下書きは頭の中

私は言葉となるべくはなれたくないと思い、何かを書いていない間のために「随筆」という大仰な冠をつけて、ここに書きはじめた。


なんといえばいいのか、練習でもなく本番でもなく、…少年時代に剣道に夢中になっていた時期があるのだけど、四六時中ずっと竹刀を握っていたかったあのころの気分に近く、いつでも心の中で素振りをしているような気でいる。


「書いていない間」というのは、仕事に忙しいとか、持病が暴れているとか、そういう意味ではない。それらの要素がまったくないわけではないけれど、そういう意味ではない。


私は下書きを建設的に(文字として)残しつつ積み上げていくことが苦手だ。

書くときはだいたい調子がいいかひどくわるいときのどちらかで、一息に書く。

普段はぼうっとしている。ぼうっとして、頭の奥で考えている。

脳のどの分野を使っているかはわからないけれど、それはいわゆる「思考」ではなくて、どちらかというと「感覚」的なものだと思う。

感覚の網目にひっかかったものを、脳のすみにある大きな鍋にほうりこんで、言語化できるまで弱火でずっと煮込んでいる。

ほうりこんだものは一度忘れているわけだけど、失ったわけではない。(大部分はそのまま忘れてしまうが、肝心なものは不思議と忘れてはいない)

そうしてぼうっとしていて、不意にあるものを言語化できるときがあり、そいつをしっかりつかまえてひっぱると、鍋からずるずると束になって言葉が生まれてくる、というような感じで、それまでのぼうっとしている時間がつまり「書いていない間」ということになり、それが大半の時間を占めている。


いまもそうで、コトコト煮込んでいる音は聞こえてきそうだけど、とっかかりはまだつかめない。けれど『人と木』の林太郎と髭は日々どんどん会話を進めているし、ほかの書き途中のものもグツグツ煮えている。

焦げつきを防ぐために、たまに鍋のなかを掻きまわすのだけど、この作業がつらい。

無理だ、書けない、やめちゃえ、とか思うのはたいていこういうときで、それが今なわけだけど、それなら書かなければいいだけのことで、気晴らしに漫画や小説を読んだりすればいいのだ。

「思考停止」は人が言うほど悪いことではない。少なくとも鍋を焦げつかせずにすむのは、散歩したり、風を感じたり、川をみたり、ねこと寝たり、仕事したりして、思考を止めてやることができるからだと私は思う。焦げついた思考のできそこないを、お皿に盛って出すわけにはいかないだろう。


その間、思考するとしないとにかかわらず、鍋はうごきつづけていて、それが私にとっての「下書き」になる。

頭のなかで何度も下書きをして、それを上塗りしていく。そうしてほぼ完成みたような姿になってしばらくすると、ようやくとっかかりができるのだろうと思う。


その間ずっと文字から離れているわけで、久しぶりに書こうとして言葉が出ないでは困るので、こうして日常的に書くためにこの場を作った。

そういう自分のための場所で自分のために書いているのに、読んでくださる方がいることには驚くが、それはやはりうれしい。

とはいえ、ほかのものもすべて、自分のために書いているという意味では変わりがないことにはちがいない。



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