ずかしそうに言った。

「守君はね、色々と悩みがあってノッコに相談してるの。っていってもノッコが時々暴走してるんだけど。私も時々ノッコにそのこととか相談受けたりしてて」リナがそう言うと

「えー、頭のいい高校の子でも悩みってあるんですね。私なんかバカだったからそういうのよく分からない。え、どういったことで・・・」エミが少し酔いながらそうずばっと言うと

「ちょっとエミ」とリナはエミのしゃべるのを遮った。

「えー、何でですか先輩。私守君に色々聞きたいんです」とエミは残念そうに言った。

「あなたちょっと酔ってるから向こうで水道水でも飲んできなさい」

そう言ってリナはエミを無理やりキッチンの方へ行かせた。

リナは

「ごめんね、守君」と謝ると

守は「いえ、別にいいんです」と言って

「あの・・・ちょっとベランダに行ってもいいですか?風に当たりたいから」とソファを立ち上がった。

「あ、いいわよー・・・ベランダの入口にサンダルあるから」

「ありがとうございます」そう言って守はベランダに一人で行った。

リナは心配そうに守がベランダに行くのを見た。

「先輩、ジャズフェスティバル頑張ってくださいよ」マユにそう言われてノッコは

「ありがとねー見に来てよ」そう言いながら、守がベランダに居るのに気が付き少し心配になった。


守はしばらく一人でベランダに立って夜風に当たりながらぼーっとしていた。ベランダからは南青山の住宅街が見えた。守の住んでいる世田谷も高級住宅地だったが、南青山はもっと派手な高級住宅地に見えた。高校生の守は普段は南青山なんかあまり来ないので景色が斬新だった。ベランダからは住宅街だけでなく、向こうには表参道らしきものが見えた。

しばらく15分くらいぼーっとしていると、ベランダに白川がやってきた。

「守君・・・だっけ?さっきノッコ君に教えてもらったよ」

そう言いながら白川は守の横に来た。片手には白ワインの入ったワイングラスを持っていた。

「あ、はい・・・今日はお邪魔してます」守は社長と呼ばれる人に話しかけられて何だか緊張しながらそう答えた。

「ノッコ君のNPO法人の方で・・・知り合ったんだってね・・・」

「あ、はい・・・色々とお世話になってます」

白川はしばらく黙っていたがやがて

「色々悩みを聞いてもらってるんだってね・・・」

「え?」

「あ、いや・・・彼女のNPOのホームページを見る限りだと・・・あとノッコ君からさっき聞いた話しから察するにね・・・」

「はあ・・・そうですけど」守は白川が何を言いたいのかよく分からないのでとりあえずそう頷いた。

「どう・・・?ノッコ君は?色々悩みとか聞いてもらえる?」

「はい、色々と話を聞いてもらってます。音楽の楽しさとかも教えてもらってます」

「そっか・・・それはいいことだな」

守はまだ白川の言いたいことがよく見えなかった。

白川はため息をついた後に、逆向きになって背中をベランダの背もたれにもたれかけて上を見た。

「でもね・・・守君・・・君は・・・知らないかもしれないけど・・・。彼女は今大変な時期なんだ。君は高校生だからまだ社会のことはよく分からないかもしれないけど・・・音楽業界は大不況でね・・・見た目はこんなパーティーを開いたり派手かもしれないけど。

まあ、昔からの慣習で悪いところでもあるんだけど。そんな中で・・・彼女の売り上げも毎年下がっているし・・・会社としても今彼女の今後の方針をどうしようか大々的に考えてるところなんだ」

高校生の守は業界のことはよく分からなかったが、この社長の言おうとしている意味はなんとなくで分かった。

「私はね・・・昔彼女の音楽に惚れて彼女をスカウトしたんだ。それからずっと長い縁でね・・・。自分でスカウトしたから彼女の音楽にはとても愛着がある。だからね・・・彼女の音楽がつぶされるのが嫌なんだ。今後もし彼女が売れなくなったら、会社として困るだけでなく私自身も困るんだよ」

守はやっと社長の言わんとしている意味が何となくで分かった。

「彼女の音楽にはまだまだ無限の可能性がある。私はそれを台無しにしたくない。だからね・・・彼女にはあまり負荷をかけさせないでほしいんだ」

守は社長の言っている意味がようやく分かったが、何も言えなかった。

「分かってくれるよね」

少しため息をついて白川はまたリビングへ戻って行った。

守はその話を聞いて何も言えなくりまた景色を眺めた。

トイレから帰ってきたノッコは白川がベランダから入ってきたのを見た。ベランダには守がいるようだった。「二人で何を話してたんだろう?」と疑問に思った。

しばらく立食パーティーは続き、9時くらいになると白川が

「明日も仕事があるから失礼するよ。今日はごちそう様でした。じゃあ、ノッコ君来月のジャズフェスティバル頑張って」と言った。

御山も「私も失礼致します、今日はどうもお邪魔しました。お食事おいしかったです」と言って白川と一緒に帰っていった。

エミとマユも「あ、社長・・・私たちも一緒に帰ります。先輩お邪魔しました。ありがとうございました」と言って後を追って出ていった。

リビングにはノッコとリナが取り残された。

「あー久しぶりにパーティー開いて楽しかった」とリナが背伸びをしながら言った。

「お疲れリナ」

「別に、私料理とパーティー大好きだから」

「片づけ手伝うよ」とノッコはリナと一緒に食器を片づけた。

守もベランダからリビングに入ってきて食器を片づけるのを手伝った。


表参道駅までノッコは守と夜道を歩いて行った。

「守君楽しかった?」

「はい、楽しかったです。こんなの初めてだったから少し緊張したけど」

「そっか、よかった、よかった」夜風で少し酔いがさめたがまだ気分がよかったので機嫌よくそう答えた。

「守君、社長とは何話してたの?ベランダに二人でいたでしょ?」

「いや・・・別に。ノッコさんとはどういうことやってるのかとか・・・そんなこと」

「へー、そうなんだ。何て教えたの?」

「色々悩みを聞いてもらったり、音楽の楽しさを教えてもらってますって」

「へー、そっか」ノッコは不思議そうに守を見た。

表参道駅まで着くと、

「じゃあ、ノッコさん今日はありがとうございました」とお辞儀をして守は地下鉄の階段を降りようとした。

「うん、じゃあまたね」

すると、守は階段の前で振り返り

「ねえノッコさん、人って何でこんなに・・・頑張らないといけないのかな・・・」とつぶやくように一言言った。

「え?」ノッコは一瞬何の事だかよく分からなかった。

「時々・・・生きてるのが・・嫌になる」

「え・・・?」

そう言うと守は地下鉄の階段を降りようとした。

「ちょっと、守君!」ノッコは守を呼び止めた。

守が振り返ったのでノッコは守の方へかけていって

「はい、これ」と守にアパートの鍵のスペアを渡した。

「これは?」守はノッコに渡された鍵を見た。

「アパートの鍵よ。いつでも来たかったら来て。私がいないときとかでも勝手に入ってていいから」

守はしばらくぼーっとしていたが、

「ありがとうございます」とお礼を言って再び振り返り階段を降りて行った。

守の後ろ姿は元気がなさそうだった。




 それから守はノッコのアパートに全く来なくなった。守のお母さんの話では学校にはちゃんと行っているとのことだったが、元気かどうか心配だったので守の携帯に一度だけメールをしてみたが、返事は来なかった。お母さんのPCアドレス宛てに送って守の様子を聞こうかと思ったが、「守とはもう会わないでください」と言われてしまったのでそれ以上聞くに聞けなかった。そんな不安とは関係なくジャズフェスティバルの開催が間近に迫っていたので、ノッコは練習に明け暮れることにした。まるで守のことを必死に忘れようとするかのように。



 一か月後の土曜日にジャズフェスティバルは開催された。ノッコは午後3時頃まで自宅のピアノで練習をして、会場に向かうことにした。会場は有楽町付近のコンサートホールで行われることになっていた。正式名は東京ジャズフェスティバルと言って、日本一の規模、というほどではなかったがそれなりに国内で有名なジャズアーティストしか出演できない有名なコンサートだった。中には世界的にも有名なアーティストも出演することもあった。ノッコはデビュー当時に一度だけ出演したことがあったが、それ以来このイベントには呼ばれたことがなかったが、白川の計らいでノッコは再び出演できることになったのだった。ノッコは楽屋に入り準備をしていた。

開場時刻になったので客がぞろぞろと入場し始めた。リナも入場して席に座って開演時刻になるまで待っていた。コンサートホールはかなり広くリナは後ろの方の高い位置の座席だったのでその広さがよく分かった。ステージにはでかい立派なグランドピアノが設置されていて、ステージの天井からは「東京ジャズフェスティバル201x」とたすきのようなものがぶら下がっていた。

「ノッコ、こんな広いホールでやるの久しぶりだから大丈夫かな・・・」

ジャズフェスティバルの出場者の予定は5名でノッコは3番目の出番だった。開演時刻になり一人目の神谷誠二というアーティストがステージに上がってきて演奏が始まった。リナはこのアーティストは知らなかったがコンサートプログラムの出演者のプロフィールを見るとかなり有名な人のようだった。ピアノのタッチも素晴らしく華麗な曲をたくさん弾いていた。

一人目の演奏が終わると観客席から拍手が起きた。

「ノッコは次の次か・・・」リナはノッコの出番はまだかな、と待ちながらコンサートプログラムの次の出演者のプロフィールを見て仰天した。「沙希ヒカリ」という20代の新鋭トップジャズアーティストでリナもよく知っていた。世界中の海外メディアからも注目されつつある若き精鋭だった。

「え、嘘なんでこんな人が出てるのよ?」リナはどきまぎしてきた。

これは白川の計らいだということはリナもノッコも知らなかった。ノッコにとっていい刺激になると思って、沙希ヒカリが出演する今回のジャズフェスティバルにノッコを出演させたかったのだった。沙希ヒカリの出番を待ちながら白川も真ん中あたりの席でステージを見ていた。

ノッコは楽屋で衣装などの着替えやヘアメイクをし終わり、本番前に備えてイメージトレーニングをしていた。さすがにノッコも緊張してきて「ふー」と大きく深呼吸をした。

その時ノッコの携帯に電話がかかってきた。

「はい、もしもし?」

「あの・・・山本さん?私です・・・川澄恵子です」

ノッコは恵子さんから電話があるなんてなんだろう、と不思議に思いながら

「はい、そうですけど・・・どうしたんですか?」

「いえ・・・・・・山本さん、あなたね・・・もしかして、最近守と連絡取り合ったりしてないかしら?」

「いえ・・・最近は全く会っておりませんが」

自分から守とは会わないように、と恵子さんが言ったのではないか、とノッコは思った。

「そう・・・それならいいんだけど・・・」恵子さんが何やら深刻そうだったので、

「守君に何かあったんですか?」

「え・・・ええ・・・それが・・・家に帰ってこないんです・・・もう3日も」

ノッコは恵子さんの思わぬ言葉にびっくりして

「それって・・・いなくなったってことですか?」

「ええ・・・それも突然。学校にも行ってないようだし。守の友達宅にも塾にも精神科にも親戚中にも電話をかけたんですが・・・どこにもいなようなんです。もしかして、山本さんのところにお邪魔してないかと思いまして・・・本当に守そちらにいませんよね?」

「はい、今日は日中自宅にいましたが守君は来ませんでした」ノッコは本当のことだったのでそう答えた。

「そうですか・・・ありがとうございます。もし守がそちらに来るようなことがあったら申し訳ないですが・・・こちらに連絡いただけますか?」

「はい、分かりました。すぐに連絡します。今外出中なのですが、帰ったらどちらにしろまた夜に電話しますね」

「はい、ありがとうございます。そちらにももしいないようなら、警察に電話するしかありませんよね。突然ごめんなさいね・・・それでは失礼します」

そう言って恵子さんは電話を切った。プープープーという電話の切れる音に妙な緊張感が走っていた。いつもは少し気取った感じで話す恵子さんが沈んだ感じで話していた。ノッコも他人ごとではなく守のことが心配になった。そういえば、パーティーの帰り道に守はやけに沈んだ顔をしていたのを思い出した。パニック障害ということもあり普段から守は元気がなかったのだが、あの日はとりわけ憂鬱そうに見えた。そんな心配をしていると楽屋の外が急に騒がしくなった。どうやら会場ステージの方で大拍手が起きているようだった。沙希ヒカリが舞台に立って挨拶をしているのだとノッコは思った。

沙希ヒカリは見事な演奏で曲を披露していた。自作の曲を弾いているようだったが、即興演奏ではないかと思えるくらいの速いスピードで弾いていた。弾き方は機械のように素晴らしく正確でミスタッチはゼロで完璧だった。それでいて、熱いほとばしるような情熱が演奏から伝わってきた。ノッコも楽屋でその音を聞いていて「さすがだ」と思った。

リナは会場でその演奏を聞いていた。

「すごいは・・・格が違う。ノッコ・・・あんな人の後にやって大丈夫かな」

白川も

「すごい、素晴らしい」と感心しながら演奏を聞くのに没頭していた。

「そろそろ出番です、準備の方お願いします」と会場の係員の人が楽屋に入って来たので

ノッコは

「あ、はーい、わかりました。ありがとうございます」と返事をした。

沙希ヒカリは3曲の演奏を終わりステージでお辞儀をした。大拍手が起きた。

「ブラボー」誰かがそう叫んだ。

沙希ヒカリはもう一度お辞儀をするとステージを去って行った。

ステージの横のスタンバイ席でノッコは待っていた。10分くらい待つとやがて自分の番になった。「Nokkoさん、お願いします」スタッフの人がそう誘導してくれたのでノッコは

立ち上がってステージの中央へ向かった。久しぶりのその会場はやけに広く見え緊張感が走った。照明がまぶしくステージから観客席の方は真っ暗闇に見えた。ノッコは真っ暗闇の観客席に向かってお辞儀をした。拍手がなった。リナが「ノッコ頑張れ」と小声でいった。

ノッコはグランドピアノの前に座った。自宅にあるものの倍くらいあるのではないか、と思えるくらい大きなスタインウェイの高級グランドピアノだった。ノッコはピアノの前に手を置きやがて弾き始めた。ノッコも他に出演者同様3曲弾くことになっていたが、1曲目は「ラストダンス」という曲だった。社長の勧めで選曲したもので、ノッコの曲の中では哀愁漂うスローなジャズナンバーだった。まさにラストダンスという曲名にふさわしい雰囲気の曲だった。この1か月守のことを忘れようと必死に自宅で練習した曲だった。そのためかなりの完成された出来の演奏だった。

「ノッコ、すごいじゃない」リナは安心したと同時に感心してノッコの演奏を聴いていた。

白川も嬉しそうな表情でノッコの演奏を見ていた。

ノッコはこの曲は好きな人との最後の思い出という悲しいストーリを描いて作ったものだった。ノッコは恋愛とかは苦手だったが、こんな悲しいけど素敵な恋愛があったらいいなと思いを込めて作った曲だった。最初は出会いから始まりスローに始まり、途中でストーリーが紆余曲折するシーンでは激しい演奏になり、最後はラストダンスを一緒に踊り再びスローに弾くことになっていた。

ノッコは思っていたよりもうまく弾けて演奏に真剣に向き合おうとしていた。だが、途中で何となく守のことが脳裏に過った。

「家に帰ってこないんです・・・もう3日も」恵子さんの言葉を思い出した。

その時ノッコはパーティの最後に守と別れたときに守が言ったセリフを思い出した。

「ねえノッコさん、人って何でこんなに・・・頑張らないといけないのかな・・・」

ノッコは演奏に集中しなきゃ、と思いながら必死にピアノに向き合おうとした。しかしまた守のセリフがフラッシュバックした。

「時々・・・生きてるのが・・嫌になる」

生きてるのが・・・嫌になる?

やがてノッコは演奏を弾き終わった。

ステージからは大拍手が起きた。沙希ヒカリのときと変わらないくらいの喝采だった。

ノッコは観客の方をちらっと見た。拍手が聞こえていた。自分のために拍手の音が響いていた。だが、ノッコは何でそんな拍手が聞こえてくるのかよく分からなくなった。心は空っぽになり、自分はなぜこんなところにいるのかが分からなくなった。

ノッコは突然思いきり立ち上がった。椅子は少しぼんっと後ろの方に退いた。まだ1曲しか弾いていないのに急にノッコが立ち上がったので急に観客席がざわざわしだした。

リナは

「ちょっと・・・ノッコ何やってんのよ?」リナはノッコの行動の意味が分からず驚いた。

白川も驚いて少し身を乗り出した。

ノッコはしばらく観客席の方を見ていた。相変わらずざわざわしていた。

ノッコはステージの前の方へ行き、突然お辞儀をした。お辞儀をした後、いきなり走り気味にステージを去ってしまった。

観客席の方はさらにすごいざわめきになった。コンサートホールとは思えない騒音になった。

「ちょっと、ノッコ?」リナは叫んだ。

白川も慌てて席を立ちあがりノッコが去って行った方向を見た。





 ステージの裏の非常通路を抜けてドアを開けてホールの二階に出た。二階の廊下を走って行くと、長い1階廊下へと続くでかい豪華な階段がありノッコは降りて行った。そのままノッコはエントランスまで廊下を走って行き、エントランスの自動ドアを開けて外へ飛び出した。エントランスの警備員がノッコの出て行くところを不審そうに見た。

ノッコは一心腐乱に有楽町駅まで走り急いで電車に乗ろうとした。守はどこにいるのだろうか?どこへ行けばいいのだろうか?その時恵子さんの言葉を思い出した。

「もしかして、山本さんのところにお邪魔してないかと思いまして・・・本当に守そちらにいませんよね?」

ノッコは自宅アパートに向かうことにした。守には鍵を渡してあったのでもしかしたら家にいるかもしれない、と思った。その時ノッコは嫌な予感がした。貴子が自宅アパートで自殺をはかろうとしたのを思い出したのだった。まさか、と思いながら急いで電車に乗った。

地元の駅に着くとノッコは走って自宅アパートに着いた。

「守君?いる?いる・・・なら返事して?」

ノッコは息切れしながらリビングを覗いたが誰もいなかった。シャワールームが心配だったので開けてみた。

「守君?」

しかしシャワールームにもいなかった。水だけがぽた、ぽた、と垂れる音がした。

トイレと物置部屋と寝室も全部覗いてみた。

守はいないようだった。シャワールームにいなかったのが幸いだったが、それと同時にどこにいるのか見当がつかなくなりまた不安になった。

「ど・・・どこに・・・いるんだろ・・・?」ノッコの鼓動はまだ鳴っていた。

部屋は静まり返っていた。

「学校にも行ってないようだし。守の友達宅にも塾にも精神科にも親戚中にも電話をかけたんですが・・・どこにもいなようなんです。」

恵子さんがそう言っていたのを思い出した。見当のつく場所は恵子さんがすでに全部調べているようだった。ノッコは守がどこにいるのかますます分からなくなった。

ノッコは再びアパートの外に出た。その時リナから携帯に電話があった。

「もしもし?」ノッコが出ると

「もしもし、ノッコ?あなたどうしたのよ、いきなりステージから出てったりして!」

リナは少し声を荒げてそう言った。

「ごめん、ちょっ・・・ちょっと・・・今、それどころじゃ・・・ないのよ」

ノッコは息切れして返事した。

「それどころじゃないじゃないでしょ?会場中大騒ぎだよ?社長が今関係者全員になんとか説明して頭下げて回ってるんだから。一体どうすんのよ?」

「ま・・・守君・・・守君がね・・・いなくなっちゃったのよ」

「は?いなくなっちゃったって?どこに?」

「どこにってそれが分からないから・・・探してるのよ。自宅にも学校にも友達の家にもどこにもいないんだってさ」ノッコは少しだけ息切れが直ってきた。

「何よそれ・・・それって・・・もしかして行方不明ってこと?」

「そう・・・みたい・・・」

「えー、それじゃあ今すぐ、警察に言わないと。あなたが探したって見つからないって」

「警察にも言うけど・・・でも今すぐなんとか見つけないと・・・手遅れになるかもしれないの!」ノッコは少し大きな声で言った。

「ちょっと・・・手遅れって何よそれ」

「前にね、うちに来てた貴子ちゃんって子が自殺未遂したことがあってね。守君もね・・・この前そんなことをほのめかすようなこと言ってたの思い出して・・・もしかしたらと思って」

「ちょっと落ち着きなさいよ。いくらなんでも自殺だなんて大げさでしょ。そんなこと簡単に起こりうるわけないって。あなた少し気が動転してるだけだってば」とリナがノッコに言った。

「本当に起こりうることだから心配してるの!」

リナはそこまで言われると反論できなくなり

「そんなこと言ったってさ・・・どこ探すのよ?この広い東京でさ。心当たりもないんでしょ?」と言った。

「今、私自宅のアパートに帰ってみたんだけどいないみたいなの。だからさ・・・リナも自分のアパートに帰って守君が付近にいないかどうか見てきてもらえないかな?」

「わ・・・分かったわよ。じゃあ私今からアパートに帰ってみるわね。ノッコはどうするの?」

「私も守君の行ってそうなところ探してみるから」

「分かった」

「じゃあ切るね。ごめん」といってノッコは電話を切った。

電話を切るとノッコは守の行ってそうなところを頭の中で思いめぐってみた。この前一緒に行った遊園地とか・・・さすがに夜に遊園地はないだろ、と思った。他にも色々思い出そうとした。そのとき、一緒に行った公園のことをとっさに思い出した。

「そっか、公園かも!」

その時ノッコに不安が過った。あの公園は東京湾を一望できる丘の上にあったのでフェンスを越えたところから東京湾にもしかして落ちてしまうことがあるかもしれないと思った。

まさか・・・と思った。

ノッコは大急ぎで電車に乗って公園へ向かった。

駅を降りると公園の方まで広い道路を一直線で一心腐乱に走った。

ノッコは走っていると途中でずっこけてしまい地べたに手をついた。

「いったー」足を少しすりむいてしまった。しかし、ノッコは再び立ち上がって走り出した。

「守!」

ノッコは叫びながら走った。


その時リナも自宅に着いてアパート付近を探し回ったが守はどこにも見当たらなかった。

「ほら、やっぱりいないじゃない・・・」

リナはアパートの中に入り、ノッコの携帯に電話してみたがノッコは出なかった。

リナは携帯をソファに投げて自分もソファにどさっと座りしばらくぼーっとしていた。

「はあ・・・ノッコ、どこ探してんだろ・・・」




 ノッコは公園の入り口に入った。

ノッコは再び息切れしながら

「はあ、はあ・・・守・・・君?」

と言って公園中を見渡した。夜行ライトが照らしていたが、夜の公園は薄暗く人影もあまり見えなかった。

砂場にも滑り台にも誰もいなかった。奥の方へ行ってみたがベンチにも誰も座ってなかった。

すると、ベンチの向かいのフェンスの向こう側にうっすらと人影が見えた。

人影は暗くて見えなかったが高校生のようだった。

ノッコは

「守・・・君?」と言ってみた。

「誰だ!」人影は叫んだ。

だんだんと暗がりに慣れてきて徐々に顔が見えてきた。顔はよく見るとやはり守だった。

「やっぱり守君!ここにいた・・・」

守もノッコに気が付いた。

「な・・・何、してるの、守君?」ノッコはおそるおそる聞いてみた。

「べ・・・別に何でもない。ただ海を眺めてるだけだ」守はそう言ったが、フェンスの向こうから海に飛び込もうとしているのが明らかに分かった。

「そ・・・そんなとこで眺めてるって・・・ベンチで・・・見ればいいじゃない」

そう言ってノッコは守に少しずつ近づこうとした。

「来るなよ!」守は怒鳴った。

「来るなって・・・」ノッコはさらに近づこうとした。

「く、来るなって言ってるだろ!来たら飛び込む!」守は震えながらそう言った。

ノッコも

「ちょっと待ってよ!何でよ・・・何で・・・そんなことするの?」と叫んだ。

ノッコはそれ以上近づけなくなってしまった。

守は何も言おうとしないでただフェンスに手をつかまり暗い海を上から眺めていた。

「何でよ・・・」ノッコは悲しくなってそう言った。

守は声をはーはー荒げながら少し泣いているようだった。

「も、もう生きてるの嫌なんだ!もう・・・もううんざりだ・・・」

ノッコが

「守君言ったじゃない!?何かを見つけたいと思うって・・・。それ見つけるまで頑張るって」そう言った後、守は少し黙っていたがやがて話し出した。

「父さんに言われたんだ・・・何かを見つけたいって・・・で、でも・・・そんなものは簡単には見つからないって・・・現実を見ろって」

「そんなことない、話したでしょ、私の話?音楽で救われたって、いい出会いがあったって。守君にだってそういう出会いがあるはずだよ絶対・・・守君まだ若いんだしこれからさ・・・」とノッコが言おうとすると

「そんなもんきれいごとだろ!たまたま偶然そんなことあるわけない・・・」

「そんなことない!人にはそれぞれそういう出会いがあるはずだし、私の場合はそれが音楽だったのよ・・・諦めなければそういうのが見つかるはず」

ノッコは守を必死に励まそうとした。

「そんなもん、ノッコさんがたまたま才能があっただけじゃないか!」

「そんなことない、才能だって本当にあるかどうかなんて自分でも分からない」

「でもプロになれたんでしょ?才能があるからじゃないか・・・そういうものが何もなかったらどうすればいいんだよ?」

守は涙声になって叫んでいた。

「才能なんて・・・自分でも他人でも評価できるもんじゃない。自分が才能あると思っても他人が才能ないっていうかもしれないしその逆もあるし。だから・・・他人が何と言おうと自分に可能性が少しでもあるって思ってそれに突き進めばいいんじゃない?それにそれが才能じゃなくたっていいじゃない!自分に向いてること、好きなこと、何かのきっかけで救われたこと。そういうのって人生絶対起きるから・・・そういうの全部含めて・・・やりたいこと見つけていけばいいじゃない。才能がなくたって・・・想いさえあれば、絶対続けられるから」

守はまだフェンスに手をつかんで震えていた。

「そんなのきれいごとだ!そんなもの簡単に見つけられない!」

「どうしてよ!何で・・・そうやって諦めちゃうのよ!」

「父さん言ってた。好きなことだとか向いてることだとか、そんなもんやれるわけないって。もっと現実を見ろって」

「そんなの・・・何が現実で現実じゃないかなんてそんなの分からないじゃない。守君が自分で決めればいいじゃない」

「現実はそんな甘くないんだよ。所詮世の中強いものが勝つんだよ。好きなことだとかやりたいことなんて甘い幻想だ。弱いものは・・・弱いものはこの世界から淘汰されるんだ!」

「弱いから何よ!弱くったっていいじゃない!人間みんな・・・弱いのよ。私だって弱い。だから・・・だから、支えあって生きてくの!」

「そんなこといっても・・・世の中汚いことだらけじゃないか・・・支えあってくなんて嘘だ!弱いものは虐げられて・・・大人の社会は汚ないことだらけじゃないか!」

「確かに世の中汚いことが多いかもしれない。でも・・・でもね・・・そんな世の中でも輝くきれいなことだってたくさんある。そんな・・・そんな世の中絶望ばかりじゃない・・・それに、汚いことがあるからこそ、輝けるものがさらに輝いてみえるんじゃない?前にさ・・・コーヒーゼリーの話したよね・・・?暗いコーヒーを温かい白いミルクが包んでるって。あれを別の例えで言えばね・・・暗いダークな汚い社会を温かい綺麗な世界が包んでるってことだと思う。例え汚い世界があってもね、暖かな輝きが私たちをいつも見守ってるのよ。だからね・・・絶望なんかしちゃいけないと思う」

守はまだ泣いているようだった。今にも飛び込んでしまうんじゃないかとノッコはいてもたってもいられなくなり、守に近づこうとした。

「来るなって言ってるだろ!本当に飛び込むから!」

ノッコは立ち止まって

「守君、本当は飛び込みたいなんて思ってないよ・・・生きたいって思ってるはず・・・」

そう言うと

「そんなこと・・・何で・・・何で・・そんなこと分かるんだよ!」

「それだけ一生懸命・・・人生と向き合ってるじゃない。必死に悩んで色々考えてる。それって守君が生きてるって証拠でしょ?」

「そんなことない!ただ死にたいだけだ!」

「じゃあ・・・何でこの公園に来たの?別に・・・別に、ここじゃなくたってどこでもよかったはずじゃない!ここに来たのって私を待ってたんじゃないの?本当は・・・本当は、誰か止めてくれる人を待ってたんじゃないの?」

ノッコがそう言うと守は泣き出した。

「う・・・う・・・」

「守君・・・」ノッコはその場で立ち止まってただその様子を見ていた。

「な・・・何でだよ!何でここまでするんだよ。他人のくせに・・・親でもないくせに・・・全然関係ないくせに・・・」

ノッコは穏やかな表情で話し始めた。

「関係なくないよ・・・確かに他人だけど・・・他人とも思えない。前に話したでしょ?私本当の両親がいないって。育ての親が育ててくれたって。内心では寂しかった。本当の親が欲しかった。でもね・・・育ての親は私を本当の娘みたいに育ててくれた。たとえね・・・血が繋がってなくてもね・・・想いさえあれば本当の家族になれるんだと思う。だからね、他人同士だって想いさえあれば繋がれるって思ってる。だからね・・・あなたのこと他人だとも思えない!」

「そんなの・・・嘘だ・・・」

「嘘じゃない!」

守はフェンスに手を置いたまま泣き崩れてその場でしゃがみこんでしまった。

「う・・・う・・・」

「生きてれば・・・生きてれば、必ずいいことあるから・・・」

ノッコは守に近づこうとした。守は何も言わずただ静かに泣き崩れていた。

ようやくフェンスのところまでノッコはたどり着いた。

「う・・・う・・・」守はまだ泣いていた。しばらくノッコは守を見ていた。

少しだけ守は泣き止んできたようだった。

「さ、早くこっちに上って来て・・・」

守は数分くらいそれから頭を下げて黙っていた。

その後に守はフェンス越しにノッコの顔を見上げた。ノッコは穏やかに守を見守っていた。

その表情を見ると守はむくっと起き上がった。そして少しづつフェンスをよじ上ってきた。

ノッコはほっとしたと同時に守の行動に感動した。

守はフェンスの頂上まで行きやがてくるっと体を回転させて、ゆっくりと降りてきた。

「守君」と言いながらノッコは守に手を差し出した。

守は何も言わずにノッコの手を取りジャンプして公園の地面に降り立った。

しばらく二人は黙っていた。

「守君」ノッコがそう言うと

守はまた小さな声で肩を震わせながら泣いた。

ノッコは守を抱きしめた。

しばらくずっとそうしていた。

誰もいない夜の公園で。




 ノッコは自分のアパートまで守を連れて帰った。帰る途中の電車の中でも駅からアパートまでの夜道も守はしーんと黙ったままだった。精神的に疲れ切っているようだった。

「今日は、泊りなよ・・・守君。お母さんには言っておくから」

守は「ありがとうございます」と言って頭を下げて物置部屋へ行って寝た。

ノッコはしばらくリビングのソファに座ってぼーとしていた。ノッコも精神的に疲労困憊してどっと疲れが出た。

その時リナから携帯に電話があった。

「ノ・・・・ッコ?リナ・・・だけど」

「うん、分かってる」

「あのさ・・・何度かけてもつながらなかったから」

「ごめん、取れなかった」

「それでさ・・・守君・・・どうだった?見つかった?」

「うん・・・いたよ。前一緒に行った公園にいた」

「そっか。はーよかったね」リナは安心してそう言った。

「守君ね・・・公園で・・・自殺しようとしてた・・・」

「え・・・う・・・嘘・・・」

「でも、もう大丈夫。無事だったら。もう今うちにいて寝てるから。ごめんね、心配かけさせて」

「あ・・・ううん・・・別に私大したこと何もしてないし。そっか・・・よかったね」

「うん、ありがとう」

ノッコは黙ってしまった。

「と、とにかくさ!よかったよかった」

ノッコは「うん」とだけ言ってまた黙ってしまった。

リナは何て話しかけたらいいか分からなくなったので

「じゃあ・・・ね」と言うとノッコがまた「うん」と言ってきたのでその後に、電話を切った。

ノッコはしばらくリビングでぼーっとした後に寝室で寝た。



 

次の日ノッコは守を自宅へ連れて行った。外門をあけるとお母さんの恵子さんが家から飛び出してきた。

「守!」

と言って恵子さんは守を抱きしめた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝っていた。

ノッコはしばらく後ろから二人を見ていた。

恵子さんがその後にノッコに

「本当にありがとうございました。何てお礼いったらいいのか・・・」と言ってきた。

「いえ、別にそんな・・・」

その後も恵子さんは何度もお礼をしてきた。

恵子さんは「是非上がってってください」とノッコに言ったがノッコは断って帰ることにした。守もノッコにお辞儀をして家の中に入って行った。




 その後、しばらくノッコは守とは会わなかった。何て話しかけたらいいか分からなくなってしまったからだった。ただただ仕事に没頭していた。ジャズフェスティバルのノッコの「脱走事件」についてはリナがうまく社長に説明してくれて、社長も関係者に事情を説明したために穏便にすんだ。社長はノッコに電話をしてきたが、事情の説明だけしてきてノッコには何も注意してこなかった。ノッコは社長に「すみせんでした」と電話で謝ったが、社長は「いや、気にするな」と言った。その言葉にノッコは「あの・・・ありがとうございます」と言うと、社長は少しだけ微笑んで「いや、別に・・・じゃあ」と電話を切った。





そんなある日守から手書きの手紙が来た。

「ノッコさんへ

守です。お元気ですか?今は僕は元気に学校に通っています。あれから親に相談して医者になるのを止めることを伝えました。始めは何か言われるかと思ったけど、両親は何も言いませんでした。あと・・・重大な発表があります。僕は医学部を受験するのを止めて看護医療学部を目指すことにしました。何でって言われてもよく分からないけど、看護師になって困ってる人を助けたいと思うようになりました。それに看護医療学部に行くのには他に大きな理由ができました。あの後色々と調べたんですが・・・今高齢化社会で、看護や介護の世界では今人手不足で大変です。また、お金がなくて健康保険がなく健康診断などの簡単な診察も受けられないような人たちが大勢いるって聞きました。だから、そういう問題を解決したり困ってる人を救うような活動をしたいなって思いました。まだよく分からないですけど、色々と勉強すれば解決法が見るかるかもしれないって思ってます。まだ・・・どうなるか・・・分からないけど・・・僕にもできるでしょうか?

あと、最後に、ありがとうございました。   川澄守」

ノッコはその手紙を読んで思わず涙が溢れてきた。守が成長してとてもたくましくなってように思えた。

ノッコは返事を書くことにした。

「守君へ

お手紙ありがとうございます。とてもいいアイディアだと思います。私には医療の世界のことはよく分からないから、どうアドバイスをしたらいいか分かりませんが、守君なら絶対にできると信じてます。自分を信じて諦めなければ必ず実現できます。少なくとも私はそう思ってます。何だか守君が急に大人になった感じがして嬉しいような寂しいような感じです。というのは嘘です。とても嬉しいです。まずは、守君が頑張って看護医療学部に受かることを祈っています。あと、これからはいつでも遊びに来てください。堅苦しくなく携帯のメールで呼んでくれればいつでも会いに行きます。

では、応援してます。お元気で。    ノッコ」




 ノッコは休日にリナと喫茶店で軽くコーヒーと食事をすることにした。

「守君、それからどう?」

「メールした通りすっかり元気になったみたいだよ。なんかね、看護医療学部に行って、将来は看護師になってね、看護医療の分野で困ってる人たちを救いたいって」

ノッコがそう言うと

「へーすごいじゃない。それってノッコの影響じゃない?」

「え?そうなの?」

「そうじゃない、あなたが守君を助けたからよ。よかったね」

「そうなのかなー」ノッコは照れくさそうにうなずいた。

「命の恩人のくせにそういうとこ鈍いわねあなた」リナはそう言った。

「でもさ、リナがうまく社長に言ってくれて助かった。さすがにいきなりあんなことしちゃったし、社長に何言われるか心配だったからさ」

「ううん、別にー。私も社長に説明するの億劫だったけどね・・・でも全部事情を話したらね、何も言わなかったよ」

「社長が?」のノッコは驚いた。しかし、確かに社長はノッコに何も言ってこなかったし「気にするな」と言ってくれた。

「そりゃね、あれだけ頑張ってノッコのこと応援してくれてたから内心ではがっかりしててただろうけど。でも、あなたがどういうことやってるのか知って、考え方が変わったのかもね」

「考え方が変わった・・・?」

「そう・・・多分社長ももうあなたのやってることを認めるようになったのかもしれないね」

リナがそう言うとノッコは

「そうかな・・・でもあんな大きなイベント台無しにしちゃって大変なこと私しちゃったからさ・・・社長が頭下げてくれたおかげで私なんとか助かったけど」と心配そうに言った。

「そうね・・・でもあなたは・・・人の命を救ったのよ。ジャズフェスティバルはすごいイベントだけどさ・・・でもあなたは、それ以上の大きな仕事したんじゃないかな・・・」

リナがそう言うとノッコは嬉しくなり笑った。

「まあ、でも仕切り直しだ!頑張ってまた出演できるようにさ」

「うん」

そう言った後、二人はランチを食べ始めた。リナはフィッシュアンドチップスとノッコはハンバーガーセットを食べた。

「おいしー」リナがそう言うと

ノッコが

「あ、私それ好きなの交換して」

と言って無理やりフィッシュをちぎって食べてしまった。

「ちょっと何すんのよー」リナがそう言うと

「いいじゃない、これあげるから」と無理やりハンバーガーをちぎって渡した。

「ちょっと、ノッコ!」





 ある日ノッコのアパートにまた相談者が来た。

「はじめまして、この前メールした山本まことと言います」

今度は大学一年生の子だった。

「はい、はじめまして。私も山本って言うのよ。同じ苗字だね?」ノッコは明るく微笑んだ。

「そこ、ソファーに座ってー。今お茶出しますから」

お茶を入れながらノッコは窓の方を見た。空は澄んでいて太陽は明るく照らされ、きれいな白い雲が浮かんでいた。

もうすぐまた夏がやってくる。

しばらくソファで会話をした後に

「へー曲のコピーとかしてるんですか・・・じゃあ山本まことさんはピアノは得意なんだね?」

「いえ、得意ってほどではないんですが・・・」まことはそう言うと

「じゃあ、さっそく弾きましょうか、得意な曲とか弾いてみましょ?」

「はい、分かりました」と言ってまことはピアノの席に座った。

ノッコは隣の席に座った。

「じゃあ・・・好きな曲弾いてみて」

ノッコは明るく微笑んでそう言った。                 

Fin

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ピアノのノッコさん(オリジナル版) 片田真太 @uchiuchi116

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