あなたの罪、裁きます。

黛 ちまた

第1話

中野千鶴は逃げていた。

ただひたすらに逃げていた。それはもう、必死の思いで。


脚は痛み、靴も逃げている内に脱げた。

走り過ぎて肺も痛い。呼吸も上がっている。

それでも、逃げずにはいられない。止まったら、捕まる。

何処まで逃げればあの男から逃げ切れるのか分からない。


「あっ」


限界だった脚がもつれ、足元にあった石に引っかかって転けた。


「ぃ……っつ」


転けた時に強く打ち付けた膝は皮が捲れ、血が滲んでいる。


「追い付いたぁ」


千鶴は目を大きく見開いた。振り返るのが怖い。怖いのに、顔が無意識に声のした方を向こうとする。

そこには、ニタリ、と笑う男がいた。


「嫌……っ!来ないで…!!」


逃げようと立ち上がろうとした瞬間、膝に痛みが走り、中途半端に立ち上がる形になる。


「あ……っ!」


髪が掴まれ、引っ張られる。ブチブチと何本も髪が抜けたのが嫌でも分かる。


「嫌ぁ……っ!」


男はポケットから折りたたみナイフを取り出すと、慣れた手付きで畳まれていたエッジ部分を出した。

千鶴の目が恐怖で揺れる。恐れから溢れ出て来た涙が目尻から溢れた。


「一つ、悪戯に殺生をしてはならない」


男の頭を、背後に立った何者かが掴んだ。長く赤い爪が男の皮膚に食い込み、じわり、と血が滲む。


「なっ!何だ!?誰だ!?」


「一つ、淫らな行いをしてはならない」


横から入る月の光で見えたのは、身長が185はあるだろう白髪の男だった。


「え……?」


男は千鶴の髪を掴んでいた手を離し、己の頭を掴んでいた腕から飛び退すさった。

そこにはスラリとした細身の着物を着た男が立っていた。

白髪なのも相まって、老人かと錯覚するが、背は曲がっておらず、肌も若い。

右半身は白地。左半身は黒地の単衣に黒い帯。帯紐は白。

爪は長く、鋭く、赤い。

異様な風体である。


「邪魔すんじゃねぇよ!!」


白髪の男めがけて、男はナイフで切りつけた。それを白髪の男は左手の人差し指と中指の間で挟んだ。

男の身体が震えているのは恐怖ではなく、力を入れた事によるものだ。ナイフを動かそうと力を入れているにも関わらず、ぴくりとも動かない。


白髪の男は、左手の人差し指と中指を軽く捻った。ペキッと金属特有の高い音を立ててナイフが折れた。


「なん…だよ!」


男はヨロヨロと後ずさる。顔には恐怖がありありと浮かんでいる。


「なんなんだよ、お前!!」


白髪の男は男の問いには答えない。


「己のなそうとした事を反省するなら、罪を無かった事にしよう」


抑揚のない声である。


「うるせぇな!!オレが何しようとお前に関係ねぇだろ!とっとと失せろよ!!」


内心の恐怖に打ち勝つように、大声を張り上げる。

威嚇のつもりでもあるが、白髪の男には全く効果は出ていない。


「……反省なし、と」


帯に挿していた煙管キセルを取り出し、慣れた手付きで雁首がんくびに刻み煙草を詰めた。


「もう一度聞こうか、己の行いを省みる気は無い?」


「しつけぇな!ねぇよ!オレはまた女を犯すし、殺してやるよ!」


白髪の男の目が赤く光った。

ぞくり、と男の背中が恐怖で泡立つ。千鶴は恐怖のあまり、ずっと歯をカチカチと鳴らしている。歯の根はどうやって噛み合っていたのか、思い出せない。理性を本能が上回る。

どうしようも無く怖い。怖いのだ。


「ならば仕方無い」


煙管の雁首に青い炎が点った。同じ時、男の左の胸が締め付けられるように痛み出した。呼吸が浅くなり、おびただしい量の汗が、毛穴という毛穴から吹き出す。


「裁定は」


白髪の男が息を吸うと空気が雁首に吸い込まれ、刻み煙草はパチパチと音を立てる。


「ぁ……ぐ……あ……っ」


男は胸を抑えてその場に膝を付いた。

目が充血し、口の端から涎が溢れる。



煙管を口から離すと、ふーっと白い息を吐き出す。

雁首の中に詰められた煙草がボッと音を立てて、青い炎に包まれた。

炎が燃え尽きた時、男は前のめりに倒れた。それを見た千鶴は、今度は自分の番かと、白髪の男を見上げた。小刻みに身体が震える。

煙管を下に向け、雁首の中の塵を落とすと、帯に挿した。


「忘れなさい」


「……え?」


白髪の男は千鶴を見て言った。


「走って転けて膝を痛めた。それだけ。全て忘れて明日を迎えなさい」


そう言って白髪の男は千鶴に背を向け、歩き出した。

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あなたの罪、裁きます。 黛 ちまた @chimata

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