ハニーハニーハニー
私の好きな人は、よく言えばおおらかな人だ。
おおらかなのは、とてもいいこと。
私は割と嫌なことを引きずりがちなので、彼のそういう部分はとても好きだ。
そう、そうなのだ。なんだけど……。
テーブルを挟んで、向かい側に座っている彼に声をかける。
「翔太くん、血、出てるよ」
「ん、ほんとだ」
一撫でして、彼はまたスマホに目を向けた。
「リップクリーム塗ったら?」
「んー」気が抜けた返事の後、「後で塗るわー」。
……私が十回言ったとしたら、彼がリップクリームを塗るのは二回ぐらい。
今日も彼の唇はガサガサだ。
翔太くんは、身だしなみに気をつけないというわけじゃない。どちらかというと、私のほうがあまり気にしないだろう。
自分で購入する気……というかその発想すらなかったみたいで、こちらからリップクリームを贈ってはみたけど、使われる様子はない。
テーブルに放り出されたリップクリームを見ながら、私は『目の前にあったら使うだろう』作戦が失敗に終わったことを悟る。
感覚的にだめなのかもしれないなあ。
本人は無自覚でも、リップクリームの匂いとか感触が、身体に適さないのかもしれない。私も、人が多いところでは匂いや音が乱雑に散らばるから疲れる、ということに最近自覚したし。
本人が好ましいと思わないものを押し付けたくない。
……保湿できれば、唇から血が出ることはないんだよね。
他で代用すればいいのか。
ひらめいた私は、さっそく実行することにした。
◆
お風呂上がり。
先に上がった翔太くんの前に立ち、仕込みが完了した私は彼の名前を呼んだ。今読んでいるのは科学雑誌だ。
「翔太くん、ちょっといいですか」
「んー」
「出来たらきっちり3秒後に、45度程度に顔を上げてください」
そう言うと、一瞬翔太くんが顔を上げそうになったので、まだです、と咄嗟に静止する。
「……
「ご、ごめんなさいっ」
ちょっと力んで物理的に静止させてしまった。
い、今から3秒後です。
はい、いち、に、さん。
彼が上を向く。
私は今度は彼を傷つけないよう、慎重に顔を近づけた。
はむり、と唇を合わせる。
5秒くらいたってから、少し角度を変えて、私は彼の顔から離れた。
「……はちみつ?」
「いえす、いっついずハニー」
エセ英語が出てしまった。
母が昔、はちみつを代わりに塗るといい、と言った。舐めると油分がとれて更にガサガサになるから、と。
「では、そういうことなので」
「待て待て待て待て」
ソファーから離れようとして、失敗。
「今の、もう一回してくんない?」
「唾液ではちみつが落ちるからだめです」
「なるほど、つまりまた塗ったらしてくれる、と」
「今のは初心者の一回だけSSR確定ガチャです」
「……だめ?」
翔太くんが私を見上げる。
……うううう。
昔、彼に告白されたにも関わらず、待ってほしいと言ったことがあった。そして待たせた期間は二年だ。正直、待ってくれた翔太くんは聖人レベルだと思う。
それから、彼は基本、私に主導権を渡す。私が何事も人より亀より遅いからだ。
だからといって私が積極的にキスしたりすることはない。照れがあるのもそうだし、何よりタイミングがよくわからない。今回こんなことをしたのも、タイミングを作るためだ。
言い訳しなくても普通にキスしてもらいたいーーなんて思っても、身から出た錆でした、はい。
「……翔太くんがするなら、いいです」
そう言うと、翔太くんはソファーから立ち上がり、台所に向かった。
暫くして、スプーンに盛られたはちみつと小皿を持ってくる。
私をソファーに座らせ、小指ですくったはちみつを私の唇に塗った。成人式の前撮りの時、美容師さんに塗ってもらったことを思い出す。
そして、一通り塗った後、スプーンを皿の上に乗せ、キスした。
……結構な量のはちみつだけど、何回分になるんだろう。
甘い味でクラクラする頭で、ぼんやりそんなことを考えた。
登場人物紹介
二宮杏寧
『ショタくんとアネさん』のアネさん。ショタくんとは同棲中。学芸員になった。主導権を委託されていたので関係を進めようとするなら、彼女が積極的に動かないといけない。身長がニセンチのびた。
田月翔太
『ショタくんとアネさん』のショタくん。アネさんとは同棲中。放送局につとめる。主導権を委託していたので、ひたすら待つ。許可が下りたら遠慮がない。身長は伸びないどころか何故か二センチ縮んだ。
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