履歴書

暑い四日間だった。

自分の仕事を一度とめて、以前お世話になっていた会社へ手伝いに行った。日の稼ぎは三分の一ほどに減るのだけど、これは報恩のためで稼ぐためではないのだから、仕方がないと思っている。

去年から依頼(というか)されていた現場だったので、こちらが忙しかろうと、おいそれと断るわけにもいかないのだった。


その会社は、先代が「荷車を牽いて」川向こうの農家へ種苗を売って興した会社で、百年ほどの歴史をもっている。

あとを継いで二代目の社長になったのは次男のSさん。お店を切り盛りしながら、いくつもの庭を管理していて、Sさんの息子(三代目)が軽トラックで毎日それらの現場をまわっている。

Sさんのしたには三人の弟があり、つまり長男をいれて五人兄弟なわけだけど、みなおなじ会社で働いている。

そのなかで私がもっともお世話になったのは五男のKさんだった。庭そのものがどんどん減っていく中で、種苗や花などを売りながら、Kさんを筆頭に公共の仕事に参加したのだ。会社は市内一の老舗だけど、公共では新参者だと言って、苦労をこぼしていたことがある。(公共の植栽管理の仕事は入札制で、その裏の話をいろいろと聞いたものだけど、ここには書かない)


そうした家族(親族)経営の会社で、長男である「親方」は植木屋というよりは庭師に近い。作庭に造詣が深く、また経験も豊富だ。親方が得意とする枯山水などの石組みや、竹垣をつくれる職人が減っているのは需要がないからだろうけど、それでも残していってほしい技術だとは思う。

七十歳をすぎているのに驚くほどよく働く人で、私などは若さを武器にしなければとうてい太刀打ちできない。その頭と腕につまった経験談を、おしつけることなく穏やかに語ってくれるので、親方とすごす一服のひとときは実にゆたかな時間になる。年に一度のことではあるけれど。



中学をでてすぐに働きはじめた私は、造園業にたいして「自分に合うのではないか」というあこがれのようなものをいつも抱いていた。卒業後、造園ではなく土木の会社へ入ったのは、同学年の大嫌いだった男が造園を選んだから、というなんとも幼稚な理由だった。

土木、鳶、塗装などもやった。現場仕事のあらっぽさに耐えかねて、その後はアルバイトをしながら自分にあう職をさがし、とある会社で正社員に採用された。心身をひどく病んでそこを退職し、病気療養しながら選んだのが造園だった。

外で働きたいと思ったのは、セロトニン生成のために日光が有効だという病識をもったということも大きいけれど、それ以上に「自分に合うのではないか」という予感がまだ胸裏にあったからだった。



以下は私の簡単な履歴書。


記念すべき一社目。A

そのころ住んでいた家からもっとも近いという理由で選んだ。

ワンマン社長。わずかふたりの老いた職人は日々不満をぼやいていた。

千葉の遠くから稼ぎに来る人夫出し(派遣)のおじさんたち。

社長は「連中に15000円も日当を払っている」といって荒っぽく使い倒していたけれど、彼らはそのうち8000円ほどしかもらえないのだとぼやいていた。

界隈でも有名な「偏屈おやじ」のもとで、私の造園業がはじまった。

日当は8000円。終日ひたすら下働きをしていた。


下積みの二社目。B

Aのおやじとけんかになって飛び出し、次に近かったBを選んだ。

そこで基礎を学び、数年を過ごすことになった。

面接では、Aの話で盛り上がった。「あんなとこによくいられたな」「いえ、いられなかったので今日ここにきています」

この会社はまだ若く、社長も当時四十代だったと思う。公共の入札には参加できず、もっぱらその下請けをしていた。

Aとちがうのは、マンションの植栽管理を行っている点だった。某大手マンション管理会社の下請けだった。

ここでもっともよい経験になったことは、あちこちの造園会社に手伝いとして派遣されたことだった。会社ごとにまったくちがう作業の進めかたを学んだことが、いまの私の作業の幅をひろげてくれている。

ここを辞めるころには、日当は12000円まであがっていた。

(ここでの体験をすべて書くとなると、何万字あっても語りつくせないので止す。本題はそこではないので)


出戻りの三社目。A

Bをやめて、しばらく造園業をはなれた。

我慢して修行することが一人前の職人になるために不可欠だと信じ、すこし頑張りすぎたようで、造園そのものがいやになっていた。

数か月アルバイトなどしていたが、Aの社長から声がかかり、出戻ることになった。

…現場がはかどったある日、吝嗇のおやじにはめずらしく十六時前に「あがりじまい」となり、うきうきした気持ちで会社へ戻った。その日は私の誕生日だったから、早く帰って妻と美味しいものでも、と思いつつもどると、そこにBの親分が仁王立ちして待ち構えていた。

「うちよりここがいいってのか」「あれだけメンドウみてやったのに」というようなむねのことをくどくど言っていたが、ほとんど憶えていない。最悪の小一時間だったことはまちがいない。Aのおやじは見て見ぬふりを決め込んで、とっとと隠れてしまった。

もっとも、今ではBの社長とそこらで会っても、ふつうに笑って会話して、いつでも戻ってこいなどと言ってくれる。戻ることはないだろうけど。


地獄の四社目。C

ふたつほど年上の一人親方。

私がBにいたころ、手伝いに来ていたときに知り合った「気のいいあんちゃん」が、そろそろ人を雇えるといって、私の屋根に白羽の矢をたてた。(これはただしい意味での白羽の矢…)

口が達者で、明るく、人を笑わせることが好きな男で、とても仲良くしていたため、私はよろこんで彼のもとへ移った。(私が辞めたことでAの社員はいなくなった)

「人を雇えるようになった」と言っても、彼の仕事は月に2,3件ほどしかなく、それらの金額もたいしたものではなかったようだ。

そこで最初にあげた老舗に、ふたりでかよっていたのだった。

五男Kさんの率いる公共班にはいって、そこで腕を磨いた。

日当は12000円。(2000円ほどCがハネていたらしい)


正規の従業員ではなかったので、事実上は「一人親方」だった。

従業員を社会保険に加入させなくてはいけないという時代の要請に、各社さまざまな手を使ったが、従業員を独立させて外注として扱うという手が多くみられた。私もそういう経緯で個人事業主となった。


ここでも大小さまざまの事件があったのだけど、とうてい書ききれないし書く気もない。やっと本題にはいることができる。


個人事業主になったからには、自分の仕事をつくらなくてはいけない。

持病で動けなくなることもあるので、いっそ独立するほうがいいだろうと決意して、Cもそれを最初は「応援する」と言っていた。

平日と土曜はKさんのところの仕事があるため、私は日曜に自分の仕事をいれていった。順調に仕事が増えていったころ、Cの態度がガラリとかわった。

ここに詳しくは書かないけど、「男の嫉妬」といえば、ある程度想像してもらえるだろうか。

たとえば、ある日突然「もうしばらくはKさんのほうの仕事はないから、来週は出てこなくていい」といわれ、変だなと思い、Kさんに確認すると「そんなことは言っていない、仕事はやまほどあるゾ」と言われた。

それをきっかけに関係は悪化し、さんざん揉めたすえに私はCと訣別した。

そのとき彼は言った。

「今後Kさんの仕事は、絶対におまえには回させない」

「そうですか、そうしたいのならどうぞ、そうしてください。ぼくはぼくでやりますから。そのかわりKさんから声がかかれば、行きますから」

「いや、絶対にそうはさせない」

「どうぞ、ご随意になさってください…」

結果は、Kさんどころかその兄である親方や社長からも、頻繁に連絡がきていて、むしろこちらが忙しくて泣く泣く断っている。その断った仕事をCにやらせれば、と提案したが「あいつじゃダメだ」と言っていた。


性格が悪いと思われても私は一向にかまわないので本音を書く。

「ざまあみろ」だ。

報瀬ちゃんが南極に降りたったときに何度も何度も叫んだように、私は何度も何度もつぶやいた。ざまあみろ、ざまあみろ!

お前が得意の話術であの人たちを籠絡しようとしているときも、私はひたすら仕事に打ち込んできた。

お前が苦手な作業を上手にサボっているときも、私はKさんたちにどやされながら仕事を学んできた。

お前があれだけお世話になっているKさんを陰で蔑ろにしていたときも、私は目の前の仕事だけに専心してきた。

「その結果がこれよ!ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろぉぉ!」


と、熱くなってしまうことを抑えることができないほど、Cではさんざんな目にあったのだ。それはここに書かないけれど、恨みはふかく、まだ胸の中に残っている。

けれどそれらの恨みはバネに変えることができたし、なによりKさんたちと出会えて、一緒に仕事をできたことはとてもたいせつな財産になった。

そのためだけにCを辞めずに耐えていたのだから。

Kさんのもとでの修業はほんとうに実りが多く、この仕事をやっていくうえで必要な技術とそのうらづけを、私はそこでいただいた。ひとりでやっていくための自信も。


そこに「恩」がある。

AやBがかつて何度も私にいった「恩知らず」という言葉は、完全な誤りで、恩と言うものはいつでも「こちらが勝手に感じる」ものなのだと思う。

着せられた恩にはすぐに報いることができる。簡単だ。お中元のようなものだと私は思う。

けれど、自分の腹の底からわきあがった恩というものは、簡単に返せるものではない。

だから、たとえ日の稼ぎが三分の一になっても、そのために一度自分の仕事を止めなくてはいけないとしても、行けるときにはこうして手伝いにいく。


私が暮らしていくのに、AもBもCも、SさんKさんの仕事もいまのところ必要ではない。

その他にも知り合った多くの人が、暇になったら手伝ってくれと声をかけてくれる。私の腕を買おうとしてくれている。でもそれらはみんな必要ないので「暇になったら…」と遠回しに断っている。

だって、暇になったら私は本を読んだり物を書きたいのだし、そのために独立したのだから。

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