肌死鬼

砂鳥 二彦

第1話

 夕方の西日が入る教室、補習で居残っていた俺は突然声を掛けられた。



「はだし鬼って知ってる?」



 そんな噂話好きの女子がするような第一声をしたのは、同じクラスのサトコだった。



 俺が、はいやいいえで応えるよりも早く。サトコは矢次早に言葉を繰り出してきた。



「はだし鬼っていうのは、夜道に一人でいる女性の目の前に現れるらしいの。はだし鬼は手に角材を持っていて、女性を追いかける。もし捕まれば、その角材で顔がめちゃくちゃになるまで殴りつけるそうなの。そして、はだし鬼は跡形もなく姿を消す――続きがあった気がするけど、大体こんな話よ」



 人気のない道で怪しい人物に襲われる。それはよくありそうな話だと、俺は思った。



「そう。ここまではよくありそうな話。でもこの話はただの創作じゃなくて、ここT市の南端にある古い一軒家が元になっているそうなの」



 何故道の話なのに、話の根本が一軒家なのか。それを聞く余裕を、サトコは与えてくれなかった。



「その話のネタらしき事件も既に見つけたわ。これを見て」



 サトコが渡してきた新聞の切り抜きの寄せ集めを見ると、事件の詳細が書かれていた。



 なんでも最初の発見者は、とある母子家庭一家の家からボヤが出ていることに気付き、消防に連絡したらしい。



 消防が家に駆けつけると、既に火は消えており。近くには顔を潰された母親と、血に濡れた角材を持った息子が倒れていた。



 息子は、火事と壊れた椅子の様子から、椅子に拘束されて両足を焼かれていたらしいことが後の事件調査で判明する。



 母親は既に絶命していたが、息子は足に大やけどがありながらも息があり、すぐに病院へ緊急搬送された。息子は殺人の重要参考人として怪我が治り次第、聴取を受ける予定だった。



 しかし息子は両足が治癒する前に逃走。警察が捜査したにも関わらず、時効が過ぎて調査も打ち切りになってしまった。



 日付をみれば、それはどうやら四十年も前の事件らしい。



 俺はこんな昔の記事をよく見つけたものだと感心しつつも、切り抜きをサトコに返した。



「事件の真相は迷宮入り。記事にも何故母親が息子の足を焼いたのか書かれていないし、殺人動機も母親に過剰な反撃をしたのではないかとしか書かれていない。そこで私達の出番よ!」



 サトコはこの事件の真相を自分で解明したいと思っているようだった。



「さあ、そうと決まれば出発よ!」



 サトコは俺の腕を掴み、強引に教室の外へ引っ張り出した。





 俺がサトコに誘われてT市の南端にある一軒家に着いたのは、もうすぐ日が落ちそうな時間であった。



「心配ないわ。こうして懐中電灯は二つ持ってきてあるわ!」



 準備がいいことだ。俺は懐中電灯を受け取ると、スイッチを入れて周りを照らしてみた。



 はだし鬼の話の元となった家は、古い家屋だった。それもそうだ。四十年近く放置されているのだ。入り口の門は赤錆に覆われ、家を支える一部の支柱は傾いて倒れそうだった。



 それにも構わず、サトコは先に玄関に手をかけていた。



「んんっ! ダメね。扉が歪んで開かないわ。どこか別の入る場所を探さなきゃ」



 サトコはそう言いながら時計回りに家の外を回り込む。俺は慌ててサトコの後に続いて敷地に入った。



 二人が家の角を曲がると、そこは少し大きな庭になっていた。



 庭は校庭のような目の粗い土が敷き詰められた場所にはあまり荒れておらず。それ以外は、足の長い雑草が生い茂っていた。サトコは事件の跡を探そうとするも、長年の月日によって事件の名残は雨風で消えてしまったらしく、何も見つからない。



 残念そうなサトコは、次に縁側から家屋へ浸入できることに気付いた。俺は不法侵入について咎めようとしたが、既に敷地に入っている。今更の事なのでサトコに苦言を呈すことができなかった。



 二人がはだし鬼の家屋に入ると、そこは完全に廃墟と化していた。畳と床は崩れて苦悶の叫びのように穴が開き、壁の黒ずみは噴き出した鮮血のように木目の奥まで刻まれている。



 俺はサトコに注意を促しながらも、穴の開いた場所を避けて進む。



 しばらく進むと、突き当りの部屋の扉が開け放たれたままになっていたので、そこを探索することになった。



 部屋の中は、一口で言えば質素だった。机とベットと本棚以外は特に物もなく、ポスターと言った壁の賑わいもない。ここの住人が好きでそうしたのだろうか。



 二人が部屋を物色し始めると、机にある物体が目に留まった。



 それは一冊の日記だった。水の底のような暗い青が特徴的な背表紙で、風化した様子はない。



 俺は日記の保存状態の良さを不自然に思いながらも、サトコより先にページを開いた。



 ――年――月十日。



 母がまた僕に暴力をふるった。近所の人は、体格の良い僕がまさか母に暴力を受けているとは思っていないようだ。



 母は父を亡くしてから、そのひどい癇癪を押さえられないでいた。些細なことで気に障り、僕を傷つけた。けれどその後、母は必ず僕に泣いて謝ってくれた。



 毎日、その繰り返しだった。



 母はそれでも僕を愛していた。怒るのも、謝るのも、結局は愛がある故だからだ。



 だから母が僕を学校に行かせないようになり、週に二度の買い物にしか出かけられないのも、仕方のないことだった。



 ――。



 最後の日付にはそう書かれていた。はだし鬼の元となった男は母親を愛していたらしい。



「なるほどね。日々の虐待がエスカレートして、ついに息子の足を焼いた。ほとんど記事のとおりね。つまらない」



 そして記事にあった事件の日付はその十五日後、二十五日のことだ。



 俺が日記のページを閉じようとした。その時だった。



 視界が急に白く染まり、身体に浮遊感を感じる。周りを見回しても、古い家屋やサトコは見つからない。



 俺は、ここはどこだ! と叫んだ。その声は聞こえない。まるで水の中で叫んでいるかのように言葉にならない。



 すると、急に視界が切り替わった。



「どうして私の言うことが聞けないのよ!」



 ガラスの窓を突き破ったような叫び声に、俺は驚いた。



 サトコが口にしたかと思ったが、目の前にいるのは熟年の女性だった。叫んでいるのはその女性のようだ。



 俺の視点はというと、どうにも椅子に括り付けられて庭に出されているらしい。何時、そうなったのだろう。



「あれほど、外部の人間と関わるなと言ったのに! 穢わらしい! 穢わらしい! 自己批判なさい!」



 俺の心に、別の人間の心情が流れ込んでくる。俺はその時、悟った。今、ここで行われているのはあの事件の日の光景なのだ。



 そして俺は、息子の視点でいる。空気や臭い、角材で叩かれる痛み、どれも鮮明に俺の脳内に響く。



 母親は角材を持って、何度も何度も息子を殴っていた。



「穢れを浄化しなくてわ! 穢れを、自己を、浄化しなさい!」



 息子はこれほどの暴力に苛まれながらも、心の底では信じていた。いずれ縄をほどかれ、母親は自分に謝ってくれる。痛みも、それまでの我慢だ。一時のことだ。



 そう心から信じていたのも、次の言葉に打ち砕かれた。



「こんな子供、産まなければ良かった」



 母親はそう呟くと、脇にあったポリタンクを掴む。それから中身を、息子の身体にそそぎ始めた。



 鼻にツンッとくるその異臭は学校でも嗅ぎなれたことのある、灯油だった。



 母親は一切のためらいもなく、マッチ棒を擦り、息子の足に投げかけた。



 灯油に火が点く。身体の焦げる灼熱感が脳を貫き、鼻腔に肉の焼ける嫌な臭いを感じる。



 息子は、逃げるように足をばたつかせる。それで得たものは、椅子が横倒しになるだけだった。



 母親が息子を見下ろしている。それは冷たい、ゴミを見るような関心のない眼だった。



 息子はその瞬間、察した。母親が泣いて謝るのは自分が可愛いからで、愛しているからではなかった。暴力をふるうのも、ただの気晴らしに過ぎなかったのだ。



 息子は絶望と怒りと、痛みの中でもがき苦しんだ。肌が焼けていく、肉がただれ、骨がむき出しになりそうだ。



 だが、ついに椅子はひび割れるように音を立てて壊れたのだった。





「ねえ、大丈夫?」



 意識が戻った時、俺は全身から汗が吹き出し、下着はびしょぬれになっていた。



 心配そうに顔を触るサトコの手を反射的に払いそうになって、自分が現実に戻っていること知った。



 俺は先ほど、息子の感じていた肌が焼けただれていく感触を思い出す。今までに感じたことのないその激痛は、俺の思考を混乱させた。



「しっかりしなさい、男の子でしょう」



 男の子でも、辛いものは辛いのだ。



 俺はよろめきそうになりながらも、崩れそうな足腰を踏ん張る。こんな地面にカビの生えたような場所で倒れたくはない。



 そうしていると、部屋の出口から気配を感じた。



「な、何なのっ!?」



 先に出口を見たのはサトコだった。俺も振り返ると、その正体が分かった。



 それは天井にも届きそうな大男だった。服は着ているものの、足は裸足で膝元まで服は破け、火傷した部分が見えている。顔には皮のようなのっぺらとした布が被さり、表情は見えない。



 きっと、これがはだし鬼だ。俺もサトコも、そう思った。



 俺は叫び声を上げながら、近くにあった木製の椅子を持ち上げる。



 次の瞬間、俺は椅子ではだし鬼の身体を殴りつけていた。



 はだし鬼はその一撃であっさりと、くの時に倒れこんだ。だが、まだ動いている。



 俺ははだし鬼に反撃を許さず、顔を椅子で殴りつける。完全に床に突っ伏しても、はだし鬼の身体をまたいで殴りつけた。



 何度も。何度も。何度も。



 手の皮がずる剥けになりそうになる。肉を打ち、骨を砕く感触が椅子を通じて俺に伝わる。



 俺は身体の底から湧き上がる怒りのまま、はだし鬼の顔を執拗に叩き潰していた。



「もうやめて!」



 サトコの声に、俺はハッと我に返る。気づけば、サトコは俺に身体を預けて抱きついていた。



 俺は、やってしまったのだ。不審者とはいえ、何もしていない人間に過剰防衛を働いてしまったのだ。それどころか傷害罪か、殺人未遂か、殺人罪が適用されるかもしれない。



 俺は呆然としながらも、サトコに抱きすくめられてはだし鬼から離れた。



 すると、はだし鬼に変化があった。



「――消えていく」



 そう、はだし鬼は黒い炭に変わったかと思うと、塵になり始めたのだ。塵は風に飛ばされるように空気中へ消えていき、遂にははだし鬼の身体全てが吸い込まれるように消えてしまった。



 俺とサトコは今あったことが夢かどうか確かめあうように、互いを見つめていた。





 その後、俺とサトコははだし鬼の家から離れることにした。



 いくら犯罪を起こしたとは言っても、死体が消えてしまったのだ。警察に連絡するわけにもいかない。



 サトコは俺の顔を見てまた、大丈夫か、と質問した。



 俺は、大丈夫だ、と言ってサトコを家に送り届けてから自分の家に帰った。



 俺は俺の母親に叱られつつも、自室の布団の中へ逃げ込んだ。



 その手に、肉を打つ感触を残して、悶々としながら。



 後で聞いた話だが、はだし鬼には続きがある。



 ――ただし、はだし鬼の顔をめちゃくちゃにした女性はその場に残る。



 女性はどうしてそんな凶行に及んだか慌てながらも、交番に駆け込む。すると、どうだろう。警察は悲鳴を上げて女性の顔を指さしたのだ。



 女性が窓に反射する自分の顔を見ると、それははだし鬼の顔であった。

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肌死鬼 砂鳥 二彦 @futadori

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