リリア独白

 もう大丈夫。ここまで逃げれば、追っ手は来ない。


 大陸から遠く離れたこの海に、わたしを知る者は誰もいない。


 解放感が体を満たしていく。全身に力が溢れている。欺瞞だらけの日々は終わり、わたしは今、生まれ変わった。


 捨ててきた過去に、何の未練もありはしない。


 これまでの人生は、全て偽物だった。誰も本当のわたしを見てくれなかった。家族、友達、恋人、社会。彼らは都合のいいように、わたしを型に閉じこめた。


「内気」

「人見知り」

「一人じゃ何もできない」


 わたしはそれを受け入れた。受け入れるしかなかった。与えられた役割に従う以外、生きる方法はなかったから。他人が用意した場所にしか、わたしの居場所はなかったから。


 気弱なマーメイドの皮をかぶり、わたしはずっと生きてきた。他者が思い描くリリア像を、必死で演じ続けてきた。


 でも、もう限界だった。わたしは自分自身を取り戻したかった。閉じられた世界から抜け出し、一人のマーメイドとして、初めからやり直したかった。


 リリアという名前に絡みついた、因襲的で重い鎖を断ち切るため、わたしは四人を殺すことに決めた。


 ニーファ・ワミュール・マムー・カサンドラ。純真で無邪気な彼女たちは、何の悪意もなく、わたしを「リリア」の殻に閉じこめ、束縛した。無知であるからこそ、いっそう罪は重い。善意の行動が、実は相手を傷つけていることにも気づかず、ひとりよがりな充足感を得ている。そんな連中がわたしは大嫌いだ。報いを受けてもらわなければ、気が済まなかった。


 彼女たちを殺さなければ、わたしはどす黒い怨念を、いつまでも心に飼い続けるはめになっただろう。殺して良かった。本当にそう思う。四人の命と引き換えに、醜い感情で汚れた心を、浄化することができたのだから。


 尾びれに残る生々しい傷が、あの日の記憶を呼び覚ます。


 わたしはニーファたちと出かける時、いつも小さな銛を持ち歩いていた。もちろん、四人を殺すためだ。あとはチャンスを待つだけ。確実に四人を殺し、そのうえで海へ逃げられる絶好の機会を、わたしは待ちわびていた。


 あの日の朝。わたしは、銛とロープと短剣をバッグに入れて、馬車が待つ海岸に向かった。もしかしたら、今日が運命の日かもしれない。そんな予感があったのだ。シエマ湖のこと、マヌーム川のこと、水槽付き馬車のこと。耳にした情報から、仮の計画を立てておいた。実際に樹海を観察してみて、上手くいきそうになければ、別の機会を待つつもりだった。


 結局。シエマ湖に到着した時、わたしは決心した。ニーファを殺し、ワミュールを殺し、マムーを殺し、カサンドラを殺し、閉じられた湖から脱出することを。


 馬車が立ち去るのを待って、わたしは四人に襲いかかった。バッグから銛を取り出し、悲鳴をあげて逃げ惑うニーファたちを追いかけ回した。湖に逃げ場はない。誰に邪魔されることもなく、一人一人確実に命を奪うことができた。最高の気分だった。彼女たちの胸を貫くたびに、まとわりついていた鎖が、スルスルとほどけていくような気がした。


 残るは脱出。馭者に気づいてもらえるよう、ニーファの死体を沿岸に動かしておいた。それから、バッグに入れたロープを自分の体に巻きつけ、迎えの馬車がやって来るのを、湖の中で待った。


 夕刻。馬車が湖に到着した。計画通り、馭者は死体を見つけて仰天し、街に戻るため、幌馬車に乗りこんだ。わたしはその瞬間を逃さなかった。湖面から体を出し、体に巻きつけたロープの片一方を、荷馬車の手すりに結びつけた。そして片手に短剣を持ち、準備を整えた。


 馭者が手綱を引いた。わたしの体は馬車に引きずられ、マヌーム川へと向かった。尾びれは地面にこすりつけられ、地面や樹木に何度も体をぶつけた。時間が経つにつれて呼吸が苦しくなり、気を失いそうにもなった。


 それでも、わたしは耐えた。薄れゆく意識を、身が裂けるような痛みで鼓舞しながら。川のせせらぎが耳に届いた時、わたしは握りしめていた短剣で結び目を切った。ロープは手すりからほどけ、わたしの体は地面に放り出された。


 消えそうな命を駆り立てて、土の上を這って進んだ。力が入らない腕で、呼吸をやめた肉体を動かす。死がすぐそこまで迫っていた。川までのわずかな距離が、果てしなく遠いように感じられた。永遠の眠りが優しい抱擁でわたしを包もうとした時、冷たい水が頬に触れた。


 清らかな空気。


 心地よい水。


 蘇る生命。


 わたしは勝った。運命に抗い、勝利した。マヌーム川の流れに乗り、わたしは開かれた海へとたどり着いた。


 何故、あのような無謀な賭けに出たのか。今なら分かる。わたしは試してみたかったんだ。行動的で、勇敢で、誰の力も借りずにどんなことでもやり遂げる自立したマーメイド――それが、わたしの真の姿、理想の自分。それが単なる妄想ではないことを証明したかったんだ。


 そして、わたしは成功した。たった一人で、困難な仕事を成し遂げた。全てにおいて、わたしは正しく、周りは間違っていたことが証明されたのだ。


 もう、他人の目を気にしなくていい。従順なふりをして、相手を喜ばせる必要もない。


 さあ、前へ進もう。殺人者の刻印は、後戻りすることを許さない。母なる海は、どんな生き物も受け入れてくれる。罪人も、脱落者も、血で汚れたマーメイドも。今日から新しい生活が始まるのだ。無限の可能性が、目の前に広がっている。


 海は広く、自由だ。わたしはどこへでも行ける。ありのままのわたしを受け入れてくれる誰かが、きっとどこかにいるはずだ。広大な世界を泳ぎ回り、思い描く理想の地を探そう。そして、わたしは本当の自分を手に入れる。いつか、いつか。

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