第18話 嵐真っ只中の凡天丸

船を波が叩く、それを紀文はゴウシュ音頭の太鼓のごとく聞いて歌い出した。

 (♪よいとヨイヤまっか、ドッコイさぁの~さあ、ああ黒潮踊る熊野灘、潮岬や大王の御崎~イ♪)

「若旦那まだ元気いっぱいで宜しいおまんな、わてらもうじきあきまへんで限界で御座ります!」

 皆命綱を緩め肩で息した。波をかぶったので身体が冷え、凍え死にそうに寒く震えが止まらない。

 雨や嵐は少し収まるが、時化はきつく上下左右波に揺られて、全く方向感覚がなくなり、船磁石に頼るしかなくなりました。

「紀文の若旦那、大丈夫ですか?」

「ハハッ何のこれしき、気ずかいない見てみい膝が笑うてござるわい」

言う間もなくドドドッと、大波が来て船外にさらわれる、帆柱にくくりつけた命綱を、手繰り寄せかろうじて船内に戻る事が出来ましたが、全くもって冷や汗ものであった。

「あっ若旦那忘れていました、かよ様からお手紙を預かっています!」

高垣は懐から大事に油紙で包んだ手紙を紀文に手渡した。紀文はその場で開封し手紙に目をとうしました。

(一言申し上げたくしたためました。どうかご無事で成功なされて御帰還なされますように願っています。昼に夜にあなた様をお慕い申し上げます、拙き文を読まれし折りは燃やして欲しくそうろうぞ、十月吉日かよ)

 船は黒潮躍る本州最南端、串本の潮の岬や大島須江崎の沖を、東にまわり込み熊野灘から、伊勢の大王埼を遠く大回りし進んだ、みんな血の気無く青息吐息で肩で息してる。

この時疲れからか、紀文の意識はフッと遠のいた。(あれれどうした事だ? 自分の身体が下に見える、俺は死んだのか寒くないし空も飛べる、いかんまだ仕事の途中だ早よ戻らねば!)と 思った時、幸い意識が戻ったすると急に寒さを感じた。一瞬の事なので誰もその事に気が付いた者はいなかった。

皆さんも気をつけて下さいね、肉体労働してない若い銀行員がよくかかる病気のようなものです、真面目な人が神経を使ってストレスを貯めるとよくなるらしいです、金縛りにあった時キェイ! 気合い一発大声を張り上げましょう奏すれば息を吹き返しますよ。ゴビを下げると、そのまま彼方まで行ってしまう事がありますよ。

此処で大事な事は語尾を上げる事で南無阿弥陀仏と語尾を下げない事で御座います。

日は出てないが昼間なので、外海はぼんやりと明るい難所は過ぎた、これで島に乗り上げる気ずかいはなくなる、船との衝突の危険もない、この嵐では他に船は全く出てない。

紀文はと見ると寒いのか船内で体操のようで舞踊のような舞を舞っている太極拳の型らしい、日本の柔術にない地べたを這うような奇妙な動きであるがしなやかな流れるような動きなのでつい皆は見惚れてしまう、それが終わるとまた俄かに歌い出している。皆は紀文がひょっとして気が狂ったのではないのかと心配そうに観ていました。まあ海では船に乗ったら最後まで行き着かなければ、逃げる事など出来ないのです。覚悟する事ですね。

「♪華のお江戸に蜜柑を運ぶ、度胸一つで生きる身だ。咲いた花ならよう一度は散るじゃないか~ 男文左の、男文左の-心意気♪」

高垣亀十朗辺りを見渡して言った。

「おおまともやないか、まあ少しぐらい狂ってもなきゃとてもでないが、やってられませんわなぁ皆様方よう!」

「へい、儂ら紀文の若旦那がとても心配でのう……」

夜に入って空と海の区別も付かなくなっていた、凡天丸は暗闇の中をただひたすら江戸へと走り続けるのであった。

灯台もないし陸の風景も見えずでは、今どこを走っているのか皆目見当も付かない有り様で、もう気が触れそうになりますと少し朝日が差して来て周りがぼんやり明るくなってきました。

此処で紀文はどこからか、船上に和太鼓持ってきて叩き出した。

(ドドンコドンああドドンコドンそりやドドントドンドンドンドン)

またも紀ノ国屋文左衛門、調子良く唄う。

「♪えんぇーさても、この場の皆様がたえぇ~お見かけどうりの若輩でぇヨオホーイのホイそらぁ~えんやこらせい-のドッコイせい

ああ古より唄い継がれた河内音頭に、乗せまして血を吐く迄も唄いましょう♪」

これで皆の気持ちも少し明るく成り、久々の笑顔も出てきました。

音がする 鳥羽浦の漁師がふと沖を見た。

「おい皆見えるか、この嵐の中船が帆を上げて沖を行きよるで!」

「えっ嘘やろどこの船や、あっほんまや波に揉まれているな、大丈夫かいなこんな嵐にえらい無謀な奴ら要るもんやのう!」

 人々集まり沖見る波に消えては浮かぶ船がある、横で竜巻が揚がりまるで暴れ狂う龍王のようだ。

「あれは人間業の船ではない、八大龍王の御座船じゃぁ」

目を凝らしてよく見てると。

「おっ帆にはまるに、紀の字が有るで」

「おっあれは、紀州の蜜柑船やないかな!」

 皆はたまげて、その船を見ていた。

 (♪沖の暗いのに、白帆が見ゆるあれは紀ノ国蜜柑船♪)

 漁師町に後の世に歌い継がれた、有名な網引き音どである。

 新居の沖(浜名湖の近場)を経て

遠州・相模灘を、進む頃には日も差してきて嵐も収まり時化も和らぐ、みんなの顔色も徐々に戻ってきた。

まさにあの世の境目からの生還であった。陸上にいたならば途中から逃げる事も出来たであろうが何せ海の上だから、皆が覚悟決めなければならなかったのである。

「皆よう頑張ったのう品川までもう少しだ! 其処で検問ある」

「品川で積荷、降ろしですか?」

「いや江戸の佃島まで行く、江戸神田には近い佃で荷降ろしする」

「えっ儂らが、降ろすのですか」

「いや荷降ろしは、江戸の蜜柑方問屋に総て任せようと思う!」

「それは楽でええなあ! もうあきません、わてらへとへとです」

神無月(十一月)一日、品川の船番所に凡天丸は着いた。ここで江戸湊は佃島へ入津の手続きする。

 この時に紀州御三家御用達が役立つ、葵紋の旗差しは紀州藩船の通行証、お由利の方に授かった。

「ここまで三日で来たな、かなり沖合いを遠回りして来たが、風が強かったので早かったのか?」

 腕を組みながら、誰にゆうでもなく文左衛門はつぶやいた。

 十一月五日、凡天丸は江戸湊佃島に着き、ふ頭に碇を降ろした。

ピンチは最大のチャンスでもある、生きるか死ぬかの難を乗り越えて、紀ノ国屋文左衛門は幸運の女神様の、前髪を掴みました。

「おおい、みんなやっとこさ江戸だぜ!」

みんな船縁に、ぞろぞろ出て来ました。

「へぇこれが江戸か皆見てみい人も多く活気あるで!」

誰もかれもの口の動きも、軽やかである安心がそうさせるのか。

「あほやなぁ、ここはまだ入り口江戸湊の佃島やでぇ」

「そうかい兎に角皆さん方、命あってほんまに良かったな!」

皆は生きて江戸湊に着いた喜びに、明るさと元気を取り戻した。
















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