第25話 「……さよなら。」

 〇咲華さくか


「……さよなら。」


 そう言って、一方的に電話を切った。


 心臓が…有り得ないぐらい…激しく打つ。

 それがこめかみに響いてる気がして…軽く眩暈がした。


 あたし…

 あたし、しーくんに…

 あたしから、しーくんに…別れようって…言うなんて…

 絶対、そんな事ないって思ってたのに。

 …いつから限界だったんだろう…あたし…


 #################


 手の中でスマホが動いて、必要以上に身体を揺らせた。


 しーくんから…着信。

 …もう、何も話す気力はない。


 あたしは、スマホの電源を落としてベッドにうつ伏せになった。

 枕に深く頭を沈めて…悲しいのか悔しいのか…何だか分からない感情に対して、どう接していいのか分からなくなった。


「…しーくん…」


 声に出して名前を呼ぶと、それは悲しみとして訪れると思ったのに。

 あたしの目からは涙さえこぼれない。


 もう…終わってたんだ。

 とっくに。

 だから、こんなに渇いた気持ちになるんだ。


 ベッドから起き上がると、静まり返った家の中を歩いた。

 大部屋に行くと、ボードには両親のマグネットが『お風呂』に。

 …母さん、本当は一人でのんびり入りたいはずなのに、よく父さんに合わせてるな…

 あたしも、それが普通だって思ってたのかも。

 だから…しーくんに合わせて…


「……」


 ぼんやりとボードを見てると。


「ただいま。あれ?お姉ちゃん、一人?」


 華月かづきが帰って来た。


「うん。父さんと母さんはお風呂。」


「お兄ちゃんときよしは?」


「まだ。」


「ご飯食べた?」


「まだ。」


 ボードを見たまま、華月かづきに返事をしてると。


「……」


 華月が不思議そうに間を空けた。


「何?」


「こんな時間に、お姉ちゃんが何も食べてないって。」


「あっ、何それ。あたしにだって、食べるのをためらう時ぐらいあるわよ。」


「えー?調子悪かったの?」


 そんな会話をしながら、母さんが何か作ってないかなと思って冷蔵庫を開ける。


「あ、作ってある。」


 あたしがそう言うと。


「つまみ食いしないでよ?」


 背後から、母さんの声。


「…バレたかー。」


 何となく…顔を見辛くて、冷蔵庫の中を見たまま答えた。

 …母さん、敏感だから。



 それから…

 四人で晩御飯を食べた。

 あたしは父さんに『嫌い』って言った後も、ずっと普通にしてたけど。

 父さんはあたしと二人きりにならなくなったし…少し気も使っているように思う。

 言い過ぎたかなとは思うけど、謝る気はない。



「華月、SHE'S-HE'Sのミュージックビデオが決まったらしいな。」


 父さんがビールを飲みながら言った。

 母さんのバンドは、顔出しはしてないけど色んな形でミュージックビデオは出している。

 バックショットだったり、景色だったり…

 今回みたいに、モデルを使う事も。


「えっ、華月、すごいじゃない。」


 華月は以前、父さんのバンドのミュージックビデオにも出演した事がある。


「んー…でも難しいのよね。父さんの時は泣くだけだったけど、今度は泣いて最後は優しく笑うんだもん。」


「おまえ、泣くだけだったとは失礼だな。」


「だって本当だもん。」


「泣くだけにしても、あの涙には深い意味があるんだぜ?」


「あたしは窓辺で泣けって言われただけだもーん。」


 父さんと華月の会話を聞きながら、あたしは黙々と食事をした。

 そして、いつも通りテレビを見て、お風呂に入って…

 部屋に入って、華月が出演するSHE'S-HE'Sの曲を聴く事にした。

 少し古い曲。


 それを聴いたらこの痛みがどうにかなるだろうか…なんて思ったわけじゃないけど…

 泣いて、最後には優しい笑顔になる日が来るんだろうか…と。


「……」


 ベッドに横になって、母さんの声を拾った。

 自分が自分でいられるよう、恋を捨てる歌。


 母さん…

 この曲作った時、どんな想いだったのかな…。




 〇志麻しま


 翌日…早朝からドイツに発った。

 だが、どうしても…咲華さくかを諦める事が出来なくて…何度かメールをした。

 だが…返信はない。

 連絡を取る事自体…咲華を苦しめる。

 そう分かっているのに…

 俺には、諦める事が出来なかった。


 さんざん待たせて…苦しませておきながら…

 こうならないと分からないなんて。


 今まで…咲華はどんな想いで、俺の帰りを待っていたのだろう。


『咲華、一ヶ月したら帰国する。その時…もう一度会ってほしい』


『この二年以上の間…どんなに辛く寂しい想いをさせたか…反省してる。もっと一緒に居られるよう努力する。帰国したら、結婚しよう』


 翌日も、その翌日も…俺は咲華にメールをした。


 許してほしい。

 頼むから、もう一度チャンスをくれ…と。


 だが…咲華からの返信は一度もないまま…

 二週間目の朝、ついに…メールが送信出来なくなった。


「……なぜ…」


 もう、依存としか思えない。

 咲華にメールを送る事で、耐えていられたのか…

 それが出来なくなった俺は…生まれて初めて、不安定な精神状態に陥った。

 仕事にも支障が出た。

 切り替えが…出来ない。



「…何かあったの?」


 同行されたいずみお嬢さんからも、目を細めて問われた。


「…いえ、本当にすみませんでした。明日から取り返します。」


 そう言って頭を深く下げるしかなかった。



志麻しま、どうした。おまえらしくないミスだぞ。」


 心配したかしらが、わざわざ日本から来て声をかけて下さった。


 …なんて情けないんだ。

 だが…自分でもどうしていいか分からない。

 俺は…ずっと支えてくれていた咲華の優しさにあぐらをかいて…

 苦しめた。


 咲華の…貴重な時間を…無駄にさせた。



「…申し訳ありません。」


 しっかりしろ。と、自分で言い聞かせても…

 大きく空いた穴のような物が俺を飲みこむ。


 朝子が顔の傷を捨てると決めて、もう朝子を守る役目がなくなったと思った。

 だが…待ってくれていた咲華も、もう…いない。

 それなら、これから俺は二階堂のために全てを懸ければいいだけの話だ。

 頭ではそう思うのに…



「…プライベートで何かあったのか?」


 頭は俺の肩に手を掛けて、ゆっくりと言われた。


「……」


 それに対して、言葉が出なかった。


 プライベート…

 俺は、仕事とプライベートを分ける事なく…

 ほぼ全てを仕事に費やして。

 咲華を…


「……申し訳ありません…公私混同など…」


 俺が小さくつぶやくと。


「…俺も若い頃にあった。逃げ出したくなってアメリカに渡った事がある。若い頃には色々あるもんだ。気にするな。」


 頭はそう言って、肩を抱き寄せて下さった。


「…頭…私は…」


「おまえが二階堂のために、どれだけ尽くしてくれているか…みんな分かっている。今回の小さなミスなど気にするな。むしろ…俺は志麻の人間らしい所を見れた気がして嬉しい。」


「……」


「切り替えが出来ないなら休んでいい。仕事をしていたいならしても構わないが、現場に出るのは控えてもらう。みんな、おまえにはずっと二階堂にいて欲しいと思っているからな。」


「……」


 こんなに…

 こんなに、自分を見失った事など、今までなかった。

 だが、自分の歩く道は、もう…この仕事しかないのだ。


「…ご迷惑をおかけするのは申し訳ありませんが…現場は少し休ませて下さい。」


「賢明だ。」


 頭はポンポンと俺の背中を優しく叩いて。


「苦しい出来事は、時間と共に形を変える。それを待て。」


 そう言って下さった。


 形を変える…


 俺の、この苦しみは…

 どう変わりゆくのだろうか…。




 〇咲華


 夕べ…電話で別れを告げて。

 あたしは朝まで…眠れない…と思いきや。

 すぐに眠った。

 だけど、母さんの歌がずっと頭から離れなくて…


「~♪」


「…何だ。ゴキゲンだな。」


 …父さんにそう言われた。


「…そうでもないけど。」


 そう。

 婚約者と別れたと言うのに…

 ゴキゲンなものか。

 なのに…鼻歌なんて。

 あたし、どうかしてる。



 いつも通りに朝食を取って…出社した。

 スマホは電源を落としたまま…部屋に置いて来た。

 どうせ、会社と家の往復だけだ。

 あたしに緊急の連絡なんて、誰からもない。



「……」


 部署のフロアをボンヤリと眺める。


 同期の女の子達は、みんな結婚して退社した。

 真島まじま君を好きだって言ってた浜崎さんも、先月。


「お先に。」


 満面の笑みでそう言って、寿退社した。

 お相手は、合コンで知り合ったサーファーで。

 海の近くに店を二つ持っているイケメンだと、雑誌にも載っていたそうだ。


 あたしは、二年以上も前に婚約したのに。

 浜崎さんは、出会って三ヶ月で結婚を決めた。

 サーファーの決断力に脱帽だ。

 しーくんには…なかった物。


 ボンヤリと日常を眺めていたら…嫌気がさした。


「……」


 あたしは引き出しから便箋と封筒を取り出すと…

 すらすらと、手短に、思いの丈を書いた。

 そして、背筋を伸ばして封筒の真ん中に『退職願』と書いて。


「部長。」


 それを手に、部長の席に行った。


「どうした?」


「辞めます。」


「…え?」


「あたし、会社辞めます。」


 そう言って、退職願を部長に渡す。


「引き継ぎなどで一ヶ月は籍が残るようですが、使ってない有給でお休みします。引き継ぎはあたしがしなくても大丈夫と思うので、宜しくお願いします。」


 部長に口を挟ませない勢いで一気にそう言って。


「お世話になりました。」


 深々と頭を下げた。


「………えっ?」


 呆気にとられていた部長がやっと声を出した時には。

 あたしはすでに…背中を向けて歩き始めていた。





 家族には…しーくんの事も、会社を辞めた事も言わないまま、二週間が過ぎた。

 あたしは毎日出社するフリをして、図書館に行ったり、買い物に行ったりした。

 華月の休みに合わせて、有給が取れたなんて言って…

 二人で映画に行く事にした。


 恋愛映画を見て、ポロポロ泣く華月の隣で。

 あたしは冷めた気持ちでポップコーンを食べた。


 …全然泣けない。

 しーくんと別れた時も…

 一粒の涙も出なかった。

 …もう、ずっと前に終わってたのかもなあ…なんて…

 一人で納得したりもした。



「お姉ちゃん、携帯充電切れ?」


 目の前にいる華月が、スマホを手にあたしに言った。


「目の前にいるのに電話したの?」


 フルーツパフェを食べながら、あたしは笑った。


「ううん。お兄ちゃんから…『咲華の携帯つながんねー』ってメール来たよ。」


「あー…部屋に放置してるから。何か用なのかな。」


「もう…お姉ちゃん、相変わらずだなあ…」


 華月は小さく笑いながら、華音に返信しているようだった。

 そして…


「志麻さんから、メールが届かないって連絡があったって。」


「……」


 一瞬、あたしのスプーンが止まった。


 あたしは…ずっとスマホの電源を落としたまま。

 だけど、その電源を入れた時に、しーくんのメールが入ってると…グラついちゃうと思って。

 PCから、しーくんのメールアドレスを…受信拒否に設定した。


 だけど…

 しーくんがそんな事を、華音に連絡してくるなんて…

 まだドイツにいるはずなのに。



「お姉ちゃん…志麻さんとケンカでもしたの?」


 華月が、遠慮がちに聞いてきた。


「…ケンカって言うか…」


「……」


「…別れたっ。」


「えっ?」


 あたしは背筋を伸ばして、またパフェを食べ始める。

 華月は口を開けて驚いた顔のまま。


「わ…別れたって…婚約…解消…?」


「そうよ?まだ誰にも言ってないけど。」


「…どう…どうして?お姉ちゃんと志麻さん…お似合いだったのに…」


 ふふ。

 なんで華月が泣きそうな顔してるの?

 なぜか…笑いたくなってしまった。



 …あたし、不安定なのかな…?

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