最終話 川のなまえ

 その後、タンがいるという小屋を訪れた。タンの小屋はシュウが昨日一夜を過ごした小屋よりもっと貧相で、汚かった。こんな中で一晩を過ごしたというのか、傷を負った体で。

 人里の若者によって扉が開かれ、うめきながら眠っているタンと対面した。目の焦点が定まっておらず、口の端からよだれを垂らしている。シュウはすぐにその苦しそうな息の聞こえるところまで近づいた。シュウは泣いていた。このとき、シュウは不思議な気分に陥っていた。単純にタンを悲しむ思いもあるのだが、それ以上の、自分ではない、大きな、偉大な何かが自分にとりついていて、シュウを通してタンを慈しんでいるようだった。

「タン……」

 シュウは涙をぬぐい、若者が大きな声を出して制止するのに構わず、ぬれた手でタンの傷口に触れた。傷口の血が青色に発色し、痛々しい銃創に薄い膜ができた。それらが一瞬白く光ったように、シュウには見えたが、すぐにその目を疑った。傷はまるでなかったかのように消え失せ、その上から体毛まで生えそろっているではないか。

「ありがとう、シュウ……痛みも完全に引いたよ」

 シュウはなんだか、それをしたのが自分ではないような気がしたが、とりあえず、

「このぐらい、なんでもないさ」

 と答えた。

 その後あまり時を待たず、若者の絶叫めいた声が聞えた。まるで何か汚いものをののしるかのように、顔を赤くしてがなり立てている。何を言っているのか、シュウにはわからない。

 あたりを移動していたらしい人里の長が、若者の並々ならぬ様子に気付いて小屋へやってきた。若者の言葉を熱心に聞いている。

 その間、シュウはタンにかける言葉を考えていた。昨日の晩シュウ達の前に立ちはだかったことで、タンを責める気は全くなかったが、向こうは必ずその責任の重さに苦しんでいるはずだった。

「タン、まずは、僕はなにも怒っていはしないことを伝えておくよ」

「シュウ、僕は君の友達失格だ」

 二人の間には重苦しい空気が流れるが、外で何やら議論が白熱しているらしく、むしろあたりは騒がしかった。

「昨日彫刻師の老人から、話をきいた。どう考えても、あの老人の言っていることのほうが正しいと思った。エミィは僕たちにうそを伝えたんだ……それを信じた僕がばかだった」

「あまり自分を責めないでほしい。エミィだって、森が滅びるかもしれないという心配から、話をしたんだと思う。だれもが良かれと思ってやったことなんだ、今回の騒動はそれがただ、すれ違っただけなんだ」

「シュウ……そう言ってくれて、うれしいよ。けれど、君が許してくれるといっても、僕の中でけじめをつけなければ気が済まない。そこは僕に一つ、君のためになることをさせてくれないか」

「そういうのであれば、好きにやってくれ。とにかく、このことで僕が友達の縁を切るつもりはないよ」

「……恩に着る」

 急に、小屋にたくさんの人間が入ってきた。タンが治ったことを聞きつけてのことだと思っていたが、ほとんど抵抗しない間に、シュウはなぜか自分が縄で縛られていることに気付いた。


 太陽が空の天辺に昇っている割には、あたりは暗い。雨雲が熱い日差しをさえぎっていた。

 人里いちばんの広場の真ん中で、シュウは地面に転がされ、罵声を浴びせられていた。異能持ち。森の異端児。妖狐。

 隣の街をはじめシュウの能力に理解を示すものはもちろんいた。しかし、人里全体で見ると、それは少数派にすぎなかった。老人は、必死に罵声を吐く住民たちをなだめるが、ざわめきは一向に収まる様子がない。

 その昔、老人は言づてにシュウの祖先の行った行動について教わったことを思い出していた。これまで、これほどの能力を持った狐は、大師のあった狐以外にいなかったのではないか。しかし、その計り知れない能力に太刀打ちできるだけの能力は自分にはないと自覚があった。望むなら、シュウは簡単にこの束縛を解き、人類に災厄をもたらすことができるだろう。

 いざというときのために、シュウを縛った縄には老人の魔力が込められていた。能力の発現まで、これで時間を稼ぐことができる、とシュウをタンの小屋に行かせた若者は考えていたところだった。シュウが完全に油断しきっていて本当によかった。この縄をかけるまでが問題だったのだ。あとは能力を少しでも発言しようとしたときに殺せばいい。どのみち、彼の未来はもうないのだが。

「さあ狐くん、これから君の処刑の時間だが、何か言い残すことはあるかい」

 老人は、苦々しく若者の言葉を訳した。こんな仕事をすることになるとは思ってもみなかった。これまでの様子からしても、シュウは人間と協調しているふうで、危害を加えようなどとは全く思っていないはずだった。

 シュウは半分口元を縛られて、不自由な発声で言った。

「どうして、僕を生かしておかないのですか、僕は必ず人里の役に立つことができるし、危険な存在になどなりません。これは誓って言います」

 今は危険な存在にならないけれど、そのうち気持ちが変わる可能性を考慮しての、住民たちの判断なのだろうと老人は思った。

「何を言っても無駄だよ……最後の言葉はそれだけか」

「……」

「どうです、近隣の森からの永遠の追放で勘弁してやっては」

 老人はつとめて冷静に言ったが、その口調からは焦りが見て取れる。

「それでは甘いのだよ! ここでこの妖狐を放り出したら、我々のどんな危害になるか想像もつかない!」

 若者の怒号に、あたりがしんとした。若者猟銃に弾を込める音だけが、広場には広がった。

 シュウは色々な感覚を思い返していた。人間を信じた自分を呪いながら、それでも自分は間違ったことをやっていないという自信はあった。この若者の考えも理解できた。それで、何も言うことはなかった。シュウは目を閉じた。

 シュウは猟銃がこちらに向けられる気配を感じた。

 ああ、死に際に一目、お父さん、それからタンに会いたかったな――と、ただそれだけ考えて頭を真っ白にし、若者が銃の引き金を引くのを覚悟して――。

 広場のざわめきが、後ろのほうから起こった。立ちはだかる人間たちを腕力に任せ屈服させて回りながら、シュウが縛られている広場の中央まで息を切らしてやってきた。

 タンは叫ぶように言った。

「僕だ。これをやったのは僕だ! 僕は森を豊かにし人里を壊そうとした。さらに言えば、みんなの禍の元、諸悪の根源は僕なんだ! 先日木の実を盗もうとして人里を騒がせたのも僕だ。人里に暮らす者と森に暮らす者との調和を乱した。それだけじゃない! 僕は知っていた。僕の家系の熊たちが、シュウの能力を引き立てる存在であると知っていたんだ! 分かったうえで彼に近づいた! すべて、僕のせいだ!」

 再び広場に沈黙が流れる。若者はシュウから銃をタンに向けて様子をうかがった。老人はその力のこもった説明を、どう訳するか迷った。これをこのまま訳してしまえば、もちろんタンの命もないだろう。けれど、それによってシュウの命を救えるかもしれない――。老人は今、人生で一番の大役を任されている気分になった。皆が皆、老人の訳を耳澄まして待っていた。それが、老人の妙な高揚感をあおった。大師よ、どうか彼の言葉を誠実に訳することを赦してください! その結果、哀れな二頭の生き物がともに死に絶えてしまおうと、真実を伝えることを赦してください!

老人は、その言葉を人間に伝えた。

「処刑だ! この熊を許してはおけない!」

 空まで響くような怒号を放ち、若者はもう一度銃を撃つ準備をした。銃口をタンに向けたまま。

「わしの意見としては、彼らを放してしまえばいいのではないか、と思う。わしも狐と熊の存在は知っていた。彼ら同士を遠くへ放してしまえば、シユウ君の能力も完璧に発言することはないじゃろう」

「うむ……」

「ここはひとつ、森からの永遠の追放でいいのではないかと思う。今度戻ってきたら、その時は容赦なく射殺してよいじゃろう。今回がすべてではないし、一度くらい猶予をやったらどうじゃ」

 諭すように老人が言った言葉を、若者は吟味している様子だった。これは全てうそだった。狐と熊の存在などこれまで先祖から聞いたことがない。心から人里の人間たちを皮肉りたい気持ちだった。自分たちに危害が及ばなければそれでいいのか。「他所」には「他所」に住む人間がいるのに、彼らのことはどうだっていいのか。

 若者はうなずいた。二頭は森から追放されるだけで済んだ。

 縄はほどかれ、シュウはそのまま森へと解放された。老人に、できるだけ早くここから離れたほうがいい、と言われた。シュウは森に戻り、己の無力さを呪い続けた。


 シュウは高台から、ハトがやってくるのをぼんやりと眺めていた。ハトはシュウに、きまずさ前面に出しながら、いやいやながらに伝言した。

「群れに戻ります。今までありがとう。ごめんなさい」

 シュウはハトに礼を言って、帰るよう促した。すぐに帰るように促した。涙があふれてくる前に。

 雨が本降りになってきた。己を呪う気持ちとともに、すさまじいまでの感動に心を揺さぶられながら、シュウの瞳から熱い液がこぼれていった。

 何が森の守り神だ、僕はただ一人の友人すら守ることができなかった。こんな僕を、森の動物たちはあがめた。けれど本質は変わらないのだ。

 どこまで行っても、この先自分は孤独感をぬぐえはしないだろう。なぜなら、もうこれ以上ないほどの、唯一無二の友を失ってしまったのだから――。

「すまない、すまない……!」

 それが地に落ちた瞬間、清澄な流れとなって低いほうへと流れていく。涙はとめどない。どんどんと水量は増し、ついに細い川となった。かと思うと、その清冽さを保ったまま、遠くは人里のほうにまで流れは続いていく。

 ああ、タン! 僕の唯一にして、最高の、最大の友よ! 君のことは一生忘れない! 一生、敬意を示し続けよう! 僕の、僕の――。

 僕のために生死をかけて広場にやってきて、大嘘をついてくれた友。

シュウは体中の水分がすべて目から流れ出るほどに泣き続けた。泣き疲れて、気絶するように眠ったあと、シュウは森から姿を消した。もうこの森にはいられない。

 その後のシュウを見た者はいない。







 その狐は眠りから覚めると、森の奥のほうから人里の方向へとゆっくり歩いて行く。ややその足取りはおぼつかないが、大昔のいっときと比べればかなり改善したほうだった。ただ老いただけだ、と思った。

 狐は過去を振り返る。あの時の家族との分かれほどつらいものはなかった。けれど、今こうして生きていられるのも、そのことがあったからだった。

 仲間の若い狸とあいさつを交わす。彼と一緒に、人里のほうを目指していく。彼は大昔に起こった出来事について何も知らないが、知らせるつもりもなかった。

 二頭は人里と森の境目までやってきた。その境目を分ける大河の清流に耳を澄ませると、雄々しく、それでいてしっとりとした趣を感じた。底が見渡せるほどきれいなその流れの中で、元気に魚たちが泳いでいる。川から惹かれた用水路は人里のほうへ伸びていて、ここ何年も不作となったことはない。この付近でも有数の素晴らしい川で、その流れは隣の森にまで続いている。一口飲むと、すぐに自分の体に力がわいてくるかのようだった。

自分はこの川の水を飲んでから、見違えるほど元気になった。自分が今こうして生きていられるのも、この川のおかげだった。

「おじいさん、おいしいですね」

「ああ……」

 老いた狐は、しみじみとうなずいた。その胸に、今はここを去った息子の姿を思い描いていた。

 この付近での一番の英雄は、自慢の息子だった。今の若いものは、その名を聞いても誰のことだかわからないだろう。だから老いた狐はその清流を見るたびに、ただひとり、誇らしい気持ちを噛みしめるのだった。

 その川を、この辺りではシュウ川と呼んでいる。

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川のなまえ 綾上すみ @ayagamisumi

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