えにしの家

紅葡萄

えにしの家

 袖振り合うも他生の縁と言う言葉がある。

 袖が少し触れただけで縁が生まれるのなら、生死が絡むような縁はどうだろうか。

 深く、深く結ばれはしないだろうか。

 縁で結ばれた相手と自分の境目がなくなるほどに、交わって、絡まって、解けなくは、ならないだろうか。


「目が覚めた! 奈緒の目がさめたよ!」

 劈くような姉の声。耳元では機械音が一定のリズムを刻んでいる。

 私は脳を焼くような痛みの中、こぼれた涙が耳まで伝うのを感じた。

「……ああ、……とう」

「奈緒、なんて?」

「あり、がとう――」



◆えにしの家◆



 現状、不服はない。一度都会に出て失敗して実家に帰ってきたことは、確かに少々恥じてはいるけれど、親兄弟と仲が悪いわけでもないし、飼っているトイプードルのルリは可愛いし、派遣で仕事をはじめたので自分のお小遣いにも困らなくなったし。

 休みの日にリース契約で購入した新車を乗り回して、犬と少し遠出するのが毎週の楽しみ。

 大した贅沢をするわけじゃないけれど、その土地の美味しいものを道の駅や高速のサービスエリアで食べて、ルリを散歩して、おやつをあげて。

 特筆すべきほど裕福で幸福なわけでもないが、特筆すべきほど貧乏で不幸なわけでもない。身の丈にあった幸福で満足していた。

 そしてこのまま穏やかに日々が過ぎていくのだと思っていた。


「よし! 今日のお昼はサンドイッチですのよー。楽しみだねぇルリちゃん」

 ゲージの中から私を見つめるルリは、私の呼びかけに黙ったまま首を傾げて応える。あんまり吠えない子を選んでよかった。ワンともスンとも言わないのは寂しいが、いつも静かで良い子だ。

 私は踊るように包丁で四角いサンドイッチを対角線上に切ってタッパーに詰めた。

 タッパーは他にもコールサラダが入っているものと、唐揚げが入っているものを用意している。

「飲み物は途中のコンビニで買うから……あとルリの用意だね」

 お弁当が入ったバスケットとは別に、大きめのトートバッグを取り出す。そのバッグにおむつや紙タオル消臭スプレーや犬用ウェットティッシュを入れて、公園で走り回らせる予定なので首輪やリードも入れておく。

「いけないいけない、人間用のウェットティッシュもいるって」

 犬のことばかりではなく自分のものも用意しておかねば。

 今回は結構な山奥まで行く。道中はともかくついてからは近くにコンビニがないので、買い物に行けないのだから。

 そう思い至ってウェットティッシュを探すけれど、いつも置いてあるキッチンの収納棚には見当たらない。

 きっと父がリビングに持っていったままだろうと予想をつけた私は、続き間になっていてテレビの音が聞こえるリビングへと向かう。


 リビングでは、姉の響子がソファに足を広げて寝そべったまま、ぼうっとテレビのニュース番組を見ていた。

「あれーお父さんは?」

「ハローワークだってー」

 私がソファの後ろから声をかけると、響子は服の中に手を入れて下乳らへんを掻きながら返事をした。胸が大きいので、この季節はあせもになるらしい。羨ましい悩みである。

 響子は私より五歳年上で、結婚はしたものの向こうの家族と折り合いが悪く、飛び出して帰ってきた出戻り組。私も似たようなものだから気持はよく分かる。私の場合は結婚じゃなくて仕事だったってだけ。

 書類上はまだ向こうの籍に入っているけれど、離婚調停が住めば晴れてバツイチになるだろう。響子はまだまだきれいな人なので、嫁の貰い手には困らないだろうしその方が良い。

「失業保険、ほら、就活してますってフリしなきゃいけないから」

「なるほど。あーやっぱりここにあった」

 ソファの前にあるローテーブルの下に私の探しものはころんと転がっていた。

「何探してたの?」

「これ、ウェットティッシュ。いつもお父さんが持ってってここに置きっぱなしにするの」

「ああねー、あの人ずぼらだから」

「ほんとにね」

 そう言って笑い合いながら、ウェットティッシュを持ってキッチンへ戻ろうとする私の背中に、響子が食い下がる。

「ね、奈緒。今日はどこ行くんだっけ?」

「花見山公園。夏椿が見頃らしいよー」

 私の言葉に不安げな顔を作った響子は、テレビの方を一瞬見てから、私の腕を掴んだ。

「花見山……亘理地区だよね」

「そうだけど? ちょっと遠いから帰るの夕方かも」

「んーそうじゃなくて、今朝のニュース見た?」

「え? 見てない」

 朝から準備でパタパタと動いていた私はリビングでずっとついていたテレビを一瞬たりとも見ていなかった。

 そんな重要なニュースが有ったかと訝ると、響子はまつげの長い瞼を伏せる。

「なんか昨日の夜亘理地区で一家惨殺事件があったらしいんだけど、犯人逃走中なんだって」

「へぇ」

 響子の言葉に名前返事しながら、私は荷物を一通り確認して、ゲージからルリを出した。飛び出してきたルリが抱っこをねだるので、私はそれに応じてルリを抱きかかえる。

「――まあ、車だから大丈夫だとは思うけど、気をつけなよ?」

「人がいるところに行くんだから大丈夫よ。観光客も多いし」

「それもそっか。お土産よろしくー」

「はーい」

 この時、もっと姉の話をきちんと聞いておけばよかったと後になって後悔したのだが、犯人が捕まってないという事実も、どこか別の遠い世界の話のようで、まさか自分の身にあんな不思議なことが起こるだなんて、思いもよらなかった。





「んーいい空気。お花も綺麗、ねールリ?」

 花見山公園はその名前の通り、色んな花が咲き誇る山で、年中無料開放されている。今はちょうど夏の花のシーズンを迎えていて、観光客で賑わっていた。

 私は小さめのブルーシートを引いて、その上に用意してきたサンドイッチなどを並べ、景色を見ながら少しずつ口に放り込んでいく。

 折りたたんで持ってきたペットサークルに入っているルリは、興奮気味で立ったりジャンプしたりを繰り返す。きっと木々の香りや土の匂いを感じているので走りたくて仕方がないのだろう。

 私が顔を近づけると、早く連れてってと言わんばかりにペロペロと口の周りを舐めてくる。甘えん坊のルリのいつもの仕草だ。

「せっかくだからママと走ろうね。リードつけるから」

 私がリードを取り出すと、ルリは嬉しそうに一層跳ねる。ペットサークルが揺れるほど激しく動くので、ガタガタと音が鳴り響く。

「もー暴れないで、……よしついた。ほら、ママに抱っこ!」

 そう言うとルリは今までで一番大きなジャンプをして私の胸に飛びついてきた。一度抱きかかえてペットサークルから出し、ブルーシートの上におろして私はリードを握ったまま靴を履く。

 今にも走りたそうにするルリだが、リードに引っ張られて首輪がしなっている。

 私は呆れたような、やはり楽しいような気持ちで「もー」と言いつつ靴を履き終えてルリと一緒に公園に繰り出した。


 一頻り遊んで満足すると、山の向こうで赤く染まる夕日が見えたので、そろそろ帰ろうかと帰り支度をはじめた。

 ペットサークルも折りたたみ、ブルーシートも畳んで車に詰め込む。少し大きめの軽自動車なので、トランクルームには高さがある。荷物は難なく全部収納された。ルリだけは私が抱きかかえ一緒に運転席へと向かう。

 車で移動するときのルリの定位置は助手席だ。ルリはとても利口で、暴れたりせず助手席で大人しく丸まってくれる。特に走り回ったあとで疲れているので、それはもうぐっすり寝てくれるのだ。

「お土産買わなきゃだから山くだってから道の駅寄ろう」

 桜の季節なら桜餅だが夏はどんなお土産があるだろうか。


 花見山自体は大した標高ではないものの、下りの山道は狭く急勾配だ。私はなるべく安全運転を心がけ、峠を飛ばしてくる後ろの車に道を譲りながらゆっくりと下っていく。

 途中最も狭くなる道に差し掛かった。ここで対向車とばったり出会うと、どちらかが下がらないとすれ違うことが出来ない。

 この道を通ったことがある人間なら誰しもそのことを認識しているので、お互いがカーブミラーに映れるようゆっくり降ったり昇ったりする。

 私もなるべく前の車と車間距離を離しながら、ブレーキを踏みつつ進めていた。しかし――

 そんな私の気配りなど全く気にもとめていないかのように、対向車が猛スピードでカーブから飛び出してきた。

「へっ……!? きゃあ!」

 叫び声を上げてももう遅かった。この道は二台すれ違えないのだ。そんなことを冷静に頭で思う一方で、対向車がぶつかってくる勢いに飲まれ、自分が今アクセルを踏んでいるのかブレーキを踏んでいるのかわからなくなっていた。

 そしてとてつもない衝撃が身体を襲った。車の中で何度も自分の体が上下したような気がした。エアバックの開く音、そして――

「ワンッ!」

 遠のく意識の中、猛々しい鳴き声が耳に響いた。嗚呼、ルリの鳴き声、すごく久しぶりに聞いたかもしれないな――。





「ワンッ!」

 ハッ、とルリの鳴き声で私は目を覚ました。意識を無理矢理現実に引き戻されるような感覚を覚え、浅くなった呼吸で何度も吸いて吐いてを繰り返した。

「……珍しい、ルリが鳴いた」

 私は横でじっと佇むルリを見た。可愛らしいアプリコットの毛をゆっくり手で撫でてやる。

「どうしたー? なんか敵でもいたかなぁー。わんこの敵ってなんだろうなぁ」

「クゥン……」

 少し悲しそうに鳴いたと思うと、ルリは私の顔をペロペロ舐めはじめた。くすぐったく愛しい感覚に、ぼんやりする意識がだんだんと覚醒していく。

 ルリのふわふわの毛並みを触りながら、自分が寝ているシーツも、駆けられた布団の色にも見覚えがないことに気づく。

「……ルリ、ママとどこかにお出かけしてたっけ? ホテルに泊まったっけ?」

 そう問いかけても勿論ルリが何かを返してくれるわけはない。私が質問調で話すので、ルリの方も首を傾げているという具合だ。

 どうして自分がここにいるのか、私はちっとも思い出せなかった。なんだか不安に陥って上半身を起こし、周りを見渡した。

 部屋はログハウス調で、ベッドのシーツは水色にも近いようなグレー。掛けられた羽毛布団のカバーは真っ青な麻地だった。

 どことなく女性の部屋と言うよりは男性の部屋のように見えるなと思いながら、懸命に昨晩の記憶を手繰り寄せようとしても、頭の中には少しも閃かなかった。

 ルリが隣りにいるということは車ででかけたのだろうし、今日はきっと休日な気がする。そういう当たり前の積み重ねでなんとなく現状を把握しようとするものの、どうしてか明確な記憶は一つもなかった。

「お酒でも飲んだかな……えーでも車なのに飲まないよ……うーん……」

 大体お酒を飲んだとしても、飲んでいる間の記憶の有無はともかくその前の記憶くらいあっても良いものだ。でもまったくない。

 思い起こせるのは昨日の仕事で上司に怒られたこと。夕ご飯のこと。ハンバーグだったな、父が久しぶりに料理して、案外出来がいいものだから母が驚いていたっけ。

 姉の響子は相変わらず美人で巨乳で、汗疹がひどいって言っていたような気がする。そこまでは思い出せたものの、その後のことはやはり思い出せなかった。

 私の家は決してログハウスではない。夢遊病だろうか、まさか私はそんな歳じゃないぞ。このままここにいてもしょうがない。とにかくベッドから降りる。自分の服装は寝間着ではなく普段着だった。部屋の壁掛けにはハンガーが掛けられていて、私のと思しきパーカーがあった。

 それ以外にも私の荷物が一人がけの椅子に雑多に置かれていた。

「カバンもある。携帯電話も……お姉ちゃんに電話しようかな、あれでもここがどこかわからないと困るよね……」

 電話したところでどこにいるのと聞かれて答えられる情報が私にはまだない。

 自分のカバンはあったものの、ルリの荷物などはどこにも見当たらなかった。いつも外に連れて行くときは必ず持っていくペットサークルも見当たらない。


「うーん……ここがどこかか……」

 私は部屋をぐるりと見回した。青いカーテンが見えた。窓があれば、外の様子がわかる。

 そう考えて青いカーテンを開けると窓と思しき場所には、それを覆うように板が打ち付けてあった。板にはマジックか何かで文字が書かれていた。

「許さない? 悪魔の証明?」

 ゾワッと恐怖を感じた。なぜ窓を覆うように板を打ち付ける必要があるのか、また書かれた文字の意味もよくわからないが、とにかく何か恐ろしいことだけははっきりと分かった。

 【許さない】の文字の下には、より小さな文字で比較的長い文章が書かれている。

 読めるか読めないかギリギリの小さな文字だったので、私は目を眇め、ゆっくりと文字を指でなぞった。

「えっと、真実と虚構が入り混じっているのなら、真実が何かなんて、きっと誰にもわからない。めありーべる?」

 なんとか全文読んだ私は、尚のことよくわからなかった。

 理解不能というのはそれだけで恐怖で、私は窓から一歩後下がった。すると、膝の高さまでのベッドサイドテーブルと足がぶつかる。

 テーブルには分厚い手帳が置かれていた。付箋やメモ紙などを多数挟み込んでいるためか実際の厚みより膨れている。

「この部屋の人のかな。読みたくないよぉ……ルリぃ……」

 またさっきの板のように理解できないことが書いてあるに違いない。私はもう一度ベッドに戻って、ルリに抱きついた。

 ルリの顔色をうかがうと、眠いのか瞼が下がってきていた。

「ルリおねむ? やだやだ寝ちゃわないで! 一人は怖いっ……」

 私がそう言ってしがみつくと、ルリは何かを言いたそうに口をフガフガ動かし、やがて伝わらないことがわかると顔を舐めてくる。

「ルリ……そうだ、おなかすいてるよね。ルリの荷物なかったし……」

 私はおずおずと出口の扉を見る。ここが一階か二階かすらわからないが、雰囲気から察するにこの部屋の向こうが外というわけではなさそうだ。

 もしキッチンや食べ物が家のどこかにあるのなら、探して食べなくてはいけない。せめてここがどこかわかれば――

「あっGPS!」

 マップアプリを使えば現在地がわかるかもしれない、私は慌ててスマートフォンを取り出すが、画面が暗いままうんともすんとも言わない。

「……充電切れ?」

 電源ボタンをカチッと押すと充電が必要なことを示すアイコンが表示された。周囲を見渡してみるも同じ機種の充電器は置いてないように見える。


 私はもう一度出口の扉を見た。もし誰かが悪意を持って私を閉じ込めているのだとしたら、寝ている間に殺されていてもおかしくはない。

 だが私はまだ五体満足だ。私が自分の意志でここに来たかどうかわからない以上、確かめるしかない。

「ルリ、待ってて。ママがちゃんとご飯持ってきてあげるから、ねんねしててね」

 ルリは私にとって友であると同時に家族であり、娘だ。守ってやらねばならない。





 部屋を出るとすぐに短い廊下だった。建物全体的にそうなのだろうか、廊下も部屋の中と同じくログハウス調だった。

 隣の部屋とその向かいにもう一部屋あって、間に下り階段がついている。ここはとりあえず一階ではなく、二階ないし三階以上であることは明らかだった。

 突然隣の部屋からゾンビでも飛び出してきたらどうしようという現実と空想の入り混じった恐怖の中、物音に耳を澄ませながら階段へと向かっていく。

 存外何事もなく階段の目の前まで来た。階段のちょうど向かいには小さな窓があった。

 今度は板が打ち付けられてはいなかったので、窓から外を見てみると、車が二台ほど見えた。この家のものだろうか、どうやらこちら側は駐車場らしい。ナンバープレートを見ると同市のナンバーだったので、家からさほど離れたところではないことだけは分かった。

 見える範囲で周りを見ると閑静な住宅街のようだった。特にこれと言っておかしな様子もなく、かと言って見知った場所というわけでもない。

 高さから考えるとここは二階のようだった。普通の家なら一階に台所なりリビングなどがありそうなので、私は下に降りていく。


 階段を下り終わると、足元にA4サイズのルーズリーフが置かれていた。拾い上げると、汚い文字と鎌を持った少年と思しきイラストが描かれていた。

「許されない。悪魔の証明、真実と虚構のでっち上げ。僕は正義の裁判官であり、鎌を手にした死神である? んー?」

 最後に男の人の親指でつけたてであろう押印がされていた。真っ赤なそれは血判状だ。

 あまりの異様な様に手放してしまいそうになって、裏を見ると別の文章が描かれていた。

「真実の告白……?」


【真実の告白 : 

  僕は五歳の頃に三歳の妹を殺した。――に言った。僕の手跡が残っていなかったので、「嘘を言うな」と殴られた。妹は心臓発作ということになった

  十歳の頃に近所のおばさんを殺した。このときはきちんと後を残そうとロープを使った。けれどおばさんは自殺になった。僕は――に言った。「嘘を言うな」とまた殴られる

  僕は五年に一度の記念日ということにしようと思った。十五歳のときに同級生を殺した。屋上から投げた。でもたくさん証拠を残したから今度こそ見つかると思った。けれど彼女はいじめを受けていたので証拠はなかったことにされた。きっといじめの延長で殺されたことにしたくなかったからだ。自殺のほうがまだまし

  そして今日、これが最後の記念日。今度こそ真実を】


 何度も書き直しながらなぐり書きされた罪の告白は、一部解読不可能な箇所があったが、全体的に読み上げるのが躊躇されるような内容で、私は思わずしゃがみこんでルーズリーフを手放した。

「意味、わかんない……」

 恐怖から勝手に涙がこぼれ、足がすくんで動けなくなった。これ以上先に行ったら何が待っているだろう、このなぐり書きの通りなら、この先で待ち受けるのは、生々しい死体ではないだろうか。

 この【僕】は誰を殺すつもりなんだろうか。

 そして私がここにいることが、このルーズリーフの殺人鬼に知られたら、やはり殺されてしまうのではないだろうか。

 部屋に戻れば安全だろうか? いやずっと部屋にはいられないだろう。私とルリが餓死するだけだ。

 どうしても、先に進まなくてはいけない。私は一度手放したルーズリーフを拾い上げ、折りたたんでジーンズのポケットに入れた。

 廊下は明るく太陽光が射し込んできていた。丸太が積み重なった壁を手で触りながら歩くと、テレビの音が聞こえてきた。リビングだろうか。

 リビングとダイニングがうちのように続き間になっていることを考え、とりあえず音のする部屋へと向かう。


 扉を開けるとやはりリビングだったようで、壁掛けの大きなテレビからお昼の情報番組が流れていた。笑い声が響いてくる。

 その俗世的な空気になんとなく安堵した私が、部屋に足を踏み入れた瞬間、続き間になっているダイニングからマグカップを持った初老の男性が現れた。

「孝之、起きてきたのか――君は?」

 この人があのルーズリーフの殺人鬼だろうか。書いてあることから察して、二十歳の若い青年だと思っていただけに、私はすぐには動けず目があったまま固まってしまった。

「あっ、……ごめんなさい!」

 ――殺される! そう瞬時に思った私は慌ててその場にしゃがみこんで頭を抑えた。

 向こうも慌てた素振りでマグカップをダイニングテーブルに置いて武器になるものを探しているようだった。包丁でも出されたらどうしよう、どうしたらいいんだろう、家を飛び出すべきだろうか。でも財布もルリも二階においたままなのに。

 ぐるぐる悩んでいると包丁を持った男性が「空き巣か!?」と叫ぶ。

「違います! 目が覚めたら二階の部屋にいて、ここに来た記憶がなくって……! お願い殺さないで!」

「……殺さないで?」

 どこか拍子抜けしたかのように男性は包丁を手放した。

 男性はゆっくり歩み寄ってくる。きっと私は明らかに無防備で、しかも女性なので脅威ではないと判断されたのかもしれない。

「ルーズリーフのことは誰にも言いませんからっ」

 私はそう言って何度も頭を下げる。命が救われるなら今は何だってする――

 しかし相手の男性は私の言っていることがわからないと言いたげに首を傾げた。

「待ってください、何のことですか?」

「へ? ルーズリーフの……あなたじゃないんですか?」

「ルーズリーフ?」

 話が噛み合ってないとお互いが認識した所で目があった。とりあえず互いに殺意や悪意がないことは明瞭だった。



 私は男性に促されてソファに座った。「隣に失礼」と一言断った男性も私の隣に座る。

 彼は自分を【葛城大輔】だと名乗った。この家の大黒柱のようだった。

 少し接しただけでも、紳士な人柄が忍ばれたため、一気に安心感が私を包み込んだ。テレビは相変わらず情報番組で、明るい笑いを届けてくれる。

「それで、ルーズリーフというのは?」

「これなんです……ついそこで、拾ったんです」

 私はジーンズのポケットから、小さく折りたたんだルーズリーフを取り出し大輔さんにわかるように広げた。

 暫くじっと見つめていたと思うと、大輔さんは深い溜め息を一つついた。

「……孝之の字だ……目が覚めたら二階の部屋だったって? 二階のどこかね?」

「一番奥の部屋です」

「孝之が君を連れてきたのか」

 私が目覚めた部屋の主は孝之というらしい、字がそうであるということは、このルーズリーフの殺人鬼も孝之ということだろうか。

「たかゆき……」

 全く覚えがなかった。そもそもここに来た記憶すらないのだから。

「――ここに来た記憶がないんです。たぶん昨日の夜までのことは覚えてるんですけど、それ以降のことを覚えてなくて……」

 私の曖昧な返答に大輔さんは「そうか」と力なく項垂れ、私が持ったままのルーズリーフを手にとった。

「裏にも何か書いてある……真実の告白?」

 大輔さんは裏に書かれている真実の告白を読むと、明らかに機嫌を損ねていた。手が震え、ルーズリーフがくしゃりと歪む。



「君はこれを読んだんだね?」

 大輔さんが低い声で私に問いかける。その瞳は暗く唸るような闇を抱えていた。

 読んだ、読んでしまった。不可抗力的に。読みたくて読んだわけでも、これを知ったからと言ってどうにかしようという正義感が私にあるわけでもない。危険をおかして正義をなすくらいなら、悪魔に魂を売ってでも愛しい存在とともに無事家に帰りたい。

「……だ、誰にも言いません。だからお願いです、許してください。私はただ一緒につれてこられた飼い犬に餌をあげたいだけなんです」

 私が必死に懇願すると、本気で他意がないと察したのか、大輔さんは訝しがる視線を緩めて息を吐いた。

「こんなもの、証拠でもなんでもない。妄想に過ぎない。私の息子はまだ若く、そういうところがあるんだ」

 そうだ、妄想をノートに書きなぐって、それを私が見たところで何の証拠になるだろうか? 特に秘密の暴露になるような重大なことが書いてあるわけでもなさそうだ。淡々とした箇条書きのような言葉の羅列は、多感な時期の若い男性にあって然るべき妄想のなぐり書きではないだろうか。

 窓を覆うように打ち付けていた板だって、若さゆえの行きすぎだ行動だと思えば――。

 そう考えると少し楽になった、ここに殺人鬼はいない。なぜ私がここにきたのかはわからないけれど、遊んでいて偶然出会った孝之のお世話になったと考えるのが当たり前の思考回路じゃなかろうか。

「そうです、そのとおりです。これはただの落とし物で、本当のことじゃないです」

「それでいい」

 大輔さんは私の必死の訴えに納得したようで、今度は優しい笑顔を向けてくれた。

「犬の餌だったね? ペットフードは流石にないが……」

「余ったご飯とかでも良いんです。分けていただけませんか?」

「用意しよう」

 大輔さんはそうにっこり笑って席を立った。私はやっと安心して息を整える。

「ありがとうございます! わんこ連れてきますね」

 ルリのご飯の準備は大輔さんに任せ、一旦二階の部屋に戻って自分の荷物を取りルリを連れてくることにした。





 大輔さんは白米にかつお節をまぶしたものを用意してくれた。ルリが食べるか観察していると、匂いを確認した後美味しそうに食べてくれた。

 私はホッと一息つく。あとは携帯を充電して、姉の響子に連絡すれば、帰ることも出来るだろう。

「良かった……食べた……あの、すいませんでした」

 大輔さんに頭を下げると、大輔さんは「いやいや」と首を振って笑った。

「こちらこそ息子が放置していなくなってしまって、すまなかったね。それに少々怖い思いもさせたようだ。帰りはどうする? 君のものらしい車は駐車場に止まってなかったんだが……」

「あ、充電させてもらえれば、親に電話して迎えに来てもらいます。でも、私の車どこに置いたままなんだろう……」

 ルリと出かけたということは間違いなく車だったはずなので、何がどうなって一人でここにいるのか、やはりそれだけが疑問だ。

 公園で熱中症にでもなっただろうか、それで通りかかった孝之という人が助けてくれたとか。何か用事があったから私を部屋に寝かしたまま、いなくなってしまったのだろうか。

 私はなるべくいい方向に頭を回転させることにした。事情が分かる人がいない以上、怖がったって仕方ない。

「さあ、君と孝之がどこで出会ったかさえわかればね。充電はこれをつかって」

「はい」

 私の携帯電話に合わせた充電器を大輔さんが持ってきてくれたので、近くのコンセントを探して挿す。

 暫く待っていると充電が最低限回復したのか自動的に起動し始めた。

 電波も入るし、電話帳も特に変化はない。何も問題はなさそうだ。私は姉の連絡先を画面に表示する。

 その様子を見ていた大輔さんが、郵便はがきを一枚持ってきてくれた。どうやら親戚の家から送られてきた年賀状のようだった。

「これがここの住所だ。親御さんにこれを伝えなさい」

「ありがとうございます、何から何まで」

 私は大輔さんにお礼を述べてはがきを受け取って、姉に電話をかけた。



 結構長いコールのあと、通話は繋がった。受話器の向こうから遠慮がちな声で『はい……?』というのが聞こえる。

 もしかして誰からの着信か見ないまま電話をとったのだろうか。私はなるべく明るい声で電話口に話しかけた。

「あっもしもしお姉ちゃん?」

『えっ……誰?』

「誰って、私だよ。奈緒」

『えっと、確かに奈緒の声だし、奈緒の番号……え、なんで?』

「なんでもなにも」

 何故"なんで"と疑問を向けられなくてはならないのだろう。

 私が出かけ先から電話をかけることがmそんなに珍しいだろうか。

 首を傾げていると、電話する私を見つめる大輔さんと目があった。微笑まれたので微笑んで返す。

『えちょまって、えっと、え……どうした、の?』

「私酔っ払ったか何かで知らない人のお家に泊まっちゃったの。迎えに来てほしいんだけどお父さんとかいる?」

『ど、どこまでいけば?』

「住所はね、えっと、市内亘理町壇ノ浦十二。葛城さんって珍しい名前のおうち。多分マップアプリとかで出ると思う」

 大輔さんに借りたはがきが役に立った。正確な住所がわかればアプリか、車についているナビでも迎えにこれるはずだ。

『か……かつらぎ……本当に? 本当にそこにいるの?』

 姉の様子が明らかにおかしい。不安のにじむ声には焦りも見え隠れする。

 私は何を疑われているのだろう、何を不安に思われているのだろう。

「そうだよ? そう言ってるじゃん。さっきからどうしたの?」

『だってそのお家……昨日一家惨殺事件があった家だよ』

「へ……」

 私はゾッと背筋が凍るような感覚を覚えた。さーっと血の気が引いていく。

『ねぇ奈緒、本当に奈緒なんだよね? じゃあここにいる奈緒は誰?』

「……何言ってるのお姉ちゃん。私は私で、私はここにしかいない……」

『わっけわかんないよ! だって奈緒交通事故に遭って今意識不明の重体なんだよ! 今私病室! 目の前に奈緒がいるの!』

 わけがわからないのはこっちだった。一家惨殺事件の現場? ここがもし本当にそうなのだとしたら。

 私の目の前でコーヒーを飲む、この素敵な老紳士は一体――


「……あなた、誰ですか?」

 私がそう呟いた途端、ついていたはずのテレビがブチッと切れた。

 そして目の前に立っていた老紳士は、透明ななにかに殴られたかのように顔をぐちゃりと歪め、その場に転がった。

「ひっ……」

 殴った人物も、凶器も、私には何も見えないが、彼は嗚咽を漏らしながら殴られ続けている。金属バットかゴルフのアイアンで殴られているかのような鈍い音がその場に響く。

 暫く硬い何かで原型がなくなるほど殴られた彼は、口から血を流して息絶えた。すると今度は四肢が勝手に切り落とされていく。

 血飛沫がそこらじゅうを赤く染めて、ソファの周りが血の海へ沈んでいくかのようだった。

 吐き気がするような場面を見せつけられて、私は声が出なくなった。

「ワンッ! ワンッ!」

 呆然とする私の隣からルリの鳴き声が響いた。ぼうっとしてる場合じゃない、今すぐ逃げないと今度は自分の身が危ない――!

 私はルリを抱きかかえリビングをでる。すぐ先の玄関に靴が並べられていて、何故か私のもあった。

 ルリを抱えたまま靴を履いた私は、慌ててその家を出た。しかしドアを開ける時の勢いで、腕の中からルリが飛び出してしまう。

 ルリが迷うことなく住宅街を走り抜けていくのを、私は捕まえようと必死に追いかける。

「ルリ、待って! ママを置いてかないで! ルリ、ルリ――」

 待ってお願い、一人にしないで。ルリ、お願いだから私を置いていかないで。ここは怖い、私帰りたいの。

 ――大丈夫、帰れるよ。私を追いかけて

 澄んだ少女の声が、私の脳裏に語りかけてきた。

 ――ママ、アイシテル


「――ルリ……?」

「目が覚めた! 奈緒の目がさめたよ!」

 劈くような姉の声。耳元では機械音が一定のリズムを刻んでいる。

 私は脳を焼くような痛みの中、こぼれた涙が耳まで伝うのを感じた。

「……ああ、……」

 私は何故かはっきり分かっていた。私の大切な娘、大好きなルリが、もうこの世にいないこと。

 私はルリのおかげで、"帰って”これたこと――。

「奈緒、なんて?」

「あり、がとう――」





 後から分かったことだが、私が事故にあった相手は、一家惨殺事件の容疑者で、葛城家の長男、葛城孝之だった。

 彼は逃走中で、山に逃げこもうと急いで峠道を走っていた所、私の車と正面衝突。

 私の車は運悪く崖下に落ちて、彼は車の中でエアバックに突っ伏した状態のまま動けなくなった。

 昏睡状態に陥った私とは違い、彼は病院についてすぐに意識を取り戻し警察の聴取に応じた。

 一家惨殺事件の容疑を認め、その動機は、「家族によって真実が闇に葬られたことが許せなかった」と語っていたという。





***********************

 これは私が実際見た夢をもとにしてかなーり脚色を加えたフィクションです。

 私が夢で見たのは奈緒が葛城家にいた間の一部始終そのまんまです。見た時どちゃくそ怖かったです、はい。

 実体験していただきたいくらいです、でも文章ではこれが限界。ホラー初挑戦でした。やっほい!

 サイコホラー要素もありましたね! こっちも初挑戦! いぇい!

 葛城家について書くかどうかはわかりません。一応設定練ってはあるんですけど……。

 読んでいる方の脳内で色々膨らませていただけたほうが、楽しめるような気がします笑



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