砂忘の記憶

御坂稜星

砂忘の記憶

 ジョージ・アムステルダムが死んだのは七月の終わりの事だった。

 その日、部隊は朝からダムを見張っていた。ダムに当日日中反政府武装勢力が毒薬を入れるつもりらしいという情報が数人の地元住民から寄せられたからで、情報の真偽より人命が優先された結果だった。

 ダムといえば深い山の中にあるイメージだが、現地はほとんど起伏のない砂漠のど真ん中であり、すり鉢状になった砂の大地にオアシスでもないのに水が溜まっていて、その一辺をコンクリートの壁でせき止めているちょっと不思議な場所だった。

 ダムの他に目を引くものといえば五〇〇メートルほど西に岩山がひとつ。高さはおよそ二六〇メートルだとブリーフィングでレクチャーされたのを覚えている。

 ダムの周りには柵や壁もなく、誰でも簡単にダムまで近付く事ができた。おまけに恐ろしく遠くまで見渡せるし近くに遮蔽物になりそうな自然物もないから、いざ戦闘になったら一筋縄ではいかない印象があった。

 もっとも、僕としてはきっと今回も空振りに終わるだろうと思っていた。

 この国の人間たちは表面上は愛想よく振る舞っているが、暫定的とはいえ国内の治安を守っている僕たちに敬意を払っているとはとても言い難かった。そもそも勤勉とはほど遠い国民性からして、なんでもかんでも胡散臭い国だった。

 だからガセネタや根拠のない噂に振り回される事は多々あったし、何も起こらなかったらまだマシで、南のほうでは事前情報よりずっと多い敵に包囲され味方の部隊が孤立したというぞっとしない事態が発生した事もあった。

 そんなわけで、少なくとも僕たちの部隊では奴らを見たら嘘つきと思えがいつしか暗黙の了解になった。奴らは鷲舞い降りる地球儀に碇の刺さった徽章をつけた兵士を見かける度ある事ない事ふかしまくっているのだ――つまりはそういう認識だった。

 ジョージとは同じ隊だったが友人というわけではなかった。彼と彼の取り巻きが騒いでいるのをいつも遠巻きに眺める、そういう仲だ。

 とにかく落ち着きのない男で四六時中ふざけていた。加えてお調子者だから上官からの心証も悪く、あいつとは組みたくないと露骨に煙たがる仲間もいた。

 僕は任務がうまく回りさえすれば誰と組む事になっても気にならなかったが、あまりにも多くの仲間がジョージを嫌っていたのでなるべく彼と関わりを持たないようにしていた。


 僕たちは日光を遮るもののないダムのそばで何時間も待った。

 辺り一面に広がる雲ひとつない抜けるような濃いブルーの空と、時折緩やかな曲線を描く広大な砂漠の砂色のコントラストは確かに美しかったが、太陽が南中をすぎてからはその感動より暑さが勝るようになってきた。それもただの暑さではなく砂漠の暑さだ。まるでかんかんに熱したフライパンの上にいるようだった。

 風はなく話し声以外の音もなく人影は見えない。遠景は陽炎で揺らめいて、ここが外界から隔絶された異次元世界であるかのような錯覚を僕に起こさせた。

 とにかく暑かった。僕はここまで乗ってきたハンヴィーの作る僅かな影の中で立ち番をしていたが、やがて軽い目眩を覚えて車体に寄りかかった。

 デザートパターンのボディアーマーの下に着込んだ同じくデザートカラーの迷彩服はもちろん、下着もブーツの中の靴下も汗でびっしょりだった。それらがびっちりと体に張り付くのがとにかく気持ち悪い。下げ筒にしたアサルトライフルがいつもよりずっと重く感じられ、汗で濡れた手がグローブの中で今にも滑りそうだった。午前中いっぱい陽に好き放題焼かれた顔がひりひりする。

「大丈夫か?」

 ハンヴィーの窓を下げて仲間が声をかけてきた。

「大丈夫だよ。でもジャーキーになる前に代わってくれてもいいよ」

 僕が半分本気、半分ジョークのつもりで応じると相手は笑った。うけたようで何よりだ。無理するなよと言いながらそいつは窓を上げた。

「いい気なもんだよな」

 僕の足許に座り込んだ別の仲間――通常立ち番をひとりでやる事はほとんどない――が吐き捨てるように言った。どっちが、と言いたかったが僕は黙っていた。冷房が効いた車内に引っ込んでいる事と他人ひとを見張り代わりにして怠けている事に差があるとは思えなかった。

 にわかにダムのほうが騒がしくなった。

 僕はハンヴィーにもたれたままボンネットのほうへ移動してそちらを見た。サングラスをかけていても眩しさが目を刺した。部隊はダムを囲むように配置されていたが、僕たちの隊の持ち場は東の端だったから、何が起きたのかすぐにはわからなかった。

 陽光煌めくダムの水際にジョージと彼の取り巻き数人が立っていた。彼らはしばらく大声で話したり何かを指差して笑ったりしていたが、そのうちジョージが服を脱ぎ始めた。半裸にブーツを脱いで裸足になる。そして仲間たちの喚声を背に水に膝辺りまで入り、盛大に飛沫しぶきを上げながら両手で彼らに水をかけ始めた。取り巻きたちはといえば、悪態をついたり足許の砂を巻き上げて負けじとやり返したりしている。

 僕はそれをいつも通り遠巻きに眺めた。いつもの馬鹿騒ぎ、いつもの悪ふざけ。ジョージはサングラスをかけたままだったから、まるでチープな青春ドラマの一場面だ。当然何も面白くはなかった。

 もちろんダムというからにはここの水はどこかの集落か街かの水源であるわけで、それをむやみやたらに荒らしていいはずはなかったが止めようとは思わなかった。

 この国には売るほどあるものが三つある。この砂漠の砂と街中に漂う発生源の知れない悪臭と国民のほとんどが持て余している暇だ。公式には石油という事になるのだろうが、今の僕たちにそれは関係ない。とにかく今日ここで日干しレンガになりかかっているのも、元はといえば奴ら怠け者の有り余る暇のせいだ。

 奴らは暇にかまけて国内事情に疎い僕たち外国人を好きなだけかつぐ事ができる。敵対勢力の手先だと言って、気に食わない隣人の家に兵士を突入させようとする。

 そうしたこの国にごろごろしているろくでなしどもに対する仕返しの気持ちも、この時は多少あったかもしれない。いずれにせよ半日以上目ぼしいものが何もない場所で待ちぼうけを食わされて、僕自身退屈しきっていたのは間違いなかった。

「何してる」

 声に振り向くと僕たちよりさらに離れたところに停められたハンヴィーから軍曹が降りてこちらに歩いてくるところだった。事態を察してまたあいつらか、と苛立ちを隠そうともせずにつぶやく。

 僕はダムへ視線を戻した。狂騒は続いていた。水飛沫が光り、砂埃が舞い上がる。ジョージはすでに腰まで水に浸かって取り巻きたちから遠ざかっていた。

 直後、ジョージの胸が内側から弾けた。赤い霧が上半身を包み、一瞬前まで彼の一部だった何かが吹きつけるように水面に散らばり無数の波紋を生み出すのがなぜかとてもゆっくり見えた。

 ジョージはそのまま顔から水面に倒れ込んだ。背中の真ん中より少し上に穴が開いていた。遅れて長く尾を引く銃声。

「伏せろ!」

 軍曹が叫んで横合いから僕に突進してきた。突然の出来事に僕は受け身も取れず軍曹もろとも砂漠に倒れ込んだ。ハンヴィーの向こうから叫びとも悲鳴ともとれない狂乱じみた絶叫が聞こえてくる。仲間たちが慌ただしく降りてきてハンヴィーを盾にする。あっという間に辺りが騒然となる。

 僕もようやく状況を飲み込んだ。ジョージが狙撃された。後ろから――たぶん西側のあの岩山からだ。

 無線はとうに情報の洪水になっていた。負傷者関係が特に混乱していて、まだスナイパーを捕捉できた隊はいないようだ。

 僕はボンネットからはみ出さないように体を起こして立て膝になった。僕を押し倒した軍曹は敵の姿が見つからない中元いたハンヴィーに戻るのは危険と判断したらしく、その旨を地面にうつ伏せのまま無線に流している。

 十メートル離れた別の隊の装甲板つき銃座搭載のハンヴィーの銃手が重機関銃HMGを撃ち始めた。

 数発に一度放たれる曳光弾の赤い光が虚空に伸び、腹に響く重い銃声が広い砂漠に拡散していった。


 結局ジョージを殺した狙撃以降敵からの銃撃はなく、岩山に近接航空支援CASが炸裂するのを背に部隊はダムから撤収した。基地のゲートをくぐる頃には辺りは暗くなっていて、まだ地平線に残る夕陽のオレンジ色を夜の闇が押し潰そうとしていた。

 駐車場を仲間と事務棟へ向かって歩いていると、ハンヴィーが一台横を走り抜けていった。ドアには同じ部隊徽章のペイント。きっとジョージの遺体を下ろしに行ったのだろう。制服にアイロンをかけないとな、と誰かがぽつりと言った。

 部隊の雰囲気は最悪だった。夕立前の灰色の空のように暗澹たるもので、夕食中はもちろん、宿舎に戻ったあとですらジョークのひとつも出なかった。

 誰もがジョージの戦死に動揺しているのは明らかだった。いくら鼻つまみ者とはいえ、文字通り死ぬほど疎まれていたわけでもない事がこれで証明された。かく言う僕もそれは例外ではなく、少しばかり眠れない夜を過ごす事になった。

 そうして一日が終わったが、事態はそれで終わらなかった。

 指揮官たちには作戦の経過と結果を報告する義務があったし、戦死者が出たのならそれが不可抗力なのかそうでないのか申し開かなければならなかったから、ジョージに何が起きたか触れないわけにはいかなかった。

 聴き取った係官の一番の関心事はジョージの遺体と衣服の矛盾だったとあとあと僕は聞いたが、ともかく僕たちが陰鬱な気分に苛まれていた間に彼らはそれを無難にくぐり抜けたらしい――二週間くらいは何事もなく日々が過ぎていった。

 そのうち街中を走るハンヴィーや歩兵が野菜や卵、石、その他人間が片手で持てるものならなんでもかんでも、挙げ句火炎瓶まで投げつけられるようになった。死者が出なかったのは幸いで、それでも負傷者は程度の重軽問わず毎日出た。戦車や装甲車輛が狙われる事はなかったが、状況は一気に悪くなった。

 元々身内がやられて黙っていられる組織構造でもないため、基地の上のほうはどこかの時点で状況悪化の原因を調べ始めたらしい。それがどういう経過を辿ったのかはついぞ告げられなかったが、とにかくあの日ダムにいた全員があそこで起きた事について連日問い質される事になった。

 当然真実は後ろめたいものだったから、保身から口裏を合わせようとする動きはあった。もちろん憲兵たちはそんな隙を与えたりしなかった。彼らはいつも出所は伏せながらもこういう話を聞いたぞと言って揺さぶってきた。こちらはその真偽を確かめている機会はないから正直に話すか黙秘するかの二択しかなかった。

 僕は前者を選んだ。ジョージが殺された事について。ジョージがやった事について。あるいは彼を止めなかった事について。

 自分が見た事、態度、その時の心情を偽りなく、多少の言葉の違いはあれど訊かれるたび洗いざらい何度も繰り返した。

 仲間を裏切っているのではという罪悪感は常にあったが他の聴取内容は知る術もなく、加えて取り調べが始まる直前あの任務に出た全隊が任を解かれ、その異常に素早く気づいた詮索屋のせいで僕たちは取り調べのかなり初期から基地内で白い目で見られていた。馴染みのコックやパイロットたちの手の平を返した冷遇ぶりが僕にはひどくこたえた。

 三ヶ月後、開かれるべくして軍法会議が開廷した。

 ある者は降格されある者は左遷同然の転属を言い渡され、ある者は軍を追い出された。

 僕は無職になった。


 今でも故郷の砂漠を見ると時々あの日を思い出す。もう三年も前の話だ。

 軍を蹴り出されたあと僕は故郷に戻り家業を継いだ。両親は喜んだが、そもそも家業を継ぐのが嫌で軍に入ったわけで僕としては複雑な心境だった。もっとも他に行くところもなかった。

 隊の仲間とは今でも連絡を取り合っていて、夏期休暇の今の時期は毎年うちに泊まりがけでバーベキューをしに来ている。今日の昼間、僕は最寄りのスーパーへ出かけて彼らのために肉やソーセージ、ビールと氷、ワイン、炭をたっぷり買い込んでおいた。今夜は賑やかになるだろう。

 バーベキューグリルに火を入れ、ウッドデッキの柵に座って僕はビール片手に夕日を眺めた。遠くに尖った山脈の黒い巨大なシルエット。その向こうにわずかにつぶれた楕円形の太陽が沈みかかっていた。静かだった。

 ジョージを恨んでいるかと一時期友人たちによく訊かれた。今はノーだが、聴取を受けている間はその気持ちがずっと頭をちらついて離れなかった。とはいえ恨んでいたとしたらそれはそれで妙な事になる。恨まれる原因を作ったその報いを、ジョージ本人はすでに充分な形で受けているからだ。死人を墓から掘り返して殺してやるもないだろう。

 ジョージに同情はしない。生きていようと死んでいようと彼には関わらない。だからあの日あの場所で起きた事は早く忘れてしまったほうがいい。

 ジョージがいつ死んだかもそのうち僕は思い出せなくなるだろう。


〈了〉

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