第12話 目を開けると、腕の中に咲華さ…咲華がいて。

 〇二階堂 海


 目を開けると、腕の中に咲華さ…咲華がいて。

 なんて…幸せな朝だろうと思った。

 こんな気持ちで目覚めたのは、どれぐらいぶりだろう。


「あー。」


 声に視線を向けると、リズがベビーベッドからこっちを見ていた。

 そのリズの声に反応したのか。


 パッ。


 咲華が目を開けて俺を見て。


「あ…あっ…おはよう…ございま…す…」


 真っ赤な顔をした。


「…おはよ。」


 額に唇を落とすと、ビクビクしたように肩をすくめる。


「…後悔してる?」


 顔を覗き込んで聞くと。


「…照れくさいだけ…」


 咲華は両手で顔を隠した。



 三人で下に降りて、咲華が朝食の支度を始める。

 リズを抱いたまま新聞を取りに行き、表を歩いていた隣のスーザンに挨拶をした。


 …一晩で生まれ変わった気分だ。



「近い内に…一度日本に帰らないか?」


 朝食をとりながらそう言うと。


「…日本に?」


 咲華は…首を傾げて『何をしに?』とでも言いたそうな顔。


「…挨拶に行かないと。」


「挨拶…誰に?」


 …おいおい。


「…結婚の挨拶。」


「……」


「…夕べの事は冗談だったとでも?」


 固まってる咲華に目を細めて言うと。


「ちっ…違う…何だか…その…まだ信じられなくて…」


 咲華は箸を置いて、両手を膝の上に置いた。


「俺を信じられないって?」


「そ…そうじゃなくて…自分が…家庭を持つって事…」


「……」


 一線を越えてしまうと…タガが外れる。とは、こういう事を言うのだろうか。

 咲華の言葉、全てが愛しい。

 まだ…出会って三週間あまりだと言うのに。

 …落ちるって言うのは、こういう事なんだろうな。


「お互い敬語じゃなくなった。それだけでも進歩な気がする。」


 味噌汁を飲みながら、小さく笑う。

 すると、咲華も『そう言えば…』なんて言いながら、笑って箸を手にした。



 いつも通り、リズを抱えた咲華が前庭まで見送りに出てくれて。

 リズの手を持って、一緒に振る。

 今まではしなかったが…リズの額にキスをして、咲華にもキスをした。


「…海さん、こういうのするんだ。意外…」


「自分でも驚きだ。いってきます。」


「ふふっ…いってらっしゃい。」


 咲華の笑顔に、俺も笑顔になった。


 が…


 車に乗って、ふと…現実に戻る。

 志麻に…どう伝えよう。

 まずは、両親に言って、それから…

 …どっちにしても、一度帰国する必要がある。

 比較的暇な今の時期の方がいいと思うし…

 今夜帰ったら具体的な事を相談してみよう。



 そんな事を考えながらの一日は…とても早く時間が過ぎた気がした。

 帰り間際に富樫から『今日はゴキゲンでしたね』と言われた時は、富樫と同じで俺も分かり易いタイプなのか…と苦笑いをした。



 いつものように、帰るとメールをしたが…今日に限って返信がなかった。

 何か忙しくしているのか…と思いながら、家に帰り着くと…


「…咲華…?」


 咲華がテーブルに突っ伏していて。

 リズはベビーベッドで泣いている。

 いつもならすぐに泣き止むリズが、今日は泣き止まない。


「咲華。」


 肩に手を掛けて呼んでも…起きない。


「……」


 咲華の傍らに、酒の瓶。

 …飲んで寝てるのか…?



「ああ、よしよし…どうした?調子が悪いのか?」


 リズの顔を覗き込んで言ってみるが…当然言葉は喋らないし、泣き止みもしない。

 熱はないし…オムツでもない。

 何があったんだ…?


 起きない咲華を置いたまま、俺はリズを車に載せて出かけた。

 こんな事が初めてだけに…頼りになるのは病院しかない。



「ああ…歯が生え始めて、むず痒いんですよ。」


 近くのクリニックに行って診察してもらうと、医者はニコニコしてそう言った。


「…は?」


「ええ。歯です。」


「…歯…」


 そんな事があるとも知らなかった俺は、ミルクや風呂、寝かし付けぐらいで子育てに参加していた気になっていた事を恥じた。

 もっと勉強しなくては。


 ついでにあちこち診てもらったが、リズは完璧な健康体で。

 泣き止んでからの愛想の良さはいつも通りで、ナースの間でも笑顔を振りまいて可愛がられていた。


 申し訳ない気持ちでクリニックを後にして、それでもホッと一息ついた。

 何もなくて良かった…


 …咲華が酒を飲んで寝ていたのは…少なからずともショックだったが。

 それは責めずに話を聞こう。

 そう思いながら家に帰ると、咲華がベビーベッドを見下ろしたまま立ちすくんでいた。


「あー。」


 リズが声を上げると、咲華は驚いたように振り返って。


「あ……」


 俺とリズを見て…へなへなと床に座り込んだ。


「大丈夫か?」


 咲華に近付いて腕を取る。


「…あたし…眠ってしまってて…リズちゃん、さらわれちゃったのかと…」


「ああ…書き置きも連絡もしなくて悪かった。ちょっと病院に連れて行ってて…」


「病院?」


 俺を見上げながら、ゆっくり立ち上がる咲華。


「泣き止まなかったから…俺じゃ理由が分からなくて。」


「それで?」


「歯が生え始めてくすぐったいらしい。」


「…起こしてくれたら良かったのに…」


「起こしたけど起きなかったから。」


「……ごめんなさい。」


 どうも…咲華の様子がいつもと違う。

 酒の瓶は片付けられていて、咲華の顔色は…青かった。


「…毎日色々してくれてるんだ。疲れて寝てしまう事だってあるさ。」


 咲華をソファーに座らせて、リズを手渡す。

 隣に腰を下ろして頭を抱き寄せた。


「…お酒飲んで寝てたの…見たんでしょ?」


「新たな発見って事で。」


「でも…もしリズちゃんに何かあったら…あたし、最低…」


「……」


「自分の事しか…考えてない…」


 咲華の前髪をかきあげて、顔を覗き込む。


「何かあったのか?」


「……」


「飲みたくなるような、飲んでないとやってらんねーって思うような何かが、あったのか?」


 咲華の目を見てゆっくりと問いかける。


「……」


 咲華は唇をかみしめたり、眉間にしわを寄せたりして。


「…何でもない…」


 小さくつぶやいた。



「俺達は夫婦なんだろ?正直に話せよ。」


「……」


 少し涙目になった咲華は、しばらく悩んでいたようだったが。


「…どうでも…どうでもいい事なの。」


 うつむいて言った。


「どうでもいい事なら、なおさら話してくれ。」


「……」


「さあ。」


 すると咲華は、サイドボードに置いていたスマホに手を伸ばした。


「…三つ目の動画…」


 咲華のスマホに入っている動画は…俺と婚姻届を書いているものと。

 教会で抱き上げているものと。

 …やってる最中のもの。


「……三つ目って…あれか?」


「うん…」


「…何分あるんだ?全部見た方がいいのか?」


 スマホを手にしてみると、三つ目の動画は六分。

 これを見て酒を飲みたくなるような何かって…


『あっ…あん…』


 その声にリズがキョトンとして。

 俺は慌ててイヤホンを取り付けた。


 実際動画とは言っても、暗闇で何も映ってはいない。

 たぶん、置いていたスマホに何らかの形で触ってしまって…撮影がスタートしてしまったのだろう。


『あ…あっ…いい…』


 しかし…

 こんな声をイヤホンで聞くなんて。

 嫌でも悶々としてくる。

 昨夜抱いた身体がすぐ隣にあって…

 耳元で聞いた声が、サラウンドで耳に入るとなるとなおさら…


『…紅美…』


 二分を過ぎた頃、俺の声が…紅美の名前を呼んだ。

 咲華の顔を見ると、咲華はうつむいてリズと額を合わせている。


『あたし…紅美じゃない…』


『紅美…』


『…紅美って誰…紅美ちゃん…?』


『紅美…許してくれ…』


『誰…誰に言って…あっ…何…何悪い事…したの…』


『俺達の子供…死なせてしまって…ごめん…』


『あ…あ…もう…ダメ…』


『紅美…』


『だから…違う…』


『紅美…もう離さない…』


 俺の声は…ずっと紅美の名前を呼び続けていて。

 俺がイヤホンを外すと。


「…紅美って…あたしのイトコの紅美ちゃん?」


 咲華が俺を見ないままつぶやいた。


「……」


 少し悩んだが、咲華の手を握って。


「…ああ。」


 小さく答えた。


「…紅美ちゃんと…付き合ってたんだ…」


「……」


「俺達の子供…って?死なせてしまった…って…」


「…流産したんだ。」


「……」


「咲華、これから色んな事を話して行こう。俺達、それぞれ色々あったはずだろ?」


 こんな形で知られたのがまずかったと思いつつ、そう言うしかなかった。

 咲華は相変わらずうつむいたまま。


「…リズちゃんとあたしは…亡くなった赤ちゃんと、紅美ちゃんの代わり…?」


 とても小さな声で…そう言った。




 〇桐生院咲華


 何となく、ずっと消せずにいた動画を見ようと思ったのは…なぜなんだろう。

 そして、あれを見て…後悔した。

 最初の二つは、酔っ払い過ぎて恥ずかしくなったけど…

 それでもニヤニヤが止まらなくて。

 あたし…酔っ払って結婚したのに…

 昨夜は海さんから『好きだ、咲華』って言われて…

 すごく、すごく幸せだって思った。


 本当に…夫婦になれたんだ…って。

 動画を見ながら、幸せな気分になってた。



 三つ目は…消しちゃおうかなって思ったんだけど。

 ついでだから一応見てしまおうと思って。

 リズちゃんがベッドでおとなしくしてくれてる間に…見てみた。

 …ボリュームは小さめで。


 だけど当然映像は暗闇で。

 声を聞くしかなくて。


「……」


 昨夜の事を思い出して…照れた。

 海さんの腕は…見た目より力強くて。

 しらふでのそれは初めてだったから…本当に初めての事で。

 何もかも…すごく…なんて言うか…

 声だけ聴いてて、悶々としてしまった。


 やだ、あたし。

 いやらしいな。

 なんて思ってると…


『…美…』


 …海さんが、誰かの名前を呼んだと思って…

 納戸に行って、ボリュームを少し上げて…聴いた。

 小さな事なのに…気になった。



『紅美…』


 さーっと。

 本当に、さーっと…血の気が引いた。


『あたし…紅美じゃない…』


『紅美…』


『…紅美って誰…紅美ちゃん…?』


『紅美…許してくれ…』


『誰…誰に言って…あっ…何…何悪い事…したの…』


『俺達の子供…死なせてしまって…ごめん…』


『あ…あ…もう…ダメ…』


『紅美…』


『だから…違う…』


『紅美…もう離さない…』


「……」


 紅美って…紅美ちゃん…?

 今…華音と付き合ってる…イトコの紅美ちゃん?

 俺達の子供…って…

 …許してくれって…

 昨夜うなされてたのは…紅美ちゃんに…?



「…関係ない…関係ないよ…」


 口に出して言ってみる。

 だって…紅美ちゃんは華音と付き合ってるんだし…

 海さんと付き合ってたとしても…過去よね?


「あーん!!」


 リズちゃんが泣き始めて、あたしはベビーベッドからリズちゃんを抱えると。


「どうしたのー?」


 泣きそうな顔で…リズちゃんに問いかけた。


 …紅美…もう離さない…

 たったこの間まで…海さんは紅美ちゃんを好きだった…って事?

 …あたしだって、しーくんの事があったんだから、別に…


「……」


 海さんは…もしかして…

 紅美ちゃんと子供を持つ夢があったのかもしれない。

 なのに上手くいかなくて…

 酔っ払って目が覚めたら、紅美ちゃんとじゃなかったけど…子供を持つ事が出来て…

 …責任取らなきゃいけないし、夫婦になるか。

 みたいな…


 …ううん、海さん、そんな人じゃないよ。

 だけど…


 もう、何が何だか…

 あたしの頭の中、ごちゃごちゃしてしまって…


「あー。」


「ここ、歯が生えかけてるね。リズちゃん。むず痒くて気持ち悪いね。」


 しばらくソファーに座って、ぐずるリズちゃんの相手をした。

 だけど、何かの拍子に…すぐマイナスな考えが浮かぶ。


 海さん…本当は、ここでこうしてるのがあたしじゃなくて紅美ちゃんなら…なんて。

 …そもそも、紅美ちゃんとは言っても…あの紅美ちゃんじゃないかもしれないじゃない。

 あたしだって、しーくんと色々あっての今なんだから…

 でも…子供って…


 考え過ぎて嫌になったあたしは。

 リズちゃんが眠ったのをいい事に、お酒を飲んでしまった。

 そして…眠ってしまった。



 目が覚めたら結婚してて。

 慣れないアメリカでの生活。

 おまけに赤ちゃんまで。

 夢に見てたとは言え、いきなり過ぎる。

 それに…あたしが望んでたのとは違う。



 疲れた。

 そう、あたしは疲れてたんだ。

 本当に…幸せを感じてたのに。

 現実逃避から、疲れたせいにしたかった。


 誰かのせいとかじゃなくて…

 あたしが…疲れてたせい…


 お酒飲む事に、そんな理由をつけるなんて。

 バカげてる。



 そんな事を夢の中で自問自答して、目が覚めた時、リズちゃんがいなくて。

 あたしは…罰が当たった…


 そう思った。

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