第三話 幸福屋の秘密

 ──チリンチリン


 店主は前日に仕舞い忘れたドアの鈴を外した。


 幸福屋、本日定休日です。



 鈴を仕舞った店主は店の二階へ上がる。店の上は店主の自宅だ。


 茶色いソファに腰掛けて朝刊を読む。店主の日課だ。カサカサと新聞をめくる音だけが響く。


 ふと、一面の端の小さな記事に目を留めた。



 ──私立中学の女子生徒が自宅マンションから転落。自殺か。いじめの報告も──



「……」


 新聞には毎朝痛ましいニュースが並ぶ。その度に店主はハッピーエンドが足りていないことを痛感する。父の代は、戦争で傷ついた人々が多くハッピーエンドを求めて店を訪れたという。それから数十年。ハッピーエンドの需要は形を変えつつ未だなくならない。それどころかむしろ、徐々に届きにくくなっているような気さえする。


 全然足りない、と店主は呟いた。


 この世はバッドエンドを抱える人々で溢れすぎているのだ。


 店主は奥の仕事部屋へ入った。店主には、店の定休日でも欠かさない仕事がある。


 仕事部屋は壁一面本棚で覆われていた。天井まで届こうかという高さのそれには本がぎっしり詰まっている。


 決して広くはないその部屋の中央にこの店の秘密があった。


 店主はその場所に立つと、独特なリズムで床を踏み鳴らす。


 ──トントン、トトン


 最後に"ダン”と一際強く床を鳴らすと、床の一部がぽっかりと抜けた。下に覗くのは地下へとのびる階段だ。


 店主はひとつ大きな息を吐いて足を踏み出す。


 階段を降りると景色が一変した。そこは最早建物の地下ではなかった。足元に広がるのは豊かな草原、色鮮やかな草花。葉の生い茂る木々。そして、昼のはずなのに暗い空に浮かぶ月。いや、空が見えること自体おかしいのだ。店の地下にあるはずのその空間は、どう見ても屋外だった。


「ここはいつ来ても素晴らしいですね……」


 店主は頬を撫でる風に小さく笑みをもらす。


 店主が初めてここに来たのはこの仕事を引き継ぐとき。決して入れてもらえなかった仕事部屋の秘密は、そうして受け渡された。父に連れられて来たあの日から長い年月が流れたが、未だにこの場所の謎は解けていない。今日のように日の明るいうちに訪れても必ず夜空が広がるこの空間を不思議に思うことこそあれ、次第に、ここはそういう場所なのだと納得するようになっていた。


 店主は確実に店の敷地を超えている、広い草地を歩いていく。訪れるたびに微妙に変化するこの空間だが、店主はを見失わない。木々の並びが導いてくれるのだ。


 並木にそって歩き、その場所にたどり着いた。満月の真下に広がる泉にはなぜか姿が映らない。こんなにも透き通っているというのに。店主は泉に浮かぶ蓮の花を手に取った。


「今日は老犬の声ですね」


 泉に現れる花の中にはハッピーエンドを望む声が詰まっている。その声をもとにハッピーエンドの本を作るのが店主の仕事なのだ。


 ──わたしがいなくなったらこの子はどうなるの?

 ──話し相手がいないと泣いちゃうかしら。

 ──心配ね。誰かこの子の友だちに……


「子ども思いの優しい犬さん。届きましたよ……」


 店主は蓮の花を掌にのせて仕事部屋へ戻る。


 数時間後、老犬の声は小さなハッピーエンドの本になった。店主はその本を本棚の端に挿した。


 幸福屋は、訪れた人に極上のハッピーエンドを提供する店である。強い想いは地下の泉へ届くと店主の手で本になる。膨大な数の声を集めた本は本棚にあるが、それを受け取れるのは店を訪れた者のみ。本当にハッピーエンドを必要とする客を店主は待っている。




 ──チリンチリン


 耳をすませば聞こえてくる鈴の音。その先に、幸福屋は在ります。



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幸福屋 伊月香乃 @tale_text

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