重瞳

@Deap_river

重瞳

 最後の記憶は、交通事故に合う瞬間だった。そして目覚めたらこの暗闇だ。僕の周囲は完全に何も見えない状態だった。これが今流行りの異世界転生なのだろうか、だとしたら全く笑えない。どころか狂いそうだ。自身の姿すら見ることができず、自分が地面を踏んでいるかも分からないのだ。上も下も分からない。右も左も分からない。前も後ろも分からない。自分と世界の違いすら分からない。気が狂いそうな世界。吐き気が込み上げてくる。が、どこから吐瀉物を吐くのだろう、それすらも分からない。恐怖の輪郭のみハッキリとして来る。自我がゆっくりと失われていく。もう、限界だった。


 そこへ、一人の人型のものが近付いてくるのが見えた。敢えて言おう、人型と。人なのか分からない……いや、人ではないだろう。全てが黒の世界で、唯一それだけが何故か見えたからだ。色など分からないし、身体の要所々々はモザイクでも掛かっているかのように認識することができなかった。当然、その顔も分からない。ただ、人型のものが近付いてくることだけは分かった。ゆっくりと近付くその様は、通常ならば更なる恐怖を植え付けるだろうが、今はそれすら良いものだった。何もかもが認識できなくなり、自我崩壊寸前の状態だったのだ。それだけで、僕にとっては救いであり、故に何の警戒もなく接近を許した。そうして、長い時間をかけ、……いや、長い時間なのかも分からない。時間の概念など、とうに消えていたから。兎も角、それは眼前に到達し、手を伸ばせば触れることのできる位置まで来る。僕は相変わらずそれを眺め続ける。すると、それは不意に倒れ掛けて来た。驚いて、しかし動くことができず、それと正面から抱き合う格好で接触する。接触してまう。


 瞬間、その人型のものが弾けた。そして、大量の液体(と直感的に思うもの)を全身に浴びる。それは生温かく、少し臭いがあり、そして濡れたかと思えば直ぐに乾いていた。が、そのようなことに気付いた瞬間、最悪が起きた。


 耳元で、誰かが囁いたのだ。辛うじて聞き取れる音量で、言語化できない、意味を持つ音が発せられた。それは、音を媒介とした情報そのものであり、知識であり、智慧そのものであり、また叡智に最も近いものだった。そして、全てを聴き終えた瞬間、僕の頭部が弾け、脳みそがぶちまけられた。


 同時に、僕はそれを後ろからも見ていた。








「……大丈夫ですか?」


 透き通るような高い声に反応するかのように、僕は起きた。正確には今までベッドで寝ていたが、少し前に目が覚めて、その後暫くはずっと、ベッドの上でボーッとしていたのだ。とっくに覚醒してはいたが、起きてはいなかった。


 心配するような高い声に返事することなく、むくりと上体を起こすと、僕は自身の手を見つめ、その掌を握ったり開いたりする。どうも、違和感を感じる。次は顔を触り、特に目鼻を確かめるように撫で回す。だが、未だ首は傾げるしかない。更に身体に目を落とし、また二の腕なども見るが、その違和感の正体を掴むことはできずに、諦めて顔を上げた。


 正面には不思議な者を見るかのような目で(いや、実際僕は不思議な者なのだろうが)、僕を見詰める者が居た。ふんわりした、ショートボブに似た茶髪に、栗色の大きな目と小さな桃色の唇、少し尖った鼻と、それと対照的な丸顔、可愛らしい女性だ。着ている白い服がこれまたよく似合っている。彼女の心配する表情はあまりに純粋で、保護欲を掻き立てる。多くの者は、その憂いを帯びた表情を見て彼女にそのような顔をさせたくない、と思うことだろう。平常時の僕も、恐らくはそうなったであろう。だが、人は自身のことを最優先するものだ。万人が、今の僕と同じ状態ならば、暫く一人にしてくれるように頼み、彼女に浮かない顔をさせたまま遠ざけたことだろう。それでも彼女は僕を案じ、飲み物を持って直ぐに戻ると言い残して微笑み、部屋を出た。何と可憐で愛らしく、美しいのだろうか。


 だが、やはり僕には彼女を気にかけることなどできないでいた。自身のことで手一杯だったのだ。


 ………………そうか、そういうことか。焦点が合わないのか。ずっと寝ていたからか、急に目を開けて、瞳に光を取り込んだから、目が驚いているのか。これが、違和感の正体か。


 そう、僕は誰も居ない筈の部屋で誰かに語りかけるかのように言葉を発した。ベッドから起き上がり、部屋の中を行ったり来たりしながらブツブツと言葉を紡いでいく。誰かに見せる為に意味のある紋様の刻まれた織物を紡ぐかのように、誰かに聞かせる為に意味のある言葉を紡いでいるのだ。


 ……つまり、僕は、そしてボクは、同時に同じ場に存在しているのか。


 身体に染み込んだ記憶を掘り起こしながら、僕は言い続けた。


 僕は嘗て日本に居た、ただの高校生だ。頭はそこそこ悪く、成績不振で進路について悩む、歴史部所属の文系男子だ。家族構成は父母そして僕と国立大学に通う兄の四人家族。父は中小企業の部長で、母は公立高校の教師。兄はこの春、実家から離れた国立大学に通う為に一人暮らしを始めた大学生。一般的な中流家庭で、家族仲は良好。友人は多くはないが、いずれも気の置けない親友だ。女友達もいるが、彼女はいない。……好きな人は、いる。趣味はシミュレーションゲームをすることと小説を読むこと。漫画は友人に勧められた人気なものを書店で立ち読みする程度。アニメも似たようなもの。…………日常にうんざりしつつも、結局のところそのうんざりさせられる日常が好きだった。そんな、僕は、気が付いたら、ここにいた。わけのわからない場所で寝ていた。ここが直感的に日本ではないことは分かる。海外旅行した時の、独特の日本じゃない感覚がするのだ。……いや、もっと言えば地球じゃない、異世界のような感覚がする。しかもそれを裏付けるものがある。それは。


 一呼吸入れ、乾燥した唇を舐め、唾液を飲み込み、そして話を続ける。


 それは、僕はボクの記憶を持っている、ということ。かつてホスプ公国の辺境の村で暮らしていたボク、の記憶を持っている、ということ。異世界に生きる男の記憶が存在するということ。二人の自分が、ここにはいる。どちらが本当の自分かは、分かっている。日本にいた僕だ。……でも、気を抜くと、ホスプ公国にいたボクが、本当なんじゃないかと、本物なんじゃないかと思ってしまったりもする。……怖い。……とても、恐ろしい。どちらが本当なのか、本物であるのか、分からなくなる。……そもそも、今の僕は記憶が二つあるだけという生易しいものではない。自我が同時に二つ存在しているんだ……。…………僕の後ろにもう一人のボクが居るんだ。…………もしかしたら、すぐ横に居るのかもしれないし、上にいるのかも、下にいるのかも。


 正面を見詰めて、そこにいるボクに言った。


 …………正面に立っていて、僕とずっと見詰め合っているのかも。そうなのかも、…………しれない。いや、そうなのだ。


 僕はボクと見詰め合っている。


 視線を切りたくて、僕は部屋を出て走り出した。少女はそんな僕を見て驚き、制止する。が、僕はそれに従うことはなかった。あの男は、走っている僕の前に未だいる。


 世界に対しては未だに焦点は合わないままだが、何故か眼前の男だけはそうではなかった。忌々しいことだ。悠々と二次試験を突破した兄を見ているような気分だ。


 確かに、眼前のボクに対しては最高の親近感を抱く。鏡をみているかのような、そんな親近感を。だが、同時に劣等感をも抱く。……いや、違う、劣等感を抱くというよりも、劣等感や惨めな気持ち、敗北感を思い出すのだ。


 安心感はあるが、極めて不快だ。


 嫌な気持ちにはならないが、不安にはなる。


 何だろう、この気持ちは。以前に一度体験したことのある、感情だ。だが、正体は今でも分からないし、理解できない。


 誇らしい気持ちと嬉しさが一瞬先行し、しかし次には敗北感が僕を襲う。ずっと僕を苛んできた劣等感が僕に傷を負わせる。そして、同時に孤独感がジワジワと毒のように身体を侵す。




 ……何だ、ただの誇らしさと惨めさの重瞳じゃないか。








 交通事故で多瞳孔症を患った少年が病室で支離滅裂な言動をした後、奇声を発しながら折った腕も気にせず病院を走り去ったという話を、聞いたことがある。

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