第3話 お役所も大変です




 数時間前、場所は帝都。

 住所は東京都千代田区丸の内、文部科学省内文化庁、庁舎内。国鉄東京駅から徒歩数分のビルの片隅。

 盆休みも目前に迫った週末の午後、職員の半数はすでに今日から休みを取っていた。


 今年の夏は毎年恒例の異常気象ということもあり、日中の気温が40℃を超えることがあるほどだ。それでも、都の条例で冷房の設定温度は27℃になっている。設定温度が27℃だからといって、部屋の温度が27℃になるというわけではない。こんな環境で仕事なんて出来るものか、と右手に持ったうちわで扇ぐことに余念のない高柳 昇たかやなぎ のぼるは明日からの家族サービスに辟易やすみたいとしながらも、定時のチャイムを待ちわびていた。


 あと数分、その時間があまりにも長く感じられる週末。


――Purururururu!……Purururururu!……。


 よどんだ空気を切り裂くようにベルが鳴る。

 彼が待ちわびていた定時のチャイムではなく、仕事を告げる電話の呼び出し音。当然のごとく電話には出ない。電話に出てしまっては仕事をする羽目になってしまう、これはそういう電話だ。最悪の場合、明日からの休みにも影響しかねない。家族サービスと仕事のどちらをとるかと問われて即答できないとしても、家庭内の居場所を確保しておけるだけのサービスは必要だ。


 自分の居場所のない家庭などたまったものではない。

 高柳昇は、妻と二人の娘を持つ中年サラリーマンであった。


 しかし、現実は無情だ。そんな中年サラリーマンの夢を打ち砕くべく、電話の呼び出し音は止もうとしない。そんなとき、外回りから帰ってきた青年サラリーマンがあわてて電話を取る。高柳昇は課長と書かれた席から、その若いサラリーマンに公務員の仕事のなんたるかを教えてやらないとなぁ……などといった視線を向けた後、再び壁に掛けられた丸い時計を見ながらうちわで扇ぐ行為を再開した。


「はい、こちら文化庁広報推進室特報課……はい。はい? あ、はいっ! はいっ、はい……えーっと、少々お待ちください」


 電話を取った若いサラリーマンは、視線を合わせないようにしている上司にあくまで表面上は申し訳なさそうに、あなた宛の電話ですよ、と念をとばす。いわゆるアイコンタクトだ。コンタクトできないアイコンタクトに意味がないことを確認すると、声に出して取り次ぐことにした。


「あの~、課長宛にお電話です……今朝発見された古墳らしき遺跡の件で」

「ん? どこからだ? また出版社とかなんだとかそんなのか? わしは今は外出中だ、いないって言っとけ! 気のきかんやつだ、まったく……」


 このままでは残業だ。

 それはまずい、明日からは家族サービスで伊豆なのだ。温泉なのだ。命の洗濯なのだ。今日は定時上がりで明日の準備をしなくてはならない。高柳昇は家族の不機嫌そうな顔を思い浮かべると、疲れたように椅子に深々と腰掛け、目を閉じた。


 やれやれと自己完結している上司を眺めつつ、絶妙な頃合いを見計らってこの青年サラリーマンは言葉を続けた。


「……いいんですね、総理大臣からですけど」

「は? 総理? そうりだいじん? ばかやろうっ! それを早く言えっ! さっさと電話をよこせっ」

「はいはい」


 課長と呼ばれた男、高柳昇は部下から電話をひったくるように奪うと米つきバッタのように電話口に向かって何度も会釈を繰り返す。


「ええ、あ、はい。いえそのようなことは……。はっ? 今から……ですか? いえ、はい、わかりました。私、高柳自ら現地に赴き、指揮を執ります!」


 深々とお辞儀をしながら両手で電話を置く。

 まさに権力に弱い、日本のサラリーマンのそれであった。

 きっかり2秒後、定時のチャイムが庁舎内に鳴り響く。しかし、この中年男にはもうなんの意味も持たない音となっていた。


「あ、定時ですね。では私はこれで失礼します」


 先ほど電話を取った青年サラリーマンが自分の荷物を小脇に抱え、上司である高柳と目を合わせないようにしながら、そそくさと席を離れようと――。


「あー、どこへ行く気だね、吉崎さとる君」

「いえ、定時ですし……帰ろうかと。あ、私は明日から10連休の予定ですから」

「……キャンセルだ」

「へ?」

「だから、キャンセルになったのだよ、たった今。8月13日16時59分58秒の時点でな」

「……」

「吉崎さとる主任、たった今から私と共に長野県大町市で発見された遺跡に関する調査および報告のため、出張だ」

「あははは……やっぱりそうなるんですね。はぁ」

「これが宮仕えというものだよ。はぁ」


 がっくりと肩を落とす、そんな二人であった。


「と、いうことでだ吉崎君、あちらでの宿と新幹線のチケット予約よろしく。わしはちょっと席を外すんでな」

「わかりました……心中お察しします」

「まぁ、仕方あるまい、仕事だからな。嫌われるのも疎まれるのも憎まれるのもすべて一家の大黒柱たるニッポンのサラリーマン、父親の役目だよ」


 高柳昇。

 権力が絡むと微妙に律儀になる男であった。


 高柳が家に電話をしている頃、吉崎もまた携帯電話で別のところに電話をしていた。周囲に誰もいないことを確認しつつ、窓際まで歩き、窓を背にして押し慣れた手つきで番号を入力する。アドレス帳に登録されてはいないがよく使う番号の、しかもその話を人に聞かれるのはうれしくない、そんな相手への電話といったところか。


―――Tourururu……Tourururu……、ちゃ。


「もしもし、深山みやまさんですか? 私です、吉崎です」

「ああ、さとるか」

「今、どこですか?」

「山の中を歩いてる」

「は?」

「車が火を噴いてな……仕方がないから置いてきた」

「はぁ……それはなんとも。まぁ、あなたのことだから大丈夫だとは思いますが」

「で、どうした? 何かあったのか?」

「ええ、今朝の話ですが……文化庁からは高柳さんと私が派遣されることになりました。予定通りといえばそれまでなんですが、一つだけ驚くべき点がありまして」

「もったいぶるなよ、焦らしたところでなんにもでないぜ?」

「あはは、あなたから何かをもらおうなんて思ってませんよ。実は……今回の命令は内閣府のトップ、内閣総理大臣からきています。命令書はまだ見てませんが、おそらくは特報課の本来の仕事、つまり……」

「鬼、か」

「ええ、絡んでいる可能性が濃厚です。あなたにこんな事をいうのも無駄かもしれませんが、無茶はしないでください」

「ああ、おもしろくなってきやがったぜ! サンキューな、さとる!」


――ガチャ! ツー、ツー……。


「相変わらず、人の話を聞かない人だなぁ……。さてと」


 吉崎は、自分の携帯の発信履歴を消しつつ、今晩泊まれる宿を探し始めた。


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