8.未来への夢

 島原の乱の後、早崎瀬戸で何が起きていたのか?

 ぼくが持ち帰った証拠しょうこを元に、荒熊教授がおこなった推測は次のとおりだ。


 島原と天草のキリシタンは、抹殺まっさつまぬがれた。

 幕府にとっては、働かせて年貢ねんぐを納めさせるほうが大事だったからだ。

 キリシタンはなおもひそかに信仰を続けたが、心は揺らいでいた。

 神が正しいなら、なぜ負けた? 悪の勝利が一時のものに過ぎないなら、善の勝利は一体いつ来るのだ?


 キリシタンは、揺らいだ信仰心しんこうしんを立て直さなければならなかった。

 彼らは、幕府が流通させている銅銭どうせんをひそかに鋳潰いつぶし、小さな十字架を作った。金回りのよい者は小判を溶かして作った。彼らはそれを漁師にたくした。

 そして漁師は、十字架を海に投じたのだ。


 ……これらの十字架は、いつの日かこの地に、キリシタンが栄光の国を作るための財宝である。

 幕府の役人の、恐ろしい、冷たい手も、海の底には届かない。

 遠い未来、これらの十字架は海底より浮上し、キリシタンの国を築き上げるもといとなるであろう……。

 

 キリシタンは、彼らの失われた夢を、遠い未来に託したのだ。

 それは、理屈も何もない行動に見える。だが、それは行われたのだ。そう考えるほかない。

 そして、海の上からきらきら光りながら降ってくる十字架を、遊び好きのイルカたちが拾い集めたのだった。

 イルカたちは、漁師からの贈り物を大事にとっておこうと思った。そして、海底洞窟を宝の置き場にしたのである。

 銅の十字架が錆付くことをまぬがれたのは、洞窟の奥から淡水がき出していたからだろう。


 やがて徳川幕府は倒れ、キリスト教に対する禁教令きんきょうれいは解かれた。弾圧が終わったことで、秘密の儀式は無用となり、次第に忘れ去られていった。

 ただ、有明の海のイルカたちだけが、海の上から降ってくる、不思議な宝物の言い伝えを、語り継いでいたのだった。


 ぼくと荒熊教授は、簡単に仲直りした。

 教授は時々、憂鬱ゆううつの発作にとらわれることがあるのだ。それは、待っていれば治る。それだけのことであった。


 荒熊教授の研究は、ついにその真価を認められた。

 イルカは、歴史を口承こうしょうできる知的生物であること。

 『REM波ペースメーカー』は、イルカの知性を、人間並みに高められること。

 『知的イルカ』は、自然イルカ語を、人間の言語に翻訳できること。

 『知的イルカ』は、海中で学術調査がくじゅつちょうさをやり遂げられること。

 これらを一挙に証明してのけたのだ。そして……。


 「おい、ローマ法王が会いたいとメールしてきたぞ! どうすればいい?」

 「お会いすればいいでしょ?」

 ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は、『早崎瀬戸・イルカたちの海中教会』を祝福しゅくふくしたいという意向だった。

 でも、100メートル以上の潜水は、誰にでもできるものではない。

 なので、ぼくが『海中教会』を実況撮影し、法王はモニター越しに祝福するはこびとなった。


 ついに、その日がやってきた。

 フランシスコ法王は、五島列島ごとうれっとうと島原、天草を訪問した。日本のキリシタンを祝福するためだった。

 その際、彼はボートで天草の海に乗り出し、海上でぼくと待ち合わせた。

 フランシスコ法王は、ぼくが水中ビデオカメラで実況する『イルカたちの海中教会』の光景をご高覧遊こうらんあそばされ、大いに感銘かんめいを受けられたという。

 ホルヘ・ベルゴリオという人間名にんげんめいを持つ彼は、小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコのように、ぼくに祝福をさずけてくれた。

 ぼくは海面から頭を出し、法王の祝福を受けた。

 その時、彼はこう言ったのだ。


 「鳥、けもの、魚もまた、神の意志を実現する乗り物たりうる。ならば、知恵ある魚もまた、神の御心みこころにかなう存在であろう」


 知的イルカは、ローマ法王のお墨付すみつきを得たのだ。

 もはや、知的イルカは動物虐待どうぶつぎゃくたいでも、ニセ科学でもなかった。


 荒熊教授の生活は、にわかに多忙たぼうなものとなった。

 学界からも、経済界からも、問い合わせが殺到さっとうしたからだ。

 農林水産省から、次官級じかんきゅうの役人がやってきた。その役人は教授に、こう語った。

 「荒熊先生、知的イルカを『海の牧羊犬ぼくようけん』に使って、『放牧漁業ほうぼくぎょぎょう』を展開することは可能でしょうか?」

 今まで農林水産省は、知的イルカを目のかたきにしてきた。捕鯨推進派ほげいすいしんはにとって、目障めざわりな存在だったからだ。

 だが農水省の内部には、放牧漁業推進派もいた。彼らは、知的イルカを安心して利用できる日が来るのを、じっと待っていたのだ。


 海上自衛隊から、将官級しょうかんきゅうの人物がやってきた。その人物は教授に、こう語った。

 「荒熊先生が、知的イルカの研究論文を発表された後に、論文の検証実験けんしょうじっけんを行った国がありました。

 それは、ロシアと中国でした。

 彼らは、鯨類げいるいの保護について、文化的なこだわりがなかった。だから、欧米の研究者たちがためらっている間に、平然と、先生の実験に追随ついずいしたのです」

 その時、教授はおだやかに返事したという。

 「その話は聞いています」

 「では話が早い。ロシアと中国もまた、知的イルカの育成に成功しました。そして、今……。

 ロシア海軍と中国海軍は、『軍用知的ぐんようちてきイルカ』の育成を、開始しています。

 軍用知的イルカは、海洋の広い範囲を、長期間にわたり、誰にも怪しまれることなく偵察できるでしょう。そして、敵国の水上艦艇はおろか、潜航中の潜水艦まで、発見してしまえるでしょう」


 海自かいじの将官の話を聞いて、教授は、背中に冷たい汗が流れたという。

 「まさか……私に、『軍用知的イルカ』の研究に、協力しろというのですか?」

 「海上自衛隊が保有する潜水艦の数は、二十数隻。全て、通常動力艦で、潜水行動の自由は限られます。

 一方、中国海軍が保有する潜水艦の数は、七十隻を超えます。その中には原子力潜水艦もあります。原潜の潜水行動の自由は、無限に近いものです。

 この上、『軍用知的イルカ』まで中国海軍に加わったら、私たちは、日本海を防衛できる確信を持てなくなります……。

 荒熊先生、どうか、海上自衛隊とともに『防衛用・知的イルカ』の研究を、開始していただけませんか?」

 「……もし、お断りしたら?」

 「その時は、私たちは、アメリカ海軍から『軍用知的イルカ』を買うでしょう。

 しかし、日本の潜水艦隊の航行スケジュールは、同盟国アメリカにさえも、全部を教えてしまうべきではない、日本の国防の最高機密なのです。

 できることなら、私たちは、日本のイルカで、日本を守りたい……」

 「……この問題は、日本の知的イルカ研究の未来を左右する、大切な問題です。しばらく、考えさせてください」

 「分かりました。先生のご決断を、お待ちします。でも、お忘れにならないでください。この問題には、タイムリミットがあるのです」

 海自の将官は、教授と再会を約し、去っていった。


 その夜、ぼくと荒熊教授は、飼育用の屋内水槽のプールサイドに寝そべって、夕涼ゆうすずみをした。

 「いそがしくて死にそうだ……昔のほうが楽だった……たとえ日陰者ひかげものの道でも……」

 「ぼくは、日向ひなたを堂々と進むほうが好きです」

 教授は、掌で水槽の水をすくい、ぼくの背中にかけてくれた。ぼくも、胸びれで水を跳ね上げ、教授の陽に焼けた背中にかけてあげた。

 「私たちは昨日まで、後ろ指をさされ、さびしく生きてきた……かに見える。でも……私たちはなんの責任も負うことなく、自由だった……」

 ぼくは、教授の言葉を、静かに聞いていた。

 「栄光には、責任がともなう。責任を負えば、自由ではいられなくなる……私たちは、本当は、昨日までが一番幸せだったのだよ?

 ユウキよ、昨日までの日々を、よく覚えておきなさい。それが、お前の青春だったのだから……」

 ぼくは、教授の言ったこと全部を、分かったわけではない。

 それでも、教授の言葉は、詩人の竪琴たてごとのように、ぼくの心をおだやかにさせ、甘酸っぱくさせるのだった。


 ぼくたちの前に、輝かしい未来が広がろうとしていた。

 それなのに、ミス・ハルバード!

 彼女は、いなくなってしまった。ぼくは、彼女と友達になれると思っていた。けれど彼女は、手紙ひとつ置いて、旅に出てしまったのだ。



親愛なるユウキ


わたしは、口では「かわいそうなイルカを助ける」と言いながら、

腹の底では、「イルカは滅びるだろう」と思っていました。

人間が、海洋汚染から守ってやらないと、もはやこの先、自力では存続できないだろうと。


わたしは、あなたを早崎瀬戸へ送り出しながら、どうせ失敗するだろうと思っていました。がっかりして帰ってくる『かわいそうなイルカ』を、慰めてやらなければならないと。


ところがユウキ、あなたは、人間の知恵を借りながら、イルカの誇りを失わず、

イルカの力で問題を解決して見せました。

わたしは、自分が恥ずかしくなりました。もう、あなたに顔向けできません。


わたしは旅に出ます。

閉息潜水へいそくせんすいと呼ばれる、潜水技法を学びに。

それは、人間が人工の呼吸器具に頼ることなく、素潜すもぐりで、深い海の底までたどり着ける方法です。

わたしは、イルカのように、おのれの体内の酸素のみで、100メートルを越えて海に潜り続け、海の底にこの手で触れることができたら、再びあなたに会いに行きたいと思っています。


そのときは、ユウキ、わたしを、わだつみのいろこの宮に連れて行ってくれませんか?


敬愛をこめて ミス・ハルバード



 谷川さんから手紙を読み聞かされたぼくは、水槽の海水が波立つほどの、悲しみの声を上げてしまった。


 それはないよ、ミス・ハルバード! ぼくはなんにも、気にしていなかった!

 ミス・ハルバード、ぼくはあなたと、友達になりたかったのに!


 ぼくはイルカだから泣かないが、人間だったら、泣いていたかもしれなかった。





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ドルフィンボーイ 星向 純 @redoceanswimmer

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