季節が流れて、春。今日はわたしの大学の入学式。

 副師長になった紫優ちゃんはどうしても都合が付かなくて、今日はお仕事だって。あーあ、偉くなっちゃって。そんなんだから白髪が増えるんだよ?

「忘れ物、ない?」

 紫優ちゃんも出勤の準備をしながら、わたしに声をかけてくれた。

「うん。あ、お母さんに朝の挨拶しないと」

 わたしはお母さんの写真に、ちゅっと口づけした。

「行ってくるね、お母さん」

 晴れてわたしもゆかりと同じ大学に受かった。学部は違うけれど、ゆかりは先に弓道部でわたしを待っていてくれている。また一緒の空間で弓が引けると思うと……嬉しくなる。今度はゆかりと一緒に大会に出たい。一緒に審査も受けたい。そしてまた弓を引くゆかりの姿を近くで見たい。その瞬間が待ち遠しかった。

 ……わたしの射はあの頃から少しくらい、美しくなれただろうか。ゆかりの射はあの日の紫優ちゃんとの勝負を切っ掛けに、ずっと洗練されて、中てるだけじゃない、本物の美しい射に変わったのに。わたしの射は……わたしの理想に、紫優ちゃんの射に近づいているのだろうか。

 お母さんの写真を見つめたままぼんやりと物思いに耽っていると、

「そんなにぼーっとして……『また迷子にならないようにね』」

 紫優ちゃんに不意にそう声を掛けられて、わたしはハッとして振り返った。

 紫優ちゃんが笑っている。

「『むー、なるわけないじゃん。馬鹿』……馬鹿っ」

 わたしはぽろぽろこぼれる涙を手の甲でごしごし拭いた。

 覚えていてくれたんだ。

 紫優ちゃんは、お母さんが高校の入学式でわたしをからかったの、ずっと……覚えてくれていたんだ。

「そんなふうに拭いたらせっかくのメイクが台無しだよ。もう、大人になっても一花はちっとも変わらないんだから」

「……だって、だってっ」

「ほら、こっちいらっしゃい」

 紫優ちゃんはわたしをテーブルにつかせると、そっとティッシュでわたしの涙を拭いてくれた。それから慣れた手つきでお化粧を直してくれた。

 ふとそのときだった。なんのはずみだったのだろうか、不意にポーチからわたしのリップクリームがこぼれ落ちた。わたしは慌ててテーブルの下に潜り込んで、そして、

 それを見つけた。

 いつ書いたのかも解らない。きっと……幼稚園に通っていた頃の、わたしの落書き。

 テーブルの天板の裏に、紫色のクレヨンで、

『いちかはおかあさんとしゆちゃんがだいすきです。

 いちかはおかあさんとしゆちゃんのこどもでほんとによかった。』

 って。

 それは……わたしがまだ、お母さんと紫優ちゃんの子どもだと思っていた頃の……無邪気な落書きだった。いつ書いたのかも思い出せない。でも、大きくいびつなそれは、確かにわたしの字だった。

 いつまでもテーブルの下から出てこないのを訝しんで、紫優ちゃんがどうしたのって訊ねながら、一緒に身を屈める。わたしはそっと、その落書きに触れた。

「ねえ、お母さんがあの日見つけた〝いい事〟って、これだったのかな。これだったらいいな」

 紫優ちゃんが狭いテーブルの下で、わたしの肩を抱いた。紫優ちゃんからはほんのりと、優しいラベンダーの匂いがする。一緒に天板を見つめる紫優ちゃんの目は穏やかな春の空気を反射して、淡い紫色に光っていた。

 わたしは紫優ちゃんを見つめるお母さんの顔を思い出していた。お母さんが見つめていた紫優ちゃんの瞳……。それはきっと紫の、優しい花の色だから。だからお母さんはいつも……あんなに嬉しそうな、幸せそうな顔をしていたんだね。

「うん。こういうの、いかにもかすみが喜びそうだもの。そうだね、きっとそうよ。……あ、なんか泣いちゃいそうだからわたし、そろそろ行くね。一花も遅れないように、あと戸締まりだけはお願いね」


「うん。いってらっしゃい……母さん」


 わたしが紫優ちゃんの養子になっても。

 お母さんの存在が消えてしまったわけじゃない。

 お母さんはいつだって……わたしと紫優ちゃんを天国から見守ってくれているんだから。

 だから。

 わたしの生活は変わらない。

 大好きな家族がいて、

 大好きな恋人がいて。

 ……わたしはずっと、この町で生きていくんだ。

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それはきっと紫の、優しい花の色だから。 月庭一花 @alice02AA

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