恋を失う

枕木きのこ

転んでもただでは起きない

 きのう、君を失った。

 そして、色が、輪郭が、世界がなくなった。

 声も、香りも、感触も、味も、わからなくなってしまった。

 歩くこともできなくなった。

 腕を傷つけた。

 髪を切った。


 でも。

 僕はうれしくなった。

 素敵な君に出会えた。



「振られたってマジ?」

 スマホから顔を上げると、美咲は頓狂な声でそう言った。

 教室中に響くボリュームで、クラスの喧騒の中、数人がこちらを向くのがわかって、私は恥ずかしくなって慌てて彼女の口をふさぐ。

 

 ほめんほめん――ともごもご謝罪をくれた後、


「でもすごい順調だったじゃん」


 好奇心をむき出しにして、こちらの様子をうかがう。


「私もそう思ってたよ。思ってたけどさあ」

「なんで振られたの」

「——ほかに好きな子がいるって。きのう。急に」

「はあ? なにそれ」

「ほんとに。なにそれ、だよ」

「殴った?」

「そんなそんな」

「信じらんない。私なら即殴る。腹殴るわ」


 美咲は一通り私に共感してくれると、またスマホに視線を落とした。ツイッターで今の話の感想を書くんだろうな――、と友だちなのに、ちょっと気分が悪くなる。

 そういう子だってわかっていて、そのうえで吐き出したくて言っているんだから自業自得に違いないけれど、それでも、振られた上に、まだ好きでいる相手のことを、醜聞宜しく、あることないこと書かれてしまいそうで、落ち込む。しかもまた、彼女の波及力は人ひとり潰すには十分すぎるわけで。


 ——と、彼女の挙動を眺めていたら、急に、そのスマホをこちらに向ける。

 画面はSNS上で音楽の再生が始まったところで、——ぼんやりと聴いたことのある弾き語りのメロディが耳に届いた。


「あ、これ知ってる」


 最近流行りの失恋ソングだ。と言っても、プロの音源ではない。

 二週間くらい前、ネット上で2分弱の動画としてアップロードされた。投稿者はioronさん。CDでも配信限定でも販売される予定がなければ、顔も素性も全く知られていないただの素人なのに、この曲だけが世間で話題に上る。数回だけれど、テレビで取り上げられているのを見た記憶があった。


「これ聴いて元気出しなよ。まさしくきのう失恋したひとにぴったり」


 ちゃんと聴くのは初めてだったけれど、こんなタイミングでは聴きたくなかった。偏屈なだけかもしれないけれど、失恋にかこつけて趣味を押し付けられた気分になる。ある意味、感情の行き所がはっきりするから、気は紛れるけれど。


 透明感のある歌声だった。年齢は20代と思えたけれど、同世代かもしれない。画面からの情報は一切なく、録画時、携帯を伏せていたのか、真っ暗である。

 テレビでは「10代20代から圧倒的支持。共感度100パーセントの電子姫」なんて恥ずかしい文句を謳っていたけれど、どうしてこれが流行っているのか、私は知らないし、たぶん、誰も明言はできないのではなかろうか。それくらい、それ自体もその取り巻きもちゃちなのに、なぜか頭に残る、妙な耳障りの良さがあった。「本物」とか「才能」とはこういうことを言うのだろうか。

 

「このタイトル、どういう意味なんだろうね?」


 転んでもただでは起きない――というのが曲名だった。


「さあ。公式も何もないし、この動画以降なんの発信もないから予想だけど、失恋したことで新しくいい出会いがあったよってことじゃないの? 歌詞の内容的にも」


「ああ、そっか」


「つまり私は詩織もいい出会いあるよって言いたいってことよ」

 調子よく笑いながら美咲は言った。

 

 曲が終わる。

 

 ほとんど同時に予鈴が鳴った。

「あ、やば」

 私たちはお弁当を掻き込んで、トイレに一緒に行って、別々の教室に戻った。

 別れ際、

「あとであいつ殴っとくわ」

 と美咲が力こぶを作って胸を張っているのが、可笑しかった。



 ベッドでゴロゴロ寝返りを打ちながら――、片づけるために、記憶を整理する。


 大和くんとの交際は、わずかひと月くらいのものだった。

 好きだと言われて、私も、かっこいいなと思っていたから了承した。彼はとても私に尽くしてくれたし、私もそれがうれしくて、へんな話、舞い上がってしまったんだと思う。


 初めての恋人。初めてのデート。えっちはしなかったけど、初めてのキスはした。


 まあ、男の子だし、そういうところの事情もあったのかもしれないな、と一日も経てば気持ちの切り替えが始まる。

 お姉ちゃんが彼氏と別れた時は、どうやって歩いていたかわからなくなった、と言って一日中部屋にこもっていたことがあった。色恋沙汰の多い人だったけれど、そんなに落ち込んでいるのは初めてのことで、ああ、本気の恋愛って怖いんだな、と思っていた。


 そう思い出せば、私と大和くんの交際は、たぶん、性欲と憧憬の関係だった。

 お互い本気じゃなかったんだと思う。というより、そう思わないと、苦しくなる。

 何の確信もないくせに、一瞬を一生だと思って、結婚したらこうかなとか、こういうところが子どもに似るといいな、なんて、馬鹿みたいなことを思っていた。


「今を生きろよ、詩織」


 結局、ブラジルだったかポルトガルだったかの年上の男性と結婚して家どころか国内を出ていったお姉ちゃんが、キャリーケースを片手に、すっと親指を立てて言った言葉が、ぼんやり思い出される。


 それでいいんだ。

 性欲と憧憬を満たすためでも、それを永遠のことだと勘違いするのも、今しかできない。こうして思い返すことはできても、選択し直すことはもうできないのだ。

 転んでもただでは起きない――その歌のように、結局なにごとも転んでからが大事なのだ。


 ——スマホのバイブレーションで、はっとしてベッドからさかさまに転げ落ちた。

 

 美咲からの電話だ。

 打った頭をさすりながら、体制を整えて通話を開始するやいなや、


「やばい、ioron捕まった!」

「ん?」

「捕まった人がioronだった!」

「ちょっと何言ってるかわかんないけど」

「テレビテレビ! つけたらやってる、日テレ!」


 言われるがままテレビをつけて、チャンネルを合わせる。

 

 ——、交際していた男子大学生を監禁、殺害した疑いで逮捕されました。——容疑者は、動画投稿サイトでioronと名乗り動画を投稿し、「犯行を示唆した。気づいてほしかった」などと供述をしており、警察は事実関係を含め慎重に捜査していくと発表しました。また、——


 案の定、ネットはお祭り騒ぎだった。

「逮捕とか草」

「さかささかさ」

「犯罪者を持ち上げてたとかさすがマスゴミ」

「そもそも匿名の人間を支持すんなよ」

 それぞれが言いたい放題である。


 もちろん、美咲の脳内も、きのう失恋した私のことではなく、今日判明したこの犯罪者でいっぱいになっている。

 私はほとんど、彼女の言っていることを聞き取れなかった。



 世のなかにあふれている失恋ソングや純愛小説なんて、うそばっかりだ。

 世のなかはそんなにきれいじゃないし、真っ当じゃない。そんなことは生きていれば嫌でもわかる。

 あれもこれもそれも。ioronと名乗った彼女はもちろんそうだし、彼女の作った歌に心酔していたひとたちだって、同じだ。

 全然真っ当じゃない。

 

 失恋したときに味方になってくれるひとなんて、そんなに多くはいないんだ。

 私は、急に、視界が真っ暗になる思いで、それならと、ぎゅっと、強く目をつむった。

 世の中の一大事ではなく、ひとり、大和くんとの思い出を噛み締める。

 

 オリジナルが消えてもなお繁殖を続ける、その歌を聴きながら。


 ■


 素敵な君に出会えた。

 僕はうれしくなった。

 でも。


 髪を切った。

 腕を傷つけた。

 歩くこともできなくなった。

 声も、香りも、感触も、味も、わからなくなってしまった。

 そして、色が、輪郭が、世界がなくなった。

 きのう、君を失った。

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