その4


 それで何かが変わったかと問われると、ええ、まだその時には何も変わらなかったと申し上げるべきでしょう。

 私の前には正真正銘のが現れた。

 それだけのことです。



 彼は私のことに気付いたようでした。

 こちらに近づいてきます。

 人の視線とはこのように動いているのだと観察していました。


「やあ、こんにちは。えっと……そうそう、『幼き天使のとまり木よ、祝福あれ』だ」


 彼はそう言ってぎこちなく両手を合わせました。

 この孤児院にいる人のことなど一切の関心はありませんでしたが、昨日までこんな子供はいなかったと、そう認識しています。

 私はと言えば、ただ彼の口の動きをぼうっと眺めているばかりです。


「僕の名前はライン。君の名前は?」

「……ラスト」


 私は自分がどのように自分の名前を告げたのかわかりません。

 自分の声さえ自分から発せられていないような不思議な感覚しか持ち合わせていませんでした。

 きっと今聞こえているような無機質でつまらない声だったのだと思います。

 それでも。


「へえ、ラストって言うんだ。そっか、名前も境遇も似た者同士だね」

 彼は笑いました。

 口角を上げて、心底楽しそうな声を上げていました。

 あの時笑顔をみせてくれた誰かも、もしかしたらこんな風に笑ってみせたのかもしれません。



 それから私は彼のことを目で追うようになりました。

 彼の声に反応するようになりました。

 他のすべてが有象無象の世界でたった一人だけ、彼だけは違ったのです。


 整った顔をしているのかどうかはわかりません。

 透き通った声をしているのかもわかりません。

 ただ、世界が彼と彼以外の人間に別れただけでした。



「天使になったら不思議な力が身に付いて、それで人間を救済するんだってさ。この孤児院が作られたのも僕たちみたいな親の居ない子供を救いたいから、子供たちは皆天使だから、だってさ」

 彼の話はここに来てから幾度となく話されてきたお話です。

 それでも私にとっては彼の口から、彼のその声で聞く言葉がとても新鮮で、まるで初めて聞いたような感覚に陥りました。


「笑ってるね。何かおかしなことでも言ったかな?」

 私は自分が笑っていることに気付かされました。

 ああそうか。

 これが笑うということなんだ。

 つり上がった頬を確かめるように手で触れる仕草は、まるで恥ずかしがって顔を手で覆うに見えたのでしょう。

 再び彼は笑いました。

 それすら私には、嬉しかった。



 ある時、子供ではない誰かが「天使病」と口にしていました。

 今でもそれが何を意味するかはわかりませんが、おそらく何らかの病の一種なのでしょう。

 何となく、院内の空気がいつもと違いました。

 そういえばいつだったか、似たようなことがあった気がします。

 もう随分昔の話です。

 ええと、あれは、そう……。


 ――思い出した。


 こんなことが以前にもあったのです。

 つまり、私が『誰か』を出来たことが。

 これが初めてではありませんでした。


 前回も、こうやって少しずつ仲良くなって。

 相手のことをもっと深く知りたくなって。

 ……それから?

 それから、どうなったの?


 ――答えはすぐに判明しました。



 彼は。

 孤児院から跡形もなく

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