第13話 異変

 花びらが舞う季節がやってくると、浮き立つような気持ちになるが、もうすぐ寒気がやってくる時期に、僕は天にも昇る気持ちで落ち着かない。つまり、遅い春がやってきた。一生来ないものだと思っていたものが押し寄せ、受け止めきれないものが不安に変わる。人間、幸せすぎるとどうしようもなく叫びたくなったり、次にやってくる不安に備えて今ある幸せを追い出そうと、意味不明の行動に出ることがある。今の僕がそのときだけだ。幸せを噛みしめたくても、限界を突破しすぎている。

「この前は悪かったな」

 途中で帰ってしまった僕が謝るならまだしも、なぜか雷太君が僕に謝罪をしたものだから、余計に困惑している。

「何に対して謝っているの?」

 雷太君は肩をすくめ、小声で何かを呟くだけで、その話は終わりだと勝手に清算してしまった。居心地の悪そうな顔をされても、僕の方が居心地が悪い。いつも笑顔の篠田教授も、合わせたように思いつめた顔をしながら入ってきたものだから、余計に鼓動が雄叫びを上げている。講義中、何度も目が合った。

 何事もなく平和に終わったはずなのに、僕の心は嵐がやってくる一方だった。

「…………ん?」

 さらに暴風雨がやってきた。ユキさんからメールが一件届いている。

──夜七時からのクイズ番組観て。

 急いで家に帰り、新聞を広げた。今日、七時からのクイズ番組は一件だけだ。

「やだ、帰ってきてただいまも言わないなんて」

「ただいま。今日はあの人いる?」

「帰りは九時過ぎるみたい」

「よし」

 録画と、生で観るフルコンボだ。さっさとシャワーを浴び、念入りに身体を洗った。何かが起こる直前、自身も身の回りも綺麗に整えていたくなる。七時から何が起こるか聞かされていないが、平穏ではいられない何かが起こると予感していた。ユキさんがわざわざ話を持ち出すなんて初めてのことだ。もしかしたら……もしかしたら。

 今日はグラタンだ。マグマのように煮立っているのに、これを天使が作ったのだから驚きだ。

「にやにや? にこにこ?」

「何が?」

「そんなにテレビが楽しみなのね?」

「テレビというか、うん、まあ……」

 曖昧な返事をし、グラタンが冷めるまでオニオンスープを飲んで待った。

「は? え? なんで?」

 スープを零さないようにしたのがやっとだ。問題を読んでいたアナウンサーが産休のために、代理として毎週誰かが交代で読むのだと、説明が入る。

 画面いっぱいに、僕の彼氏が、はにかんでいる。スープの熱さが感じない。

──ユキさんはDJの仕事をしているそうですけど、めちゃくちゃ爽やかですね。かっこいいって言われません?

──言われます。

 どっと笑いに包まれる。台本通りなのか、冗談なのか。彼氏の僕としては、台本はないと断言できる。

──とちらずに仕事が出来たら、ラストでぜひラジオの宣伝をさせて下さい。

「ああああああ……しんどい……」

「かっこいい人ね」

「うん、うん」

 母さんが笑うと、僕も笑顔になれる。

 顔出しの紹介は最初だけで、天の声は名の通り声のみの出演だ。今日のユキさんは爽やかというより、凛としてはきはきしている。クイズを読み上げるにあたって、話し方も変えているのだろう。

「どんな人なの?」

「甘いものが好きで、背が高くて、目尻に黒子があって、声が好き」

「そっかあ」

 主観が入っても、母さんには通じている。

「さっき、ラジオがどうのって話してたけど、もしかしていつも金曜日に聞いてるラジオの人って、この人?」

「う、うん……知ってたんだ」

「なんとなくね。母さんが昔好きな人に、ちょっとだけ似てるわ」

「ええ……取らないでよ」

「取らないわよ。さすが親子ね、趣味が似てるわ」

「……取らないでよ」

 一応、念を押しておいた。

 誓約通り、最後にラジオの宣伝もして、終了した。一時間はものすごく短い。僕の集中力は、ここ最近で二番目に発揮された。ちなみに一番は、ユキさんといかがわしくピュアな行為をしたとき。

 小部屋に戻って、一度クッションをぼすんと入れてから、彼氏にメールを送った。

──ラジオのときと比べて発声が違って、今日のユキさんはかっこいい系でした。でも最初のクイズを読むとき、少し声が震えていたのが可愛かったです。含み笑いもマイクに入ってましたね。ラジオを聴いている気分になりました。総合的に言うと、録画しました。

──重圧感のある感想をありがとう。細かく観てくれたんだね。

──引きました?

──まさか。嬉しいよ。急に決まった仕事なんだ。本来出演するはずだった方が出られなくなって、俺に仕事が回ってきて。

──録画もしたし、気持ちが落ち着いたらまた観ます。

 貼られた画像は、夜空の画像だ。真っ暗で、一つの星だけがいやに目立つ。控えめすぎる輝きでもオンリーワンで、ユキさんの目に留まったのだろう。

──そっちも送ってよ。

 カーテンを開け、端末をかざそうとしたときだ。街灯に照らされた横長の光の中で、闇が動いた気がした。僕は固まった。もしかしたら、誰かが通り過ぎていたのかもしれない。もう一度見ると、今は人の影はない。僕の見間違えだと、人工的な明かりはそう主張している。

 窓に映る姿に気を取られた。気づいてしまえば恥ずかしくなり、何か別のものはないかと辺りを見回す。僕もうっすら映っているけれど、一応送っておいた。

 これだ、と机の上のものふたつを撮影し、ユキさんに送る。タイトルは、『人生の糧』。

──まだ紅茶飲んでるの? 飲みすぎ注意だからね!

──僕にとっては無くてはならないものです。大丈夫、ちゃんと水も飲んでます。

──それは、どこのおまんじゅう?

──駅ナカにある、和菓子店で購入しました。ああいうお店って、一個買うのに勇気が要ります。

──ケーキ屋で一個買うようなものだね。俺も、二つか三つは購入する。

 メールだからこそ短いけれど、きっと対面しながら話せば、ユキさんは止まらない。

 本当はユキさんの画像も欲しかったけれど、彼は芸能人で、僕とは違う。ユキさんがいくら距離を詰めてくれていても、そこは変わらない距離がある。寂しくても、あった方がいい距離感だ。なんでもかんでも、べったりだとうまくいかない。

──次、どこで会う?

──一緒に、甘いものを食べに行きたいです。タピオカを使ったスイーツとか。

──ついに屈しなければならないときがきたか……でも晴弥と一緒ならいいかもね。

──それなら記念日にします? ユキさんの誕生日とか。そうすれば、気持ちの上ですんなり食べられるかもしれませんよ。意地を張ると、なかなか次に進めなくなりますよね。

──人生の岐路に立ったときに、参考にさせてもらうよ。

 そんな大袈裟な話でもなかったが、きっと僕にもやってくるときがあると思う。そんなときは、ユキさんと共に乗り越えていきたい。

 最後に、おやすみをして、メールを締めた。


気温は徐々に下がり、カーディガンではそろそろ対応しきれなくなってしまった。高校生のときから使っているコートを羽織り、いざバイトに出掛けようとリビングに顔を出した。

「……………………」

 買い物に出掛けたのか、母はいない。いるのはお呼びでないあの人だけだ。ソファーで新聞を読んでいる。

「変わりないか?」

 ドアを閉めようとし、手を止めてしまった。聞き間違いでも空耳でもなく、父親がまっすぐに僕を見ていた。

「…………何が?」

「何もないのならいい」

 あっけなくドアを閉めた。靴を履いて家を出て、ようやく酸素を取り入れられた気がする。空気は冷たく、熱のこもる顔にはちょうどいい。

「なんだったんだ……」

 久しぶりの会話があれだ。何が変わっているのかいないのか。ユキさんと付き合いだしたことかと思ったが、もしそうなら全力で僕の心を殺しにかかるだろう。何せ、彼の中ではゲイは病気で正常ではないから。

 気にしたら負けだと言い聞かせ、途中コンビニでいつもの紅茶を買い、飲みながらバイト先まで歩いた。ユキさんはこの紅茶のCMのナレーションをいつまで担当だろうか。ずっと買い続けるのに。

 空になったペットボトルをゴミ箱に投げ入れ、職場に向かった。

「おはようございます」

 控え室には店長がいて、僕を見るなりひどく驚いた顔をした。張りつめた空気は僕の背筋をピンと伸ばし、もう一度小声で挨拶をする。

「おはよう」

「どうしたんですか?」

「いや……驚いただけだよ」

 まともに目も合わそうとせず、さっさと部屋を出ていってしまった。何かしたのか、と記憶に問うが、思い当たる節はなかった。

 違和感を感じたのは店長の様子だけではない。仕事を終えてビルを出ようと、ふとゴミ箱の中身を見た。

 確かに、僕は飲み終わったペットボトルを捨てたはずだ。

「…………なんで、」

 ゴミを回収するなら、袋ごと持っていけばいい。なのに、僕の捨てたペットボトルだけが、綺麗に無くなっていた。最初から存在していなかったのかと、本当は僕の勘違いで別の場所に捨ててしまったのかもしれないと錯覚するくらい、見慣れた紅茶のラベルが見当たらない。

 見回してみても回りには誰もいない。気味が悪すぎる。急ぎ足で外に出ると、街はいつもと変わらない様子だ。犬を散歩している人がいて、サラリーマンがいて、道路は渋滞もなく自動車やトラックが走行している。おかしいのは僕なのかもしれないと錯覚するほど。

「ユキさん」

 急に不安にとり憑かれて、僕は恋人に電話を入れた。

『もしもし?』

「ユキさん、ユキさん」

『どうした?』

 泣きそうな声に、心底落ち着いてと、ユキさんの声が物語っている。

『何かあった?』

「分かんない……説明できない。なんか、不安で……」

『今はどこにいる? 家?』

「バイト帰りです。ビルの前で電話をかけてます」

 ユキさんは何か所が場所を告げ、近いところはどこかと尋ねた。一つ近い場所を告げると、そこで待っているように言い、電話を切った。

 不思議な感覚だ。これが恋人同士であれば普通のやりとりなのかは、経験のない僕には分からない。萎れた草花に水と日光を与えたように、みるみるうちに僕も元気が沸いてくる。とはいっても、不安が消えたわけではない。

 目的の場所に向かってから、二十分ほどでユキさんの車が到着した。空いたコンビニの駐車場に止め、僕は後部座席に乗り込んだ。

「どうしたの? なんで後ろ?」

「分かんない……言葉にできない……怖い」

「……分かった」

 来てくれてありがとうございます、と小声で呟くと、ちゃんと聞こえていたのかアクセルを踏む直線に足が止まった。

 お行儀よく座っている猫のぬいぐるみを抱きかかえると、少し気分が落ち着いてくる。猫には精神を安定させる何かがあるのかもしれない。洗濯したのか、綺麗になっていて太陽の匂いがした。

 心配しているのか、バックミラーで何度もユキさんの視線がぶつかる。気にしてもらえて、洪水のような涙が出そうになる。

「少し休んでいこうか」

「え」

 自分でもびっくりするほど、大きな声が出てしまった。びっくり顔のユキさんとも鏡越しに目が合う。窓の向こう側は公園の駐車場だ。

「あ……なんだ」

「行きたい場所でもあった?」

「ユキさんが休んでいこうって言うから、ホテルかと」

 ゴン、と前方から物音がした。何かぶつけたのかもしれないと前を覗き込むと、菩薩のように微笑むユキさんと視線が合う。相変わらずきれいだ。

 ユキさんは後部座席に移動してきて、僕を抱き寄せた。猫のぬいぐるみがお腹に挟まり、潰れてしまう。

「ホテルが良かった?」

「そ、そういう質問は……」

「そうとしか聞こえなかった。俺は、したいけどまだ早いと思った。だから公園に来た」

 まだ早い。ユキさんも、未知の世界について考えてくれていた。

「キスしていい?」

「…………はい」

 一回目より、すんなりと唇が重なった。前とは違う、少しがっついたようなピュアなキス。そう思ったのは数秒前で、一度離れた唇から熱い息が漏れ、ユキさんはもう一度重ねてきた。

「……んっ…………」

 舌で口を開けるよう指示され、欲望のままに素直に従う。舌先が触れ、生き物のように蠢くと、ついに口の中に入ってくる。太股の内側が震え、力が入った。

「は、はじ……」

「ん…………?」

「はじ、めて……」

「うん……」

 最後に音を立てて唇に落とされ、離れていった。受け入れるときは怖くても、いざ離れていくと取り残された感じがする。

「ひっ……」

「ああ、どうしよう。触りたくなる」

 誰の目から見ても、キス前と後の変化ははっきり分かる。情けないけれど、悲しい男の性だ。ユキさんは僕の内太股に手を伸ばし、ジーンズの皺を伸ばすように何度も撫でた。

「むっつりですね……」

「うん。むっつりだよ。例のパジャマの画像は、たくさん活用させてもらっています」

「おかずにされてるってはっきり言われたのも初めてです」

 偶然の産物だが、貧相な身体でもお役に立てて、嬉しかったりもする。

「何があったか話せそう?」

「……頭からすっぽり抜け落ちてました。僕も何が何だか分からないんです」

 昨日からの出来事を、順を追って話した。家の前に誰かがいた気がすること、店長の様子がおかしくて不安になったこと、捨てたはずのペットボトルが無くなっていたこと。

「一つ一つを取っていくと大したことじゃないのかもしれませんが」

「……それっていつから? 昨日?」

「昨日……かなあ? あまりよく覚えていません。僕が疲れているだけかもしれません。家に帰ったらゆっくり休みます」

「休むに越したことはないけどさ、そっか……。できれば、夜道は歩かないようにしてほしい。それと、なるべく明るい場所を歩いて」

「分かりました。バイトもそれほど遅くなる時間帯まではしてないんで、すぐに帰るようにします。多分、ユキさんに会えなくておかしくなっていたのかも」

「それなら、魔法のアイテムをあげよう」

 鞄を漁るユキさんにどきどきしながら待つと、小ぶりだがずっしりと重みのあるまんじゅうを手のひらに乗せられた。

「昨日、晴弥のくれた画像を見ていたら、どうしても食べたくなって」

「何個買ったんですか?」

「箱で」

「すみません……笑いの沸点を簡単に突破します……っ」

「バラで買うと思った? 箱買いだよ」

 珍しい、白あんのまんじゅうで、空腹には辛いフォルムだ。紅茶やコーヒーに、絶対に良く合う。

 しばらく車の中でいちゃいちゃした後、ご丁寧に家まで送ってくれた。車を見送りながら気づいたのは、ユキさんは今日、仕事ではなかったのかということ。整えられた髪や服装を見るに、家でゆっくりしていたわけではなさそうだった。

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