第16話 師匠

 繁華街から離れた閑静な住宅街の一角に小さな診療所があった。

 朝一でマルクトと別れるつもりだったイェソドだったが、結局言いくるめられる形でここまで連れて来られてしまった。

 どこに行くのかは伝えられていなかったので、到着地に疑問を抱く。看板を見たところ、専門は内科と小児科のようだ。どちらも今のイェソドには必要がない。勘違いかとも思ったが、案内したマルクトが迷いなく入っていく。

 中は街の小さな診療所といった感じで、小さな待合室に、杖をついた患者らしき男の患者が一人だけ。受付はあったが空っぽだった。


「コクマーさん、おはようございます!」

「なんだ、マルクトか。ビナーの奴なら、今診察中だ。もうすぐ出てくるだろうよ」


 患者の男とは顔見知りらしく、マルクトは挨拶を交わす。なかなかハンサムな中年男で、高い生地ではないが、きちんと採寸されたスーツを優雅に着こなしている。

 一見すると優男だが、強い目力のせいで軽い印象は受けない。男が視線をマルクトからイェソドへと移した瞬間、少年は蛇に睨まれた蛙のような気分になった。


「マルクトの彼氏か? いつもの世迷言を諦めたならいいことだな」

「いひひひ、やだなぁ。私は一途な乙女なんだから、浮気なんてしないっすよぉ。私が心に決めた人は一人だけなんすから」

「そうは言っても、ビナーがあれだからな。おまえ、あいつの若い頃に似てるんだよ」

「いひひひ。……冗談すよね? あの人に似てると言われると割とショックなんすけど」


 引き攣ったような苦笑いを浮かべる少女から、コクマーはすっと目を逸らす。イェソドはビナーというのが誰かは知らないが、二人の反応からどんな人物か察した。

 同時に、マルクトに思い人がいるという話に、イェソドはもやっとした気分になる。それがどういう感情であるか、まだ幼い彼はよくわかっていなかったが、少しだけ嫌な気持ちになった。

 その時、軽やかな足取りで黒猫が待合椅子の上に登り、コクマーの隣で丸くなる。診療所に動物など不衛生だが、コクマーは驚いた様子もなく、ちらと眼を向けただけだった。


「ケテルも一緒か。じゃあ、用件は悪魔関連か?」


 さらりと出てきた単語に、イェソドは驚く。オカルト趣味とは到底思えないこの男から悪魔なんて言葉が出てきたということは、ケテルの正体を知っているということだ。


「……あんたも悪魔を知ってるのか?」

「俺自身は契約してない。昔悪魔関連のいざこざに巻き込まれたことがあるだけだ」


 そう言って、コクマーは杖で自分の左足を叩く。甲高い金属の音が響き、左足が義足であるということが伺えた。


「これは経験から言わせてもらうが、悪魔と関わった人間はロクなことにならない。取り返しがつかなくなる前に身を引いた方が自分の為だぞ」

「いや、俺は無理やり連れて来られたっていうか、面倒事を抱えてるのは俺自身だから」

「面倒事?」


 コクマーが片眉を上げていぶかしがる。余計なことを話してしまったことに気付いたイェソドが、言い繕おうと口を開きかけた時、待合室に大きな声が響いた。


「あー! 猫ちゃんだー!」


 診察室のほうから走って来た子どもが、椅子の上で丸くなっていたケテルを撫でる。

 眠りを邪魔されたケテルは迷惑そうな表情になるが、やれやれ仕方ないと言わんばかりの態度で、大人しくされるがままになっていた。

 子どもの後からやってきた二人の女性のうちの一人が、それを見て慌てて止める。


「あぁ、すみません。うちの子が……。ほら、猫ちゃん眠そうにしてるのに、触って邪魔したらかわいそうでしょ? 猫ちゃんから離れて、先生にさよならの挨拶しなさい」

「ビナー先生、さようなら~」

「はい、さようなら。お薬ちゃんと飲むんだぞ~」


 もう一人の女性――ビナーと呼ばれた白衣の女医が、にこやかな顔で手を振り返す。

 親子を見送った後、ビナーはマルクトたちに向き直って歩み寄ってくる。彼女の目はイェソドへと向けられており、マルクトはイェソドをその視線から守るように、さりげなく体の位置を移動させた。


「マルクト、来るなら来るって連絡をくれ。こっちにだって準備があるんだ」

「い、いやぁ、何の準備か聞くのが怖いすけど、こっちもいろいろ唐突だったもので」


 マルクトに近づいたビナーは、武術の達人もかくやという素早い動作で脇を抜け、少年と目線を合わせる。突然眼前に現れた彼女の瞳に、イェソドは半歩後ろに下がった。


「やぁ、かっこいいお客さんだ。名前を伺ってもいいかな?」

「……イェソド」

「イェソドくんか。いい名前だ。私はビナー、この診療所で医者をやっている者だ。あぁ、敬語はいらないから、気楽にビナーお姉ちゃんと呼んでくれたまえ」


 ビナーは少年の手を両手で包みこむと、しっかりと握手をする。やや大げさで人懐っこいと捉えられなくもないが、イェソドは全身の毛が逆立つような危機感を抱いた。

 全力で手を引き剥がして距離を取る。警戒心をあらわにする少年に対し、ビナーは機嫌を悪くするどころか、怯える子犬を見ているようで可愛いと目を一層輝かせた。

 獲物を前にした節足動物のように手をわきゃわきゃさせるビナーの肩を掴み、このままではらちが明かないので、マルクトはさっさと本題を斬り込むことにした。


「えーっと、師匠。今日はちょっと、このイェソドくんのことについて相談があるんすけど……。時間あります?」

「もちろんだ。私の時間は少年少女の為にあると言って過言ではない。ちょうど患者が捌けたところだし、お茶を出すから奥で話そう」

「おい、藪医者。おまえには、ここに座ってる患者の姿が見えねえのか」


 杖をついたコクマーが呆れたように言う。言葉ほど苛立っているようには見えないので、彼らにとってはよくやる問答なのだろう。

 ビナーはビナーで悪びれた様子もなく、口を尖らせる。


「他に患者がいない時ならともかく、なんで少年よりおまえの相手を優先しなければならんのだ。だいたい、ここは小児科だというのに、薬をたかるためだけに、なぜうちに来る? 金持ってるんだから、もっと大きな病院に行け」


 ぶつぶつ言いながらも、薬品棚から錠剤の入った瓶を取り出して男へと投げ渡す。


「どうせ、痛み止めが切れたってだけだろう。薬はくれてやるから、とっとと失せろ。私はこれから少年少女との楽しいティータイムで忙しいんだ」

「相変わらず、すがすがしいクズだな、おまえは」


 薬瓶を受け取った男は、椅子から立ち上がって出口へと向かう。途中、イェソドの横を通り過ぎようとしたところで屈み、彼にだけ聞こえる声で囁いた。


「悪魔と関わった人間はロクなことにならないと言っただろう。あいつはその典型だ。油断してると喰われるから気をつけろ」

「……ロクなことにならないじゃなくて、ロクな人間にならないの間違いじゃないか?」


 半目になって問うイェソドに、コクマーは何も答えずに診療所から出て行く。嘘でもいいから否定して欲しかったと思う少年だが、遅れて彼の言葉の意味に気付く。


「この女が、マルクトと同じで、悪魔と関わった人間?」

「おや、悪魔のことを知っているのか。まぁ、私に相談に来るくらいだしな。では、もう一つの肩書きの方で、改めて自己紹介させてもらおうか」


 ビナーは懐から取り出した煙草を咥え、火をつけてから言った。


「私はビナー。ケテルとは異なる悪魔と契約した元魔女。魔女の先輩として、マルクトからは師匠と呼ばれている。イェソドくんは、気軽にビナーお姉さまと呼んでくれ」

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