第二十六話 秘密

 このマンションへ初めて来たラファは、まずリビングの窓へ向かった。

「やっぱ、すごい所に住んでるんですね」

 こどものように弾んだ声で散冴へ振り返る。

「小夜子さん、先にシャワーを浴びてください」

「一緒に浴びませんか」

「着替えたあとでコーヒーを淹れるから」

 彼女を無視してラファに声をかけると、散冴は寝室へと消えた。

 口を尖らせた小夜子も洗面室の扉を閉める。

 ラファは口を一文字に閉じて、また眼下の街並みに目を移した。


 白いバスローブに身を包んだ小夜子がリビングへ出てきた。頭にはタオルを巻いている。

 ソファに座っていた散冴がカップをテーブルに置きながら振り返った。

「すいませんね、女性の服がないので」

「むしろ女ものの服が出てきたら散冴さまを見損ないます」

 彼女の明るい声を聞いて笑みを浮かべ向き直る。

「もうすっかり大丈夫そうですね」

「おかげさまで生き返った心地がします。散冴さまの方こそ具合はいかがですか。シャワーも浴びられた方がよろしいですよ」

「そうですね。それじゃ」

 残っていたコーヒーを飲み干すと散冴は立ち上がった。

「服を洗濯しているので、乾くまでこちらにいさせていただいてもよろしいでしょうか」

「駄目だと言ったら、その恰好で帰るんですか?」

 白い歯を見せて洗面室へ入っていく散冴の背中へ、「意地悪なんだから」と小夜子は届かない声を掛けた。


 二人の会話に入らなかったラファが「うーん」と唸りながらソファに座ったまま両手を上に伸ばす。その目はキッチンに立つ彼女を追っていた。

「とにかく二人が無事でよかった。小夜子さんまで飛び込んだときはマジに心配したんですから」

 小夜子はポットに残っていたコーヒーをいれて彼の向かい側に座った。頭に巻いていたタオルを外し、長い髪を拭きはじめる。

「こう見えても泳ぎは小さいころから得意だったんですよ。中学校の水泳大会では背泳ぎで優勝しましたから」

 彼女のえくぼにつられてラファの口元もほころんだ。

「それにしてもサンザさんはどうしちゃったんですかね。水が冷たくて足でもつったのかな」

「ラファ君は気づいてなかったのね」

「え、何がですか」

 小夜子の顔から笑みが引いた。両手で持つカップに視線を落とす。

「わたしのせいなの」

 ラファは返す言葉がなく、彼女を見つめる。

「サンザさまも水泳は得意でした。でも、あの左手では……」

 すぐに何か言おうとしたラファだったが、そのまま口を閉じた。

「あんなに重いものを身につけながら泳ぐなんて無理なんです。右腕も怪我をしていたのに無茶をされて。普段の生活だって大変なはずなのに」

「確かにそうですよね。トレーニングは欠かさないって聞いていたけれど、俺なんかじゃ想像もつかないな」

 ラファは洗面室へ顔を向けた。閉まったままの扉の向こうからは、まだシャワーの音がかすかに聞こえている。

「でも、どうして小夜子さんのせいになるんですか」

 彼女は視線を落としたまま何も言わない。

 シャワーの音が止まった。


「あの左手と引き換えに、わたしの命を救ってくださったんです」

 小夜子は顔を伏せたまま十五年前の出来事を話し始めた。

 洗面室からはドライヤーの音が聞こえている。



「小夜子さんの言った通り、生き返りましたよ」

 右手で髪をかき上げながら散冴がリビングへ出てきた。白い長袖のトレーナーにスエットというラフな姿だが、左手には黒革の手袋をはめている。

「コーヒーを淹れなおしますね」

 入れ替わりに小夜子がキッチンへ向かった。

「サンザさん、なんか俺……色々とすいません」

「どうしたんですか、一体。謝らなきゃいけないのは私の方ですよ。また面倒なことに巻き込んでしまったし、今日だって迷惑をかけました。申し訳ない」

 散冴は小夜子が戻るのを待って、ラファの隣に座るよう促した。

「それとあらためて、助けてくれてありがとう」

「そんなこと止めて下さいませ」「俺なんて何もしてないですから」

 ソファに座ったまま深々と腰を折った散冴を、二人があわてて止める。小夜子は熱いコーヒーを勧め、ラファは話を変えた。

「鮎川さんの件ですけど、あの家にいるのってヤバくないですか。神栄会にもバレていたくらいですから」

 顔を上げた散冴がカップに手を伸ばす。

「ラファのところでかくまってくれますか」

「いやいや、それは無理です。俺の部屋なんて汚いし、狭いし」

「ここを使えばよろしいじゃないですか」

 いとも簡単なことのように小夜子が言った。

「使っていないお部屋もありますし、散冴さまが一時的にここを出られた方がご都合が良いのでは」

「でも俺たちだって、すぐにばれてしまうんじゃ……」

「散冴さまがご一緒していなければ、きっと大丈夫ですよ」

 彼女はソファに浅く腰掛けたまま涼しい顔をしている。

「ご本人は秘密の隠れ家とでも思っていらっしゃったのかもしれませんが、あの目立つお帽子姿でお出掛けになられていたら誰の目にも止まります。噂なんてすぐに広まりますから」

「なるほど。私がここにいるのはリスクが高いし、姿が見えなくなればここはノーマークになる。一石二鳥ですね」

「やっぱマズイですよ。俺と彼女がここに住むなんて」

「一時的なボディガードなんだから問題ないでしょう。二人とも大人なんだし」

 ラファの抗議を受け流し、散冴は熱いコーヒーに口をつける。

「マジかぁ」

 めぐみへの依頼を受けたときと同じように、ラファはソファの背もたれに体を預けて両手を上に伸ばした。目を閉じて天井に顔を向ける。

 ゆっくりと体を起こすと上目遣いに散冴を見た。

「俺が話すんですよね」

「よろしく」

 散冴はにっこりと微笑んだ。

「オゥケィ。でも断られたらサンザさんに話を振りますよ」

「大丈夫ですよ。ラファは女性に優しいから」

 ラファは口をへの字にして肩をすくめた。


「それにしても小夜子さんの言うとおり、ここを秘密にしておく意味なんてなかったんですね」

「だからと言って、名刺に書いて配るのはお止めになってくださいね」

 彼女の冷めた物言いに散冴は苦笑した。 

「俺は初めて来たけれど、てっきり誰かが密告したチクったのかと思ってましたよ」

「たとえば?」

「……南条さん、とか。あの人の情報網もすごいじゃないですか」

「彼はそんなことはしませんよ。刺激が欲しくて裏の仕事をしているような人ですから、たとえお金を積まれても情報を売ったりなんてしないでしょうね」

「あぁ。そう言われると分かる気がします」

 ラファは腕を組んで二、三度うなずいた。



 ホテルのラウンジに座っていたグレーのスリーピーススーツ姿の男性が大きなくしゃみをした。髪は薄く、えんじ色のネクタイを締めている。

「失礼しました」

「風邪ですか、細川さん」

 向き合って座っていた男性は一回りほど若くみえる。ブルーグレーのスーツにストライプ柄のネクタイを締め、書類を手にしたまま心配そうな表情を見せた。

「こう見えても僕は風邪をひかないんですよ」

 細川は自分の頭を指さしてにっこりと笑った。相手の男性はあいまいな笑みを浮かべる。

「髪が薄いせいで、頭から風邪をひくだろうなんて言う人もいるんですけれどね。もう何年も寝込んだことなんてないからなぁ。きっと誰かが僕の噂をしているんでしょう。自分で言うのもなんですが、僕、やり手のコンサルタントなので」

 今度は歯を見せて男性が笑った。

「ええ、そのことは私も十分に分かっていますから。こうして四菱建設に転職できることになったのも細川さんのおかげです」

「いえいえ、津島さんの能力と人柄、それがあってこそです。僕は背中を押しただけですから。あなたに会えたことは僕にとって幸運でした」

「私の方こそ、細川さんに会えたのは何と言うか……運命を感じます。色々とありがとうございました」

 津島は座ったまま深々と頭を下げた。

「それではこれで。もし津島さんのお力を借りたいときは、遠慮なくご連絡させて頂きます」

 細川が差し出した右手を津島が握り返す。

「私で出来ることなら喜んで」

 去っていく細川の後ろ姿へ向かって、津島はもう一度頭を下げた。

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