第十七話 お下がりで良ければせいぜい楽しめ

― 王国歴1043年冬-1045年春 


― サンレオナール王都 貴族学院




 ある雪の日、僕は昼休みに瞬間移動で秘密基地に行きました。エマはもう来ていて、一人で何かをせっせと用紙に書き込んでいます。


「何をやっているの? 勉強?」


「明日提出の課題なのよ」


 少しずつですが、エマも僕に対して言葉遣いがくだけたものになっていました。


「どれどれ?」


 僕は覗き込みます。そして僕の頭がエマの顔に近づき、エマの茶色い瞳が僕の眼差しをとらえます。その瞬間、僕の唇は彼女のそれに重なっていました。


 僕は一瞬で唇を離すと、何が起こったのか分からないというような目を見開いたエマの顔がそこにありました。


「エマちゃん?」


 僕は思わず悪戯っぽく笑ってしまいました。エマは瞬きを繰り返しているだけでした。


「ちょっと、そこまで驚かなくてもいいじゃない」


「あっ、えっと……でも……」


「嫌だった?」


 僕は拒否されていないとは分かっていましたが、あまりの彼女の驚愕ぶりに少々傷ついていました。


「そんなことないわ。けれど、貴方にキスされるだなんて……」


「この基地に君を招待してからずっと機会をうかがっていたのだけどね、僕は。だってマキシムみたいにどこでも人前でも堂々とする度胸はなかったから」


 エマは真っ赤になってうつむいてしまいました。照れて恥ずかしがっているだけのようで僕は嬉しくなってきました。


 恐る恐る顔を上げた彼女の顎に手を添え、もう一度口付けました。もちろん軽いキス止まりで、舌なんて入れられるはずがありません。


 今度唇を離すと、彼女の花のほころぶような笑顔が僕の目に入ってきて、それだけで幸せいっぱいな気分になれました。




 僕達は学院で堂々と一緒に歩いたり昼休みに二人で食事をしたりはしませんでした。別に僕は構いませんでしたが、エマの方がそうして人前に出ることを恥ずかしがったのです。ですからいつも秘密基地で会っていました。


 季節は春になり、エマとは少しずつ校庭で休み時間に会うこともありました。周りに交際を宣言したわけではありませんが、仲の良い友人達には知られるようになっていました。


 エマはいつも誰にでも優しくて、弟思いの女の子でした。


 僕としては軽い触れるだけのキス以上のこともしたかったのですが、純真無垢なエマを前にするとどうしても先に進めませんでした。


 あまりがっついて彼女に引かれてしまうだろうと懸念していました。ということで僕はいつも紳士的な態度を崩さず、二人きりの時も軽く抱きしめて口付けるだけに留めていました。


 そうして僕達の交際は清く穏やかなまま季節は流れ、僕の学院最終学年ももう少しとなりました。エマはもうすぐ十六の歳を迎えます。


 王宮魔術院に就職が決まっていた僕は、卒業すると同時に両親にエマとのことを話し、婚約したいと考えていました。そこまで将来のことも見据えていました。




 そうしたらその矢先になんと彼女にふられたのです。


 ある日僕はエマに校舎の裏に呼び出されました。そこには既に彼女が居ました。


「やあ、エマ」


 いたずらで彼女に軽くキスをしようと思ったら、彼女に体を押し返されてしまいました。


 深刻な彼女の表情が、公の場でキスをしようとした僕をとがめるだけのものではないことに僕はまだ気付いていませんでした。


「あの、ナット……えっとね、別れて欲しいの」


 躊躇ためらいながらもはっきりとそう言った彼女の言葉が最初は信じられませんでした。


「何言っているの?」


「他に好きな人が出来たから別れて下さい」


 再び耳を疑いました。彼女は右手で自分の髪の毛をしきりに触りながら、それでも僕の目をしっかりと見つめてそう言い放ったのです。


「他に好きな人って何だよそれ、エマ?」


「こういうことだ、ソンルグレ」


 そこでガストンと仲間が現れました。ガストンはその汚い手で僕が彼女だと思っていた女の子の腰を抱いたのでした。


 僕はもう何がなんだか分からなくて、唖然あぜんとしていました。しかし、ガストンのヤローの毒牙に掛かっているエマという生々しい図を想像すると激しい怒りが体の奥底からふつふつと湧いてくるのを感じていました。


 何のために僕は指をくわえて自分の卒業とエマが十六になるまで待っていたのでしょうか。僕の口からは汚い罵り言葉がすらすらと出てきました。


「フン、上等だな。こんな阿婆擦あばずれ、喜んでくれてやるさ。俺のお下がりで良ければせいぜい楽しめ。売女に醜男、全くお似合いだな二人」


 そして僕はその場をさっさと離れました。あまりの怒りで視界が歪んでいました。こんな事になるならエマにさっさと手を付けて彼女の純潔を奪っておけば良かったとも思いました。




 その夜は久しぶりに怒りで魔力を爆発させて、屋敷裏の雑木林に雷を落として辺りを真っ黒こげにしてしまいました。家族にはひどく心配をかけてしまいました。


 エマがガストンと付き合い始めたという噂は瞬く間に学院中に広まりました。次の日から僕は周りの気の毒そうな好奇心の目にさらされると同時に、再び女子学生から次々と告白されることになりました。


 確かにエマと付き合っていた時でさえ、告白はありました。そして別れた次の日から告白される頻度がぐんと上がったのです。


 自分の方がエマより可愛いと思っている自信たっぷりの女とか、案の定すぐに別れたと機会をうかがっていた女とか、彼女たちの考えは全く理解できません。一番理解に苦しんだのはエマの心の中でしたが、もう彼女のことは思い出したくもありませんでした。


「何だか別れて以来また周囲が騒がしくなってきた……ああ、ウザい。面倒ったらありゃしない……」


 僕がある日そんなことを妹のローズにつぶやいていました。こんなことは日頃から自分がモテないとぼやいている男友達には絶対言えません。


「お兄さまは言い寄ってくる女の子たちを避けるためだけに、エマさんと付き合っていたのですか? 彼女ではなくても、誰でも良かったのですか?」


「そ、そんなわけないだろ!」


 頭をガツンと殴られた気分でした。確かに傲慢なところが僕にはあり、最初はそんな軽い気持ちしかなかったのです。


 けれど、僕は付き合いだしてすぐに、もうエマでないとだめだと心の奥底では気付いていました。今更何を言っていると鼻で笑われるかもしれません。


 まだ十三歳だったのにローズは鋭く、冷静に僕の痛い所をついてきました。そのローズも、自分自身の恋については全然だめで、周りがやきもきするほど鈍かったのですけれどもそれはまた別の話です。




***ひとこと***

ナタニエル君、紳士的に見えて実は色々我慢して……こんなに大事にしてきたエマに別れを告げられて……ガストーン、お前は何てことやらかしてくれたんだぁ!と今だから言えますが……


ところで、ローズちゃんはお兄さんのことはどうでもいいですから、自分の気持ちに素直になりましょーねー!

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