第28話 夜の攻防
綾月と少し話してから、人払いを解き、李華が入ってくると、なんだか顔色が悪い。
そして、おもむろにアトに訊ねた。
「希勇君。あの……、太后に口応えをしたというのは本当ですか?」
アトは口答え、と言われて、あっ! と楊曹夫人の入れ知恵のことかと、思いいたり話すと、それはそれは、李華にも綾月にも怒られた。
「希勇君!!! 真正面から太后に物申すなど!!! 命が惜しくないのですか!?」
「そう言うものなのかな……と、思っちゃって。ごめんなさい。」
はぁーっと李華はこめかみを押さえ、綾月は頭を抱えた。
「もう、言ってしまったことはしょうがありません。謝罪の文だけでも、したためましょう。」
と、李華は硯石を擦り始めた。
綾月はその間、
「いいですか希勇君? 目上の方、希勇君からすると陛下、太后、皇后、になりますが、そのお言葉を無闇に否定してはいけません。貴人のごく初歩的な、礼儀であるはずですが、希勇君は、蛮勇をご自慢なさりたいのですか? 困りましたねぇ。後宮では、特にご発言なさる際は、お気をつけあそばされませんと、我々も首が飛びまする。どうぞ、我らに情けをかけて頂けるのであれば、今後とも是非、ご留意くざさいませ。」
と、アトにみっちりとにこやかに説教した。
とてもにこやかなのに、彼から発せられる圧は、まるで楊曹夫人のようだ。
アトはしおしおと謝った。
「ごっ、ごめんなさい。」
その頃、泱容は先の見えない政務に埋没していた。
本当なら、自分の贈った布地で着飾ったアトを見に行きたいが、貴妃であるアトはあくまで側室。結婚式を上げるのは皇后のみと、定められているため、泱容は行ってはならないのだ。
下手に行くと、皇后を無下にしたことになり、要求を飲ませる大義名分に使われる。
泱容だって重々承知だ。なのに、
『陛下に置かれましては、重石が必要かと存じます。故に、間違ってもお渡りになられませんよう、こちらをご用意致しました。』
などと
夜になっても、アトの元へは行けなさそうだ。それどころか、一日で終わる気がしない。
そこへ、
「陛下。太后様より文にございます。」
処吏が恭しく文を泱容まで運ぶと、泱容はザッと開いて読んだ。
“このところ、朝降る霜が眩く、庭を飾る季節となりまするが、お陛下に置かれましては、お加減いかがででありましょうか?
季節の移ろいで、新しい風が吹いてくるようですが、少々身に冷え、手塩にかけ育てた牡丹が心配です。
大きな蕾をつけ、春待ついじらしいこの花に、どうか、お情けをおかけくださいませ。”
という内容だ。
文章は美しく感嘆するが、要は……、
“新しく入ってきた妃(アト)が辛く当たる。皇后にも何をしでかすか、わかったものじゃない! そんな女より、私が大事に育てた皇后を贔屓にしろ。(そして、とっとと世継ぎをこさえろ!)”
と、いう内容なのだ。
「……。貴妃が太后に謁見した際、何かあったか?」
と、宦官に訪ねると、
「恐れ多くも、怨みに報ゆるに徳を以てすと、説かれたとかで……。」
「はぁー……。アイツ……、意味解って言ったんだか…………。」
泱容は頬杖ついて呆れたが、後から笑いが込み上げてきた。
クククッ……。あはははははははっ……!
すると、宦官が少しムッとした。
太后付きの宦官なのだから、当然だろうが。
それでも泱容は中々笑いを止められず、肩を震わせながら言った。
「あい解った……。母上には……、っ……毛織物の膝掛けを贈るとしよう。今宵は、皇后の元へ行くと触れを出せ。」
と、返事をすると宦官は釈然としないながも下がっていった。
宦官が下がっていったのを確認すると、泱容はニヤッと悪そうな笑みを見せ、官吏達を呼んだ。
そして、昼餉が終わった頃。
アトは疲れのあまり、陽光で背を温めながら、自室で船漕いでいた。そこへ、
「希勇君!」
と何やら気合の入った目で、李華と綾月が仁王立ちして待ち構えていた。
ハッと目を覚ましたアトだったが、次の瞬間、アトはあっと言う間に裸に剥かれ、薬湯に放り込まれ、髪に油を塗りながら櫛を入れられ、爪を切った上にヤスリをかけられ、全身もみほぐされた上に、昼も食べさせられたのに……丸薬ようなお香を、また食べさせられた。
余談ではあるが、この“お香”というヤツは、朝昼晩と食べ続け、体の内から良い香りをさせるもので、とー……っても、苦い。
アトは、苦い丸薬を涙の出る思いで噛みしめると、気づけば夜になっていた。
アトは疲れ果て、寝台に寝転びたいのを我慢して、綾月に化粧された。
鏡を見ると、流石、元高級妓楼の男妾、アトがちょっと別嬪に見える。
「すっ……すごい!! あいつ(泱容)が喜びそう……。」
自分に化粧しろとか言い出しそうだ。
「あいつ?」
綾月が小首を傾げると、アトは
「な何でもない!」
と、誤魔化した。皇帝をあいつと呼びつけたなど、言えるわけもない。しかし、次のアトの素っ頓狂な質問に、綾月は固まる。
「それはそうと、なんでこんなすごい支度してるの私…………?」
!?!?!?!?!?!?!?!?!?
「……貴方は、貴妃ですよ? 貴妃が何をするか解ってなかったんですか??????」
「そ……っそれくらい解ってるよ!! そ、そうじゃなくて、もう寝るだけでしょう? なのに……どうしてかなぁって。」
普通は、おぼこだって解るんじゃないだろうか?
いくら、側室でも貴妃である。
それも、初夜、陛下のお渡りが無いなど、有り得ないではないか。
「…………。つまり、陛下のお渡りが無いと、考えておいでなのですね?」
「あるの? 惚れた女じゃあるまいし。」
……。
どうしてこういう認識に至ったのかは判らないが、皇帝は、よほどの事がない限り、基本、妾に関しては選り好みがいくらでもできる。
下民であるに関わらず、わざわざ養子縁組までさせ、皇后の次席の貴妃につけた。
その意味を、解ってない!!?
「…………。つかぬことをお伺いしますが、陛下から贈り物の一つ貰ってないのですか?」
「贈り物…………母君の指輪? と、輿入れのときの襦裙の布地……かな?」
と、アトが思い出しながら答えると、綾月は白目をむきそうになった。
「希勇君…………? 謝恩でも、そんな重い、意味ありげな贈り物、しないですからね!?」
と、綾月から説教臭く言われて、アトも少しムッとして反論した。
「だって! ……今まで猿だ! ブサイクだ! くらいしか言われたこと無かったし! それに惚れた、好きだなんて、言われたこともない!!」
“何と不毛な……!”と、綾月は脱力しかかった。
陛下も、希勇君も、二人揃ってお子ちゃまなのだ。
この話からして陛下は、いわゆる“好きな子に意地悪をしてしまう”という、何かを色々勘違いしてしまっている“イタイ男”。
そして、希勇君は……身の程をよく知りすぎて多くを望まない、或いは、期待をせぬようにして無意識の保身をしている、少々臆病な女性。
この組み合わせでは、陛下は想いを伝えようと裏腹な言動ばかりをし、希勇君はそれをそのままの意味で受け取り、陛下を敬遠する。
まるで自分の尻尾を追い回す犬!
希勇君も男運のない方だ……。
そう思いながら綾月は生暖かい目で諭した。
「……。追々、希勇君には色々とお教えいたしますので、陛下のことも、その内ご理解できるはずです。」
「ううん。」
色々? ってなんだろう?
アトは、不思議そうに小首を傾げた。
そして、アトは暫く小上りで茶を啜りながら、泱容を待った。
……待った。
……待った。
……待った。
もうどのくらい待ったのか、もう茶を飲んでも意識が保てぬ……。
アトは机に突っ伏して、すやすやと寝息を立て始めた。
綾月も、李華も、亥の刻(夜の十時過ぎ)を過ぎても、お渡りの御触れがないので気を揉んだ。
今朝の、謁見での一件があったので二人共
太后にお渡りを阻まれたのだろうか?
と訝しんだ。
そして、二人の予想は見事的中していた。
が、―――――。
アトの宮に近づく背の高い人影が一人、ふらっと現れた。
綾月も李華も警戒したが、雲間から月光が差し、その人物を明らかにした瞬間、
「陛下!!」
二人はその場で拝礼した。泱容は
「構うな。今、予はここに居らぬことになっている。」
と、二人を立たせた。
「すっ直ぐに、
李華がアトを呼びに行こうとしたが、泱容が止めた。
「良い。予が参る。どうせ寝ておろう?」
そう言って泱容は、ズンズンと宮に入っていった。その折に見せた笑顔……。
綾月は思った。
その笑顔を希勇君に向ければ、労すこと無いだろうに――――。
宮に入ると泱容は人払いをし、机に突っ伏して寝ているアトを抱き上げ、寝台に運んだ。
「全く……。」
泱容はその顔や髪に触れながら、自らも寝台に寝そべった。そして、緩く抱き、髪の匂いを確かめ、その温みを噛み締めた。
あぁ……。抱きたいっ……。
寝ている女に無体を働くわけにいくまい。強情な彼女を更に頑なにするに、違いないのだから。
かと言って…………。
こうして、泱容は生殺しの一夜を過ごした。
一方、美燕は一人静に眠っていた。
これからはもう、心を乱すことなく居れると思うと、それはそれは安心して眠れる。
最初、陛下のお渡りがあると聞き、どうにも重い腰を何とか上げ、彼を迎える準備をした。
そして、どうにか笑顔を取り繕い彼を出迎えた。
だって、初夜の頃から、想いのない相手との夜の営みは、ただただ辛かった。
第一に体が辛く、情の通わぬただの運動は、無力感に苛まれ、虚しいばかりだった。
幸いにも、初夜以来お渡りが無かったから、心身ともに安寧を取り戻していたのに……。
貴妃が輿入れした日に、お渡りだなんて……陛下は
多分、
ならば、今宵も……。
ところが、
「楽に致せ。取って食うような真似はせぬ。」
「は?」
思わず美燕は顔を上げ、泱容を見上げた。すると泱容はさっさと人払いをし、こんなことを言い出した。
「皇后よ。いや、美燕。そなた、真に予の子を欲しておるか?」
「そ……れは、どういう意味でしょうか?」
美燕は質問の真意を測りかねた。一歩間違えば、斬首になりかねない質問である。だから、“当然でございます”と答える以外ない。
が、
陛下は、陰日向に置かれてきた皇子時代を過ごした。その上、後ろ盾についた相手も信用ならぬこと、よく理解している。
どちらにせよ、私は信用のならない相手。
そんな私が何を言ったとて、機嫌を損ねるかもしれない。
いや、そのほうがいい……。
冥府に渡り、あの人に逢うのだ!
死の恐怖や痛みなど一瞬ではないか。
無力に打ちひしがれ、身を好き勝手にされ、
我が子も……手元に残る保証はない。
美燕は意を決して口を開いた。
「
美燕は涙をにじませ、キッと泱容を睨み詩を吟じた。
文字通りの決死の覚悟である。
詩の意味は、
“(あの人を想い夜も眠れず)なんだか太陽に照らされるのが恥ずかしく、
高価なものを手に入れるのは簡単ですが、本当に愛してくれる男を見つけることは、とても難しいものです。
しかし、私は自ら違う男の元へ嫁いだ。けれど、愛する貴方を忘れようか!?
ひとり寝の寂しさにひっそりと枕をぬらし、せっかく春の花を楽しみに待つ時も、心の中は悲しく腸もちぎれるほど辛くもどかしいです。”というものだ。
この詞は、……昔話に、
それだけでは何ら問題はないが……。
詩に出てくる“盧氏”は、お金持ちの家の例えで、言わずもながこのご時世、禁句中の禁句である。
それに、“
これは相手への拒絶とも取れる内容で、皇帝に対する不敬である。
美燕ほど教養を叩き込まれた女が知らないはずがない。
泱容は、はぁ、とため息を付き、言った。
「落ち着け。取って食いはせぬと、言ったであろう。別に予の子が欲しくないならば、それで良い。また、太后に我が子を取られたくないというなら善処する。どうだ?」
美燕は目を瞬かせ、慎重に口を開いた。
「それは……取引をしたいと仰せなのですか?」
「あぁ。」
その返事を聞くと、美燕はその場でへたり込んでしまった。
泱容は、ゆっくり彼女を椅子へ座らせると、少し緊張したように切り出した。
「どうであろう? そなたは、今の詩を聞く限り、予と睦み合う気がないのであろう? ならば、無理にとは言わん。子だけ欲しいと言うのならそれに添おう。お前の“王昌”を忘れることもない。」
「陛下! そこまでお心を砕きに――。ご無礼をっ!」
美燕は椅子から立って叩頭した。
「良い許す。お互い後宮での女の扱いは、よく解っておる。その代わり――。」
希勇君。
言うまでもなく、美燕には解った。
そして――。
「お任せください。」
あまりの返事の早さに泱容は聞き返した。
「良いのか?」
「えぇ。」
美燕は少し笑って続けた。
「陛下は、女の私に、心の自由を下さいました。何よりでございます。」
「…………。叶うならば、いつか解き放とう。」
「有り難く。」
美燕は、深く身を倒した。
この時、彼女は生まれてこの方、初めての反抗をした。
その心地は、晴れた空のように清々しく、不思議と怖いものなどなかった。
泱容を希勇君の元に送り出した後、美燕は、泱容より賜った、慈英の
今は亡き彼を夢に見ながら――。
――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:薄いそで
※2:腰につける装身具。
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