番外編1 シベリアのウドン粉料理6

 ティータイムを終えて、貝原沙羅と別れた後、館内を一回りしてから帰路についた。


 リアルの人間と話すと、なぜだかすっきりする。

 今日のように相手の話をきくというのは、思いのほか視野が開ける。


 おしゃべりは、自然に酸素をからだの中に取り入れることだ。

 話の内容で気持ちは落ちたり上がったりどんよりしたりそれぞれだが、口を動かして言葉を発するということは、酸素を吸って二酸化炭素を吐くことなので、空気の循環が脳で起きるから、すっきりするのかな、と思ったり。


 酸素が脳を巡って、濁った思考回路を洗ってくれるのかもしれない。

 それで、頭がすっきりする。


 人間の機能がそんなに単純なものではないことはわかっている。

 それでも、そんな風に思ってしまう。

 

 もしくは、口から出た言葉が空気中に散らばって、頭の中でいっぱいになって溢れかえりそうになっていた文字情報が、整理されるからなのかもしれない。


 なんだか怪しげな科学現象のような気もする。

 それでもすっきりした気分になるのだから、馬鹿高い料金がかかるわけでもないので、許容範囲のプラセボかな、と、微苦笑する。


 ただし、あまりに不快な内容の話だと、気持ちの重さに負けてしまって、すっきり感が全て台無しになることもある。


 執筆は孤独な作業だ。

 とくに、確約のないそれは。

 確約のない作業に根を詰め過ぎると、精神こころが蝕まれていく。


 兼業作家でいると、自分の生活は保証される。

 けれど、その保証が、自分の甘さにもつながっている。

 わかっているのに、踏ん切りがつかない途上の自分に歯噛みする日々。

 そんな日々の連続では疲弊する。


「あなたの担当ではないから、あまり期待してもらうわけにはいかないけど、学友としてだったら話はきくから、何でも言ってよ、そう、ゼミの時みたいに」


 ゼミ友で今は編集者の井間辺和子いまべわこの言葉がよぎる。

 表だっては牽制しているようでいて、実際はその時の最善のフォローの言葉をかけてくれる。


 その時の私は、まだ、意を決する途上だったこともあり、具体的な言葉を欲していた。

 それが、どんなにか世間知らずでわがままなことだったのか……

 今なら、それがわかる。

 井間辺和子の真っ当な気遣いと友情。

 本当に、素直に感謝できる。


「たまには、手料理でも差し入れしようかな」


 いつも忙しそうにしている彼女に、ささやかなお礼の気持ちを表明したくなった。

 つい外食や中食が多くなって、胃も舌も悲鳴をあげていると言っていた。


 自宅住まいで冷蔵庫の食材というベースが、私には揃っている。

 そうだ、貝原沙羅が言っていたシベリアのウドン粉料理を作ってみよう。

 それから、井間辺和子に連絡して、休日にケータリングでご馳走すると言おう。

 そして、突拍子のなさに呆れられてもらおう。

 それから、彼女に、少し笑って「わかった、で、何時頃?」と、訊き返してもらおう。

 


 空はいつしか、茜色の夕闇から群青の宵闇に。


 時はうつろう。


 立ち止まろうが、足掻こうが。


 紅茶と木イチゴのジャムとぺリメニのケータリング。


 休日は、画面と向き合うのをやめて、友と言葉を交わし食事をする。


 その時間は、ただのうつろいでは、きっと、ないのだ。




 

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サルビアとガーデニア 小説家志望の彼女と私 番外編 美木間 @mikoma

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