第三章 龍麒団
第十九話 ジンと女と、そして赤
高層ビル群に切り取られた空にも月は昇る。
細い通りを抜ける風が肌を冷たく撫ぜていく。
散冴は右のポケットから懐中時計を取り出した。
青銅の看板に『ノアール』の洒落た文字。
カウベルの乾いた音を響かせ、マホガニーの扉から身体を滑り込ませる。
この日も一枚板のカウンターには誰もいない。
戸惑った表情を一瞬浮かべたマスターが声を掛けた。
「いらっしゃいませ」
散冴は軽く微笑む。
左手に嵌めた黒革の手袋はそのままに、山高帽とマフラーを外した。
チェックのジャケットからスタンドカラーの濃紺シャツが覗く。
「今夜は仕事で来たわけではありませんから」
そう言うと、奥から二つ目のハイチェアに腰を下ろした。
「喉が渇いてしまって。何か、お勧めのカクテルをもらおうかな」
「かしこまりました」
細身のロングタンブラーにマスターが手を伸ばす。
グラスの上でライムを絞り、そのまま中へ落とし入れた。
氷とジンを入れ炭酸水で満たしていく。
「ジンリッキーでございます。お好みでライムをつぶしてお楽しみください」
カウンターにそっと差し出された。
すぐに手に取った散冴は一口、喉を鳴らして飲み干す。
「さっぱりとして美味しいですね」
「夏向きのカクテルですが、今のお客様には合っているかと」
「ええ、一息つきました」
マスターは白髪まじりの頭を下げた。
しばらくするとカウベルが音を立てた。
「よかったぁ。ここにいてくれて」
グレーのダウンベストを脱ぐと、胸のふくらみが白いセーターを押し上げている。肩に軽く触れていた茶掛かった髪を両手で背になびかせた。
細身のデニムが彼女の印象を活動的なものにしている。
「また会いに来たよ」
隣に腰掛けた彼女を、散冴は見ようともしない。
「シンガポール・スリングを」
彼女はマスターへ声を掛けた。
「かしこまりました」
ジンとチェリー酒、レモンジュースを手に取る。
「ちょっと教えて欲しいことがあるの。最近出回り始めたという薬物を追っていたら
心地良いシェイクの音が静かに響く。
「相変わらず、せっかちで馴れ馴れしい人ですね、あなたは」
散冴は前を向いたままタンブラーを傾ける。
「主に中国からの不法滞在者を相手に、池袋で違法な中絶手術を高額で請け負っているクリニックらしくて。ヤバい組織も絡んでいるって噂だから、あなたの耳にも入っているんじゃない?」
赤いグラデーションを見せるロングタンブラーが彼女の前へ静かに置かれた。
「私の仕事とは関連がありませんから」
「そう言うんじゃないかと思ってたわ。実はここのマスターに話を聞きたかったの」
突然に話を振られて身構える彼に、名刺を差し出す。
そこには『フリーライター 鮎川めぐみ』と書かれていた。
「何か知っている情報があれば教えて欲しいんだけど」
彼女は白い封筒をバッグから取り出した。
マスターは散冴の顔を伺う。
「
「ありがと」
黒革の手袋を嵌めたままの左手に、彼女の右手が重なる。
初めて、散冴がめぐみを見た。
「相変わらず冷たい手ね」
視線を外し、あきれたような、穏やかな笑顔を散冴は浮かべる。
「龍麒団というチャイニーズマフィアが絡んでいるという噂です」
「やっぱり。でも、もう首を突っ込んじゃったしなぁ」
マスターの言葉を聞いて、めぐみは眉を寄せる。
「ねぇ、わたしと組まない?」
「個人からの依頼はお断りしているので」
そう言うと、グラスを飲み干して立ち上がった。
「えっ、もう帰っちゃうの」
「どうぞごゆっくり」
マフラーを巻き、山高帽を被る。
「待って、一緒に出るから」
カウンターには封筒を置いたまま、シンガポール・スリングを半分残して散冴の後を追う。
「ありがとうございました」
マスターの声がカウベルの乾いた音に重なった。
店を出て三、四メートル。
停まっていた黒いミニバンから男が四人、降りてきた。
一様に黒いマスクをつけている。
「これ、流行ってるって言うけれどダサいよね」
彼女は驚いた様子も見せず、散冴の後ろへ隠れた。
「あなたは知っていたんですね」
「うーん、何となく
「関係のない私を巻き込むのは止めて欲しいものです」
「だってこういうときには頼りになるじゃない」
男たちは回り込みながら距離を縮めていく。
通りに建つマンションの壁を背に二人は半円状に囲まれた。
金属パイプを手にした奴が無言で襲い掛かる。
散冴は素早く左に体をかわし、奴の背中へ右の裏拳を打ち込んだ。
そこへ殴りかかってきた相手を軽くしゃがんでかわす。
そのとき、山高帽が落ちた。
三人目が帽子を踏みつけながらパイプを振り上げた。
途端に散冴の顔色が変わる。
「貴様ら、タダで済むと思うんじゃねぇぞっ!」
素早くマフラーを外して右手に持つと、鞭のようにしならせ相手の目元を打つ。
「後ろっ!」
彼女の叫び声に散冴が振り向く。
転がっていたパイプを手にした四人目が振りかぶった。
金属同士がぶつかる硬い音が響く。
散冴は左手の甲で受け止めていた。
目を見開いた相手へ薄く笑い、パイプを跳ね上げて黒革の手袋を外す。
間髪入れずに相手の
奴のあごから鈍い音がした。
「
四人目の男があごに手をやり、
汚れを手で払い、形を整えて被り直した。
「この貸しは高くつきますからね」
「えぇっ。それじゃ、わたしの体で払っちゃおうかな」
「今夜は帰しませんよ」
「ほんとに⁉ ちょっと待って、やっぱり別の日にしてくれないかな……」
めぐみは急に慌てた様子を見せる。
「こうして火の粉が降りかかってきたからには、さきほどの話を詳しく聞いておきたいので」
「なーんだ、そっちか。ちょっとがっかり」
今度は心底あきれたような苦笑いを散冴は見せた。
月が照らす舗道を二人が並んで歩いていく。
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