第54話 「志麻。」

 〇富樫武彦


「志麻。」


 出先から戻った志麻に声をかける。

 今朝、志麻はボスに…咲華さんと話がしたいと申し出ていた。

 私はそれを…盗み聞きのつもりではないが、聞いてしまった。

 勘のいい志麻なら、私がなぜ声をかけたのか…分かるはず。


「…ただいま戻りました。」


 志麻の目は、少し赤いように感じた。


「……」


 それを見ると…色々言いたい事があったにも関わらず、私の口からは何も出て来なかった。

 …私など…何も言える立場ではない…か。



「…富樫さん。」


「何だ。」


「今夜…飲みに行きませんか?」


「……」


 志麻から飲みに誘うなんて…初めてだ。

 私は志麻の肩に手を掛けて。


「ああ。行こう。」


 そう答えた。



 それから間もなくボスもお帰りになられて、それぞれ仕事をした。

 思えば、志麻と一緒に仕事をするのはいつぶりだっただろう。

 また明日から志麻はイタリアに行ってしまうが…来月には同じ時期に日本に帰る事になっている。



「今日、ボスのご自宅にお邪魔しました。」


 飲みに行ってすぐ、志麻がグイグイと酒を飲みながら言った。


「…そうか。」


「私は…情けない男です。まだまだ…彼女の事を吹っ切る事が出来ていませんでした。」


「……」


 それを聞いて私は…志麻の背中に手を置いて、ポンポンと叩くぐらいしか出来なかった。


「ですが…彼女が今、どんなに幸せなのかは…分かります。」


「…ああ。」


「いい加減、私も…進まなくてはならないと思って…」


「……」


「吹っ切るために、ボスのご自宅に伺って…私の決意をボスにも聞いていただきました。」


「……」


「私は…こんな事があっても、ボスを尊敬し慕っております。ですが…あの日の失態で…信用を失ってしまいました。」


「そんな事はない。確かにおまえのした事は事件に値したが、ボスはそれでおまえを見限るような人では…」


「はい。分かっています。ですが…どうしても私なりの方法で…ボスに忠誠を誓いたいと思い…」


 それで…ボスにも来て欲しいと言っていたのか…

 それは、志麻らしいと言えばらしいのかもしれない方法だった。



「本当は…彼女にもボスにも…言い訳がましい事は話したくなかったのです。」


 飲み始めて一時間。

 志麻は…ずっと今日の話をしている。


「言い訳ってなんだよ。」


 私もチビチビと飲みながら、志麻の話に耳を傾けた。


「…別れた理由…です。」


「…待たせた理由か?」


「……そうです。全部俺が悪いのに…彼女の中に、真実が曲がったままで残ってしまうのが嫌だった…なんて、俺は…弱いですよね…」


『私』が『俺』になった。


 志麻、随分酔ったな…。



 真実が曲がったままで残ってしまうのが嫌だった…か。

 咲華さんに、何か誤解されたまま別れたという事か。

 だが、それも今となっては…なのだが。


「誤解されたままだったのが嫌だった。って事だな。おまえがそれほど思うとは…よほどの理由だったのだろうな。」


 理由を言うとは思わなかったが、少し知りたそうに言ってみると。


「…他の女性に気があると思われていました。」


 意外な返事。

 志麻が他の女性に気が向くという事にも、咲華さんが志麻を疑ったという事にも、驚きを覚えた。


「…今更伝えた所でどうにもならないと解っていましたが…」


「……」


「俺と付き合っていた事を思い出した時に、あんな理由で別れた。と思い出されるのが嫌だったんです。」


 …意外と…子供っぽい気もしたが…

 志麻の新たな面を見れて、優しい気持ちにもなった。



「強い男に…なりたいです…富樫さん…どうしたら…」


 カウンターに頭を乗せて、志麻は小声になった。


「どうしたら…俺は…」


「…志麻。」


 こんな志麻を見ていると…どうしても同情してしまう。

 ボスと咲華さんには、もちろん…ずっと幸せでいてもらいたいが…

 志麻にも、同じほどの幸せを…と願わずにいられない。



「おまえにも、咲華さん以外の女性を愛せる日が来る。それは、意外と簡単な事だ。」


 私がそう言うと、志麻はゆっくりと顔を上げて。


「…簡単なのですか…?」


 私の顔を見た。


「簡単だ。もっと自分の周りをしっかり見る事。今のおまえは過去を振り返っているだけだ。」


「……」


「おまえの事をちゃんと見てくれている人がいる。それに気付いて、その手をちゃんと離さないようにすれば…おまえにも幸せは訪れるんだ。」


「…俺は…幸せなど…」


「そんな事言うな。私は、おまえの幸せな顔を見たい。」


「……」


「それはきっと、ボスと咲華さんの願いでもある。」


「……」



 志麻はそれからしばらく、無言のままボンヤリとグラスを眺めていた。

 だが、ふっ…と小さく溜息をついた後…


「今夜は…ありがとうございました。」


 つぶやいた。


「ん?」


「富樫さんがいて下さって…救われました。」


「志麻…」


「こんな情けない男の幸せを願って下さるなど…私には出来ない事です。」


 志麻は小さく首を振りながらうつむいて笑うと。


「…そうですね。きっと…私が幸せになる事で、あのお二人をもっと幸せにして差し上げられる気がします。」


 顔を上げた時には…久しぶりに晴れやかな表情だった。

『俺』が『私』に戻ったところを見ると…冷静になっているのかもしれない。


「私はこれからも二階堂に尽力いたします。その中で…自分の幸せが何か、考えてみたいと思います。」


「…全く…仕事好きな男はこれだから…」


「富樫さんもそうでしょう?」


「まあ、そうだがな。」


 改めて、グラスを鳴らした。

 年上ではあっても、中途採用の私を頼る事など無いと思っていた。

 だが…志麻は私が思うよりもずっと純粋で弱く、そして強い男なのだと知った。

 本来プライドが邪魔して言えないような事を言える男は…弱いのではなく、強い。



「じゃあ、ここからは富樫さんの恋の話でも。」


「は?そんなのないさ。」


「嘘ですよね?」


「ないって。」



 純粋で弱く、強い男。

 そんな志麻を、羨ましく思った。

 私の恋など…まだ始まってもいない。


 この想いは…

 静かに消えるだけだ。



「昔から好みは変わらないのですか?」


「…何を言ってる?」


「いえ。昔、空お嬢さんを…」


「ああああああああ!!その話はいいから!!」


「ふっ。富樫さん、ご自分で分かり易いタイプと気付かれていらっしゃらないのですか?」


「えっ!?」


「…私の応援なんてせずに、自分の気持ちに真っ直ぐになって下さい。」


「なんっなな何の事を言っているのか分からない。」


「とぼけても無駄ですよ。店変えて飲みましょうか。」


「しし志麻、明日早いだろう?今夜はもう…」


「私があまり寝なくても平気なのはご存知でしょう?」


「いやっ、私も明日は早いんだ!!」


「さー、行きましょう。」



 私の恋など…



「で?いつから好きになられたのですか?」


「おまえになんか言わねーよ!!」


「泥酔ですね。」


「おまえが飲ませたんだろーが!!」


「泉お嬢さんは、私に同情されてるだけですから。正々堂々、真っ向勝負して下さい。」


 私の恋など…




 パッ。


 目を開けると…ベッドの上だった。

 そしてなぜか…


「…えっ…」


 私は、泉お嬢さんと志麻に挟まれて…そこにいた。


「…え…えっ?」


 私が狼狽えていると…志麻が目を覚まして。


「…なんで富樫さんが真ん中なんですか…」


 眠そうな顔をして、私を押し除けると。


「お嬢さんが真ん中です。」


 お嬢さんの肩をぐいと引っ張って真ん中にして…


「…まだ一時間休めますよ。おやすみなさい。」


 そう言って…目を閉じた。


「……」


 ベッドの周りには…酒の瓶がいくつも…

 私は…私は何を…!?


「……」


 ベッドで眠る志麻とお嬢さんを見下ろして…しばらく立ちすくんでいると…


「…そこに立たれてるとウザイ…早く寝なよ…」


 お嬢さんに腕を引っ張られた。


 ドサリとベッドに座ると。


「おやすみ…富樫。」


 お嬢さんはそう言って目を閉じられた。


「…おや…すみなさ…い…」


 ボスに知られたら…頭に知られたら…などと頭の中に色んな事がかすめたが。

 …二階堂の体制は…中から崩すのもあり…か。


 私は小さく溜息をついて、横になる。


 が…

 お嬢さんの寝顔を間近で見るなど出来るはずもなく…

 …背中を向けた。



 〇二階堂 海


「おかえりなさい。」


「……ただいま。」


 今日の午後の出来事で、少し落ち込んでいるかと思った咲華は…


「ねえ、海さん。リズったらね?リンゴ、こんなに食べちゃったのよ?」


 …いつも通り、元気だった。

 無理してるのか?とも思ったが…


「来月、華月が撮影でこっちに来るんだって。」


 いつもと変わらない…と思う。


 …いや、いつもより元気な気がする。

 わざとか?



 三人で晩飯を食って、リズを風呂に入れて。


「あのね…」


 咲華がそう切り出したのは、後は寝るだけ…って時になってからだった。


「ん?」


「今日…」


「うん。」


 志麻の事は俺に言わないかと思ったが…

 咲華は俺の胸に顔を埋めると。


「今日…」


「うん。」


「あの…」


 何度も、そう繰り返した。


「…言いにくい事なら、言わなくていいぞ?」


 俺も話を聞いただけに、少しバツは悪い。

 咲華が言いたくなければ、それでいいと思う。


 だいたい志麻は…なぜ俺に話を聞かせたのか。

 本部に戻ってもしばらくは、複雑な思いが消え去らなかった。

 だが、思った。

 志麻は…俺に忠誠を誓ったのかもしれない、と。


 実際、俺が咲華と結婚した事で、志麻が俺の受け持つ現場に来る事が前よりぐんと減った。

 俺がそうしているわけでも、志麻がそれを望んでいるわけでなくても…

 恐らく、親父か…浩也さんが…何らかの考えでそうしていたのだと思う。

 …数回一緒になっても、言葉は交わさなかった。

 本来なら俺から、志麻と同じ現場にと親父に願い出て良かったのかもしれないが。

 この数ヶ月の志麻の働きぶりを見て、俺からは言うべきではないと感じた。


 …ここに来るまでに、志麻の中に…どういった葛藤があったのかなど、俺には分かるはずもない。

 恨まれても憎まれても、殺したいと思われても当然と思っていた。

 そんな俺に…志麻は…



「…咲華、実は…」


 今日、話を聞いていた事を話そうと思うと。


「あたしが先。」


 咲華は…唇を尖らせた。


「…無理してないか?」


「え?」


「言いにくそうだ。」


「……」


 咲華はベッドから身体を起こして。


「…海さん。」


 俺を見下ろした。


「…どうした?」


 俺は仰向けのまま、咲華の髪の毛を耳にかけたり撫でたりして…次の言葉を待った。


「あたし…」


「うん。」


「今日、病院に行ったの。」


「…病院?」


 思いがけない言葉が飛び出して、咲華の髪の毛を撫でていた手が止まる。


「…妊娠…」


「…妊娠…?」


「…リズ、お姉ちゃんになる…」


「……」


 頭の中が真っ白になって、無言のまま瞬きを何度もした。


「……何か…言ってよ…」


 咲華が唇を尖らせて初めて、俺は『妊娠』という言葉が何の事かを認識した気がした。

 バッと身体を起こして咲華を抱きしめる。


「あっ…び…びっくりした…」


「…咲華…」


「……」


「咲華……」


 上手く言葉に出来ない。

 この、戸惑い以上の…大きな喜び。


「海さん…」


 感激して涙が出てしまった。


「…ありがとう…」


 そうつぶやくと。


「どうして…?あたしの方が…ありがとうだよ…」


 咲華は俺につられたのか…目を真っ赤にして笑いながら、俺の涙を拭ってくれた。


 思いがけない報告に、俺の胸はいっぱいのままだった。

 そんな俺の胸に顔を埋めたまま、咲華は…


「…今日、しーくん…東さんが来て…お幸せにって言ってくれた。」


 意外なほど…志麻の事をさらっと打ち明けた。


「…そうか。」


「あたし、泣いちゃって…彼にも幸せになって欲しいって言いたかったのに言えなかったの。」


「……」


「いつか、海さんから伝えておいて?あたしはもう十分幸せだから。」


 そう言った咲華は…笑顔で。

 俺はその笑顔を、とても美しいと思った。


「海さんの話は?」


「……何だったかな。忘れた。」


「やだ。気になる。思い出して〜?」


「思い出したら言うよ。」


 咲華の言葉を聞いて…わざわざ打ち明ける事もないと思った。

 きっと…お互い完全に吹っ切るには、もっと時間のかかる想いだと思う。

 だが、志麻は俺に二人の会話を聞かせる事で。

 そして咲華は…こうしてあっけらかんと打ち明ける事で。

 それぞれの道を進もうとしているのかもしれない。


 俺は咲華の頬に触れて…


「…咲華…愛してるよ。」


 ギュッと抱きしめる。


「あたしも…愛してる。海さん…。」



 二階堂の者は二階堂の者と。

 そうでなければ、理解し合えない事も多い。

 完全に秘密組織ではなくなる頃には…

 誰もが、そんな考えを消してくれるといい…と思う。


 出会いは…

 意外と、すぐそこにあるんだ。


 …仕事終わりで入ったバーででも。



「実家に報告は?」


「まだ。海さんに一番に言いたかったから。」


「一番に言いたかったわりには、こんな時間まで引っ張ったんだな。」


「抱き合って言いたかったんだもん。」


「……そんな可愛い事言われると、仕方ないな。」


「ふふっ。」


「電話するか?」


「もう、海さんせっかち…」


「みんなに自慢したい。」


「……」



 それから咲華は…


『妊娠しました。幸せです』


 そう、短く書いた文章を…


「おい、それはマズイだろ。」


 桐生院家に一括送信して。


「え?どうして?」


 スマホの電源を落として。


「おやすみ、海さん。」


 俺に抱きつくようにして…眠った。


 さすがに気が咎めた俺が一人一人にメールを送ると。

『咲華を教育しろよ』と華音から真っ先に返事が来て…笑った。


 翌朝、大事な報告を一括送信した咲華のスマホには、祝福の他にブーイングのメールも入っていたらしい。



 仕事場で、一番に富樫に報告をして…

 その後、沙都とトシにも連絡をした。

 それから両親と先代と…わっちゃんと空、そして泉に連絡をしている最中。

 富樫が早速自宅に花束や風船を送ったらしく、それらを前に笑顔の咲華とリズの写真が送られて来た。


「ふっ…」


 俺がそれを富樫に見せると。


「ボス、もう…私、感激で仕事が手につきません…」


 そう言って…俺を、さらに幸せにしてくれた。


「志麻にも報告しておきました。」


「え?」


「まだ、ボスからは言いにくいかと思いまして…さしでがましい事をしてすみません。」


 富樫はそう言って頭を下げたが…実際まだ言いにくいのは本当だ。


「…いや、ありがとう。」


 俺がそう答えると。


「志麻からの返信は、これです。」


 富樫がスマホを差し出した。


『ボスには子育てに参加していただかなくてはなりませんから、私がいつでもそちらに伺いますよ。』


「……」


 その返信を優しい思いで見ていると。


「志麻は…大丈夫です。」


 富樫が言った。


「…そうだな。」


「それより、Lizzyでお祝いをしなくてはなりませんね。」


「ははっ。確かに。」


「手配しておきます。」



 …幸せだ。



 幸せだからこそ…気を引き締めなければ…と思う。

 今まで以上に仕事に集中し、咲華の元へ帰る。



「おかえりなさい。」


「ただいま。」


「リズったら、富樫さんにいただいた風船を…」


「あはは。どこのヤンチャ娘だ?」



 この幸せを…

 いつか…

 いつか、志麻にも。




 これ以上の幸せが訪れる事を、願って止まない。




 42nd 完

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いつか出逢ったあなた 42nd ヒカリ @gogohikari

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