第14話 週刊誌

 アルバイトを終えて帰る途中、ユキさんに連絡を入れようと、端末の通話アプリを開いた。

──変わりない?

 この間、不安に駆られてユキさんを呼び出してしまったためか、余計な心配をかけさせてしまっている。

「志摩君、その」

「店長、お疲れ様です」

「変なこと起こったりしていない?」

 今日はよく心配される日だ。ユキさんなら嬉しいで済むけれど、雇用主とアルバイトの関係性で心配されると、余計な不安を突きつけられる。

「何か知っているんですか?」

 ちょっとした出来心だった。いわゆる、鎌をかけてみた、というやつだ。僕の想像としては、きょとんとしてほしかったのに、店長はひどく脅えた顔をして、頭を振った。

「いや……知らないよ」

 それだけ顔が真っ青なり声が震えれば、鈍い僕でも分かるのに、なぜ誤魔化せると思ったのか。怪しげに、疑う目で見ると、彼はお疲れ様の言葉で逃げ、さっさと駅方面へ小走りで向かってしまった。

 アルバイト前に捨てたペットボトルはゴミ箱の中にそのままになっている。ストーカーかもしれないとよぎった思考は、気のせいだったと思いたい。

「さむ……」

 都会の街並みは、今はイルミネーションで彩られ、人の目を引いている。十二月はユキさんの誕生日だと聞いた。会えるだろうか。前を歩く人たちのように、堂々と歩いてみたい。顔出しをするようになったユキさんは、最近よく街で声をかけられると聞く。有名になっていく嬉しさと寂しさが混じり、目の奥がつんとする。独占してはいけない人を独占する辛さは、優越感も何もない。相手は芸能人だと考えれば考えるほど、回りから見放されたような幻覚が常に付きまとう。

 家に帰れば母は玄関で出迎えてくれ、今ある幸せを大事にしなければと、せめて母には心配をかけさせないよう、明るく振る舞った。

「クリスマスはどうするの?」

「え? なんで?」

「誰かと出掛けるのかなあって」

「……分かんない」

 せっかくだからと、ユキさんに誕生日を聞いてみた。

──クリスマスだよ。

 すぐに返事が来るが、まさかのクリスマス。仏教徒の僕はあまり関係なくても、ちょっと特別な気がする。

──だいたい、まとめられる。

 何を、と返信する前に、理解して笑いが込み上げてくる。ユキさんにとっては、きっと年に二回食べられるはずだったケーキが一回になり、彼にしか理解できない思うところがあるのだろう。想像するだけでもつらい。目の前でチョコレート菓子をつまんでいたときに居合わせた彼の顔を思い出した。あれは不可抗力で、ラスト一個だったのだ。コンビニに寄り、新しいお菓子をふたりで買って分けた。

──抱いていい?

「なんて顔をしているのよ」

「ど、どんな顔してた?」

「真っ青よ。体調悪いの? 何かあった?」

「あったというか、これから起こるというか……大丈夫だから気にしないで」

──ごめん、早とちりした。

──なんで謝るんですか。

──電話してもいい?

──今はちょっと。

──忙しかった?

──声を聞く勇気がありません……。

 自分の部屋に避難した。後ろめたさがあり、母の前でメールをする勇気が湧かない。

──部屋に移動しました。ちょっと驚いただけです。ユキさんが、そんな人だとは思わなかった。すみません。

──なんで謝る? ちょっと電話したい。お互い、いろいろ誤解している気がする。

 最後まで読む間もなく、ユキさんから着信がある。僕は通話ボタンを押した。

「すみません」

『待って待って。何に対して?』

「そんな人だとは思わなかった、に対してです。ラジオを聴いて勝手なイメージで、性の印象が薄かったもので」

『そっちかあ……良かった』

「何だと思ったんです?」

『もう別れて下さい、の方かな』

「まさか! 嬉しかったのに。ただ、したことがないんで、戸惑いました」

『ああ…………』

「ユキさん? なんか吐息が……」

『興奮してた。気にしないで』

 ユキさんはときどき、自分の世界に行く人だ。僕もよく分かる。ユキさんのラジオを聴くと、夢の世界から出たくない病にかかる。

『この流れで誘いたいんだけど、クリスマスに泊まりにこない?』

「こっこの流れで……お仕事は? 大丈夫なんですか?」

『イヴは難しいけど、クリスマスなら休みだよ』

「僕がお祝いしてもいいんですか?」

『もしそうなら嬉しいって思ってた』

「どきどき」

『ね』

「どうせなら、タピオカとか食べませんか? 初の儀式です」

『初の儀式ねえ……いろいろ楽しめそうだね』

 墓穴を掘った。余計なことは言うべきじゃない。ちょうど夕飯に呼ばれたので、電話を切る口実もできた。

「…………なんで、鍋?」

「お父さんが食べたいって言ったのよ。晴弥の分は私が取り分けるわ」

 帰ってきていた父は、無言で座ると、さっさと自分の分を取り分けていく。渋々、僕も座った。

「…………なんで、カニ?」

 僕の中で、カニはもっと特別な日に食べる位置付けだった。普段に食べる発想がない。煮え立った鍋の中で、助けを求めるように赤い脚がはみ出ている。甲殻類にとっては残念な話だが、僕には早く食べて、と言っているように見えた。

「嫌い?」

「まさか。好きだよ」

 カニを食べると無言になるというが、志摩家も例外ではない。朗らかに話す母も、今日ばかりは静かだ。

「あのさ……、」

「なあに?」

「クリスマスの話だけど」

 切り出すには今しかない。そう思ったのに、父の持つ箸が止まった。

「……泊まりに行ってもいい?」

「え? どこに?」

 どこに。とてつもなく困惑して、背中に汗がびっしょりになる質問だ。

「と、友達の家……」

「ふーん」

 目を合わせられない。余計なことを言わずに察してほしい。

「そういうの初めてのことね」

「いいの?」

「ええ、いってらっしゃい。お父さんもいいわよね?」

 よりによって、なぜ振ってしまうのか。言葉を待ってる余裕もなくて、目の前の皿に鎮座するカニと目が合った。濁った目は、何を伝えたいのか分からない。食べられることを恨んでいるのか、熱湯に投下されたことを恨んでいるのか。カニに怨恨が宿っていないと思いたい。

「……遅くなるなよ」

 久しく聞いていなかった、父親らしい父の言葉だった。

 今までの僕ならば、怨みや憤りで涙が溢れていたのに、感じたことのない感情が溢れ、カニが見えなくなっていた。

 こういうときは、まったく別のことを頭に描くのが一番良い。ユキさんの笑顔でも考えようか。電話での内容を思い出し、ひとり百面相状態だ。今はカニに集中しよう。カニ様々だ。

 カニのおかげで、まがい物の家族団らんは何とかしのげ、ここ数年の中では食べやすい夕食となった。そういえば、なぜカニ鍋になったのかまだ理由を聞いていなかった。母の顔を見ても満足そうで、理由よりもまあいいか、という結論を出した。


 木枯らしが吹くたび、アスファルトの上を丸まった木の葉が追いかけっこをしている。時間通りに出たはずなのに、大学に急がねばと、少し焦った。

「……………………?」

 いつもの席に、雷太君はいない。講義の時間まで十五分以上あるというのに、篠田教授はすでに教壇に立っている。物思いにふけっているのか、心が失った顔をしていた。

 僕が目の前の席に座ると、篠田教授は僕の元に歩み寄ってきた。

「おはようございます」

「おはよう。最近、変わったことはないかい?」

 まただ。何度目だろう。もしかして、僕の知らないところで何かが起こっているのだろうか。余計な心配は無用だと、愛想笑いで乗り切る。回りの生徒もみんな僕を見て、野次馬に似た目をしていた。この日の授業は、何だか落ち着かなかった。

 朝に送ったはずのメールは読んだ跡はあるが、ユキさんからの返事はない。しつこくすべきではないし、きっと多忙なんだと思う。十二月は慌ただしいとも言っていた。代わりに、放送サークルの部長からメールが届いている。

──中庭に来られる?

──すぐに行きます。

 珍しい人からメールだ。文化祭以降、あまり熱心な活動はしていなくて、会う頻度もめっきり減ってしまっている。僕が到着する頃には、すでに部長はベンチに座って辺りを見回していた。

「やっときた! どこにいたのよ」

「えと……講義中で……」

「志摩君、最近ストーカー被害にあったりしてない?」

「え」

 見覚えがあるようで、まったく身に覚えのない話だ。

「私の個人情報も漏れてたのよ! 頭にくる!」

「個人情報? どういうことですか?」

「知らないサラリーマン風の男に話しかけられたのよ。しかもフルネームで」

「それで、部長はどうしたんですか?」

「気持ち悪すぎて言葉が出なくて、そしたら志摩晴弥君と知り合いなんだけど、どこにいるんですかって聞かれたのよ」

「こっ答えちゃったんですか?」

「まさか、どうみても怪しすぎ。人呼びますって言ったら、すぐに去っていったわ」

 サラリーマン風。社会人の知り合いは限られてくる。ユキさんなら、そんなまどろっこしいやり方をするはずはないし、部長とは顔見知りだ。連絡を取り合う仲でなくても、一度文化祭で顔を合わせている。さらに部長は、他のサークルの子も似た質問をされたと、苦虫を噛み潰したような顔で話す。

「詳しく教えて下さい。見た目はどんな感じの人ですか?」

「志摩君より少し背高いくらいで、ちょっと小太りな感じ。ショルダーバックを持ってた」

 なおさら知らない。まったく記憶にない人だ。

「ご迷惑をおかけして、すみません」

「すみませんって、別に志摩君が何かしたわけじゃないでしょ? 本当に気をつけて。警察に行った方がいいかも」

「ですね。ちょっと様子見してみます」

 呆れ顔がすべてを物語っているが、僕自身も状況を把握できる時間が欲しい。何もかも、分からないのだ。電信柱の陰に蠢く影も、無くなったペットボトルも、疲労なんて言葉でごまかしきれない何かが、僕の知らないところで起こっているとしたら。

 部長にお礼を言い、ひとまず大学を出た。不信感が募りすぎると、見知らぬ人々はすべて怪しく思えてくる。そこで、救世主からの電話が来た。

『もしもし? 晴弥? ちょっと電話できる?』

「ユキさん、やっぱり勘違いじゃないかもしれません」

『どうしたの?』

 話したいことがあっただろうに、ユキさんはまず僕に話を譲ってくれた。ただし、誰もいない場所に移動してほしいと深刻な補足つきで。

 最寄り駅の近くに寂れた公園があり、誰もいないことを確認し、木の陰にしゃがむと、今日あったことを順に説明する。

『ごめん……本当に』

「何の謝罪ですか?」

『俺のせいだ』

「今回の件ですか? なんでユキさんが謝るんですか?」

『週刊誌につけられていた』

 頑なにストーカーだと思い込んでいた思考が崩れ去る。思いもしなかった言葉だ。

『晴弥が不安がるだろうと思って、黙っていたのが失敗だった。お友達にも怖い思いをさせてしまった』

「え、え? 週刊誌……頭がついていかない……」

『事務所に電話がかかってきて、車の中で男性とキスをしていたが、本人かどうかって。今、事務所で説明していたところ』

 虚偽の説明は絶対にできない。というか、いつの話かも分からない。だって会うたびにキスしていたのだから。

「そっそれで、ユキさんは……」

『付き合っていますって、答えた』

 季節に沿った雪どころか隕石が頭に落ちてきたかのような衝撃だ。

『何も悪いことをしているわけじゃないから。絶対に大学に行くなとは言ったけれど、遅かった』

 ごめん、ともう一度ユキさんは繰り返す。

「僕にできることってありますか?」

『おとなしくしていてほしい。これは俺たちの問題だから』

「……それって、僕には関係ないってことですか?」

 後の祭りで、こんな低い不機嫌の固まりみたいな声を出さなくてもよかった。電話越しに、ユキさんが驚いたときによく出す息を漏らした。ラジオで何度も聴いているせいか、息遣いだけで理解してしまうオタクの鑑だ。分かってしまうこのときばかりは嫌になった。

『そうは言っていないよ』

「そう聞こえました」

『……………………』

 無言の後、今度はため息だ。これはラジオでも滅多に聴けない息の吐き方だけれど、不穏な空気である今はあまり聞きたくない。

『晴弥、聞いて。雑誌が発売されるんだ。これはもう決定事項で、どうしようもない。だから、下手に隠すよりははっきり言うべきだと俺が判断した』

「やっぱり出るんですね……」

『ごめん……本当に。謝るしかできない』

「僕らの問題なのに、謝罪されると虚しくなります」

 彼と過ごす音の流れない静寂な空気は快適だと感じても、今は息苦しいだけだ。空気中から酸素がすべて無くなっている。

 ふたりで解決したい。けれど、ユキさんは芸能人という立場を利用して、僕を遠ざけようとしている。それが僕を守るためだと分かっていても、酸素のない世界では頭がうまく回らない。

「……切った方がよさそうですね」

『なんで?』

「こういう、喧嘩は……あまりしたくない。でも僕も譲れないから」

『うん……そうだね。よくない。一旦切ろう。また電話する』

 本格的な言い合いになる前に、電話は切れた。ユキさんも譲れなかったんだと思う。

 本当は、もう少しだけユキさんの声を聞いていたかった。好きな人に出会えただけでも奇跡に近いのに、恋は人を我儘にさせる。貪欲さは、メリットデメリットの両方を兼ね備えている。

 半強制的に涙を引っ込ませ、お腹に力を入れながら岐路に就いた。

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