(7) 村人H

 断った直後、女神マガリナによる怒涛の説得が始まった。


「一度はやると言ったではありませんか。女神がこれだけ頭を下げているのですよ。本当に、困っているのです」

「すみません、勉学という言葉に忌まわしいトラウマがありまして」

「ちょっとだけ。ね、勉強って言ってもチュートリアルみたいなものだから、ゲームだってスキップしちゃうと入り込めないでしょ。関係ないところで衛兵に掴まったりすると面倒だし、すぐ終わります。女神の加護さえあれば、ちょちょいのちょいで英雄になれますから。ね、お願いします」


 テストの合格点が85点に引き下げられ、転移後に十分な資金と居住地が与えるという条件が加わり、巨人VS半魚人戦の闘技場の観戦チケット、1週間分の入浴剤、油汚れが良く落ちる洗剤、更に今ならもれなく同じ洗剤がもう一個付いてくるといったところで、ようやくヒロシィが折れて転移を承諾した。


 

   *   *   *



「何か思い出せたか?」


 背後からラカンに声を掛けられて、ヒロシィの意識が記憶の海から引き戻された。ラカンは全身鎧を脱ぎ、無精髭の生えた顔は赤くなっている。魔王との決戦の前からずっと酒を断っていたから、ようやく解禁したのだろう。


「いや、引っ掛かってはいるんだが出てこないな。女神マガリナの言葉が正しいなら、必ずヒントはあるはずなんだが」


 そうか、とラカンが返す。

 何となく、二人で並んで夜空を見上げた。星空も、この世界における月のような存在である衛星ハシビロも、まだそこにあった。


「旅の中に答えがある、か。」


「こうしてみると懐かしいな。お前と旅に出た頃を思い出す」

「あの時、ラカンが来てくれなかったら、俺はきっと未だに最初の村にいたよ」


 ヒロシィはそう言って頭を掻いた。苦い記憶だ。ラカンとの出会いこそがヒロシィの旅の始まりだった。そして、旅が始まる前の期間が、実は旅よりも長かったりする。


 何しろヒロシィは2年近く、最初の村に引き籠っていたのだから。



   *   *   *



 転移の光に包まれたヒロシィが再び目を覚ました時、ヒロシィの身体はベッドに横たわっていた。天井は古びた木板で、自宅でないことはすぐに分かった。


 身体を起こし、部屋を見回す。ベージュの絨毯、白地の分厚い布のような野暮ったいカーテン、部屋の隅には簡易な文机が置かれている。全体的に埃っぽい。


「ここは……?」


 女神との交渉により勝ち取った居住地というのが、この部屋なのか。ヒロシィは恐る恐る立ち上がり、カーテンの隙間から外の様子を伺った。


 一見して田舎だった。

 同時に、この部屋が2階だと分かる。景色の大半は畑で、小麦に似た若草色の植物が風に靡いている。畑の狭間に水車小屋のようなものがあり、人間が作業をしていた。畑を越えた先には、赤い屋根の家々が点在している。


「長崎県みたいだ」


 ヒロシィは適当なことを呟いた。ヒロシィは東京都の住人であり、長崎に行ったこともなければ恨みもない。まして、転移した異世界は長崎県ではない。ただ、観光特集で見たハウステンボスの長閑で牧歌的な建築と田園の風景を思い出したというだけである。


「長崎県に、魔物なんているんだろうか」


 ヒロシィは窓の外を眺めながら自問した。くどいようだが異世界は長崎県ではない。付け加えておくと長崎県に魔物はいない。とはいえ、ヒロシィの目の前に広がる長閑な景色には、女神マガリナが訴えていたような悲惨な窮状はどこにも見られなかった。


「あんれまぁ、人がおりゃあしたがね」


 声がして、ヒロシィが窓から真下を向くと麦束らしき植物を抱えた中年の女性がヒロシィを見上げていた。いかにも農家という格好だ。隣には男の子がいて、珍しいものを見る目をしている。


「この屋敷、ずっと誰も使っとらんかったがねぇ」

「これはどうも、私はヒロシィという者です」

「あんたァここん人かい?」

「はい、しばらくの間、ここで生活する予定です。今日はじめてこの地にやってきました。挨拶が遅れましてすみません」


 所有権について確信がなかったので、ヒロシィは曖昧な返事でやり過ごすことにした。この世界の財産を管理する法律や制度までは習っていないし、女神が保証してくれているとはいえ、あまり無闇な事は言っては藪蛇だ。


「しゃっとした話し方だでね、王都から来たんでねぇの?」

「ええと、そうですね、もっと遠いところから来ました」


 嘘はついていない。『しゃっとした』という形容の意味は判然としないが、どうやら都会から来たと思われているようだから、ヒロシィはこの誤解を利用することにした。情報が集まらないうちは、勇者だとか魔王だとか大きなことを言わない方が賢明だ。


 その晩、ヒロシィを歓迎して村で簡単な酒席が設けられた。手探りではあったが、宴会の場に出された料理や人々の装飾、話す内容を総合して、どうやら本当に異世界に来たらしいとヒロシィは理解した。


 収穫時期になると魔物が作物を荒らしに来て困る、傭兵を雇っては作物の利益がなくなってしまう、といった愚痴をヒロシィは聞くことができた。推測するに、魔王の影響からは遠い土地に飛ばされたらしい。そういえば、女神もそんなようなことを言っていた。


 村人の方からすると、ヒロシィは王都のあたりからやってきた世間知らずのお坊ちゃんにしか見えなかった。あれこれと質問しては感心し、田舎料理を珍しそうに観察したかと思えば、急にがつがつと食べ始める。悪い人間ではなさそうなので、とりあえず村人たちも安心してヒロシィを迎え入れた。


 夜も更け、宴もたけなわといった頃合いになった時、村の男が血相を変えて飛び込んできた。息は切れ、村長はどこだと叫ぶ。何事かと村長が男に駆け寄ると、男は大きな声で言った。


「ワーウルフが……ワーウルフが大群で来とるでよォ!」

「何じゃと!」


 ざわめきが村人の間で波のように広がるのを、ヒロシィは感じた。ワーウルフというのは、どうやら魔物らしい。ヒロシィは己の使命を思い出す。この異世界の生態系を狂わせる魔王を討つために、自分は女神マガリナに(偶然)選ばれたのだ。


「おまかせください」

「おぉ、ヒロシィや。おみゃぁさん危のぉで、屋敷に帰りんさい」

「村長、私はいつか勇者として魔王を討つつもりでおります。ワーウルフなる魔物ごときに、後れを取るつもりはありません。このような歓迎の場を開いていただいた恩もある。私が追い払って差し上げましょう」


 いきなり突拍子もないことを言い放ったヒロシィを前に村長は面食らったが、ふざけているようにも見えない。収穫前のこの時期に畑を食い荒らされては冬を越すどころか、次の納税日すら凌げるかどうかという瀬戸際なのだ。村長としては、一人でも男手が欲しいのが正直な思いだった。


「手伝ってくれるんかね」

「傭兵が欲しいとおっしゃられていましたね。旅にでるまでの間は、私がその役を引き受けましょう」


 ヒロシィはそう言うと屋敷へ戻り、玄関に置かれていた鉄の鎧と剣を装備して村の自警団に加わった。その雄姿を見た村の男たちに安堵の声が漏れ、これなら被害は少なくて済むのではないかという期待感が溢れた。


「ワーウルフは森に隠れとるけんど、リーダーの一匹が突撃してくりゃ、それが合図で他がみんな来よる。ハシビロが雲に隠れそうだぁ、そろそろ来んぞ」


 村一番の狩人タゴサークがそう言うと、男たちの間に緊張が走った。ただ一人、ヒロシィは腕を組み、どっしりと構えている。仁王立ちして、暗がりの森を睨みつけていた。


「――来る」


 剣を持つ手に力を込める。この夜が、勇者ヒロシィの伝説の幕開けとなることを、村の誰一人知る由もなかった。そんなナレーションでも入る雰囲気だな、とヒロシィは思っていた。しかし、実際のところ、そもそも幕は開けなかったのである。



   *   *   *


 

「痛い痛い痛い痛い痛い! 死んじゃう! 死んじゃうこれ!」


 自警団の詰所に転がり込むようにして逃げ帰ったヒロシィは、絶叫しながらのた打ち回っていた。さながらコンクリートに打ち捨てられた魚のように、全身で痛みを表現し、臆面もなく訴えまくるその姿に、数十分前の雄々しき面影は微塵もない。


「お尻が裂けてる! お尻が裂けてる!」

「尻は元から割れとるでぇ」

「違うの! 裂けてるの!」


 タゴサークが涙声で尻を突き出すヒロシィをみてやると、なるほど確かに尻にはワーウルフの爪痕が残されていた。妙だな、とタゴサークは疑問に思う。布のズボンが深く切り裂かれて破れているのに、ヒロシィの尻にはかすり傷ほどの痕しか残っていない。


 本人は痛いと呻き喚きを繰り返しているが、衣服と肉体との損傷度合いが一致しないように見えた。余程丈夫な皮膚なのかと、タゴサークは首を傾げた。しかし、それにしてはぷりんとした綺麗な尻であった。


「薬ぬったるでぇ、大人しゅうしときぃ」


 さめざめと泣くヒロシィを横目に、タゴサークは塗り薬を探す。

 ワーウルフの撃退は一応ヒロシィの活躍もあり成功に終わった。活躍と言っても、余裕綽々の態度だったヒロシィが最初の一撃を右腕に喰らった瞬間、隣村の赤子でも飛び起きそうな大声で痛い痛いと絶叫し転げまわり、あまりの変貌ぶりに村人ならずワーウルフまでもがポカンとしたその隙を突いて、熟練した村の精鋭たちがワーウルフのリーダー格に手傷を負わせることに成功したというだけである。


 それからしばらく乱戦の様相になりはしたものの、虚を突かれ司令塔を失ったワーウルフは陣形を乱し、やがて撤退を余儀なくされた。


 乱戦の最中に尻をひっかかれたヒロシィは知らないことだが、当初の想定よりも怪我人も作物への被害もずっと少なく済んだ。タゴサークとしては邪魔しに来たのか評価すべきなのか判断しかねるところだが、結果オーライということでヒロシィは手厚く介抱されるに至った。


 その日から、つまりは初日から、ヒロシィは冒険を諦めた。


 魔物があんなに強いなんて聞いてない。騙された。すごく痛かったし、死ぬかとも思った。元の世界でもトラックに撥ねられたというのに、こちらの世界ではもっと悲惨な目に遭いかねない。大体なんだ、勇者って。労災はおりるのか。健康保険はどうなんだ。


 部屋に閉じこもり、ヒロシィは鬱屈した日々を送った。とはいえ、そのような生活がそうそう長く続くものではない。第一に食糧がない。女神マガリナからの転移特典で貨幣は相当な量を持っていたが、生活必需品の購入でいずれはなくなってしまう。


 結局、ひと月経つ頃にはヒロシィは村の畑仕事を手伝ったり、山菜を取りに山を出歩くようになっていた。村の仕事に参加して食料を貰い、稀にやってくる行商人などから必要物資を得ていたのである。幸いなことに村人は皆優しかったし、思った程には労働がきつくもなかったので、このまま村の住人として暮らすのも悪くないな、とヒロシィは思い始めていた。


 この時点で、ヒロシィは当初の目的を完全に忘れていた。収穫を迎え、冬を越し、豊穣を祈り、祭りに参加した。それも、この一連の星の巡りを2回経験している。もはや勇者ヒロシィというより、村人Hであった。


 転機が訪れたのは、村にラカンという戦士がやってきた日のことだった。

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