夢路

 私は夢の中にいる。


「勘弁してくれ」

 あの人は、熱情を宿し私を見詰めたその目で、鬱陶しいものを見るように蔑んだ。けれどまだ、望みはあるのだと信じたかった。私には縋るものが他にはなかったから。

 それを失いたくなくて、みっともなく足掻くけれど、どうてもそれは私を置いていきたいらしい。

「もう金輪際、近づいて来ないでくれ」

 親の仇のように殺さん勢いで、私を突き放す。私だけが悪者か。もう居場所はないのかもしれない。捨てるならどうしてもっと早く解放してくれなかったの。

結局、私は未練に縛られる。

「お前のような人間は幸せになれない」

 呪いのようなその言葉は完全に私の歩みを止める。そこから抜け出すことができない。当たり前の結果になっただけ、ただそれだけ。それを受け入れることも出来ない。だから、私は私を殺す。

 私は一人でも幸せになれる。それを証明する。その反抗心と小さなプライドだけが、私を生かしているのだから。


 うなされるように目を覚ます。ここ最近の目覚めは最悪だ。汗で張り付いた前髪をかきあげる。枕元に置いたペットボトルに手を伸ばし、乾いてくっついた喉を潤す。

「はあ」

 お気に入りのパジャマはだいぶ色褪せ、年を取ったことを明確に私に突きつけてくる。

 また、あの人の夢を見てしまった。だからこんなにも胸糞悪いのか。見たくない夢は、繰り返し私にあの日々を思い出させる。そんな事で、揺らぐのか。こんなにも弱い自分に嫌気がさす。ともすれば泣きそうになる気持ちを奮い立たせ、叱咤する日々。

 ベッドから起き上がり、姿鏡の前に立つ。そこに映る見慣れた顔は、少し頬がやつれ、暗い表情を隠しもせず、こちらを睨んでいる。肌の調子も悪そうで、乾燥しているのか、手で触れるとスポンジのようにガサガサとした感触が伝わってきた。

 着替えたら多少はましになるだろうとクローゼットに手を掛けたところで、携帯電話が鳴る。直ぐ取り上げて確認し、落胆する自分に吐き気が込み上げた。

「本当に馬鹿だな」

 その連絡先へと人差し指を画面すれすれまで持っていくけれど、押したりはしない。その後を考えて怖くなる。連絡なんて絶対しない。


 あれから何かにつけ、携帯電話の電話帳を開いては、あの人のページを見ていた。未練がましいと罵られたとしても開かずにはいれなかった。でも何時からか、その名前の下には『千埼忠』の文字があって、私の未練にまみれた汚い目線を隠し覆っていた。


 気づけば何時間でも見てしまう携帯電話から視線を外し、手の届かないよう机へ置く。タイムセールで衝動買いしたあまり好みでないTシャツとチノパンを取り出し、素早く着替える。今日は出掛ける予定もつもりもないので、動きやすさと弛さを重視したコーディネートだ。

 部屋を出て、リビングへ降りる。冷蔵庫の中には卵が一つ残っているはずだから、目玉焼きを作るって、あとは、冷凍してある食パンでも焼こう。最近特に雑になってきた食生活に、外食が増えるのも頷ける。

 年末年始以外に顔を合わせることのない両親は海外へ出て、一人娘に広い一戸建てを守らせている。気兼ねなく暮らせるのはありがたいが、いかんせん広すぎる。乱れた食生活に文句をつける人はどこにもいないが、食卓を囲む人も同じくいない。

 味気ない朝食を持って、リビングのソファーへ座る。随分と早く起きてしまったようで、時刻はまだ午前六時を回ったばかりだ。

 気晴らしにテレビをつけてみても、堅苦しい顔のニュース番組しかやっておらず、引っ込んだはずの眠気がまたやってきた。お腹が満たされると、更にそれは増して襲ってくる。飲み込まれないように、頭を振るけれど、一瞬引いたその波が大きくなって返ってくるだけだった。


 私はまた眠りに落ちる。


 第一印象は覚えていない。それくらい興味がなかった。私は筋肉が程よくついたモデル体型のあの人のような系統が好きだったからだ。

 パッと見はタイプではない。むしろ、何か嫌だ。でも気になった。それはあの人と雰囲気が何故か似ていたからかもしれない。何考えてるか分からない、ミステリアスとでも言うのか。私にだけ弱さを見せてくれるというか……。

 けれど、話してみると分かる。ただの鈍感だ。しかも天然で純粋だ。明らかに苦手なタイプだ。私との相性は悪い部類だった。


 話好きのお節介な先輩は大抵デリカシーがない。私の心を抉るのが得意だ。彼はそれを知ってか知らずか引き離し、結果的に私を助けた。

 その気がないのに何故気を持たせるようなことをするのだろう。優しく私の名前を呼ぶあの人が、頭の中で笑っている。


 近藤さんが聞いてもいないのに話している。かっこいいよね。ミステリアスだよね。たまに笑うんだよ、私だけに。思い切っていこうかな。

 牽制ともとれるそれに、内心ないなと思いながらがんばれと後押しする。彼女は昔から恋に恋するタイプだ。


 連絡先を聞いてほしいというので、欲しかった化粧品と引き換えにその役を引き受ける。好かれていることに気付きながら、気づかないふりをする態度にあの人が重なる。正直八つ当たりをしていたのは事実だ。後で、ふりではなく全く気付いていないとういのは分かるのだけれど、彼は私の怒りをただ受け止めていた。

 鈍感故、理解出来ていないだろう。ただ、否定も肯定もせず、私の理不尽な怒りを受け止めていた。


 流石に酒の抜けた頭で考えて、酷く逸脱した行為をしてしまったことに驚愕する。一応会社の先輩なのだ。謝らなくては。会社内では人目が気になるから、ストーカーよろしく退社時を狙う。思いの外帰るのが遅いので、コーヒーを三杯も飲んでしまった。


 私の謝罪を彼はやはり受け止めた。ともすれば折れそうになる私を、やり方が合っていたかは別にして、フォローする動きもみせてきた。

 そうか、それなら近藤さんにも前向きに協力をしてあげよう。思っているほど悪い人ではないのかもしれない。


 そう思った矢先、近藤さんが話す内容と彼が言うことが、まるで噛み合っていない。彼は時よりとんちんかんなことを真面目に話す。彼はきっとかなりの強敵だ。

 しかし、話してみると観点こそずれているが、こちらの意見を否定はしない。彼は外から与えられる全てを、子供のように取り込もうとしているようだった。


 約束の通り、早速水族館に行ったらしいが、近藤さんの顔色は良くない。しかし、もう田辺という若い子にターゲットを鞍替えしている。彼女はきっと引きずるという意味を知らないだろう。

 何故か行きつけのお店にいる彼にそのことを聞くと、案の定、散々だったようだ。まず感想をと聞かれた時に、水族館のことしか話さない時点で何かが間違っている。しかし、彼にとっては間違っていないのだろう。私たちの考えるデートとは、きっと概念が違う。


彼は全く気付かない。乙女心というものを。必死で着飾ってみても、可愛い動作をしても、全く響くことはない。鈍感を通り越して、何だろう、言葉に表せない。可愛いを信条にする近藤さんには無理だろう。まあ、近藤さんも近藤さんで彼に期待しすぎだ。

結果が見えていた私も悪いといえば悪いか。

 皆、平等に悪いということで、この件は終わりにしよう。


 意識が浮上しそうになるが、何か思い出したかのようにまた深く沈んでいく。

 私は、夢の中を歩いている。断片的な記憶と気持ちがそこかしこに、貼り付けられている。その一つ一つを覗きながら、私は途方のない距離を歩いていく。


 彼の話を掘り下げていくと、どうしてか自分のことも話したくなる。興味深く聞かれると話す気は失せるのに、こうも興味を持たれないと話したくなるのは、あまりに天邪鬼か。

「今日振られました」それは少し語弊があったけれど、そんな気分だった。


「付き合ってもいないだろ。勝手に勘違いしないでくれ」

お前は自己中心的で、傲慢だ。そう投げつけられた言葉ははっきりと形を持って私の中に存在する。いくら否定をしたとしても、そうじゃないという確たる証拠はなく、結局はそうなのかもしれないと自分を納得させる。

「俺には家族があるんだから――」

あの人は私に興味すらなかったのだろうか。悔しさと後悔と屈辱と卑屈が入り混じって溶けて、ドロッとした『何か』が生まれる。私はそれに縋るしかない


「おかしいですよね」と笑った声は、自分の声だったか。

 それでも彼は静かに受け止め、その目に何も映さず私を見ていた。

 どうにか彼の考えを聞きたくて、理不尽に聞いた問いに「分かりません」と返した言葉が、彼らしいと思った。

 その場から逃げるようにして帰った私を彼は追いかけて来て、しかし、何も発さない。この行動はどんな衝動からきているのだろうか。


 フワフワと浮く宮殿の中で、彼と私は向き合っている。私は高飛車に彼に話しかける。

「どうかしましたか?」

 私は少しうつむき加減で平静を装い、しかし、彼を観察する。返事はない。

「嫌な気分にさせてしまったのなら、謝ります」

 全く動きもしない。

「結局だんまりですか。何をしに追いかけて来たんですか?……では、失礼します」

 思わず汚い本心が口を出てしまう。ドロドロと。何も知らない子供に悪態をつく汚い大人の様だ。それを誤魔化す様に頭を軽く下げ、踵を返す。

「渡辺さん」

 やっと彼が私に対して行動を取る。さっきまでの彼のように自然と私の動きが止まった。

「僕、またここに来ますので」

 相変わらず発言の意味は不明で、しかし、私の硬化を解くには充分だった。


 場面は変わって、私は彼と店長のお家にいる。咲ちゃんももちろんいる。

「もう来ないかと思いました」

 意を決して言葉にしたつもりが、彼の顔の周りにはクエスチョンが飛び交っていて、すっとんきょうな声を上げた。

 思わず笑ってしまったが、私の悩みなど彼には通用しないのかもしれない。それにしても、もう少しかっこいい返しができないものか。いや、彼にそれを期待するのは酷だ。これでは……。また結局彼のペースだった。


 お店の戸をくぐって、彼がその席に座っていると吸い寄せられるように隣に座っていた。恥ずかしい所を見られた。もう話をしたくないと思った時もあった。それなのになぜか私は彼の隣に座り、そして憎まれ口を叩きながら彼と話す。その時だけはあの人を忘れられた。


「千崎さんは結婚について、どう考えてますか?」

 結婚の話題が出ると少しムキになって話してしまうのは分かっている。けれど、どうしてもそれを抑えることは出来ないでいた。

 意外にも彼は結婚否定派だった。そこにはあるはずのない意志があって、理由がすごく気になった。そして、彼の告白を私は一蹴した。

 世界がグラグラグラグラ揺れ出す。私は必死でしがみつくけれど、彼の前から下に転落していく。最後に見えた彼の顔は僅かに感情を映していた。

 その時初めて、私の行動がどれ程、無慈悲であったかを理解する。悪戯を告白する子供のように彼は怯えていた。私は一度落ち着きを取り戻す様に息を吐く。

 彼の元へは戻れない。下へ下へと落ちていく。


 底まで落ちきって辺りを見回すと、また彼がいた。

 彼の中にも感情はある。それに彼は気付いていない。彼は純粋に世界を感じようとしている子供みたいだった。一緒にいる時は私も子供に戻ったようだった。何も知らない彼に教える優越に浸ることが楽しかった。その時だけは自分の中身を忘れられた。


彼は時々核心についたような言葉を私に送ってくる。両手にしっかりと抱えて、私を包むように投げかけてくる。

 それは、私がほしいと思う言葉であることが多い。しかし、やはりというべきか、その言葉の意味を理解しているとは思えない。彼の中の何かが、意志に関係なくその言葉をしゃべらせているとしか思えなかった。


 フワフワと浮上していく、彼と一緒に。今度の旅は一人ではない。


 彼との逢瀬は、当たり前の様に私が主導権を握っていた。彼はカルガモの雛のように大きな体で私の後をついてくる。何かを感じているのか、たまにお腹を擦っている時があった。彼はその答えの導き方が分からず、無力の子供のようにただ途方に暮れていた。

初めて入った部屋を警戒する猫のように、辺りを威嚇していているようで、毛が逆立って見えた。初めて見る食べ物にはかなりそそられているようで、終始興味深げに観察していた。


 最初は八つ当たりで、次は興味だった。そして、優越。

 でも、何時しか彼がまるで何も知らなかった頃の自分に見てきた。嫌悪と同情。彼と一緒に笑っている時も汚い感情が私を取り囲むようになった。

 しかし、彼は変わることはなくただ純粋に生きている。だから余計それが羨ましくなった。純粋にはなれないことを痛感した。私はもう汚れていた。それは、より私を自己嫌悪の沼に引きずり込む。足を取られて動けない。どんどん汚染されていく。

私の世界は止まり、汚く廃り、卑屈に支配されている。何度も何度も彼にこの世界に来てほしいと思ってしまった。その時の私はあの人だった。結局は私もあの人と同じ、腐った人間だった。苦しみたいと思う。それだけが生きていい理由だ。


 また底に落ちて、座り込んでいる私の元に、黄色い紙が落ちてくる。

『幸せになりたい』

 世迷言だ。ぐしゃぐしゃと握り締める。私は幸せだ。そうでしょ?

 問いかけた先にいる彼の目には、いつもの如く何も映っていない。ただ「渡辺さんは、今幸せですか?」そう問いかけてくるだけだ。


 何時もどこか遠くを見ている。心ここにあらず。その言葉がぴったりだ。こっちが話していても意識はどこかに飛んで行って、返事もしないときだってある。常に何かを探しているような気がした。


 幸せなんだと口にすればそれが形になって現実となる。そういうものだ。彼は私が幸せだと口にするたび、痛みを伴うように顔を歪めた。私はそんなことを感じてほしいんじゃない。そんな顔をしないでよ。彼の前から走って逃げる。


 私はまた一人になる。振り返ると彼が追いかけてきている。思えば彼はどんな私を見ても、また目の前に現れた。


 彼を前にすると、押し殺してきた自分が前に出て、どうも涙もろくなる。泣きたくないのに涙が止まらない。泣いた後は大抵、自己嫌悪が激しく気分が悪くなるけれど、この時だけは私を楽にする。

 それは、泣いている私を見る目が、何の感情も映していないからだろう。蔑みも、同情もそこにはない。だから私は、泣くのかもしれない。あるとすれば、事実を確認している目だけで、川の流れを見るようにただ涙が流れるのを黙って見ている。


 今度こそ、身体と一緒に意識が浮上する。

 いつのまにか下に青い短冊を持った彼がいて、それをこっちに渡そうと躍起になっている。遠すぎてよく見えない。その姿が可笑しくて笑いが込み上げてくる。


リアルな夢だなあ。まだ、夢の中なのだろうか、それとも……。


 ポーンと小気味いい音が聞こえる。まだ起きたくないという気持ちに、そういえばいつ寝たんだっけという疑問がかぶさって、私を覚醒させる。

 目の前には朝食の残骸があり、テレビはまだニュースを流している。

寝る前に何かを考えていたような気がするけれど、思い出せない。ただ、彼の顔が思い浮かんでいる。そういえば携帯電話が鳴っていたような。確認すると、咲ちゃんから連絡が入っていた。

『香織さーん。元気ですか? 咲はすごく川に行きたいです! 一緒に行きましょう!』

文面から今度は咲ちゃんの顔が思い浮かぶ。今はただ、忘れたいことが多すぎるので、丁度いいのかもしれない。

『行こう! 私もすごく行きたい!』

直ぐに返信する。

『スペシャルゲストもいるんで! 日曜日にお店で待ってまーす』

返事に食い気味で、更に返事がやってくる。

『スペシャルゲスト』なんて言われても、頭には一人しか浮かばなくて、それを直ぐに塗りつぶす。期待は禁物だ。いや、断じて期待ではない。

 会社で話し掛けようとしてくれたのに、目線を合わせる事すら出来なかったんだ。きっと嫌われた。いや、元々彼は私など眼中にない。自嘲気味に笑うと少し余裕が生まれる。次に会ったときはしっかりと返事くらいはしよう。

「はあ、アホらしい」

思春期の子供のような小さな目標を胸に、上を向き始めた『何か』に悪態をつく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕と彼女と幸福論 温木みすず @ZIGand

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ