夕紅とレモン味

新巻へもん

プール帰りの河原の道で

 志郎は窓ガラスから中の様子を見る。ちょっと貫禄が付き過ぎたおじさんが前方を見据えて水の中を歩いていた。見ていて楽しいものではないが他に見るものもなくぼんやりと視線を送る。僧帽筋も広背筋も無さすぎだな、それじゃあ基礎代謝が足りねえ。


 しっかし、遅せーな。振り返って女性用シャワールームの方を見ると、自動ドアが開く。しかし、待ち人ではなくて中年の女性だった。志郎のことをジロリと見ると通路を通って出入り口の方に歩いていった。やっぱり、遅せえ。いつまで待たせるんだよ。


 志郎は痺れを切らして出入口に向かいカウンターの係員に会釈をしてロビーに出た。ロビーのソファにどかりと座る。体の奥の方の筋肉までが綿のようになっていた。さすがに3キロメートル近く泳ぐと無尽蔵の体力を誇る高校生でも全身に倦怠感は出る。


 志郎はロビーの片隅で誘蛾灯のように誘っているアイスの自動販売機を眺めた。志郎の年齢より1つ上の数字がブランド名のアイスだ。我慢してないでそのポケットに入っている硬貨で早くお買いなさいな。泳いで火照る体には冷たくて甘い私がぴったりよ。色とりどりの写真が志郎を誘惑している。志郎は先に買って食べちまうかと思ったが思い直した。前にそれをやったら翠が滅茶苦茶に怒ったからだ。


 翠は志郎より一つ年下の幼馴染だ。家が近くて小学校の5年間と中学校の2年間は同じ学校に通っていた。小さな頃から水泳を習っていて、筋肉バカと呼ばれる志郎でも一度も勝てたことが無い。ちなみに学力では全く太刀打ちできなかった。むしろ1学年下なのに志郎が教えを乞う始末である。


 志郎が翠とプールに来ているのは頼まれたからだった。この公営の屋内プールは料金も手ごろで施設も割と奇麗なのだが、清掃工場に併設してあることもあって場所は辺鄙な場所にあった。


「シロー、あんた、大木さんところの翠ちゃんのプールに付き合ってあげなさい」

 2学期が始まって数日経ったある日、志郎は母親に頼まれた。というか命令された。

「メンドクセー」

「ほら、変なおじさんが出たっていうじゃない。あんたと一緒なら安心でしょ」


 先日、塾帰りの中学生に向かって、己のモノを開示するという暴挙に及んだおっさんが出たという話は母親から聞いて知っていた。志郎の母親と翠の母親とは同級生で仲がいい。年頃の娘を心配する友達に対して、だったらウチのバカ息子に送り迎えをさせるわ、という話になったらしい。


「つーか。アイツも良く泳ぐよな。部活でも泳いでまだ泳ぎ足りねーのかよ。そうじゃなくても真っ黒なのに増々黒くなって夜になると見えなくなるんじゃねーの。だいたい、アイツに見せつけようなんてもの好きはいねーと思うけど」

「はん? 何か言ったかい? 期末で3教科も赤点取って呼び出された誰かに拒否権があるとか思ってんじゃないでしょうね?」


 先輩後輩関係の煩わしさから部活にも入らず、かといって勉強に勤しむわけでもなく、ゲームばかりをしてプラプラしている志郎に母親は業を煮やしていたので丁度いいとでも思ったのかもしれない。


「ゴメン。待たせちゃった」

 その声に意識を飛ばしていた志郎は我に返る。翠は背中にかかる髪をなびかせながら志郎の脇を通り過ぎ、そのままアイスの自販機の方に向かう。物憂げに立ち上がった志郎に翠が振り返って聞いた。

「今日は何味にする?」


 それぞれアイスを片手に駐輪場に向かい、自転車を押して歩き始めた。遠くの山に太陽がかかり、最後の残照で紅く空を染め上げている。ついこの間までは暑い日々が続いていたのに空はすっかり高くなっていた。ねぐらに帰るのか烏が鳴いている。川沿いの土手下の道は秋の虫の音色が賑やかだった。


「お兄ちゃん、いつも付き合わせちゃって悪いね」

 翠がポツリと言う。自転車に跨り両腕を組んでハンドルバーに乗せ足で地面を蹴っていた志郎はとっくにアイスを食べ終わっていた白い軸を指でつまんで顔を上げる。

「別に。どうせ暇だし」


「でも、高校生って忙しいでしょ?」

「それを言ったら翠は受験生じゃないか。あ、俺と違って勉強できるから問題ねーか」

 あははと屈託なく笑う志郎に向かって振り返る翠の顔に影ができた。


「ほら、勉強だけじゃなくてさ」

「知っての通り、部活に入ってないし、この間のガチャで爆死してから金もなくて、超ヒマ暇だから」

「カノジョさんとかは?」


「いねーわ。うちの高校イケメン率高すぎて、俺じゃ無理。俺成績も悪いし、話も面白くねーから」

「そんなことはないよ」

「そうだ。翠。滑り止めでうちの高校受けるといいぞ。イケメンよりどりみどりだから」


 翠の声のトーンが変わる。

「あのさ。私、部活やめたんだ」

「そっか」

「それだけ?」


「んー。俺は水泳部の顧問じゃねえし。部活なんて翠が好きにすりゃいいだろ。泳ぐのなんてプールがありゃどこでもできるんだしさ。なんなら、川でもいいしさ」

「そうだね。でも、川はちょっとムリかな」

「そんなことねえって。ちょっと待ってろ」


 志郎は自転車を止めると、Tシャツをかなぐり捨て、ダダダっと河原を走ってジャボンと水の中に飛び込む。せいぜいひざ下までしかない水の中に腹ばいになるとバシャバシャ手足を動かし始めた。10秒近くそうしていたが、満足そうな顔で翠の側まで走って戻ってくる。


「どうだ? クロールは無理だったけど、平泳ぎはできたぞ」

 ポタポタ垂れる川の水をタオルで拭くとTシャツを着た志郎に翠は呆れた声を出す。

「どっちかというと早贄になったカエルって感じだった」


 その実、目にした志郎の逞しい大胸筋と腹直筋が眩しく翠はドキドキしてしまう。プールではなんとも思わないのにヘンなの。

「おばさんにまた怒られるよ」

「へーき。へーき。いつものことだし」


 でも、やっぱ、今日はいつもより怒られるかもな、と思いながら志郎は翠に声をかける。

「さっきの話だけど、部活はやめたけど泳ぎたいってんなら俺はつきあうから遠慮しなくていいぜ。頭使わなくていい事なら任せろよ」

 両腕をあげて上腕二頭筋を見せつけると志郎は自転車を起す。


「ねえ、どうして?」

 志郎を見上げて翠は唇を真一文字に引き締める。

「ほら、お袋には逆らえないし。逆らうと弁当がヤバいんだよ。この間なんかさ、上下段両方とも白米だけでさ。腹減ってたから食ったし、コメだけでも美味いんだけど、やっぱ筋肉的には良くないから」


 内心密かに溜息をつきながら翠はちょっとだけ期待していたセリフが聞けず、やっぱりそうだよね、と思う。

「それにさ。泳いだ後のアイス、あれ無茶苦茶うまいじゃん。家帰ってからも夕飯前にアイス食うんだけどさ、味が違うんだよな。家のやつの方が値段も高いのに。あれ、なんなんだろうな。この間、一人でプール来て同じぐらい泳いでから食ってみたんだけど、やっぱ微妙に違うんだよなあ。翠、どういうことだと思う?」


「ねえ、お兄ちゃん。やっぱ、馬鹿だね」

「ひでーな。分からないから聞いてるんじゃないか。どうしてあのアイスが旨いのか理由知ってんだろ。今日のレモン味のもサイコーだったし。なあ、教えろよ」

 大腿筋に力を込めて仁王立ちする志郎の顔を見上げる翠に笑顔が戻る。


「仕方ないなあ。じゃあ、教えてあげるから屈んで」

「おう」

 嬉しそうに破顔して身をかがめる志郎に翠が文句をつける。

「もっと屈んで。それじゃ足りないから」

 夕日に照らされて長く伸びる2つの影の先端が一つに重なった。

 

 

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