第三話 交歓

 人里の緊張状態もやや解かれ始めたころのことだった。シュウにとって、明け方に父の姿を観察することが日課になっていた。危険を冒してまで、シュウは変わらぬ日常を直視したかった。間違っているけれど、変わらないこと。けれどこの数日、父親の姿を見つけることができず、シュウは怪しんでいた。

 今日もまた、父はいなかった。シュウは胸騒ぎがした。もしかすると、と思い至る。狐の状態でいた父が、人間に撃たれてしまったのかもしれない。考えたくないことだったが、そうすれば、最近人里の警戒が解かれたことも説明がつく。直接、父の家族が住んでいるクヌギの木の下を訪れたい思いが急にやってきた。しかしただ少し休んでいるだけだった場合、どうして戻ってきたのか、と父に叱られることは確実だった。あるいは強い折檻が待っているかもしれない。父が別れ際に言ったように、再び交流することで森が滅び絶えてしまうのかもしれない。

 朝が来た。シュウは父のもとを訪れるか否かを天秤にかけながら、ねぐらに戻った。

 そこには相変わらず、タンがいる。親しみの感情も相まって、シユウにとってタンの存在が当たり前のものとなるのも早かった。ただ、いなくなってほしくないと思っていた。

 毎晩のように今夜ここから去るよ、と言っておきながら結局、シュウが明け方に起きるより遅くに目を開くタン。シュウは彼の寝顔を見て、こんな油断しきった眠り方ができるのは、眠る間を誰かに守られていたからではないかという考えが浮かんだ。

 いつもそうしているように、朝の食事を用意して帰ってきた。今日は人里の近くまで、木の実を採りに行った。人里の近くのほうが、うまい木の実はなっている。少しのスリルを楽しみながら、シュウは一つ一つ木の実を拾い集めていった。人里の人間は、今森の動物たちをよくは思っていない。

 ねぐらに戻る。タンは、その鼻孔を木の実の甘い香りがくすぐると、それだけで目が覚める程度には食いしん坊であることまでをシュウは知っていた。起き上がったタンと食事をとった。

「タン、ここに住まないか」

 森と人里の仲が悪くなろうが、もう森の一員とみなされていないシュウにとっては全く関係のない話ではある。それを引き起こした張本人を責める気持ちなど毛頭なく、そんなことよりシュウはタンと友達でい続けたかった。

「僕には君が、ここを離れて独りでやっていけるとは思えないんだ。狩りの仕方も、果実を取るために木を揺さぶる加減もわからないじゃないか。君はずっと群れの中で生活していたんだろう?」

 タンはうなずいた。

「君はこの前、旅先の喧嘩で目にけがを負った、と言った。本当かい?」

 観念したように、タンは首を振った。

「僕は森の熊たちをまとめている、いわばボスの子供として生まれた……そして、不自由することなく育った。僕の周りにはいつも何頭かの御守り約がいた……眠るときもね」

 昨日の話では訊けなかったことだった。シュウは無言で、先を促す。

「僕は母親に愛されて育ったと思う……まるで、メスのように扱われて、しつけられて……お父さんも忙しかったから、ある程度は仕方がない。けれどある日、僕を見かねたお父さんが、僕を試したんだ。仲間内のものと、決闘するよう言われた」

 それで、このざまだよ、とタンは左目にできた傷痕をさする。

「僕はこのまえ、君に群れに戻りたくないといった。あれは、正確には、追放されて群れに戻りたくても戻れないということなんだ」

「……ならなおさら、僕と一緒に暮らさないか」

 シュウは勇気を出して一言言った。

「本当に、いいのかい?」

 タンはしばらく、腕組みをして考えていた。了承を渋っているというより、世話になることがためらわれる様子に見受けられる。

「正直に言って君のことが心配なんだよ。独りではやっていけないだろう」

「――わかった。一緒に暮らそう」

 タンの一言に、シュウは笑みをこぼし、尻尾を振った。

 その昼、タンとともに午後の散歩をしていたところ、例のほこらの近くを通ったので、ついでにそこを訪れた。

「これが、君の言っていたほこらなのかい」

 森の奥に造られた、奇妙な雰囲気を放つほこら。祀られている狐の石像は非常に精巧な意匠が施されており、その瞳から、厳然とした視線すら感じる。

「僕はここで、父に棄てられたんだ」

 タンはしばらく、その石像を見つめていた。

「あの石像……似たものを、見たことがある気がする。そうだ、人里に……」

「そうなの?」

 すると、やはり人里にいる誰かが、この石像を作ってここに納めたということだろうか。一体何のために? しかし、このほこらの周りではシュウの能力が使えないということは、何かの不思議な力が働いているのは確かだと感じた。

「それは、人里のどこだったかわかるかい」

 何気ない質問で、別に答えを求めているわけではなかった。タンは――近くの木にかかったハチの巣を指さしていた。

「さっきお昼を食べたばかりじゃないか」

 シュウは苦笑する。

「あの高さなら、自分でとれるんじゃないか。ひとつ、やってみなよ」

 タンは怯えたような表情を見せる。本当に彼はお坊ちゃんなんだな、と改めて認識した。そして、シュウは彼がハチの巣を取るのを下で見守ってやることにした。

 タンが木にかけたその足は震えていて、自分の体をどうやって上に運んでいいかわからない風に両の前脚で細い幹を抱いていた。シュウは思わず噴き出してしまった。

「初めてなんだから仕方がないだろう」

「いやいや、ふふっ、申し訳ない。僕が見ててやるし、もし落ちそうになったら支えてやるから安心して登るんだ」

 はったりだった。狐の小さな体では到底熊の巨体を支えることなどできない。けれど、木登りで大切なのは、安全を考えるというよりは、どんどん先に登っていこうとする勇気だ。

 タンは一息ついて、意を決したように、自分の背丈より上の枝に前足を伸ばす。後足を、ゆっくりとひきつけ、次の手を出す。あと数回よじ登れば、目的のハチの巣をとらえることができるだろう。シュウも彼を応援しようという気持ちになっていた。

 タンはついに、ハチの巣を手につかんだ――と同時に、バランスを崩した。落ちる。シュウは予想していなかった事態に、とっさに判断してタンの落下点に入る。

 そうして二頭は、落ち葉の上に、なだれ打つように倒れこんだ。お互い、痛みの感覚を忘れて笑いあった。

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