第4話 矢車草がまだ咲かない

 翌日、ノックの音にも気づかず、窓辺にもたれて、朝からずっとカーテンで閉められた向かいの窓を、ぼんやり見ていた森一に、遥が後ろからそっと寄り添い


「遊び盛りの年頃なのに、病室でずっといなくちゃいけないなんて。今日は、あの子にとってちょっとしんどい治療の日だわ。あんなに可愛い坊やなのにね。」

 遥はふくれっ面をして見せながら、


「不公平な世の中よ、まったく。」と、スケッチブックと色鉛筆を森一に押し付けた。


 そしてそのまま、森一と窓の間に割り込むように身体を入れた遥は、中庭を見渡し全部の花壇を見て


「今年はまだ咲きそうにないのよね、矢車草。あの坊やが好きなお花なのに。」

 と言った。


 ベッドに戻った森一は、スケッチブックに色鉛筆を走らせ始めた。


「こうなると、私は空気みたいな存在ね。3年前となんにも変わらない。」

 遥は、呆れたようにつぶやいたが、決して嘆いているわけではなく、絵を描く森一の姿をむしろ嬉しそうに見て、持ってきたリンゴを剥き始めた。


 遥は、慣れた手つきでリンゴの皮をむいて櫛形に8つに切って、机に置いた皿に盛り付けた。


 森一は、劇団で舞台美術も担当している。その腕を見込まれてテレビ局のセットや大道具を扱う美術さんの仕事も請け負っている。30歳になったばかりの男性社会人として、今それが森一にとっては稼ぎにおいての本業かもしれない。


 森一自身も舞台美術の仕事にやりがいを感じているし、自分が制作したセットがテレビの画面を通じて世に出ていることも嬉しい。何より好きな絵を描いて仕事につながっている充実感もある。


 病室で過ごさざるをえない生活は、思いがけず自分を見つめ直す時間になってしまう。劇団のある今の会社で美術部門の社員として、働くのも悪くないかもしれない。今の自分の役者レベルでは不安定どころか、芽も出ないかもしれない。遥を誰かに取られるのか。


 でも、会社員になった俺を遥はどう見るんだろう。


 そんなことを病室で一人堂々巡りさせていた昨日、ふと特撮もののキャラクター企画を、ずいぶん前に同級生から頼まれていたことを思い出したのだ。


 遥がむいたリンゴにちょっと黒みがかかってきた頃、まさに一心不乱に絵を描き続ける森一の姿を幸せそうに眺めながら、遥が皿のリンゴを一つ摘んでかじった。


 サクッという歯切れのいい音と同時に


「できた。」とスケッチブックを最初のページに戻して、森一は遥に見せた。


「未来環境防衛隊ドラゴンマン?あれ、これって海嗣(かいじ)君の会社でやってるキャラクターじゃない。」


 柄棚海嗣(つかだなかいじ)。森一の大学の同級生でサークル仲間だった頃から、遥とも面識がある仲。今はイベントやテレビ番組を制作する会社に勤めている。

 海嗣は、森一がTV局の美術の仕事をもらうきっかけになったのも、もともとは海嗣の仕事をしたことからだった。


「そう。そのキャラ紙芝居さ。」

 遥のむいたリンゴを頬張りながら森一が答える。


「未来環境防衛隊ドラゴンマン。森の栄養を届ける水脈を守れ!え?

本当にストーリーがついてる紙芝居じゃない。」


 森一の絵の巧さを知っているはずの遥だったが、その遥でさえも紙芝居の製作時間とクォリティの高い仕上がりに驚いて、思わず声を上げてしまった。


「もともとは海嗣が俺に話ししてくれてた内容さ。森が作る栄養分が海の生き物を育てる。山の豊かな森が豊かな海を作るっていう説に基づいた話でさ。

 原稿は、だいぶ前にもらってたんだけどな。

 大まかなポイントの絵ができたから、あとはストーリーに合わせて枚数を増やす。

 できたものから写真を撮って優哉に送れば引き伸ばしてパネルにしてくれる。

 今日、月曜だろ。週末にはできる、間に合うな。」


 長らく温めていたものを仕上げ、出し切った達成感を味わうように、立て続けにリンゴを口に入れ続ける森一に気づき、思わず遥はリンゴを乗せた皿を二度見した。

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