第20話 戦
アトは、空になった猛騎の屋敷の廊下で惚けていた。
一度太師邸に戻ったアトは、太師から猛騎邸での待機を命じられたため邸の留守を預かることとなったのだ。
もう"蘭玉"としてのお役を終えたので、本来の名であるアトを名乗り、絹の服を麗嬌に返し、元着ていた裾の短い円領と
主人が留守をしている屋敷は、掃除が終わってしまえばやることがなく、都へ来るまでの船旅を思い出すようだった。
あれから三日――――――。
気づけばジメジメとした暑さは、晩には収まるようになり、秋の気配がちらついている。
思えば季節の移ろいも気づかぬほど、忙しい宮廷生活は、過ぎてみれば一瞬だった。
アトはおもむろに懐から、下賜された指輪を取り出した。
一輪の花が手の中で咲いたように愛らしい。
なんだか私の指輪という感じがしない。
他人の物を預かっているような気がする。
つけてみてもなんだか似合わない気がするし、こういうのは、もっと白くてほっそりした指にはめてこそでは?
こんな物持ちなれないから、そう思うのだろうか?
あの男お得意の嫌味なのだろうか?
そう思うとちょっと腹立つ気もするが……
アトは改めて指輪をジッと見た。
女性らしい淡い粉色の花弁が美しい。
見ているだけで顔が
アトは指輪をそっと胸に抱いた。
指輪に罪はなし!
例え嫌味でも、こんな女らしい贈り物は、否応にも心が踊った。
そこへ、
「もし。」
と背後から声をかけられ、アトはビクッとして振り向いた。
そこには孫凱がいた。
孫凱は相変わらずのっぺりとした顔立ちで、表情がつかみにくく、気配まで分かりづらい。
「アト様。息災で何よりでございますが、少々お気を緩め過ぎでは?」
「申し訳ございません。」
アトは気まずそうに謝った。指輪に夢中になって背後を取られたなど……呆れられる。
アトはそっと指輪を隠そうとしたが、さすが孫凱。すぐ気づいた。
「それは?」
アトはまたビクッとした。
「えっと……その、つまらない物です。」
孫凱はピクリと青筋を立て言った。
「つまらないかどうかは、見て判断いたします。お手の物を拝見しても?」
言い方は丁寧だが、有無を言わせぬ威圧にアトは観念した。
「で殿下から下賜されまして……。」
とおずおずと指輪を差し出した。
すると、孫凱は珍しく表情を変えた。
「碧妃様の……。」
碧妃様?
殿下の母君の!?
「母君の形見……? どうして??」
この時、アトは嫌な予感がした。
こんな大事なもの他人に預けるなんて――
まさか………!?
アトはわずかな荷を体にくくりつけ、矢も盾もたまらず走り出した。
孫凱ですら静止が間に合わない。
「どこへ行く!?」
「アイツのところへ!! アイツ……あのバカ野郎は死ぬかもしれない!!!」
アトは馬を勝手に拝借した。乗ったこともないのに……。
いきなり乗ってきた無法者に、馬も驚いて嘶き暴れたが、アトがそのくらいで振り落とされるはずもない。
勢いのままアトは馬の尻を叩き走らせた。
「行け!」
馬はあっという間に門を抜け、王都の関門も馬が暴れるに任せ突っ切った。
玄国境まで馬で行くなら丸3日、進軍であれば5日要する。
あの馬鹿はきっともう戦場にいる。そしてそのまま……。
アトは手綱を持つ手を戦慄かせた。
たかが3ヶ月そこら一緒にいただけだったが……
大して役に立ちもしなかったが……
それでも私にできることは尽くした。
それを………どうでもいいってのか!!
巫山戯やがって!
馬鹿にしやがって!
命あっての物種って言うじゃないか!
アトの目には涙が溢れた。
今思えばあの男どこか刹那的な感じがした。
諦めたようなどうでもいいような……。
こっちはこんな大変なめにあってんだ!!それを人の気持ちも何もかもほっぽり出して死のうってかっ!!?
ムカつく!!腹立つ!!
アイツの面ひっ叩いてやる!!!
アトは心のなかでそう叫びながら、ひたすら馬を北へと走らせた。
その頃、泱容は玄国境に立っていた。
猛騎が先手を打ったお陰で、敵は思わぬ不意打ちを喰らい、撤退を余儀なくされていた。
そのため、泱容は前線に立つこともなく、天幕内で椅子の守りをするばかりである。
「文字通りの神輿だな私は……。」
泱容は自虐気味につぶやいた。
「そうへそを曲げないでいただきたい。軍の士気に影響いたします。」
重嚴が泱容を諌めると、泱容は気怠げに言った。
「士気も何ももう勝敗は決しておろう。帰った後のほうが、余程厄介であろうが。」
「そうかもしれませんが、戦場で空事は禁物ですぞ。」
と泱容を一睨みした。
重嚴は懸念しているのだ。
兵達は重嚴がいるから、こうして泱容に付き従っているのであって、肝心の彼に対して忠誠心があるわけではない。それに、泱容の容貌は美しいが、女人ようで軽んじられてしまう。なのでこのように弛んだ姿を晒すのは、よろしくないのだ。今後のためにも。
しかし、重嚴とてこの戦場でこれ以上は何も起こるまい、と思いこんでいた。それだけブルケト側は劣勢に追い込まれていたのだ。
油断。全てに置いて最悪を招く根源である。
一方、既に軍師として出港していたフォンは、不安を募らせていた。
フォンの読みでは、長満はフォンが洸に入った時には既に、越を攻撃させる準備をしていたと見ている。しかし、本国に知らせ、足早に帰国したにもかかわらず、何もない。航海は順調そのもの。
このことにタインは呑気に喜び
「今回はフォンの考えすぎだよ! 玄の奴らケツ捲くって逃げたんだ!!」
と言って、フォンに思い切り蹴り上げられて、あわや海に落ちるところであった。
そして、
「軍師殿!! 船です! 既に陸地に上がったものと思われます!」
「何だと!?」
フォンは見張りから望遠鏡をもらい確認した。
報告にあった、巡視船を襲っていた船と同じ特徴が、その船にはあった。
船の数は大型船3隻、数からしておよそ二千ほどの兵が乗っていたと予測される。
フォンは長満の切り替えの速さと、迅速さに震撼した。
最初から勝ち目のないところに捨て駒するより、殿下の首を取りに動いたのか!!
「……つっ――――――――――!!」
どうする!?
海上なら勝てる自信はあるが陸地戦!
しかももう時間がないと来てる!!
兵の数、殿下にぶつけてきたことを勘定に入れると、奴等を率いているのは……玄の皇子か少なくとも将軍職以上の権力者! あの野郎ーっ! 最初から又掛けてたんだっ!!
………―――――――――――――。
このまま、殿下を見捨てて国に急ぎ帰っても、今度はウチに数十万の軍勢を差し向ける。
そうなったら……越上陸は防げない。
何とか戦うしかない!
何かいい方法は……――――――。
その時チラッとタインの背中を見た。
煙幕弾の中身を抜いて、経文を書いている。
これは越独自のお祈りの仕方で、色粉で曼荼羅や経文を書いて、立身出世や家内安全等を祈念するのだ。
この煙幕弾、フォンの発明品で、材料の中に色粉を使っている。だから中身を抜いて……
煙幕弾……。
これを作ったのは、敵の目を潰し最小限の攻撃で倒すのが目的だった。鉄の節約をするために……。
グェン・フォン。この男には幼い頃からの悪癖があった。
それは、何でも試さずにはいられないこと。
故に、周りからは理解されないような奇怪な物を作っては、呆れられていた。
煙幕弾もその一つであった。
直接攻撃には使えない、目くらましをするだけの武器など、どう使うのか? と、ほとほと呆れられ、相手になどされなかった。
しかし、そこは試さねば気の済まぬ男。単身、海賊共に煙幕弾を使い挑み、海賊船は……大火に覆われ没してしまった。
フォン自身も驚いた。
元々悪戯専用に作った玩具だったのが、こんなことになるなんて……
そんなことがあってから、実戦でも有用だとされめでたく採用されたのだが。あの時、あの衝撃が忘れられず“どうせ死んだのは海賊だ”と、言い訳をして考えないようにしていた。
あの時……、今思い出しても苦い。
子供だった当時、懲らしめてやろうぐらいには思っていたが、あんな殺し方しようだなんて思ってもいなかった!
でも……おかしい。
オイラ、火なんて持ってなかった。
昼間だったから……でも、誰かが鉄砲打ったんだ!
羽振りの良い海賊だったから持ってた! それから、燃えた。そうだ! 燃えた!
燃える。そうだ……燃える!
アレの中身は、籾殻や木屑を挽いて粉にしたものに、色粉で着色したヤツだった!!
それが空中に舞えば、全部燃えるんだ!!
戦える!
「全軍! 船を岸につけ上陸する!」
フォンが命じると、タインがわかりやすく狼狽した。
「え!? た戦うの!? 負けちゃうよぉ!!! 帰ろうよ国に!!!!!」
「イヤ勝つ。勝てる。」
フォンは確信を持って答えた。
その頃、洸玄国境のブルケト皇子は、陣中幕内で荒れに荒れていた。
当初は長満が裏切った事も考えたが、洸皇族の軍旗を見たとき、裏切ったのではなく出し抜かれたと確信した。
「所詮は商人、まんまと出し抜かれおって!!」
ブルケトは怒りのあまり机に拳を落とし、机の角は地面に削げ落ちた。彼は立ち上がると軍幕を出て、地響きするが如くに吠えた。
「このままおめおめ帰っては、玄の武人の恥! せめて一矢報いるが父上への唯一の罪滅ぼし!! 全軍吾に続けっ!!!」
わぁっと、歓声が自軍から上がると、ブルケトは颯爽と馬に跨り飛び出した。
それをアルスランは望遠鏡から眺め、北叟笑んでいた。
「ククッ!! 兄者の首を持ち帰れば、父上も吾をお認めくださるに違いない!! 先ずは腑抜けを始末せねば……。」
アルスランは洸国軍へ馬を進め、自軍に号令を発した。
「腑抜けをとり天下を掴むのじゃ!! 全軍!
突撃!!」
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