第4話 溶ける猫

 ほの暗い店内の隅をさっと何かが走った。


 純白の毛並みのほっそらとした小さな生き物。緑の目の猫だ。


 客のいない店内で一人椅子に座る主人の膝に駆け上ってくる。


「ごはんはもうあげただろう。どうした、よしよし」主人は猫を抱いてなでた。甘えたいのだろう、自分も猫をあやしたい。


 この猫には名前がない。他の人からゆずられた猫なので主人は自分で名前をつけるのがはばかられ、いまだに「ねこさん」と呼んでいる。ペット相手にちょっと他人行儀だが、距離感を保つ必要があることを忘れないためにもこのほうがいいのだ。


 猫の元の飼い主は、しばしばこの古道具屋にアクセサリーを売りに来た上品な老婦人だった。店の主人はその婦人の詳細は知らない。ただ、彼女の持ってきたアクセサリーは古風な装飾が美しく、おしゃれに敏感な人たちがどこからか聞きつけて店を訪れ品に驚嘆し高値で買っていってくれた。この小さな古道具屋にとっては福の神のような老婦人だった。


 最後に店を訪れた時、彼女はこの白い細身の猫を抱いて来た。買ってもらおうというのではない、これからこの子を私に代わって世話してくれないかとお願いされたのだ。何度か店を訪れて、この店の主人が一人暮らしであることを知ってのことだろう。


「あなたにならこの子を安心してあずけられると見込んだのです。おとなしいしわるさはしませんので手間はかかりませんよ。ただし、ちょっと気をつけてもわらねばならないことがあります。あまりかまいすぎないこと。かわいいからといって撫ですぎないことです。あなたさまならご理解していただけるでしょう、そういう猫もいるってことを。気をつけるといってもかんたんなことです。なでなでしすぎると、室内に放置したアイスクリームみたいにべたついてきて、この子の輪郭がぐにゃぐにゃしてきます。そこで、さっと放してくださればいい」


 古道具屋の主人はこれまでも奇妙な物をいくつも扱ってきたので、老婦人の言うこともそのまま聞いた。猫は主人の目から見てもふつうにかわいらしく、ずっとこの子といっしょにいられるのはいやではないという気にすぐになった。


 それではお願いします、さようなら、ねこさん。老婦人はそう言って去った。それ以来、主人はもらい受けた白い猫と共に暮らしている。


 子どもの頃、実家で犬を飼っていたことがある。家族の一員で、犬の寿命の限りまで生きてくれた。その犬が死んだときは、子どもだった自分だけでなく両親も涙を流したのを思い出す。両親にとっては自分より出来のいい子だったのかもしれない。孫の顔を見せてあげることもできずに一人ここにいる自分の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。


 そんなとき、生きるものの持つ温かみを自分に持ってきてくれるねこさん。主人は愛しい思いを胸に膨らませつつ、猫を撫でた。抱き締めた。「よしよし」白い毛並みを撫でさする。


 しかしやがて、白く滑らかだった毛並みがべたつきはじめる。小さく整った顔がぐんにゃりと形を崩しかけ、緑の目がぐらつき出す。


 主人はあわてて猫を放す。床に放たれた猫は、もういつものきれいな姿だが、鳴くでもなくこちらを無表情に見上げている。不満そう、名残惜しそう、主人にはそう見える。もっと、もっと、抱き締められたいのか。


 ふと、この猫はいったい何歳になるのか、と思った。ここに来てから既に十年以上経つ。あの老婦人には何年飼われていたのだろうか。猫の寿命はとうに過ぎている筈だ。


 ひょっとして、もう溶けていなくなりたい、猫はそう感じているのかもしれない。愛しさにむせかえる欲望のまま抱き締めてやれば、アイスクリームのように溶けてこの暗い店から猫は消えられる。でも自分は猫にそうしない。できない。まだ生きていてもらいたいから。この猫とずっといっしょにいたいから。


 なんでこんなことを考えるのだろう、猫の気持ちなどわかりようがないのに。自分を見上げる猫の白い顔にビー玉のように光る大きな緑の目、そこに映るのは自分の顔だけだ。


 店の扉が開き、来客を告げるベルの音がした。はっと我に返った主人は、客に対応すべく椅子から立ち上がり「いらっしゃいませ」とあいさつする。猫はするすると店の裏出口の前に移動し、息をひそめて身を丸めた。


 これまで店内に猫がいるのに気づいた客はいない。


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小さな町の古道具屋さん 小山らみ @rammie

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