第6話 「それでは、どうも。」

 〇桐生院咲華


「それでは、どうも。」


「ありがとうございました…。」


 業者さん達は、二階の海さんの部屋に並べてたマットレスを廊下に出して。

 さらには、元々あったベッドをあたしの借りた部屋に移して。

 大きなベッドを…海さんの部屋に入れて帰って行った。


「……」


 大きなベッドを前に、あたしはリズちゃんを抱っこしたまま立ちすくんでた。


 …これって…

 これから毎晩、三人で寝る…って事?

 昨夜はたまたまリズちゃんが愚図ったから…ってわけじゃないの?


「あー。」


 リズちゃんをベッドの上に降ろすと、笑顔になった。


「…いい感じ?」


 あたしの問いかけに、大きく傾いて笑顔になるリズちゃん。


「ふふっ。ママも寝転んでみちゃお。」


 リズちゃんの隣に座って、二人で横になってみる。


 …うん。

 なんて言うか…硬すぎず柔らかすぎず…いい感じ。



 …海さんとは…存在は知ってても、面と向かって会った事は…ないはず。

 あたしの叔母である麗姉の旦那さんの、甥。

 それが海さん。


 小さな頃、二階堂本家に何度か遊びに行った。

 だけどそれは…本家の人達に会いに行ったわけじゃなくて。

 麗姉の旦那さんである陸兄にくっついて、武道場に行ったって感じ。

 でもあたしは武道に興味がなくて、庭を徘徊してて…迷子になって…

 しーくんに会った。



「…誰?」


 あの時しーくんは、池の鯉を眺めてるあたしに…そう声をかけて来た。


「…桐生院咲華です。」


 立ち上がって、そう挨拶したあたしに。


「…東志麻です…」


 彼も…そう言って、軽く頭を下げた。


 あたしが8歳。

 しーくんが7歳の時だった。



 並んで池の鯉を眺めた。

 無言だけど、苦痛じゃなくて…


「僕、あの鯉の模様が好きで、一日中でも見てしまうんだ。」


「大きくなったら、鯉になりたいって思った事ある?」


「えー…さすがにそれはないよ…だって、鯉は魚だよ?」


「でも、いいなあって思ったら、なりたいって思わない?あたしは小さい時、二階になりたいってずっと言ってたって。」


「二階…」


 普通なら、笑われて仕方ない事なのに。

 しーくんはクスリとも笑わず。

 だけどポカンとしたまま、また鯉を眺めた。



「どこから来たの?」


 あたしが問いかけると。


「僕は、ここの中の子供だから。」


 ここの中の子供という言葉を、不思議な感じで聞いた。

 だけど自分がすごく部外者にも感じられて…


「あたしは、陸兄が柔道に来たから、ついて来たの。でも、ちょっと迷子になっちゃって…」


 慌てて、立ち上がってそう言った。


「陸兄…って…二階堂陸さん?」


 しーくんは座ったままあたしを見上げた。


「うん。」


「親戚?」


「うん。」


「そっか…武道場は、こっちだよ。」


 しーくんはゆっくり立ち上がると、あたしの手を引いて歩き始めた。

 初めて会ったのに、手を引かれた事に驚いたけど…

 一つ年下で、あたしよりちっちゃくて。

 なのに何となくテンポが似てる気がして…安心出来た。


 あたしは彼を『しーくん』と呼ぶことにした。

 同じクラスにいる島田君を、みんなが『しまくん』って呼ぶからだ。

 そして彼は、あたしのことを『サクちゃん』と呼ぶことになった。

 同じ敷地内に、『さっちゃん』と呼ばれるおばさんがいるとの事で…そうなったらしい。



「ここだよ。」


「ありがとう…しーくん、いつもここの中にいるの?」


「うん。」


「そっか。じゃあ、また会えるね。」


「サクちゃん、また来る?」


「うん。来るよ。」



 そう言って別れて…

 次回も会える。なんて思ってたけど、結局あたしが彼に会ったのは、三回ほど。

 いつも黙って池を眺めて…お互い特に会話をした覚えもない。


 それから…あたしが11歳になってからはパッタリと会わなくなって。

 最後に会ったのは、あたしが高等部を卒業した年。

 麗姉の家に母さんと華月と遊びに行ってて、陸兄から『財布忘れた』って連絡があって。

 ジャンケンで負けたあたしが持って行く事になった。


 一人で行くのは初めてだったから、大きな門の前でどうしたらいいのか少し悩んでると…


「何か御用ですか?」


 後ろから…声をかけられた。


「あ…あの、おつかいに…」


「……」


「…?」


「もしかして、咲華さんですか?」


 そう言われるまで、あたしは彼を知らない人だと思い込んでた。

 だって…あたしより小さかった背はぐんと伸びてて…

 でもそう言われれば、静かな視線とか…笑わない口元…


「あ。」


「お久しぶりです。」


 敬語で話された事に…少しショックを受けたけど。

 二階堂は特別な家だ…って中等部に入る頃に聞いてたから…


 そして…

 あの後。

 あれから、7年後。

 あたし達は再会して…

 恋に落ちた。


 ……はずだった…のに。




『今から帰ります。何か必要な物はありますか?』


 海さんからメールが来たのは、午後7時前だった。

 意外と早く帰れるんだ…って少し驚いたけど、帰る時間なんて仕事内容で変わるよね。


『いいえ、特にありません。お仕事お疲れ様でした。気を付けてお帰り下さい。』


 …何だか…敬語のやりとりって…おかしな気もするけど。

 海さんが敬語で話してる以上、あたしが崩すわけにはいかない気がする。


 あたしより…4つ年上の32歳。

 華音が帰国した時、アメリカでの色々をかいつまんで話してくれた。

 海さんと…沙都ちゃんと曽根君とでシェアハウスしてた事。

 あの時、華音は…『海』って連呼してて。

 聖に『ノン君、呼び捨てるほど仲良くなったんだ?』って突っ込まれてた。

『仲良くなれるタイプじゃない二人に思えたけどなあ』とも。


 華月と聖は…海さんの妹の泉ちゃんと仲が良かったから、自然と二階堂本家の人達とも…繋がりがあった。

 …特に聖は、泉ちゃんと付き合ってた…事もあったし。



「……」


 どうして別れたのか…なんて。

 きっと愚問なんだよね。

 恋人同士のそれには、色々理由があるんだ。

 周りに分かる理由もあれば、本人同士にしか分からない理由も。


 泉ちゃんと聖は…違い過ぎる世界に引き離されたんだと思う。

 おじいちゃまの跡を継いで社長になった聖と…二階堂で働く泉ちゃん。

 あたしだって…しーくんとは世界が違ってたけど…

 それでも。って…歩み寄れたはずだったのに…

 …二年以上、その先には進めなかった。



「泉ちゃんと聖が別れたのに…あたしは海さんと酔っ払って結婚なんて…」


 つい額に手を当ててつぶやくと。


「うーあー。」


 椅子に座ってるリズちゃんが、テーブルを叩いた。


「あ、お腹すいたよね。パパより先に食べちゃおうか。」


「あうっ。」


 レシピを見て作った離乳食。

 リズちゃんは毎回食べ足りなくて、ミルクもたくさん飲む。

 …本当に大食いの共通点が…


「はい、あーんして。」


 右手にスプーンを持って、楽しそうなリズちゃん。

 まだ一緒にいるのは二日目だけど…今の所は本当に天使。

 子育てって、きっと色々苦労も苦悩もあるよね…

 今から、その波が押し寄せるんだろうか…


 …って。


 あたし…『今から』を期待してどうするの…



「ただいま。」


 リズちゃんが離乳食を食べ終わった頃、海さんが帰って来た。


「あ、おかえりなさい。」


「もう食べましたか?」


「リズちゃんだけ。あ…でも今からミルクを…」


「ミルクは俺がしましょう。ちょっと着替えて来ます。」


「…お願いします。」


 海さん、優しいな。

 仕事で疲れてるだろうに…


 二階に上がるのかと思いきや、海さんは納戸に入ったかと思うと…ラフな格好で戻って来た。


「え?納戸に服を置いてるんですか?」


「あー…面倒臭がりで。いちいち上で着替えるより早いし。」


「なるほど…」


 面倒臭がりな面もある…と。


「色々不都合に思う事があれば、咲華さんも衣類は下に移してください。クローゼットもチェストも空いてますから。」


 そう言われて…不意に今朝の状況を思い出した。

 海さんはスーツだったのに、あたしは慌てて降りて来たからスウェット姿のまま。

 シャワーの時も…いちいち上から持って降りなくて済む…

 なるほど。

 面倒臭がりじゃなくて、名案!!


「じゃあ…お言葉に甘えて、そうします。」


 後で納戸をチェックしに行こう。



 海さんがリズちゃんにミルクをあげ始めて、あたしはキッチンで料理を温め直す。

 夏だけど…胃腸には温かい物の方がいいしね。

 お皿をテーブルに並べてると、海さんとリズちゃん…何だか顔を見合わせて笑ってる。


 …ふふっ。

 可愛い。


 年上の人にそう思うのは申し訳ない気がしちゃうけど…

 海さんがこんな顔を持ち合わせてる人だなんて思わなかった。

 二階堂の上に立つ人で。

 何もかも完璧な、何なら…少し冷酷非道な人…ぐらいに思ってたかも。

 それが、華月や聖と温泉に行ったり、華音とシェアハウスしてたり…で、少しイメージは変わってたけど。



「おいおい。笑うか飲むか、どっちかにしろ?危ないだろ?」


 ミルクを飲みながら笑ってるリズちゃんに、凄んでるつもりなのか…全然迫力のない海さん。


 …ほんと…

 か…

 可愛いよー!!

 リズちゃんも、海さんも…!!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る