第6話 満開の桜

 



 ……亜希子、どこに居るんだ? 今直ぐ会いたいよ。


 亜希子と出会ってから、桐生は一度も自宅に帰ってなかった。


 当夜も、署に寝間を設けると、怠惰な肉体を投げた。だが、眠れる筈もなかった。


 コートを手にすると、夜の街に出た。


 立ち飲みで、一気にコップ酒をあおると、歌舞伎町から大久保通りを徘徊はいかいした。声を掛ける外人の売春婦を横目にしながらも、体たらくな自分の形と重ねていた。


 ……今の俺には、こいつらを蔑視べっしする資格はない。俺の気持ちのどこかで亜希子の代理を求めていた。


 だが結局、辿たどり着いたのは先刻設けた署のベッドだった。


 亜希子の事を考えているうちに、桐生は不図ふと、亜希子の部屋の様子が頭に浮かんだ。


 ……あっ、そうだ!


 翌日、再び、大家を訪ねると、亜希子がどこに家財道具を処分したかを尋ねた。すると、チラシのどれかではないかと言う事で、保管していた数枚のチラシをくれた。


 早速、桐生は貰ったチラシに電話をした。それは、二枚目のチラシの電話で回答が出た。


「やったっ!」


 桐生は奇声を上げた。


 家財道具は処分しても、壁に掛かっていた風景画や他のスケッチブックなど、段ボール三箱ほどの、あの大切な絵を処分する筈がなかった。


 荷物を保管していると言う万屋よろずやは、亜希子からの連絡を待っていた。


 そして、万屋から電話があったのはその日の午後だった。桐生はコートを引っ掛けるとその足で、書き留めた住所に急いだ。


 亜希子からの連絡があったら、万屋から一報をくれる手筈てはずになっていたのだ。




 ――白骨温泉しらほねおんせんに着いた桐生は老舗しにせ旅館の帳場ちょうばに声を掛けると、夕間暮ゆうまぐれの川辺にたたずんだ。


「さすが、刑事さんね」


 亜希子の声が背中でした。ゆっくり振り返ると、仲居姿の亜希子が中途半端な笑みを浮かべていた。


「探り当ててスゴいと思ったか」


「ううん。刑事ならもっと早く見つけなさいよって思った」


 亜希子はそう言って横を向いた。


「相変わらず減らず口だな。……飯田を逮捕した」


「……遅すぎ」


「すまなかったな、不安にさせて」


 桐生は亜希子に会いに行かなかった数日を詫びた。


 そこには鼻をすする亜希子の横顔があった。


 桐生は亜希子の肩を抱いた。


「……お前と出会ってから家に帰ってない」


「だから、何?」


 亜希子が生意気な目を向けた。


「だから、一緒に帰ろ。同級生なんだから」


 亜希子はその台詞に吹き出すと、


「もう、笑わせるんだから」


 と、口を尖らして桐生を見た。


「しかし、若く見えるよな」


「何よ、それも罪なの?」


 ……亜希子のあま邪鬼じゃくが始まりそうな気配だった。その前に連れて帰らなければ。


「罪じゃないよ。褒め言葉のつもりさ」


「あなたの言い方には真実味がないのよ。逆に人を小馬鹿にしてるように聞こえるの」


 ……あー、間に合わなかった。到頭、怒らせちまった。この分じゃ、梃子てこでも動かないだろな。……さて、どうするか。


「……東京に着いたら、アパートを探さないとな」


 ……知恵を絞って出た言葉がこれだ。俺もボキャブラリーが貧困だな。


「東京に着く頃には不動産屋なんか閉まってるわよ。バカみたい」


 ……ほら、みろ、案の定だ。チクショウ、悔しいな。


「……じゃ、今夜はどこかで泊まるか」


「……どこで泊まるの?」


 亜希子が弱い視線を向けた。


 ……やった! 亜希子の気分直しに成功した。


「どこにするか? 白骨にするか? それとも東京にするか?」


 気分を損ねないように、手探りで言葉を択んだ。


「……あなたに任せる」


「よし、俺に任せろ」


 桐生はチャンスとばかりに亜希子を抱擁ほうようした。


「……亜希子、もう逃げるな。俺が守ってやるから」


「……ホントに?」


 亜希子は桐生の胸元で呟いた。


「ああ。同級生なんだから」


「あ、もう、そればっかり」


 桐生から離れると、亜希子はまた、口を尖らせて睨んだ。


「ほら、早く、退職届出してこい」


「さっき、採用されたばっかりなのに? 何て言って?」


「親戚に不幸があってでも、風邪気味なのででも、何でもいいじゃないか」


「それは仮病で休むときの文句じゃない」


「あ、そうか……」


「バカみたい。刑事系以外は何の役にも立たないんだから」


 ボロクソだな。そこまで言わなくても……。


「じゃ、言ってくるね、辞めるって」


 亜希子が歩き出した。


 ……俺の中では既に亜希子との青写真が出来ていた。後は亜希子の返事待ちだ。いや、亜希子に有無は言わせない。強引にしないと、また、糸の切れたたこのようにどこへ行くか分からない。亜希子はそんな女だ。



 着替えて来た亜希子からボストンバッグを受け取ると、右手を握った。その光景はまるで、補導した家出少女を、私服警官が諭しながら故郷まで連れて帰るかのようだった。




道すがらの満開の桜が、星屑ほしくずの光で白く浮かび上がっていた。――




    了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

檻の中の黒い手 紫 李鳥 @shiritori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ