緋魚~ひうを~

緋魚

緋魚

 華やかに、艶やかに。水の中に。

 玻璃の窮屈な、器の中で。

 長々と、尾を、鰭を、揺らめかせる緋魚。

 

 お前は、どんな夢を見ているの――?

 

 ただただ、ひとの目を愉しませる為に、つくられた、すがた。

 

 なんて、似ているだろう。あたしに。妓女あたしたちに。

 

 わたくしを、みて、わたくしを、かって、と。

 

 そのしなやかな衣をなびかせ、肢体を婀娜あだめかせ、目見まみ媚態びたいを滲ませ、――今宵も、彼の青楼に、はともる――。



 女たちの嬌声が、漣のように響く。茉莉花や蘭などといったとりどりの花々の香りに混じって、あるいは沈香じんこう、あるいは麝香じゃこうなどの香りが、鼻腔から脳髄を侵蝕する。ふんだんに灯された灯籠の炎が、曼延する酒気が、鳴り響く弦歌の音が、全て、雲雨の夢はかくあらんと、興を添える。


 そう、これは夢なのだ。男たちに、一時の夢と快楽とを売る――。


 その白い肌の下は、爛熟しきった桃の様だ。甘過ぎて、吐き気を催す。

この紅鱗樓こうりんろうに買われた阿鳴あめいもまた、いずれは、――否、すでにそうなのかも知れない。


 阿鳴は、代々文官を輩出した楊家ようけに生まれた。先祖の功あって、皇帝陛下の覚えもめでたく、家は裕福だった。だが十の時に起こった戦禍を避け、陛下のおわす行宮あんぐうをめざし、家族と共に逃げていく途中、乱兵に連れ去られ、そのまま売られた。以来、家には帰っていない。幼い頃から経書や詩を嗜んでおり、妓楼の鴇母おかみ王春宵おう・しゅんしょうに気に入られていた。加えて、楽器や歌舞などを教わっては人並み以上にこなした。


 もし、父母が生きていて、これを知れば歎くだろう。売られたときから、もはや己は、楊家の娘ではない。


 王阿鳴。


 問われれば、そう名乗った。



「今日ははん様の宴席だよ。堂差は、漣仙れんせん芳華ほうか錦繍きんしゅう……」


 

 鴇母が局票を手にいう。

 堂差とは、お座敷に出ることを廓の内でいう言葉だ。一般には出局という。

 指名された妓女達は、笑いながら、準備のために出て行く。阿鳴が立ち上がったところで鴇母に呼び止められた。

 その目から、何を言わんとしているか悟った阿鳴は、無言で頷いた。


 廊には、玻璃の器に入れられた緋魚がいくつも並んでいる。

 紅鱗樓の名は、ここから取っている。鮮やかな緋色の体躯のものだけを選りすぐって並べられた様は圧巻だ。

 その世話も、まだ客を取っていない年少の者達の仕事だった。阿鳴も、数年前までやっていた。

 

 阿鳴を含め、紅鱗楼の妓女の多くが、十四になるや否や、最初の客を取る――梳櫳みずあげを済ませた。中には、十三でその時を迎える者もいた。

 

 黒々と艶やかな阿鳴の髪は、絹の様に滑らかだ。

 優れた画工の描いたかと思われる切れ長の瞳は涼やかながら、星空のように煌めく瞳は、不思議と、目を逸らせない吸引力のようなものがある。最高級の羊脂玉ひすいの如く、滑らかな光沢を放つ白い肌。その肌に纏うのは、透けるように薄い絹を幾重にも重ねた絢爛たる緋の衣。裾は、魚の尾鰭の様にゆったり柔らかに広がる。

 

 これは、この紅鱗樓では、阿鳴だけに許された色だ。

 

 つまりはそれだけ、阿鳴が売れっ妓だということだった。

 その姿を見た者は、老若貴賤を問わず、みな夢見心地で見入った。

 阿鳴は、一人、特別な客が来た時にだけ使われる室へ向かった。


「阿鳴、参りました」


 中では、一人の男が琴を爪弾いていた。頷くだけで、一顧だにせず、彼は、演奏を続けた。

 表の楼主が春宵ならば、裏の楼主が、この目の前に居る男だった。名は知らない。

 男の楼主ならば、普通は亀奴というが、そんな呼称は、男には凡そ似つかわしくはなかった。

 目つきは鋭く、隆々とした長躯も、彫り深い顔立ちは荒々しい雰囲気だったが、所作には品があり、酒の香気に混じって、衣からはいつも高貴な香りがした。

 鴇母は、「御大」と呼ぶので、阿鳴もそう呼んだ。

 

 阿鳴は、この男に買われてこの紅鱗楼へきた。

 

 この娘はいくらだ、と無表情に尋ねた男に、阿鳴を売った男は、相当金があるとみてかなりふっかけたようだった。が、男は、にやりと笑うと、見たこともない程ずっしりとした袋ごと、事も無げに渡していた。一体、その中にいくら入っていたか、阿鳴は知らない。知りたくもなかった。


 男は、琴から手を離し、卓子に座り直す。阿鳴が酒を注ぐと、男はまるで、茶でも飲むように優雅に香りをかぎ、杯を傾けた。



「――今日は、范の小僧の宴席だというが。同じ場所で、別の宴席がある。そこに、柳英深りゅう・えいしんという若者が来る」


 男は、何かを爪弾く。と、卓子に置かれた花の頸が落ちる。その意図するところを読み取り、阿鳴は目を伏せる。


 承知いたしました、と言って頭を垂れた阿鳴の脳裏には、器の中の、無数に揺らめく緋魚の姿が浮かんでいた。


  * * *


 璋江しょうこうへ出てきた紅鱗樓の妓女達は、そこで催された范公子の宴で楽を奏し、舞を舞う。

 男達は、それぞれに詩を詠じ、詞を口ずさみ、あるいは、その解釈について論じ合ったりして、大いに興じている。

 その間を、くるくると妓女達は、酒を注ぎ、また嬌声を上げている。

 

 いつもより地味な衣に身を包んだ阿鳴は、そこには加わらず、楽師に紛れて喧噪を離れ、陰に潜んで別の一行へと目を懲らした。

 

 柳公子と思しき若者は、すぐその人と知れた。一行に若者は、彼だけだ。

 

 阿鳴のする事は、ただ一つ。――彼を殺すこと。

 

 そもそも、男が阿鳴を買った理由というのは、彼女を隠密に仕立て上げるためだった。

 阿鳴は、男から、武術も、毒の扱い方や変装術など、様々なことを教わった。人を殺めた回数など、もはや覚えていない。

 難しいことなど無い。毒を仕込んだ針をお見舞いすれば一瞬で終わる。

 

 一つの命を奪うということへの抵抗感も、今や彼方だ。

 

 男は容赦無かった。失敗は許されてない。

 ただそれだけのために、生かされている命だった。

 

 初めて、殺しを命じられたとき、阿鳴は、嫌だと答えた。すると、男は底冷えのする目で、言った。


「仮に今、俺が、この器をひっくり返せば、憐れなこの魚は死ぬだろう。苦しんで。口をぱくつかせて――な。阿鳴、妓女おまえも同じよ。ここを出て、一人でなど、生きてゆけるものか」


 その後、己の身に起こったことを思い出して、阿鳴は身を震わせた。

 

 柳公子は、若葉色の清々しい色合いの衣を着ていた。凜として怜悧な顔立ちが、目を引く。

 

 それは、一瞬。たった一瞬のことだった。

 

 そんな筈は、全く無かったが、その目が、阿鳴を見た――ように感じた。直後、阿鳴は、雷に討たれたように身動きがとれなくなった。

 

 その、全身を貫き、駆け巡り、激しく揺さぶったもの――。

 

 このとき、阿鳴は、無自覚だった。


 * * *


「――阿鳴、」


 青年は、甘やかに微笑み、その名を呼んだ。

 

 あの日。璋江で、阿鳴は、結局、柳公子を殺さなかった。

 

 殺せなかったのだ。

 

 うっかり迷い込んだふりをして、柳公子に近づいた。彼と眼の合った瞬間の、あの雷霆の如き衝撃。それが何か、確かめようとした。己を圧倒した何かが、彼の中にあるのではと思った。そして気付いた。風雅な印象ながら、彼の動きは、武人のそれだった。腰に佩く剣は、飾り物などではない。

 

 何故、御大はこの青年を殺そうとするのか。

 

 初めて思った。そんなことを考えた事すら、これまでなかったというのに――。



 柳公子は度々阿鳴を訪ねて紅鱗樓にやってきた。

 

 殺すため。

 油断させるため。

 

 御大にそううそぶき、自分にも言い聞かせ、偽りの名、偽りの微笑み、偽りの言葉――全てを偽りで塗り固めて、阿鳴は、柳公子の前に出た。


 鋭さを奥に秘めた怜悧な眼差し。

 微笑むと、その目が、やんわりと和らぐことも。

 眩しいものでも見るように、疑うこともなく。彼女を見る、目を、――知った。


(――何故、貴方は……)







 今宵、全てを終わらせる。

 御大に厳命された阿鳴は、彼の腕の中で、決意に身を震わせる。

 青年の瞳には、蒼白な己の姿が映っていた。

 その所以を、知ってか知らずか、彼は、微笑んだままだった。


 阿鳴は、その微笑みが無くなるのを、真実を知った彼の目に怒りが浮かぶのを、恐れた。何よりも。


(その理由は、……あたしが一番、知っている)


 心中に去来する、様々な思いを押し殺し、華やかに微笑みながら、酒を注ぐ。


 杯に、毒を仕込んだ。ほとんど苦しまずして、死ねるだろう。



 英深は、一気にあおった。合わせて、阿鳴も同じようにした。ごくり、と喉が鳴る。喉を焼く酒気。強い芳香。それだけで酔いそうだった。このまま、睡ってしまえればいい。

 

 それでそのまま、全てが終わる。


「――阿鳴。君の、本当の名は、何という」


 急に英深が言うので、阿鳴は彼を見た。

 

 沈黙が落ちて、近くの房室の声が、聞こえた。


 が、それは艶めいた声ではなく、――悲鳴。焦げ臭い匂いがして、阿鳴は、戸惑うように視線を巡らした。そうから見やれば、何が引き金となったのか、熱気が渦を巻き、蛇の如く炎が押し寄せるのが見えた。


「柳公子!! 火事です。――逃げなくては」


 だが、英深は動かない。その唇の端から、つつと、血が滴るのをみて、衝撃が、足下から脳天を貫く。


「なぜ……!?」


 なぜ。なぜ。なぜ。そればかりを、阿鳴は口の中で、何度も繰り返した。答えを見つけるための問いではない。それしかただ、出てこなかっただけのことであった。毒を仕込んだのは、……自分の杯だったのに。


「行くんだ。――今のうちに」


 青年は、己の佩剣を、阿鳴に押しつけた。それでようやく、阿鳴は、彼の意を察して、拒絶した。


 

 英深の目を再度見た阿鳴は、彼が矢張り、自分が御大の手の者と、分かっているのだと悟った。


 英深は、少し苦笑して、しっかりと、剣を持たせた。阿鳴は、こんな場面で何故か――泣きたくなった。


 涙など、もう、何年と、忘れ果てていたのに。


鳴蛾めいが。――楊、鳴蛾」


 阿鳴が、意を決したように言うと、理解した英深は、鳴娥、と、口の中で転がすように繰り返して、笑った。


「――い、名だ」


 絹を最も重要な生産物の一つとするこの国では、それを産する蚕蛾は丁重に扱われた。故に、掌中の珠たる娘に「蚕」や「蛾」の字でもって名づけることも、この国においては、しばしばだった。


「それに――柳にやなぎとは。私と君とは、余程、縁が深かったのに違いない。これだけ深ければ、来世では、きっと――」


 言葉は、最後まで続かなかった。剣に添えられていた手が、落ちる。


「……!」


 息をついて、阿鳴は心中に去来する激情を、抑えた。抑えようとした。

 

 だが、様々な思いが複雑に絡み合って、まるで心が追いつかない。


 それでも、御大の元から離れる機は、今しかないと、頭は理解していた。

 

 一度、決意した阿鳴の行動は、速かった。涙を拭い、重たい衣を脱ぎ捨て、英深の剣を携え、廊へ出た。


 人々は、酔ったからか、恐れのためか、蹌踉よろめつまづきながら、必死に炎から逃げていったのだろう。


 緋魚の器は押され、地に落ち、憐れな緋魚は行き場を失い、苦しげに跳ねていた。


 言葉に出来ぬ想いを引き摺り、阿鳴は進む。

 

 途中、一つだけ、まだ無事な器を見つけた。

 

 外の狂乱を知らぬとばかりに、随意にたゆたう緋魚を。

 

 阿鳴はそれを、無意識に抱えた。


 途中、誰とも会わなかった。炎はますます勢いを増してくる。音を立てて、建材やらなにやら崩れていくのを、阿鳴は、己の背中で、聞いた。



 * * *


 蒼天の下、剣を手に、江湖を一人、往く女がいる。


 艶やかな髪は、濡羽色ぬればいろ。凜と前を見据える瞳は、呂色ろいろ

 

 緋色の衣を風に靡かせ、胸元には、大輪の牡丹を描いた刺青しせいが豪奢に咲き乱れる。


 鳴蛾である。王でも、楊でもない、ただの鳴蛾。




――ずっと、己は、器の中の、緋魚のようだと思っていた。



 あのあとすぐ、抱えて出た緋魚は、璋江に放した。


 彼の大江は、遠く、海にまで注ぐという。緋魚は、今、いずこの水を泳いでいるだろう。


 そして、妓楼という名の囲いから飛び出した自分もまた、己の足で、どこへでもいける。


 そう気付いたから、鳴蛾は、生きる事を選んだ。

 己のこれまで犯した罪に相応しい死を迎える、その日まで――。


 御大が追っ手を差し向けるかと、警戒していたが、今のところはなかった。死んだと思っているのかもしれない。

 

 それとも、泳がされているだけなのか。わからない。その時はその時だ。

 

 以前と比べて、少しだけ、焼けた肌に、陽の光が照りつける。

 別れ別れとなった家族を探す気は無い。ただ、自分の思いのまま、心のままに、世間と言う名の、この大海を泳ぎ、渉るのだ。



――剣ひとつ、携えて。

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