第2話 その男、深山真一



 男は月の見えない暗い夜の森の中を全速力で走っていた。


「ちっ! いったいなんだってんだ、こいつらは」


 そう毒づきながら、森の中とは思えない速度でこの男は何かから逃げていた。それを追うのは狼か? それは白い影、赤い瞳。それが4つ……いや5つ、なんの音も立てずに闇夜の森の中統率された規則正しい動きで獲物である男を追っていた。

 次第にその距離は目に見えて縮んでいく。


「そうたやすくは見逃してくれない、か。腹が減ってる……わけでもなさそうなんだがな」


 腹が減っているのは、この男自身であった。

 思えば朝から何も食べていない。

 この男にとっては死活問題であった。


「仕方がない……か」


 森を抜けたアスファルトの道路の上で、男は逃げることをあきらめたように振り返ると足場を確かめる。悪くはなさそうだ。獲物を追っていた5つの影は、相手の決意を察したように、今までの直線的な相手を追う動きから一変し、ゆっくりと男を取り囲むように動く。

 この期に及んでも足音一つしない。5つの影の動きは申し分ないプロの狩猟者のそれであった。


 そんな中、この状況を待っていたかのように雲間から月が姿を現した。白く黄色いその月明かりはあたかもスポットライトのように周囲を照らす。それにより、今まで影になっていた男のフォルムが明確に浮かび上がった。


 その形態フォルム

 それはまさに、熊のそれであった。


 圧倒的な質量の塊、川の上流に転がっている岩を人間の皮の中に詰め込んで無理矢理形を整えようとしたような、そんな2m強の人の形をしたもの。闇夜の森で見かけたら確実に熊だと見間違える、そんなフォルム。

 唯一その男が人間であろうと思わせるのは、その頭の上のテンガロンハット――カウボーイが西部劇でかぶっているあの帽子だ。そしてその下に覗くどことなく愛嬌のある顔立ち。太い眉、筋の通ったかぎ鼻、力強さを感じるすこし垂れた目。美男子というわけでは決してないが、見ていて飽きない、そしてこの男のおそらくは豪快であろう笑い声を聞いてみたくなる、そんな顔。


 人間でも動物でも虜に出来そうな、そんな総合的な雰囲気がこの男の魅力なのだろう。


 それでも――そんな男のフォルムを見ても、5つの狩猟者は動じた様子もなく、じわりじわりと間合いを詰める。


「さぁて、と。覚悟はいいか、始めるぜ? いぬっころ」


 そう言い放つと、男は姿勢をかがめ、厚い唇を、にぃっとゆがませる。

 それが狩りの合図であった。


 一つ目の影が、雄叫びの一つもあげずまっすぐに男の首筋めがけて跳んだ。鋭い牙が月の光を受けて白く反射する。一拍遅れて別の2つの影も同じく跳んだ!

 しかし、男はかがんだ姿勢をさらに下へと沈み込ませると、最初の影の喉笛をしたからすくい上げ、そのまま右手一本で振り回し、他の2つの影をはじき飛ばした!

 恐るべき膂力りょりょくであった。


 それでも4つの影は鳴き声一つ漏らさない。

 男の手にある影も音すら、うなり声をあげることすら無い。

 そして、今更ながらに気がついたことがある。

 月明かりに照らされたこの狼に似た影たちには、


「そうか……お前たち動物じゃねぇのかよ。おかしいとは思ったんだよな。縄張りを荒らされたというならこんなところまでは追ってこねぇ。腹が減ってるにしては動きに特有の焦りもねぇ。あるのは……殺気だけか? いや、その殺気すらお前たちのもんじゃない、か」


 4つの影たちは再び男を包囲しなおし、そしてゆっくりと周りを歩き始める。先ほどとは数が違うだけで全く同じ動き、まるでプログラムに従ったような規則正しい、動き。


「動物じゃないなら……遠慮はいらねぇ、なっ!」


 男は影をつかんでいた右腕によりいっそうの力を入れる。腕の太さが一気に倍近くにふくれあがり、その手に握られていた影の首はぐしゃりと握りつぶされた。一瞬、返り血が男の顔に飛び散る。


 だが、その返り血は影の本体共々いくつかの紙片へと帰依したもどった


「なんだ……紙? 式神しきってやつか? おもしろそうなことになってきやがったなぁっ!」

 男は吼えた。

 狩るものから狩られるものへ。

 狩られる側から狩る側へ。


 入れ替わる瞬間だった。


 十数秒の後、ここには風に飛ばされ散っていく紙片と、一人の男が月明かりに照らされているだけになっていた。ここで先ほどまで生死をかけた戦いがあったことなど、見て取れるものはもはや誰もいないだろう。

 空に浮かぶ丸いスポットライトをのぞいては。


「ふぅ……いったい何が起こってやがるんだ? こちとら一介の考古学者だってのによ」


 この自称考古学者は、テンガロンハットで体中の埃や枝葉を振り払い、そう一人つぶやきながらも、その顔はこれから起こるであろうことに対しての期待に満ちあふれんばかりであった。


「さあて、と。これからどうするか、か。こういったもんは付近に式神を放った術者がいるのがセオリーなんだがな。確か、倒した式神は術者に返るとか何とかってのを聞いた覚えが……」


 しかし、すでに紙片は何処いずこともなく飛び去った後であった。

 ばつが悪そうにテンガロンハットをかぶり直す。

 どこか間の抜けた男であった。


「……まぁいいさ、どのみちあそこに行けばまた何かのリアクションがあるだろうし、な。それより……まずはメシだな、メシ。最優先事項だ」


 最優先事項であった。



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