六章

6—1

 *



 その夜も、ワレスが行くとリリアは待っていた。かがり火のなかに、白く水泡のように浮かんでいる。


「なぜ、おれなんだ?」


 リリアは笑っている。


「あなたが想いを残してるからよ」

「おれは……誰にも想いなど残していない」

「いいえ。だって、わたしの呼びかけに応えたでしょう?」


 そっと、リリアが立ちあがる。もつれるように髪がゆれた。


 ワレスは剣をぬいた。

「亡霊め!」


 その瞬間に、リリアがすがりついてきた。

「わたしと来て! ワレス!」


 その言葉——


 ワレスの眼前に過去の映像がはじける。


「わたしといっしょに逃げて!」

「ティアラッ!」


 必死にすがりついてきたティアラ。

 ワレスはその手をふりほどいた。

 いや、ふりほどこうとした……?

 あまい薔薇の香りがする。

 薔薇の……。

 ここは、どこだったろうか?


「ワレス」


 窓ぎわに立つワレスを、女の声がふりむかせた。

 ベッドの上に、ラ・ベル侯爵ジョスリーヌがよこたわっている。


「ぼんやりしてるわね」


 言いながら、ジョスリーヌは下着の前をあわせた。

「このごろ、あなた、変だわ」


 ジョスリーヌとは長いつきあいだ。

 ジョスは根っからの遊び好き。夫の侯爵に死なれてからは、息子が成人するまで、彼女自身が女侯爵をつとめている。文句を言う者もいない。金にも困らない。遊びと割りきっていられる気楽さで、ワレスも長く関係を続けていた。


「何もおかしくないさ。思いすごしだろう」

「そうかしら」


 からかうような口調で言って、ジョスリーヌは白い足をさしだす。


「サンダルをはかせてくれないこと?」


 ワレスはその足に、ころがったサンダルをひとつずつ、はかせてやった。

 昨日はひさしぶりに彼女がやってきて、二人で夜をすごした。


「あなたの気まぐれは知ってるが、いきなり来るのはよしてくれ。いつも言ってるだろう? ジョス」

「このごろ、ちっとも、わたしの屋敷によりつかないのは誰? はっきり言いなさい。わたしが来ては迷惑だと」


 迷惑だとか、そんなんじゃない。ただ、なんとなく、すべてが虚しい。


「おれがいなければ、女王さまがムダ足をふむことになるからだ」

「誰かと鉢合わせしては困るからでしょう?」

「誰と?」

「ヴィクトリア家のティアラ」


 あいかわらず、地獄耳だ。


「妬いているのですか? 侯爵閣下」


 わざと丁重に言ってやると、ジョスリーヌは笑った。


「わたしたちの仲は妬くようなものではないでしょう? ドレスのヒモをむすんでちょうだい。背中でむすぶのよ」


 知ってる。

 昨夜ぬがせたのは、ワレスだ。


「でも、ティアラは感心しないわ。いつものあなたなら、さけるタイプじゃない。うぶな人をいじめてはダメよ」


 ジョスリーヌは重い金貨の包みをテーブルに置く。


「また来るわ」


 ジョスリーヌが出ていくのを、ワレスは見ていなかった。


 そう。いつものワレスなら、ティアラはさけるタイプだ。あれは遊び向きの女じゃない。


 金銭の問題だけなら、ほかに遊べる相手は、いくらでもいた。ジョスリーヌからの手当てだけでも充分だ。


 でも、きっと、ジョスリーヌとは長くつきあいすぎたのだろう。

 彼女がワレスのことを、なんでも知ってるそぶりをすると、イライラした。ことに、ちょっと前に、ワレスが犯したある愚行を、彼女が知っていると思うと。


 束縛されたくない。

 誰とも深入りしたくない。

 ジョスリーヌをさけて、何人もの女のあいだを転々とした。


 ティアラと出会ったのは、ちょうど、そんなときだったのだ。

 いつもと同じつもりだったのに、何かが違う。

 ティアラといると、遠い昔にワレスの失ったものが、ふとよぎる。


 たとえば、夕暮れの空のもと、手をつないで歩いた母の笑顔。

 船旅で出会った初恋の少女。

 何年も前、ケンカ別れした、妹のように可愛がっていた女の子。

 つい最近、ワレスを見すてて、遠い外国に行ってしまった友人……。


 思いだせば、つらいだけの記憶。

 もう、たくさんだ。何も考えたくない。


 ティアラに会うことが怖い。


 ティアラはワレスが、あえて心の奥に封じこめている扉をたたこうとする。

 その扉のなかには、多くの死体が隠されていた。

 ワレスは二度と、この扉をあけたくない。みだりに、たたいてほしくない。


 だから、ほんとは昨夜、ティアラと約束があったのだが、ワレスはすっぽかした。


「……ワレス」


 ふたたび、女の声がした。ジョスリーヌではない。ティアラだ。


「どうして、昨日、来てくれなかったの?」


 ワレスは答えない。

 庭の花を見ながら、背中に痛いほど、ティアラの視線を感じる。


 ティアラも寝乱れたベッドには気づいているだろう。

 ジョスリーヌが帰るところも見ているはずだ。


「あの人は?」

「べつに」

「どうして、この部屋から出ていったの?」

「ただの友だちだ」


 ふいに、ティアラの声が泣き声に変わった。

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