第6話 取り組み合わねば交際は出来ぬもの
月映が来た翌日とのこと。
本当に兄さんの言う通りになった。
アトは侍女達に混じって朝餉を食べようとしていると
「貴方、何をしているの!」
と楊曹夫人に呼び止められ
「貴方はこっちよ! 食事のお作法を覚えてもらうんだから!」
と母屋まで引っ張られた。
アトも侍女達も驚いたが、誰より驚いたのは貞深だった。貞深が知る限り、夫が帰らぬ事を嘆いて自暴自棄になり、太師夫人としての役割を放棄してきた楊曹夫人が、目下の者の指導に当たるなど、その驚きは驚天動地の域である。
貞深は昨日、月映が訪ねて来た折に何かあったのでは? と勘づきその日の晩―――。
「ねぇ。蘭玉ちゃん。ちょっと……。」
「? はい。」
アトは貞深に厨房の裏へ呼び出された。
「単刀直入に聞くけど、昨日、月映さんと麗嬌様の間に何かあったの?」
「え!? あ……その。兄さんが私が世話になるからって楊曹夫人にご挨拶を……。」
「本当にそれだけ?」
貞深はアトに詰め寄った。
「ほ本当に昨日は挨拶ぐらいで――。」
「昨日は? 昨日じゃない日もあるの?」
「いっ!? ……あー……その。き昨日だけです!」
貞深は頭を抱えた。
これまでも色々と、楊曹夫人を庇ってきたつもりだがここまで来ると……。
「蘭玉ちゃん。正直に言って。太師夫人の立場が如何に重いか。解るでしょ?」
貞深は特段怒った顔ではない。が、真顔で凄みを効かせると迫力がある。
「……はい。あの……実は。」
アトはついに口を閉ざさずにはおれなくなった。
一昨日、月映の元を訪れた折りに楊曹夫人の遊里通いを知ってしまったこと、昨日月映が訪ねて来て、アトを待つ間に何か夫人と話していたこと、その後アトとの会話のやり取りを聞いて、何故か夫人が意気消沈してしまったこと、を貞深にしゃべった。
「……。要するに貴方のお義兄さん、釘を刺しに来たのね。(それも、楊曹夫人のお立場をよくご理解した上で、わざわざ訪ねていらっしゃったのだわ……。)恐ろしい方――。」
「えぇ? 恐ろしいですか? (別に挨拶しに来ただけなのに?)」
アトのこの呑気さ加減に貞深は、
「あのね…………。お位の高い方々は面子と言うものが大事なのよ。主人のいない家に、男娼が上がったと言うだけで、あること無いこと噂をたてられるの。
静かに淡々と迫ってくるように話す貞深に、アトはすっかり気圧されてしまって、母親に怒られた子供のように謝った。
「……………………はい。ごごめんなさい。」
「解ってくれればいいのよ。それにしても……どうして遊里通いなんか……。」
貞深はまた頭を抱えた。
「それは、幼馴染を侍女として囲ってて? 蔑ろにされて? みたいなことを兄さんから聞きました。」
「……………はぁぁぁ。」
貞深は脱力した。
「通りで―――――。」
貞深はあきれを通り越して疲れはててしまったのだ。
何を隠そうその幼馴染……
「その幼馴染、私のことだわ。」
「え?」
さすがのアトも、とんでもない墓穴を掘ってしまったとその場で凍りついた。
貞深はほとほと困り果てた様子で、その場にへたり込んで言った。
「囲っているだなんてとんでもない! 家中の仕事をしている私が、どうやって旦那様とそう言う仲になるって言うのよ……。」
この様子からして貞深は嘘は言っていないだろう。
「と、とりあえず誤解だけども解いてみては?」
アトは気休めな提案をしてみたが貞深はどんよりして答えた。
「奥様は人の話、とりわけ私の話は聞かないの。これまでだって何度も何度も……。何か恨みでもあるのかと思ったけど、なるほどね……。愛人と思われていたの……。確かに、私は旦那様とは乳姉弟だけれども……どうしてそうなるの。だからって遊里……。」
貞深はフラりと立ち上がった。
「て貞深様……。」
「今日はもう休むわね……。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
そうしてアトは貞深の背中を見送った。
貞深の心労は、背中からでも解るほどである。
夜が明けて、貞深は一大決心をして楊曹夫人の前に出た。ちょうど朝餉を終えたばかりでアトも楊曹夫人の隣にいた。
夫人は訝しく貞深を見た。
「何かしら? お前に用はないのだけど?」
貞深は少し緊張した面持ちで切り出した。
「奥様。本日限りでお暇をいただきとうございます。」
アトは昨夜の貞深の心労ぶりに、薄々は何かあるだろうと思ってはいたが、
まさか辞する決心をするほどだったとは…。
これを聞いて楊曹夫人は
「何ですって?」
と顔に青筋をたてた。しかし、貞深は真っ直ぐ夫人の顔を見て再び
「ですからお暇をいただき――。」
ダンっ!
楊曹夫人は拳を卓に叩きつけた。
アトはビクッとなったが、対峙する貞深は微動だにしない。
「今更! 散々旦那様に見向きもされない
「奥様!!!」
貞深が大声を上げた。
普段穏やかな貞深が大声をあげるなど、想像も出来ないアトは勿論、楊曹夫人も驚いた。それもそのはず彼女がこの屋敷に勤めている間、こんな大声を上げたことは一度たりともないのだから。
「嗤ってなどおりません。勘違いをなさっておいでのようですが……。」
「勘違いですって!!!」
麗嬌は勢いよく立ち上がった。
「何が勘違いだって言うの!? 旦那様は……! 旦那様は……! お前ばかり頼っておいでではないか!!!」
楊曹夫人は顔を真っ赤にして、ぼろぼろと泣きながら叫んだ。
隣にいたアトは何もできず、オロオロするばかりであったが、貞深は……。
「―――――――――――。奥様。」
「何よ!?」
貞深は静かに喋りだした。
「旦那様は、墨をするのを面倒がって私に押し付け、すったらすったで濃いだの薄いだの……、部屋を片付けたら、配置が気に入らないと家具から移動させたり、お城まで呼びつけたかと思えば、面倒なお客人の相手を押し付けられて自分はどこかへ逃げたり、大奥様がご心配なされて用意した膳を、食べるのが面倒などと言ってそれを私に捨てさせたり……。」
「な……何よ……さっきから。」
「いいですか!? 旦那様は、幼馴染で気心知れた私を、遠慮なく使っておられただけなんですよ? 私は大奥様のご恩があってこそ、お仕えしてたにすぎません!! それにこの際ですから無礼を承知で申しますが、旦那様のように、付け入られれば際限のない腹黒い男など、金子を積まれても要りません!!!」
楊曹夫人はポカンとした。そしてぽつりと
「―――――貴方……今……始めて本音で話したわね。……。今まで遠慮がちだったのは何だったの?」
「失礼ながら奥様は、結婚生活に理想をお持ちでいらっしゃったでしょう? 女としてその気持ち解らなくはないですから。」
楊曹夫人はへろへろと椅子に座り込んだ。
「……………………………。何なのよ。
「僭越ながら、選べぬ相手と添わねばならぬ御身を、同情しておりました故。」
「…………そう。」
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――。」
そう長いこと二人は黙りこんでいた訳ではないのに、アトには恐ろしく長く感じ、また針の
が、
ふっ……うふふふふふふふふふ。
楊曹夫人が不意に笑いだした。
アトは何だか怖くてギョッとした。
ひとしきり笑うと夫人は口を開いた。
「貴方……あの人を腹黒って……! あぁ! 可笑しい!」
「あそこまで酷いと、他に言い繕う言葉を知りませんもの。」
貞深はすました顔で言った。
すると今度は二人で
ふふふっ……ふふふふふふふっ! あははははは! あーっははははははははははは!
と笑いだした。
アトは場の空気について行けず、怖くて一人固まったままだった。
その後、結局貞深は屋敷に残ることとした。
但し、今後は楊曹夫人の専任になることになった。
貞深は″奥様に要らぬ不安の種を蒔いた″として、けじめをつけるため大師に辞する旨を手紙に送ったのだが、大師から″困る″と返事が来た。そのため貞深は″ならば旦那様のご用は今後一切聞きませんが、それでもよろしいか?″と詰め寄ったところ、なんとそれでも良いと大師が仰せになられたそうだ。
以来、夫人の周囲への当りは柔らかくなり、アトへの叱責も随分減り、宮廷作法の特訓は大分はかばかしくなった。
そんな折、
「全く、馬鹿馬鹿しいわね……。男娼の言うことなんてその場かぎりのことだと解っていた筈なのに……。」
「え?」
いきなり何の話だろう?
しかし夫人は続ける。
「月映殿がお訪ねになられた時、年も忘れて私に会いに来られたのかと、密かに期待してしまった。――――ある意味、違っていなかったけど……。だってあの時、
夫人はアトを見た。
「はぁ。」
アトはこの時、″あぁ、あれは夫人の背子だったのか……女物なのに、兄さんはやっぱり何着ても似合うなぁ。″などと、随分検討違いなことを思いながら適当な返事をした。これを聞くと楊曹夫人はまた、ため息をついた。
「はぁぁぁぁぁぁー。何でこんな芋娘が良いのかしら? 月映殿は好き者なのねぇ。」
「は……はぁ?」
兄さんの話をしていたと思ったら、何で私まで貶されなきゃいけないんだ!? そりゃ美人じゃないけれど……。
アトは訳が分からなかった。
「ふふふ。でも良いわ。貴方鈍いようだし。ふふふふふ。」
楊曹夫人はちょっと意地悪に笑った。
「???」
アトは眉を潜めた。
良いも何も、身内みたいなものなのに……と、アトは思っていたが、月映の想いが″身内″より遥かに深く重い物であるなどと、露程も思い至らなかった。
そんなアトを見て、楊曹夫人はなにか吹っ切れたような清々した顔をしていた。
それから、時間は瞬く間に時間は過ぎていき、いよいよ城に入るまで二日と迫ったある日、楊大師が1ヶ月ぶりに家に帰宅した。その隣には、濃い茶髪で、瑠璃のような瞳で、陶器のように滑らかで白い肌の、背の高い若い
アトは最初、囲っている妾でも連れてきたのかと思ったが、周りの反応がやけにピリピリしている。
あの楊曹夫人ですら緊張しているのだ。
もしかしたら皇族のお姫様か?
そう思っていたのだが、なぜかアトも彼女のところまで呼ばれ、挨拶をしに行くことになった。その時に貞深から驚くべきことを伝えられた。
なんと――。
「今から拝謁するお方は、第五皇子であらせる
「…………………え?」
アトは耳を疑った。
「どうしたの?」
「え……だって……今、派手な美人な女の人が……?」
貞深はアトにそう言われてハッとした。
「あー! そうね。貴方知らないわね。」
「…………ああの……まさか……。」
「そのまさかよ。殿下はそういうご趣味であらせられるのよ。」
アトは固まった。どう言って良いやら。
だから皆、あの楊曹夫人でさえ緊張していたのだ。
「あ、大丈夫よ! 普通にしてれば殿下から絡むことはまずないから!」
貞深は慌てて付け加えた。
「はい。」
まぁ、そうだよな。皇子様が庶民の小娘に興味ないだろうし。
アトはそう思うと少し気が楽になった。
そして、いよいよアトは第五皇子に対面する。
―――――――――――――――――――――――――――――――
※1:前で手を組んでお辞儀する一般的な挨拶、宮廷内では相手の身分によってお辞儀する深さが変わる。
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