<エドコミ時代劇>五代目猿飛流継承者 猿飛小助 義忍道

筑前助広

本編

 肺が今にも破裂しそうだった。

 息を吸っても、空気が入って来ない。足も縺れそうになる。

 それでも、筑紫糺ちくし ただすは走り続けていた。

 あと少し。あと少しで、父の仇に辿り着く事が出来るのだ。

 筑前那珂郡ちくぜんなかぐん、博多。犬猫も寝静まった夜半。海運商の蔵が立ち並ぶ、堅町浜かたまちはまの海っぺり。聞こえるのは潮騒と、荒い自分の息遣いだけだ。

 糺は、代々の博多奉行配下の定町廻り同心で、父もまた同じだった。凄腕と評判で、息を引き取る直前まで悪党を追っていた。


(父上、もうすぐです)


  そう思えば、切れた息も吹き返してくるから不思議だった。

 脳裏に、角ばった父・喜左衛門きざえもんのしかめっ面が浮かんだ。四六時中、博多の事ばかりを考えていた男だった。家にいる時は気難しい表情で腕を組み、ついぞ笑顔など見る事は無かった。しかし、それでも糺は父が好きだった。

 父は、博多の町衆から絶大な信頼を得ていたのだ。どんな小さな悪事も見逃さず、困った事があれば夫婦喧嘩すら真摯に耳を傾けてくれていたと。町中で頭を下げられる父を見て、糺は鼻が高かった。


「父上のような同心になる」


 それが、糺の夢であり目標だった。

 その父が五年前と二か月前に、斬殺された。久し振りに登城した福岡城からの帰りに、何者かに襲われたのだ。役人殺しは大罪であるが、下手人は今もって捕縛されていない。

 糺が父の死を受けて家督を継ぎ、定町廻り同心となったのは、十八の時だった。

 父を殺した下手人を探し出し、仇を討つ。そう心に決めてお役に就いたのだが、糺を待っていたのは思いがけない言葉だった。


「喜左衛門の件には、手を触れるな」


 上役の町奉行与力・鵜飼十太夫うかい じゅうだゆうの言葉だった。

 何故? そう訊いても、鵜飼は頑なに口を開かなかった。ただ、身の為だと言うばかりだった。

 何か、不都合な理由があるのだろう。それは、まだまだ未熟な同心である糺にも容易に想像する事が出来た。

 福博両市ふくはくりょうしは、悪徳と退廃の都なのだ。

 寛永九年に黒田忠之くろだ ただゆき栗山大膳くりやま だいぜんとの対立から起きた黒田騒動の裁定で、それまで当地を領していた黒田家は改易。それ以降の福岡と博多は、江戸から派遣される福岡城代が治める幕府直轄領となったのだが、それが腐敗の温床となってしまった。

 福岡城代、そしてその両腕となる福岡奉行と博多奉行は、富商・富農のみならず裏の世界を仕切る頭領おかしらからも賄賂を受け取り、その見返りとして大小様々な悪事を見逃す。悪党は銭さえ渡せば好き勝手が出来るし、福岡城代達も任期中に目さえ瞑っていれば、莫大な銭を得る事が出来る。

 反吐が出るほど、この福博は腐っていた。筑紫家の家督を継ぎ、定町廻り同心となって五年。様々な不正や犯罪が、糺の耳に入ってきている。

 暴行、殺人、窃盗、誘拐、強姦、放火、汚職の揉み潰しだけではない。幕府の禁制として定められている、抜け荷や阿芙蓉あふようの密売買、そして耶蘇教の布教までが秘密裏に行われているのだ。しかも、役人はそれを知っていても見て見ぬ振りを決め込んでいる。


「我が身が大事なのですよ」


 長年、父と組んでいた目明しの治平じへいがそう教えてくれた。

 治平は父の死を機に、十手をお上に返上し引退した。今は隠居した身であるが、役目で迷った時など助言をしてくれるありがたい存在だった。

 何でもありの腐敗の都で、父は孤軍奮闘していたのだろう。糺も、また同じだった。止められていたが、秘密裏に父を殺した下手人の探索を続けていたのだ。


(その探索も、もうすぐ終わる)


 父を殺した下手人が、の刻に堅町浜刑場で仲間と密会をする。

 その情報は、治平が掴んだものだった。隠居の身だが、


「恩のある喜左衛門様の為に」


 と、一肌を脱いでくれていた。そして、半刻ほど前に糺の屋敷に駆け込んできて、しらせてくれたのである。

 元・目明しの治平の情報網があってか、父を始末したのは博多の傾城街・柳町を仕切る独眼虎どくがんこ毒蔵ぶすぞうである事がわかっていた。後は、毒蔵が隙を見せる好機を待つだけだったのだ。

 毒蔵は侠客でありながら、博多の商人と組んで抜け荷をしていた。相手は主にしん阿蘭陀オランダで、商品は少女だった。

 それを聞いた時、糺の血が逆流するほどの憤怒を覚えた。女を売り買いする女衒ぜげんは多い。それも許されない行為だが、毒蔵は幼い娘ばかりを狙って誘拐をするのだ。しかも追及が厳しくならぬよう、相手は貧しい小作人や穢多えた・非人、乞胸ごうむね香具師やし按摩あんま・私娼・乞食・無宿人と、声が小さき者の娘ばかりを狙う始末。


(しかし、その悪事も今夜で終止符だ)


 毒蔵は、少数で抜け荷の仲介人と密会する。取引の算段なのだろう。深夜の処刑場なら、人が近付かないと踏んだのかもしれない。

 それが、僥倖だった。平素は大勢の子分を引き連れる毒蔵が、今夜の密会では四人しか引き連れていない。相手の仲介人は三人。戸田一刀流で鳴らした腕なら、何とかなる人数だ。危険はあるが、この好機は中々ないと決断した。

 闇夜に、磔柱はりつけばしらの陰影が見えて来た。普段は竹矢来たけやらいで囲まれているが、磔に処されている罪人がいない時は、その入り口は開いている。

 糺は、刑場が見渡せる岩場に身を潜めた。

 刑場は、博多の先端にある海岸の一角。周囲を松林が囲んでいる。荒れてはいないが海風はそこそこ強く、松の木を揺らしている。

 磔柱の傍で、何やら談合している男達の姿が見えた。夜目は利くが、顔までは判別できない。それでも、こんな夜更けに処刑場で談合する物好きなどいるものではない。


(やるしかない)


 糺は心気を整え、父から受け継いだ腰の無銘左文字の重みを意識した。

 今夜で全てが終わる。父が死んでからというものの、気が弱った母に笑顔を取り戻せるかもしれない。縁談を日延べしていた、遠縁の娘・おかじとの祝言も挙げられる。父の仇を討ち、俺は生き直すのだ。

 糺は意を決して、一歩を踏み出した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「独眼虎の毒蔵」


 そう叫ぶと、男達の話し声が止んだ。

 雲に隠れていた月が顔を出し、男の顔を照らす。

 色黒い中年の男。巌のように筋骨逞しく、右眼に眼帯をしている。間違いなく、毒蔵だった。


「神妙にしろ。お前の罪状は、天を衝いて余りある」


 すると、毒蔵の顔に薄ら笑みが浮かんだ。


「その罪状に、筑紫喜左衛門殺しは入っているかい?」


 糺は、絶句した。どういう事なのか。

 周囲で笑い声が挙がる。糺は咄嗟に見渡すと、闇の中から人影が浮かび上がった。

 その数は、ゆうに十は越えている。状況が読めなかった。毒蔵は、念を押して手下を潜ませていたのか。


「筑紫糺よう。言われなかったかい? 親父さんの件には触れるなって」

「おのれ、謀ったな」


 糺は腰を落とすと、無銘左文字に手を伸ばした。


「おっと、そう短気を起こしなさんなよ。もう二度と俺を追わねぇと約束するなら命は助けてやるぜ。『人は殺すより活かせ』ってのが、俺の信条でね」

「誰が貴様なぞに」

「そう粋がんなよ。でもよ、誰でもあるもんなのさ。不正を憎む時期がね。役人ならなおさらさ。しかし、己の無力に気付き、こんなものかと諦めて大人になっていく」

「だから何だと言うのだ」

「諦めろってんだ。お前さんに味方はいねぇよ。だって、治平すらお前を裏切ったんだぜ」


 鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。やはり、治平が裏切っていたのか。そうは思いたくなかった。思えば、協力を申し出てきたのも治平だった。毒蔵が下手人だと掴んだのも治平。全て、治平によって掴まされた情報タレばかりだった。


(毒蔵の描いた絵に踊らされていただけなのか……)


 糺は、治平の皺深い顔を思い出した。父が友と頼んだ男でさえ、悪党に転ぶ。そんな相手に挑もうとした自分が馬鹿だったのか。


「ちょっと、待ちな」


 絶望する糺の頭上から、若い女の声が振ってきた。見上げる。磔柱の上に、黒装束を纏った何者かが立っていた。

 月光が、影を照らす。顔は、ましらの半面で隠されていた。


「誰だ貴様」


 毒蔵、そして子分達が声を挙げる。


「名乗る前に、一つ訂正。その男に味方はいねぇと言ったよね。でも、あたいは味方だよ」


 声は女だった。しかし、何者なのか。


「おう、貴様が筑紫の味方ってのはわかった。で、一体誰なんだい?」


 すると、女は腰に差した二振りの小太刀に手を回した。それに反応してか、毒蔵の子分達も、一斉に長脇差ながドスを抜き払う。


「へへ。る気満々だねぇ。いいよ、遊んでやるわ。あたいはね、五代目猿飛流継承者。猿飛小助さるとび こすけっていうのさ」


 小助という女は、磔柱のてっぺんから跳躍した。その闘気を察した糺も、無銘左文字の鯉口を切っていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


(何という事だ)


 目の前で繰り広げられている惨状を前に、糺は立ち尽くすしか出来なかった。

 小助が着地するや否や、瞬時に三人が血飛沫を挙げ、次の刹那には月夜に毒蔵の首が舞い、更に四つの細切れと化していたのだ。


「ねぇねぇ、今の見た? 猿飛流の奥義、〔抜刀つむじ風〕だよ」


 小助が糺を一瞥して、口許を緩ませる。それが、残った子分の火を着けた。


「殺せ」


 親分の仇とばかりに殺到する子分達をも、小助は寄せ付けなかった。駆け回り、二振りの小太刀を奮えば数名がたおれ、跳躍したかと思えば、空で手裏剣を放つ。そして子分の頭に降り立ち、おちょくるように走り回る。軽業師のような動きは、講談であるような忍びそのもので、およそ剣客の戦い方ではない。


「化け物だ」


 その悲鳴が夜の浜に響き渡り、子分達が逃げ出していく。小助は小太刀を振るう手を止めると、軽く首を傾げた。


「おぬし」


 屍が累々と転がる刑場で小助と目が合った糺は、自然と無銘左文字を正眼に構えていた。


「ちょっと、待った。あたいは敵じゃないよ。言ったでしょ? あんたの味方だって」

「何者だ、娘?」

「娘?」


 その一言に何かが引っ掛かったのか、小助は小太刀を納めると、


「ああ、ごめんねぇ」


 と、右手を喉にあてた。


「筑紫糺殿。それがしは、猿飛小助と申す」


 小助の声が、娘のものから野太い濁声だみごえに豹変した。


「面妖な。おぬしは化生けしょうの類か?」

「それはちと違う。猿飛流に伝わる八十八の忍法の一つ、〔千声ちごえの術〕でござる。貴公にだけ申すが」

「では、それがおぬしの本当の声か?」


 すると小助は首を振り、


「さて、それはどうじゃろか」


 今度は老婆の声に代わった。

 奇怪だ。それに拍車をかけているのは、猿の半面だ。どう見ても化生にしか思えない。


「正体は誰もわからぬ。わしの声も顔もな。しかし、わしはいつでも見ておるし、見ていたぞよ。おぬしが汚濁おだくの沼にありながらも、必死に〔清官せいかん〕であろうとしている姿もな」


 小助は低い声で笑うと、老婆とは思えぬ身のこなしで飛び上がり、また磔柱の上に飛び乗った。


「どこへ行く?」

「へへ。どこだっていいさな。俺は、猿飛小助。真田左衛門佐さなだ さえもんざ様の遺命により、徳川の世に蔓延る悪党を討つ義忍ぎにん。お前のような清官、民百姓の味方だ。忘れんじゃねぇぜ」


 小助は少年のような声で言い残すと、再び跳躍して松林の闇へ消えて行った。


〔了〕

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