シミュレーション異説 Reverse Babylon

永久凍土

Reverse Babylon

 テーブルの対面に座るのは新しい友人である。

 私の次の言葉を待ち、その長く尖った美しい耳で聞き耳を立てている。


 時刻は夕刻を過ぎ、外は濃紺の帳が降り始めた頃。街の喧騒が届かない屋敷の書庫で向き合う。

 種族の正統な礼装を纏い、琥珀色の双眸で静かに私を見つめるのは亜人種のご婦人だ。

 重苦しい書架が立ち並ぶ部屋の灯りは暗く、屋敷の者も普段は寄り付くことがない。埃とカビの匂いに塗れた書庫は秘密の会談には好都合だ。


「私が代々記録を引き継いでいる〈魔法〉の起源の話……で良かったかな」

「ええ、私達の伝承と合致しているかどうか」


 亜人種のご婦人の声は正に鈴の音色のようで、私の耳に心地よく響いた。


「君達亜人種と、もはや残り少なくなった我々『人類』の話でもある」

「人類が元々培っていた力、テクノロジーと魔法が入れ替わった時代」


 ご婦人はそう口をすると、ぷいっと右の耳だけ傾ける。

 見た目こそ十代のヒト族ほど若く見えるが、長命種故に私と同年代かもしれない。

 私は一息吐いて口を開いた。


「気難しい君達が、今更それに固執する理由が分からないが……」




***




 その塔が姿を現した時、人類は世界が本当に何者かによって造られたものだと知った。


 だが、その何者かはおよそ五万年前に姿を消してしまった。何事も告げず、ただこの世界の全ての事象を編集・改変する術だけを残して。

 塔というのは比喩だ。それは直径およそ十キロメートル、高さは静止軌道にまで及ぶ巨大な円錐状の構造物で、人が登り下りする前提のものではない。

 組成は高純度ケイ素、膨大な量の極薄シリコンが幾重にも折り重なって巨大な塔を形成している。


 ちょうど千年前、多くの考古学や言語学、生物学に理論物理学などの権威を集めた研究機関が調査した結果、その塔は世界に存在するもの全て事象を編集する言語型ツール「WAL」〈World altered language〉を納めた途方もなく巨大な情報体と判明した。

 人類は未だその片鱗しか解析し得なかったが、巨大な記述ファイル群とも言える塔の更新履歴は約五万年前で途絶えている。

 何故この世界を造ったのか、何故何者かは消え去ったのかは分からない。

 そして何故塔だけが人類の前に突如として現れたのかも。



「シミュレーション仮説」という思考実験がある。

〈我々人類が生きる現実世界は実はシミュレーションに過ぎない〉

 量子論的に一度は否定された概念であるが、正にその仮説が裏返ったのだ。



 多くの宗教や神話が語る造物主は本当に存在した。そして人類は混乱した。世界は何者かによってデザインされたシミュレーションの産物だったのだと。

 だが、その世界が作られたのは最短でも五万年前、造物主たる何者かも今や姿を消した。もはや現実(リアル)と何が違うのか。やがて事実を受け入れ、混乱は徐々に収束していった。


 塔に記述されたWALは気象や生態系に始まり、果ては分子や原子、素粒子の振る舞いに至るまで、様々な事象が事細かに編集可能な言語が連なっている。

 WALは我々の世界が存在する三次元空間より高次の次元にアクセスし、任意の事象編集現象をもたらす「六番目の力」を得る「プロトコルのようなもの」と推測されている。

 物理学で知られている基本的な力、重力、電磁気力、弱い力、強い力、ダークマターを解釈する五番目の力、プロトフォビックボソンに次ぐものだ。


 多くの国家が相次いでWALを研究に着手し、検証試験を行った結果、熱力学に代表される様々な物理現象がいとも簡単に覆ることを知った。

 造物主たる何者か——— 彼らは人類が観測し干渉し得る事象、ミクロからマクロ視点のスケールを完全無視が可能な遥かに高次元の存在だったのである。


 始まりは些細な編集ばかりだった。だが、やがてそれは大きな変動へと繋がり、国家規模の悲惨な災厄が多発した。また、WALの権益を巡って多くの紛争を生み、人類は大きく疲弊した。

 人類がWALを「過ぎた力」だとようやく自覚し、WALが引き起こした編集の修正とそれに関わる全ての封印を決意したのは、塔が現れて三十年が過ぎた頃の話だ。

 だが時は既に遅く、修正が利かない編集事象が数多く残った。その一例がWALの不正流出によって特殊な才能を発現した一部の人類により、指向性事象編集が個人で可能になったことだ。


 それまで創作の産物に過ぎなかった〈魔法〉と呼ぶべきものが現実となった。


 生態系は編集され、人類としての秩序は崩壊。世界は混沌へと向かいつつあった。

 翼竜が天空を舞い、亜人種が隆盛する、魔法が世の理りを支配する世界。

 純粋な人類種である我々は間も無く滅ぶ。


 後に塔は「リバース・バビロン〈Reverse Babylon〉」と名付けられた。

 それが千年後の現在だ。




***




「旦那さま、旦那さまっ、ああ、此処に居らっしゃいましたか」


 軽快なノックの後、勢いよく書庫の扉が開いて埃が舞う。入ってきたのはヒト族の使用人だ。

 私は眉間に皺を寄せ、軽く咳払いをする。


「悪いが来客中だ。用があるなら後にしてくれないか」

「こんな小汚いところでお客様を迎えるとは、私に恥をかかせるおつもりですか。お茶もお出ししていないなんて信じられないっ!」


 使用人は壮年の女性だ。主人を主人とも思わぬ横柄な態度には些か閉口するが、仕事には極めて忠実である。年寄りが持て余す大きな屋敷を一人で切り回しているのだから文句は言うまい。


「あらやだっ、んまあ、こんなにお美しいお嬢様がお客様とは珍しい。一体どういう……

「ああ、もう分かったから、お願いだから外してくれ」


 このまま喋らせると疲れるまで止まらなくなる。私は彼女の言葉を遮った。

 使用人は亜人種のご婦人ににっこり笑って会釈すると、渋々書庫を出ていく。

 亜人種のご婦人はふふっと笑って礼を返した。


「やれやれ、こんなに早く見つけられるとは。我々の跡を継ぐヒト族は無垢で純粋だが、今ひとつ繊細さに欠ける。慌ただしいったらない」

「私の知るヒト族は聡明な方も居らっしゃいますよ」


 可憐な表情をその美しい相貌に湛えたご婦人が和かに言う。

 だが、やがてそれは消えた。


「西の……西の大陸で『魔法の王』が次々と討ち倒されている話はご存知ですか?」

「噂話では聞いている。ここ十数年で転生してきたとされるヒト族の子らが、生まれ持った魔法の力で猛威を振るっていると」

「そう……確かに『魔法の王』らは決して全てが善人ではなかった。けれど、世界を混沌から遠ざけ、安定をもたらしていたのも彼ら。その力が弱まっている」


 私は何故この亜人種のご婦人が訪ねてきたのか察しが付いた。


「もしや例の塔、リバース・バビロンに向かうおつもりかな?」


 しばらく沈黙の後、亜人種のご婦人はゆっくりと口を開く。


「恐らくそこにヒト族の転生を手引きしている者が居る。この世界を混沌の闇へと誘う……」

「それは『女神』の名を騙る、『魔法の王』の裏切り者」


 私の呟きに亜人種のご婦人は両の耳を下げ、小首を左に傾けた。


「答え合わせはこれで済みました。私達の伝承とほぼ一致する。貴方は本物の人類、そして人類最初の『魔法の王』」


 その言葉に私は天井を仰ぎ、そして小さくため息を吐く。


「はは、魔法の王『だった』だよ。他は知らんが私は長生きに疲れた。延命魔法を止めた今は眼も見えぬし手も震える。WALを唱えることも書くこともできん。そう言う君達こそ高次の彼ら、造物主と接触できていたのではないのかな、美しきアールヴの女王。だから我々との共存を拒んだ」


 私が言葉を返すと、アールヴの女王は再び柔らかくふふっと笑う。

 書庫の薄暗い灯りが一瞬だけ瞬いた。


「ご想像にお任せします。高次存在との接触は未来を知ることでもある。それがどれだけ退屈なことか貴方には理解できるはず。それで、私達が貴方にお願いしたいのは———

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